花束を君に綴る

龍尾

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花束を君に綴る

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「ねぇ、手織くん。今日はどんな花を教えてくれるの?」
 昼休み、僕の隣に座る同級生の字原さんはいつもそう聞いてくる。
『今日の花はひまわりかな』
 僕は彼女のためにノートの切れ端にそう文字を綴った。
 字原文。少し前にこの中学校に転校してきた彼女は、脳の処理の問題だとかで文字しかすぐに理解できない。
 見た物は何となくの輪郭と色しかわからず、聞こえる音は遅れるか途切れ途切れに聞こえるそうだ。
 見えているし聞こえてはいるが上手く理解ができない。電波の悪いスマホで見る動画のようなものらしいと字原さんは言っていた。
「ひまわりってよく聞くけど、実際にそこら辺で生えてるのは見たことないよね」
『確かにそうかも。ひまわりは大きいから、気軽に育てられないのかもね』
「へぇー、大きいんだ!」
 こんなやり取りを字原さんとするようになったのは、一週間前くらいからだ。
 転校してきたばかりの頃は字原さんの周りには興味本位で話しかけに来る人で溢れていた。
 何事にも興味津々に輝く瞳や、いつも楽しそうな笑顔を持つ彼女に多くの人が集まるのは自然の流れだったろう。けれど口頭での会話において聞き返しやテンポのズレが著しい字原さんに、次第に皆は疲れて離れていってしまったのだ。
 そうして昼休みに一人寂しそうに座る字原さんに、僕は何となく『アマリリスって知ってる?』と筆談で話しかけた。
 それをきっかけに、昼休みになると僕は彼女から花の話をせがまれるようなったのだ。
『大体二メートルは超えるかな。僕らの顔くらいはある黄色の花を咲かせるんだよ。大きな一つの花に見えるんだけど、小さな花が集まってそんな形になってるんだ』
「顔くらい? それは凄いね!」
『それから……』
 昼休みの時間を丸々使ってひまわりの説明をノートの切れ端に書いていく。
 花の説明だけが綴られた紙を見て面白いのかと不思議に思うけれど、字原さんは楽しそうに笑ってくれる。
 そして、そんな字原さんの笑顔を見るのが僕は好きだった。
「ん? どうしたの手織くん」
 僕がじぃっと見つめていたことに気がついた字原さんがこくりと首を傾げた。その仕草までもが可愛らしくて、頬が熱くなる。
「な、なんでもないよ!」
『少し考えごとをしてただけだから、気にしないで』
 咄嗟に口に出してから、それでは伝わらないのだと慌てて紙に言葉を書いた。
 筆を動かすという工程が、心を落ち着ける時間を与えてくれたことに僕は感謝する。そうでなければ慌てふためく情けない姿をもっと見せることになっていたはずだ。
「そうなんだ! あ、ちなみに今時間は?」
『あと五分で昼休みが終わるよ』
「やばっ! 私お手洗い行っておかなきゃ! それじゃ、また明日聞かせてね!」
 少し慌てたように字原さんは立ち上がり、教室から出て行こうとする。その瞬間、扉の前にノートを抱えた先生が通りかかった。
「危ないっ、字原さん!」
 そう咄嗟に声に出すも、字原さんには伝わらない。結局字原さんは先生にぶつかり、ノートが床に散らばった。
「あっ、ごめんなさい! えーと、これはノート?」
 慌てた様子の字原さんがよく状況を理解できていないまま謝る姿を見て、手元の切れ端に僕はさっと言葉を綴って扉まで向かった。
『僕が片づけておくから大丈夫』
「あっ、手織くん。よくわからないけどごめんね、ありがとう!」
 そう言っておぼろげに僕の方を見た字原さんは今度こそトイレまで小走りで向かって行った。
「悪いな、手織。字原にも悪いことをしたな」
 先生がノートを拾いながら苦笑いを浮かべて後頭部を掻いた。
「いえ、仕方ないですよ。先生からは見えにくかったでしょうし、字原さんもちょっと急いでたので」
 ノート拾いを手伝いながらそう呟く。すると先生は小さく息を吐き出して字原さんの向かった廊下へとちらと視線を移した。
「まぁ、よくある事故か。字原が転校してきたから特に問題が起きたこともないしな」
「そうですね。字原さんは少し鈍いだけですから」
「あー、鈍いか。確かにそんな感じだな」
 先生はそう小さく笑ってから拾い集めたノートをまとめて立ち上がった。
「んじゃまぁ、手織から俺が謝ってたって字原に謝っといてくれ。俺は次の授業があるからこの辺で」
「わかりました」
 ひらひらと手を振って去っていく先生を見つめて僕はふぅと深く息を吐き出す。
 丁度そのタイミングで字原さんは教室に戻ってきた。
「えっと、手織くんだよね。さっきのは大丈夫だった?」
 そう心配そうに問いかけてくる字原さんを見つめて、僕は一瞬困って周りを見つめた。手元に文字を書く物がなかったのだ。
「大丈夫だったよ」
 返事をしないのも変だと、仕方なく声でそう告げる。それから数秒の間を置いて、字原さんの表情が輝いた。
「……あ、そうなんだ。よかったー!」
 そう字原さんが答える間に僕は席に戻って紙切れを用意して文字を綴った。
『先生がぶつかってごめんって言ってたよ』
「でも、さっきのは私の不注意だったよね。本当は私が謝らなきゃいけなかったのに」
『字原さんも謝ってなかった?』
「咄嗟にねぇー。でも、理解して謝るのとは違うでしょ?」
『それはそうかも』
 そんな会話を少ししてる内に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

「んー、もう少し綺麗に字を書けないかな……」
 自宅の自室、机の上でノートを広げて僕は小さく唸る。
 何となくでしか人を認識していない字原さんにとって、人の印象はきっとその人の書く文字の印象だろう。ふとそう気がついてから、僕は綺麗な字を書きたいと思った。
 好きな人に振り向いてもらうために運動をしたりする人もこんな気持ちなのだろう。そう思うと僕は少しだけ恥ずかしくなった。
「いやでも、綺麗な字の方が見やすいはずだしね? うん」
 誰にともなくそう言い訳して、ノートにひたすら丁寧に文字を綴った。
「うん、これなら綺麗。……かな?」
 ノートを掲げて文字の形を見つめなが首を傾げる。気がつけばノートは残り数枚を残して全てのページが文字で埋まっていた。
 ここまで書き続けるともはや綺麗の定義がわからなくなってくる。それでも、それだけ努力したのだと思うと誇らしくさえ思えた。
『字原さん、好きです』
 最後のページに渾身の文字でそう綴って、僕はガンッと机に頭をぶつけた。
 自分は何をしているのだろうか。熱くなる頬を机で冷やしながらそう思い、ぼんやりと次の日に説明する花を何にしようか考えていた。
「綺麗な花がいいよな。百合とか、かな。それとも紫陽花とか?」
 花が好きなのは元からだ。園芸部として学校に自分の花壇を持っているくらいには花が好きだった。だからこそ、字原さんに花の綺麗さを伝えたいと思ったのだ。
「朝顔とかもいいなぁ、それとも……」
 ぼーっとそう考えている合間に夜は更けていった。

「手織くん、一つ頼みごとがあるんだけどいい?」
 ある日の放課後、普段なら授業が終わればそれぞれが部活に行くタイミングで字原さんがそう声をかけてきた。
『どうしたの?』
 あれからノート二冊分を日々こつこつ埋めて上達した文字で簡潔にそう綴る。すると字原さんは少し照れたような笑顔を浮かべた。
「実は……。ほら、今テスト準備週間でしょ? 一緒に勉強とかどうかな、って」
『勉強? もしかして字原さんって』
「ち、違うよ? 国語とか英語は得意なんだけど、理科とか数学がちょっと……ね?」
『まぁ、いいよ。だけど、どこで勉強する?』
 それから二人で図書館や近場のカフェなどを候補に出していった結果、一つの事実が判明した。
 僕の家への帰り道の途中に字原さんの家があったのだ。
「それなら、私の家で勉強しよっか。そしたら手織くんもそのまま帰れるもんね」
『いいけど、むしろ字原さんはそれでいいの?』
「んー、大丈夫だと思うよ。結構綺麗にしてるから!」
 どやっという声が聞こえきそうな笑顔を字原さんは浮かべる。その顔が少し面白くて僕はくすくすと笑った。
『それじゃあ行こうか』
「うん!」
 荷物を肩に背負って二人して教室を出る。そのまま僕は自転車を取りに行き、校門前に待つ字原さんの場所まで向かった。
『僕は自転車だし、荷物載せようか?』
「あっ、ほんと? そしたらお願いしちゃおうかな」
 そんなやり取りをして字原さんの荷物を受け取り、自転車のカゴに入れる。
 一瞬二人乗りすることも頭に浮かんでいたけれど、危ないことそして何よりも彼女とゆったり歩く時間が減るのがもったいとその考えはすぐに捨て去った。
「自転車で文字書くのは大変だから、まぁゆっくりこうして話そうか」
「……うん、いいよ。反応遅くなっちゃうけど、ごめんね」
「気にしないで。たまにはこうのんびりするのも楽しいから」
「……それならよかった」
 少しズレたテンポの会話をしながら自転車を押して帰路を歩く。こうして帰る姿を見ている分には、字原さんは普通の女の子と同じに見えた。
「あっ、あそこが私の家だよ!」
「へー、ここだったんだ」
 字原さんの家は確かに登下校でよく見かける家の一つだった。
 そこが知人の家だと認識すると、帰路の一風景なはずだった景色がまた違った物に見えてくる。近くに自販機があるんだとか、庭に金木犀が咲いているんだとか、景色の解像度が上がるのを感じた。
「ただいまー! 手織くんもとりあえず上がっちゃっていいよ」
 元気な声で家に入った字原さんに続き、僕も家の玄関に入る。家の静けさからして、他に誰かいる様子はなかった。
「じゃあ、このまま私の部屋で……あっ!」
 階段に目を向けながらそこまで言って、ふと字原さんは何かを思い出したように大きな声を出した。
「ちょ、ちょっとだけ片付けるから少し待ってて!」
 何故か顔を少し赤く染めてそう言った字原さんはどたどたと階段を駆け上がる。
 何をそんなに慌てているのだろうとその後ろ姿をふと見上げて、スカートの中が見えそうな気がして目を逸らした。
「ごめんごめん、もう大丈夫! 上がってきて!」
 数分も待つことなく、階段上から顔を覗かせた字原さんに続いて一つの部屋へと入った。
「そこ座っていいよ、それと……」
 絨毯上に置かれた丸テーブルに教材を広げて、字原さんは自分の部屋を見回す。そして水色のベッドの上から一つクッションを取ると僕に手渡した。
「一応これ使っていいよ」
『ありがとう』
 字原さんが部屋を見回す間に取り出しておいたノートにサッと文字を書く。
 それからクッションを受け取ると、ふわりといい匂いがして僕は一瞬気まずい気持ちになった。
「よし、それじゃあ始めようか!」
『頑張ろう』
 そう内心の浮つきを悟られないように丁寧に文字を書く。
 そうして二人の勉強会が始まった。
「えっと、二次関数のグラフは……」
『そこは、こうしてくくって』
「あー、少しわかってきたかも」
 少しの会話を交えつつ勉強をする。
 英語の勉強をしている時は教わる側だったのでそんな余裕はなかったが、数学になった途端ふと字原さんが慌てて片付けた物が何なのか気になった。
 女の子の部屋を見回すのも気が引けると、ちらとだけ周りを見る。それで見つかるのは可愛らしいぬいぐるみや本棚に並ぶ文学的な本ばかりだ。
「あれ、手織くん。どうしたの?」
 意識が逸れていることに気がついたのか、字原さんにそう声をかけられる。
 そこで僕は思い切って聞いてみることにした。
『実は、何を片づけたのか気になっちゃって。でも言いたくなければもう聞かないよ』
「あー、なるほどねー。うーん……」
 字原さんは少し言葉を伸ばしながらちらと勉強机の引き出しに目線を向けた。
「まぁ、宝物というかお守りというか……。そんな感じの物をちょっとね。見られると恥ずかしい物だから」
『あっ、そうだったんだ。ごめんね、教えてくれて』
「いいよいいよ!」
 そう言って笑う字原さんの頬は少し赤い。きっと少し恥ずかしい秘密を教えてくれたんだろうと思うと、何だか嬉しかった。
『教えてくれたお礼にさ、テスト終わったら僕の花壇を見せてあげるよ。大して綺麗でもないけど、静かで落ち着く場所なんだ』
「えっ! いいな、見たい見たい! それじゃあ、テスト頑張らなきゃね!」
『うん。じゃあ続きやろうか』
 二人の約束を交わす。こうして少しづつ繋がりが増えていくのが嬉しかった。
 ふと見た外の景色は少しづつ暗くなっている。もう勉強する時間もあと少しだと思うと寂しいが、同時に約束の時間が近づいているのだと思うと嬉しかった。

「字原さんに見せるなら、少し花壇の手入れはしておかないとね」
 テスト期間が始まり、一日目が終わった放課後。僕は気分転換をするように、校舎裏にある愛しの花壇まで来ていた。
 花壇にはコスモスやキキョウの花がちらほらと咲いている。その合間に生えてる雑草を抜きながら、ちらと横に置いた鉢植えに目を移した。
「月下美人は……咲いてるところを見てもらえたらとも思うけど」
 鉢植えに植えられているのは、夕方から夜にかけて蕾を開き翌朝には萎んでしまう儚い花だった。代わりにその花は甘い香りと差しこむ月光の中で綺麗に咲き誇る、まさに月下美人の名に相応しい花なのだ。
「夕方くらいの咲き始めなら、見てもらえるかな? タイミングが合うかもわからないけど」
 そう呟きながら水やりを終えて、花壇を見渡す。満開に花が咲き誇る花畑とは違うけれど、ぽつりぽつりと綺麗な色が散らばる景色もまた美しかった。
「うん、これなら喜んでもらえるかも。そしたら……」
 ごそごそと鞄を漁り、中からノートを一冊取り出す。それは字の練習に使ってきた五冊目のノートだった。
 自分磨きの結晶であるそのノートの最後のページに、一文だけ言葉を綴る。
『字原さん、好きです』
 前にも一度書いたその文字は、その時とは比べ物にならないほど綺麗になっていた。
「よし。これで字原さんに、想いを伝えるんだ」
 そう意気込んだ瞬間、がたっと奇妙な音が響いて慌てて僕は飛び上がった。
「うわぁ! ……って、なんだあそこの窓か」
 一瞬今の言葉を誰かに聞かれたのかと周囲を見渡すと、三階の開いていた窓に揺れるカーテンが見えた。遠目から見るに、どうやら揺れるカーテンが窓の近くに置いてあった鉢植えに当たった音のようだ。
「まぁ、いいや。とにかく、頑張らないとな」
 少し削がれた勢いを取り返すようにぐっと拳を握り空を見上げる。緩やかに吹く風にイチョウの葉が揺れるのを見つめて、僕は覚悟を決めた。

「やーっと終わったー!」
 テスト期間最終日、放課後になった途端に大きく伸びをして字原さんが叫んだ。ぐっと伸びる手に合わせて制服が上に持ち上がり、一瞬字原さんのお腹が見えそうになって僕は目を逸らす。
「あれ? どうしたの手織くん」
『制服、持ち上がってて危なかったよ』
「えっ、まじっ? まぁ、手織くんになら見られてもいいや」
 一瞬きょろきょろと辺りを見回してから字原さんはにししと笑う。そんな子どもみたいな笑顔も可愛らしくて、この後に告白するのだと思うと動悸が激しくなった。
『それじゃあ、花壇見に行く?』
 こんな時には毎回筆談でよかったと思う。声に出していたらきっと裏返って早口で、聞けた物じゃなかったはずだ。
「うん! それを楽しみにずっとテスト頑張ってたんだから!」
『じゃあ、行こうか』
 きっと上手くいくはずだ。字原さんも、少なくとも僕を嫌っていないとは思う。さっきの言葉だって、気を許しているからに違いない。
 そんななけなしのあってないような理論武装を固めながら、僕は字原さんと花壇へ向かった。
『ここが、僕の花壇だよ』
 校舎裏まで字原さんと並んで歩いて、僕は披露するように花壇へ手をかざす。周囲の掃除まで終わらせた花壇には雑草もなく、美しい出来栄えだった。
「…………」
 字原さんが無言で花壇を見つめる。
 周囲ではテストを終えてわいわいと騒ぐ学生達の声だけが微かに反響し、次第にそれさえも消えて静寂に包まれた。
 何か声をかけるべきだろうか。無言に耐えかねて一瞬そう迷う。けれど花壇を見つめる字原さんの表情は今までになく真剣だったから、僕は静かに待つことにした。
「……綺麗だね」
 しばらくして、ぼそりと字原さんがそう言った。
「すっごく、綺麗。それに、言ってたとおり静かで……。私達しかここにいないみたい」
 花壇から視線を外して僕の方へ向けた字原の瞳は僅かに潤んでいた。
 もし少しでも花の綺麗さが伝わってくれていたのだとしたら、それは凄く嬉しいことだ。
 告白しようとしていたことさえ一瞬忘れて、そう思う。
 そうだ。花の綺麗さを伝えられたらと、そう思った一言からこの少し奇妙な関係は始まったのだった。
 僕の最初の願いは、叶ったのだ。ならば次に進むのだって怖くない。
『実は、字原さんに見せたい特別な花があるんだ。確認してくるから少し待ってて』
 そう綴った紙を手渡して、僕は月下美人の鉢植え向かって歩く。近くで見た月下美人は少しだけ蕾を横に向けて開いて、僅かに甘い香りを漂わせていた。
 完璧には程遠い。開いているかもわからない、そんな蕾だ。けれど、それくらいが僕にはちょうどいいだろう。そう思いながら、字原さんを呼ぶために僕は振り返る。
 その瞬間、一際強い風が辺りを吹き抜けた。
 ばさっと激しい音を立てて、以前見た窓のカーテンが激しくひるがえる。そしてそれに引かれるように、鉢植えががたがたと揺れた。
 落ちる。直感的にそうわかった。そしてその落ちる先が字原さんのいる場所だということも。
 一瞬だけ名前を呼んで危険を知らせようと「あ」とだけ声が漏れた。けれどそれでは伝わらないということを、やけに冷静な頭が思い出す。
「うあぁーー!」
 漏れた声に続けて叫ぶ。間に合え。そう願ってただ駆けた。
 鉢植えが落ちる。字原さんは気がついていない。駄目だ、このままじゃ。
 もうどうなってもいいと、飛びこむように字原さんに覆いかぶさった。
 がんっと後頭部に鈍い痛みが駆け抜ける。ばらばらと鉢植えの破片が地面に転がった。
「これ、えっ?」
 見下ろした視線の先で字原さんは驚いたように目を見開いている。
 怪我はなかったようだと確認して安堵した瞬間、目の前が真っ暗になった。

「ここは……?」
 ふと気がつくとベッドの上に寝ていた。何が起きたのだったかと周りを見ようとして窓の方へ首を動かした瞬間ズキリと頭が痛んだ。
「あぁ、そうだった。鉢植えが」
 そこまで呟いて、体を起こすためにベッドの手すりを掴もうとした瞬間に気がつく。
 手が上手く動かなくなっていた。
「は? え?」
「手織くん! よかった、起きたんだね!」
 聞き慣れた声がして咄嗟に窓とは反対の方に首を動かす。視線の先にいたのは、涙でぼろぼろになった字原さんだった。
「あ……。えっと、僕は」
「手織くん、落ちてきた鉢植えで頭を打って気絶しちゃったんだよ。それで今は病院にいるの」
「そうじゃなくて」
「私を守ろうとしてくれたんだよね。ごめんね、私が花壇を見ようとなんてしなければ」
 聞きたいことはそんなことじゃない。そう伝えたいのに、文字を綴ることができない。
「痛かったよね、ごめんね手織くん」
「話を聞いてよ!」
 罪悪感から謝り続ける字原さんに、つい大きな声で怒鳴ってしまった。
 声を言葉として咄嗟に認識できないだけで字原さんも音自体は聞こえている。だからこそ、僕が怒鳴ったとだけは理解したのか字原さんはびくっと身体を震わせた。
「……ご、ごめんなさい」
 そう字原さんが謝った瞬間、声を聞きつけたらしき看護師が部屋へと入ってきた。
「あっ手織清書さん、起きたんですね。今お母様と先生を呼んできますのでお待ちください」
「あ、はい。わかりました」
 看護師は簡潔にそれだけ述べると部屋から出て行った。
 部屋がしんと静まり返る。字原さんに怒鳴ってしまったのだという罪悪感で、何を話すべきかわからなくなっていた。
「えっと……」
 どうにか声をそう絞り出すと、字原さんの視線が僕の方へ動いた。
「字原さんは、怪我してない?」
 そう問いかけてから、ちらと窓に視線を移す。外の景色は薄暗く、もう夜になっているようだった。
「……私は大丈夫だよ」
 普段に比べてかなり落ちこんだ声音で字原さんはそう呟く。字原さんの目は今にも泣きそうに潤んでいた。
「さっきは怒鳴ってごめんね。もう遅いみたいだし、字原さんはもう帰りなよ」
 冷静に言っているつもりで、声が硬くなっているのが自分でわかる。筆談ならこうはならないのにと思い、余計に苛立ちが増した。
「……そう、だよね。ごめんね」
「気にしないで。字原さんが無事でよかったよ」
「……うん。本当に、ごめんなさい」
 字原さんはそう言うと立ち上がって部屋から出て行く。
 最後の一言はひどく震えていた。

「あれだけ頑張った字の練習も、無駄になっちゃったな」
 親と共に医者からの説明を聞いた後、個室のベッドの上でぼーっとしながら独り言を呟いた。
 頭を打った衝撃で手が麻痺したらしい。そう聞いた瞬間に、後の話はもうどうでもよくなっていた。
「本当なら字原さんに告白して、それで……」
 じわりと涙が滲む。
 今日は素晴らしい日になるはずだったのだ。
 字原さんに花壇を綺麗と言ってもらえて、二人だけのあの場所で想いを伝えて。その後だって、きっと成功していたんだと思う。
 それなのに、現実は字原さんとの大切な会話手段を失っただけだ。
 字原さんに怒鳴って、それを謝ることもできていない。そして泣いて去る字原さんを見送ることしかできなかった。
「だめだめだな、僕」
 もはや何をやる気も起きずに、そう呟いて目を閉じる。
 頬を伝った涙の一筋が、妙に冷たく感じた。

「お見舞いに来たよ、手織くん」
 入院し始めて数日、放課後であろう時間に字原さんがやって来た。
「ありがとう、字原さん」
「……ううん、気にしないで」
 字原さんが微笑んで、ベッドの横に座る。それから、しばらく僕達は何も言葉を交わさなかった。
「あの、さ。聞いたよ。手が痺れてるって」
「そうだね」
 答える声は冷たかった。
「で、でもさ! リハビリすれば良くなるって、私聞いたんだ! 私も何か手伝うからさ、一緒に」
「一緒に、頑張ろうって?」
 字原さんの言葉に被せると、彼女はびくっと震えた。
 責めているように聞こえたのかもしれない。心情を容易に隠せる筆談は便利だと改めて思った。
「いいよ。別に完全に麻痺してるわけじゃないし、日常生活はできるからさ」
「……でも、それだと花の」
 そこまで言って字原さんは口をつぐんだ。
 けれど、字原さんか何を言おうとしたのかはわかってしまった。
「そうだね、園芸とかは厳しいかも。でもそれで死ぬわけじゃないでしょ。あぁ、それに字原さんとも話すのが難しくなっちゃったね」
 少し早口で言い切って、字原さんの表情を見つめる。字原さんの怯えた表情が次第に悲しげに歪み、そして瞳から涙が溢れた。
 悲しませたいわけじゃないのに。そう思いながらも、今の自分は字原さんを傷つけることしかできないとわかってしまった。
「もういいから、帰ってよ。僕なんかと話すよりも、別のことをしてた方が字原さんも幸せだって」
「……そんなことない! そんなことない、けど」
 震える声でそう呟いてから、字原さんはがさごそと花束を横の花瓶に飾った。
「もうこれで帰るね。また、来るから」
「……ありがとう。気をつけて帰ってね」
 どうにかそれだけを伝えて、字原さんを見送る。
 視線の端にちらと映ったカーネーションの花束だけがやけに明るく見えた。

「今日も来てくれたんだね」
「……うん。今日は土曜だからお母さんと一緒にね」
 そう言って字原さんは微笑む。その後ろに、字原さんによく似た女性が見えた。
「こんにちは。貴方が手織くんね」
「お見舞いに来てくれてありがとうございます。えっと……字原さんのお母さん」
 初対面で何と呼べばいいかもわからずそう答えると、字原さんの母親は優しく微笑んだ。
「うちの娘がお世話になってるみたいで。色々と話は聞いてるんですよ」
「……もう、お母さんってば! 変な話しないでよ?」
 母親の言葉に遅れて字原さんは少し恥ずかしそうにそう言って、それから急にぶるっと体を震わせた。
「あっ……。ちょっとお手洗い行くけど、手織くんに変な話は本当にしないでよ!」
「わかってるわよ」
 母親がそう返すのを聞き終わる前に、字原さんは部屋から出て行ってしまう。
 知人の母とは言えよく知らない人と二人きりの状態に、僕は少しだけ緊張していた。
「手織くんには本当に感謝してるのよ」
「えっと、何がですか?」
「うちの娘とよく話をしてくれてたでしょう? 特にお花の話とか」
「そう、ですね。どうしてそれを?」
 字原さんは僕がした話を親にもしていたのだろうか。そう思いながら問いかけると、字原さんの母親は妙な紙束を取り出した。
「これ、今日花束を買う時に娘から渡された物なのよ」
 そう言って差し出された紙束は、ノートの切れ端だった。
「これって……」
「娘の宝物みたいでね。普段は机の引き出しに大切に入れてあるのよ? でも最近は、貴方に素敵な花束を選ぶんだって持ち運んでるの」
 昼休みの度に字原さんに書いていた花の説明達。それが字原さんにとっての宝物だったのだ。
 そう気がついて、ふと飾られていた花束を見る。適当に花屋で選んだのだと思っていたその花束は、全て一度説明したことのある花で構成されていた。
 ぼんやりとしか花がわからないはずなのに、字原さんは紙の説明から綺麗になるであろう花束を作ってくれていたのだ。
「……あれ、お母さん? あっ、あっーー!」
『病院で大きな声出さないの』
 さらっと字原さんの母親が何かを書き上げると、字原さんが慌てて口を塞いだ。
「でも、それって」
 もごもごと恥ずかしそうにしながら字原さんは顔を真っ赤に染めた。
「それがあの時の宝物なの?」
「……うん」
 そう一度小さく頷いてから、字原さんが紙に言葉を書いた。
『手織くんが綴ってくれた、私だけの花束なの』
 母親には見られたくなかったのか、僕にはだけ見えるようにその紙を差し出すと「うー」と恥ずかしそうに字原さんは唸った。
「な、何言ってるんだろうね。あはは」
 誤魔化すようにそう呟く字原さんから、僕は紙を受け取って身体を起こす。
 横のテーブルに置かれた鉛筆を痺れる手で握り、震える手で紙に言葉を綴った。
『うれしいよ、字原さん』
 ヘロヘロの字。練習した成果が欠片もなくなったその字を字原さんに見せる。
「ほ、ほんと?」
『うん』
 綺麗な字はもう書けないのかもしれない。けれど練習した意味がなくなったわけではないのだ。字原さんが僕の綴った花束を大切に残してくれていたのだから。
『ぼく、リハビリがんばるよ。そしたら、字原さんに伝えたいことがあるんだ』
 話した方が早いとわかっていながらも、僕は必死に少しずつ言葉を綴る。
「伝えたいこと?」
『うん。今は、ひみつね』
「……わかった。私、ずっと待ってるね。ずっとずっと、待ってるから」
『まかせてよ』
 そうして僕達は新たな約束を交わした。

「ようやく退院したね!」
『うん。リハビリ頑張ったおかげで、字もだいぶ綺麗になったでしょ?』
 少し止まりながらも言葉を綴り、僕は学校の教室で隣に座る字原さんに笑いかける。
 あの約束の日から日中のリハビリはもちろんのこと、文字の練習も再開した僕は前ほどとはいかずとも手の感覚を取り戻していた。
「うん。手織くんの字、綺麗だよ」
『それはよかった。じゃあ完全復活ってことで退院祝いついでに花壇に行ってもいいかな?』
「うん!」
 そう満面の笑顔で頷いた字原さんと、校舎裏の花壇へ向かった。
 あの日からそこそこには日も経っているはずなのに、花壇の様子は大して変わっていない。不思議に思い字原さんを見ると、少し誇らしそうな表情で彼女は頷いた。
「私が手入れしておいたんだよ。手織くんの説明もちゃんと読んでたからね」
『ありがとう、字原さん』
「んーん。私がやりたくてやったんだよ。あの日、凄く綺麗だと思ったから」
 静かな花壇で、二人きり。あの日を思い出して、緊張で少し手が震えた。
『ねぇ、字原さん。伝えたいことがあるって約束、おぼえてる?』
「もちろんだよ。いま、教えてくれるの?」
『うん。本当は、あの日に伝えようと思ってだんだけどさ』
 そこで一度筆を止めて、ゆっくりと僕は言葉を綴る。出会ってからこれまでを思い出しながら、一文字ずつ丁寧に。
 笑顔が素敵だ。輝く目も綺麗だ。きっと大変だろうに、何ということはなさそうにする明るさは凄いと思う。手が痺れた時は一度全てが嫌になったけれど、そのひたむきさに救われた。
 溢れる想いを、どうか伝わってくれと願いながら文字にする。
「あざはらあやさん……? うん」
 隣で文字を見ながら字原さんが小さく頷く。
『好きです。付き合ってくれませんか』
「えっ! す、好きって……」
 読み終わったのだろう、字原さんが少し驚いた声を漏らす。僕は彼女の顔を見るのが怖くて、書き終えた紙をじっと見つめて返事を待った。
「えっと……」
 字原さんの手が伸びて紙を取る。それから、字原さんは鞄の中から紙束を取り出した。
 それはあの日に見た、字原さんの宝物だ。
 そこに字原さんは大切そうに今取った紙を加える。そして、顔を赤くして僕を見た。
「宝物が増えちゃったな」
『それって』
「うん。ちゃんと返事、しないとだよね」
 ぎゅっと恥ずかしそうに字原さんは一度目を瞑る。そして目を開くと、意を決したように僕の手を握った。
「私も手織くんが好きです。この先もこうして一緒にいられたらいいなって、思ってるよ」
 握った手は燃えそうなくらいに熱かった。
『うん。僕も、字原さんと一緒にいるよ』
 そう綴った紙も、字原さんの宝物に加えられた。

 それからも毎日、僕は字原さんに花束を綴っている。
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