吾輩は猫である ~元人間の黒猫、悲しみに暮れる聖女を助ける~

くろねこたろう

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第3話

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不意に、重りのついた足枷が、すとんと落ちた。
手からも、枷がするりと抜けた。

気がづいたら、吾輩は猫の姿に戻っていた。
もはや人の姿を維持できぬほど、体力が尽きてきたらしい。

それでも、それは僥倖だった。

人の腕より、足より、猫のそれはもちろん細い。
猫の姿に戻ったいま、枷はもちろん、牢屋の格子など、何も意味を持たなくなっていたのだ。

 *

ボロボロの身体で、やっとのことで格子の嵌った窓から外に出ると、痛む身体で、走った。

ただ、ひとめだけ、少女を見てから死にたかった。

少女は大丈夫だろうか。

吾輩のような不細工に傷物にされたと喧伝されて、泣いてはいないだろうか。

王に召されぬことなく村に帰ることができることの喜びが、傷つけられたたことより、わずかに勝ってくれてはいたらよいのだが。

村に帰れば、温かく迎えてくれる人たちがいることだろう。
そこで汚されてなどいないこと――真実を話し、今度こそよき伴侶を見つけて、幸せになるといい。

そんなことを考えながら、一歩、また一歩、必死に前に進んだ。

普段ならなんともないことが、瀕死の身にはひどくこたえた。
走っては止まり、歩いては倒れ、ついには止まっている時間の方が長くなった。

 *

ひっくり返って空を眺める。
今度は硬く冷たい土の上で。

もう、少女に会うことはできないのか。

たった一度でも、視界にその姿を収めることはできないのか。
前に進もうと願うも、もはや自分の力では如何様にもできない。

綺麗な夜空に浮かぶ大きな月。
その月が、涙でにじんだ。

悔しい、と思った。
諦めたくない、と思った。

前の人生では、呆気に取られているうちに命を軽く手放してしまったが、今はその命が本当に惜しい。

冷たい風が吹き抜ける。

もはやこれまで…と思いつつ。

目を閉じようとしたところで、声がかかった。

「……おや、おまいさん、あの子のとこの猫じゃないかい?」

突然、ひょいと腕に抱き抱えられる。

僅かに残る力でうっすらと目を開けると、どこかで見たことのある女性だった。

「カラスにでもやられたのかい。ずいぶんとひどい有様だよ」

彼女は吾輩を懐にすとんと収めると、小走りで走り出した。

 *

「だからあたしは言ったんだよ。別に猫はあんたを嫌って出ていったんじゃないって」

温かい懐のなかで、ぼんやりと女の話す声を聞く。

「あんた、死ぬんじゃないよ。あの子がどれだけあんたのことを探してたか。あんたがいなくなって少しおかしくなっちまったのか、襲われた日にいなくなったあんたを探して、しまいには襲った男のことをあんたなんだって言い出して、刑場にまで探しに行こうとするのを止められたくらいだからね」

みんなあの子のことを不憫に思ってたんだ、と女は言った。
少女にも味方がいたのだと知って、ホッとひとつ嘆息した。

 *

気が緩んだら、急に眠くなってきた。

寝たら最後、もう目を覚ませない気がした。

身体の隅から、少しずつ冷たくなっていく感触が伝わってきていた。

それでももう、手放してもいいかもしれないと思った。

少女はひとりじゃないとわかったのだから。

 *

ドン、と乱暴に扉が開く音が聞こえて、女が何かを叫んだ。

少し静かにしてくれないか。吾輩は重篤な怪我をしているのだ。

そう頭の中でぼんやり抗議しようとした瞬間。

ふわりと身体が浮いたと思うと、懐かしい匂いに抱きとめられた。

……あたたかい。

まるで母に抱かれた遠い日の記憶を思い出すかのようだった。

……ずいぶん心地がいい。

ただ、頭上から滝のような、温かい雨が降り注いでくるのだけは、ひたすら閉口したのだが。

 *

それから吾輩、しばらく記憶がない。

気がついたらかなり回復していて、眩しい月のように綺麗だった彼女の長い髪が消えていた。

彼女は髪を短く切って売り、吾輩を治療するための貴重な薬を買ったらしい。

「髪はまだ伸びるから」と微笑む少女に、吾輩はひどく申し訳ない気持ちになった。

 *

王に召されるお話は、無事破棄になったと、改めて聞いた。
少女に起因しない不幸な事故だったので、特に返金を求められることもなく、自由の身になれたとか。

心配していた誹謗中傷も、それほどではなかったらしい。
王に召されることがなくなったことで、もはや攻撃する必要もなくなったからだろう。

豪華な家具や衣装は返し、あるいは引き取ってもらい、本当に身一つになった少女。
少女の表情はそれでも晴れやかだった。

 *

少女は故郷に帰るという。

「ついてきてくれる?」

そう聞かれるまでもない。
吾輩についていかない理由はなかった。

吾輩は少女に何の恩も返せていない。

乱暴な方法で傷つけ、髪まで売らせたことを、謝ることさえできていないのだ。

故郷に戻っても、何ができるかもわからない。
ただ、幸せになった少女の家に出る鼠の一匹くらい、捕まえることはかなうだろう。

(続く)
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