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二章
第25話 月下の夜襲③
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レツィア・デ・ルカは砂埃と汗でべっとりと汚れた顔を苦渋に歪めていた。
混戦の中に現れた敵の将軍の馬に弾き飛ばされ、兜はすでにどこかへ消え失せた。
敵の将軍は貴族らしくよく整えた口ひげを触りながら、レツィアを見下ろして言った。
「パウロスと申す。祖国セラステレナでは不退転の猛将にして不屈の勇将と謳われしこの武名、貴女にも聞き覚えがあるのではないかな?」
レツィアはふるふると首を横に振った。
「ではこれからその身体に覚えさせるとしよう。私は戦の先で女を連れ帰り、屋敷に陳列するのが趣味でね。我が屋敷にてその土と汗を洗い流した後、汚して差し上げよう」
「下衆め」
レツィアはこみ上げる吐き気と怒りを抑えて剣を構え、斬りかかる。狙いは相手の馬。馬から下ろしさえすれば勝ち目はある。
だがパウロスがその体躯良き乗馬を蹴ると、その勢いに何とか身体を避けるので精一杯だった。
パウロスが馬のたてがみを慈しむように撫でながら言った。
「良い馬だろう、我が愛馬にして聖馬アンドラモスは。馬を乗りこなすのは貴人の嗜み。さて貴女はどのような乗り心地かな?」
パウロスは馬首を返すと、再びレツィアに向かって突進した。
レツィアは一度大きく息を吐くと、決心をすべく思いを巡らした。
機会は一度だけ。家に男子がおらず、女の身で騎士にならざるを得ないとなったとき父が渡してくれたこの品。騎士道の道に反するとしていたから、いや正直に言えばこれを使えばやはり女に剣術は無理だと笑われるのが嫌だったから人目に見せずにいたこの道具。
だがここで大公を守れなければ、それこそ私は。
レツィアは鎧の隙間から胸に手を入れると、何かを取り出した。それは小さな銃。
弾は一発だけ──狙うは敵の顔。レツィアは大きく唾を飲み込むと、その引き金を絞った。
大きな炸裂音がするとほぼ同時に、パウロスの身体が宙を舞った。パウロスは短く頓狂な声を上げて顔面から地面に激突する。
外れた、だが弾は馬に当たった。
「ああ! アンドラモスが……!」
パウロスは顔中を泥と血と涙にまみれさせながら裏返った声を上げた。
「アンドラモスぅ……」
パウロスが倒れた馬にすがりつき泣きじゃくり始めた隙をレツィアは見逃さず、剣を振り上げて斬りかかる。
パウロスはすばやく剣を抜くと、顔中を涙の洪水で溢れさせながらレツィアの一撃を受け止める。
「お前、よくも、我が愛馬ぉ」
こいつ、この体たらくでよく防ぐ。レツィアはますますぞっとする思いを胸に抱いた。
パウロスが涙声で叫ぶ。
「かつて聖ヨハネイウスがその怨敵に言ったように汝に命ずるぅ! 我を見逃せぇ!」
「何を言っているんだ、お前は……?」
嫌悪感。生理的な拒絶反応。無理。ぞくぞくするような悪寒を感じながらレツィアが剣の柄に力を込める。
するとパウロスが「うわぁぁぁ」と大きな泣き声を上げると同時に、ものすごい力でレツィアの剣をはねのけると、恐ろしく素早い突きを繰り出した。
レツィアが咄嗟に飛び退きその剣をかわしたが、頬に血が伝う。レツィアはその鋭い痛みに顔を歪めた。
「ルカ将軍!」
周辺の敵を制圧しつつある歩兵がレツィアの下へ駆けつけてきた。
レツィアが一瞬それに気を取られ、慌てて再びパウロスをみやったときには、彼の背中が林の中に消えていくところだった。
「逃げ足の早い奴。何が不退転だ」
レツィアが毒づく。だが内心ではどこか胸をなでおろす思いだった。あの男、ただの無能というわけではないらしい。
「将軍、ナプスブルク軍の本隊も駆けつけました、大公は無事です」
「そうか……」
レツィアは今度こそ心の底から安堵した。そして夜空を見上げ乱れた呼吸を整えるよう努めた。
***
ナプスブルク軍の本隊が到着すると同時に敵は退却し、夜襲はひとまずの決着を見た。
ロイは月明かりと松明の下、大公ディアノ・バルディーニと初めて顔を合わせ、お互いに言葉を交わした。
「これは、あなたがナプスブルクの新しい摂政、ロイ・ロジャー・ブラッドフォード殿ですか。お初にお目にかかる。フィアット王国大公、ディアノ・バルディーニです」
「お初にお目にかかります。ご無事で良かった。しかし敵は思ったより少数だったようですね」
ロイはこの夜襲で胸につかえていた疑問を口にした。
敵の総軍勢は少なく見積もって一万五千。ところが今回の夜襲は三千に満たない。フィアットを殲滅する絶好の機会だったというのに敵はその程度しか送り込まず、結果ナプスブルク軍本隊が到着するころには劣勢となっている。
この一連の手際の良さに対してこのことが一層不気味に感じられる。退却の手際も見事だった。もし敵の知恵者、枢機卿ヨハン・クリフトアスの策であったとするならば、この違和感の正体はなんだ。
気にし過ぎだろうか。フィアットの壊滅は避けられたのだ。
「ああ、我が将兵たちがよく戦ってくれたおかげだ。しかし将軍の一人が深手を負ってしまった」
フィアット軍のこの夜襲で、今回従軍する者の中で最も古参の将軍であるベルテ・ニーロが重傷となっていた。
戦い始まったばかりであるのに、という雰囲気を大公は見せていた。
「それでもフィアット軍は健在です。それに敵の将軍の一人はこちらが討ち取っている。これは勝利と言っても良い戦果です」
ロイはランドルフが討ち取った敵将のことを指して言った。勝利などと呼べるものではないのはわかっていたが、ここはこの言葉が必要だ。
「うむ……そうだな。戦はまだこれからだ」
大公が自身に言い聞かせるように頷く。
そのとき、ロイの頬を明りが照らした。
その明りの正体を探し求めロイが横を見た時、戦慄が走った。
「摂政! あれは!」
将校のランゲが叫び声を上げて指差すその先には、恐るべき光景が広がっていた。
ルアン峠の尾根。ナプスブルクの宿営地。その進攻作戦のための軍備と糧秣の全てが集積されているその野営が、赤く燃えている。
その炎が起こす煌々とした明りによって、ロイの驚愕する顔が照らされていたのだった。
「ランドルフ!」
ロイは直ちに命令を下そうとした。
「……摂政、守備するジュリアン・ダルシアク率いるパッシェンデール勢は小勢。今からでは間に合いますまい……」
こうしてナプスブルク軍は、戦いの初戦にして宿営のための軍備とその糧秣のほとんどを失った。
ロイの脳裏に、まだ姿の見えぬ強敵の顔が浮かび上がった。そしてその直後、一つの言葉を思い出した。
夜襲は、罠。
ナプスブルク軍の野営地が焼け、崩れ落ちていく。
混戦の中に現れた敵の将軍の馬に弾き飛ばされ、兜はすでにどこかへ消え失せた。
敵の将軍は貴族らしくよく整えた口ひげを触りながら、レツィアを見下ろして言った。
「パウロスと申す。祖国セラステレナでは不退転の猛将にして不屈の勇将と謳われしこの武名、貴女にも聞き覚えがあるのではないかな?」
レツィアはふるふると首を横に振った。
「ではこれからその身体に覚えさせるとしよう。私は戦の先で女を連れ帰り、屋敷に陳列するのが趣味でね。我が屋敷にてその土と汗を洗い流した後、汚して差し上げよう」
「下衆め」
レツィアはこみ上げる吐き気と怒りを抑えて剣を構え、斬りかかる。狙いは相手の馬。馬から下ろしさえすれば勝ち目はある。
だがパウロスがその体躯良き乗馬を蹴ると、その勢いに何とか身体を避けるので精一杯だった。
パウロスが馬のたてがみを慈しむように撫でながら言った。
「良い馬だろう、我が愛馬にして聖馬アンドラモスは。馬を乗りこなすのは貴人の嗜み。さて貴女はどのような乗り心地かな?」
パウロスは馬首を返すと、再びレツィアに向かって突進した。
レツィアは一度大きく息を吐くと、決心をすべく思いを巡らした。
機会は一度だけ。家に男子がおらず、女の身で騎士にならざるを得ないとなったとき父が渡してくれたこの品。騎士道の道に反するとしていたから、いや正直に言えばこれを使えばやはり女に剣術は無理だと笑われるのが嫌だったから人目に見せずにいたこの道具。
だがここで大公を守れなければ、それこそ私は。
レツィアは鎧の隙間から胸に手を入れると、何かを取り出した。それは小さな銃。
弾は一発だけ──狙うは敵の顔。レツィアは大きく唾を飲み込むと、その引き金を絞った。
大きな炸裂音がするとほぼ同時に、パウロスの身体が宙を舞った。パウロスは短く頓狂な声を上げて顔面から地面に激突する。
外れた、だが弾は馬に当たった。
「ああ! アンドラモスが……!」
パウロスは顔中を泥と血と涙にまみれさせながら裏返った声を上げた。
「アンドラモスぅ……」
パウロスが倒れた馬にすがりつき泣きじゃくり始めた隙をレツィアは見逃さず、剣を振り上げて斬りかかる。
パウロスはすばやく剣を抜くと、顔中を涙の洪水で溢れさせながらレツィアの一撃を受け止める。
「お前、よくも、我が愛馬ぉ」
こいつ、この体たらくでよく防ぐ。レツィアはますますぞっとする思いを胸に抱いた。
パウロスが涙声で叫ぶ。
「かつて聖ヨハネイウスがその怨敵に言ったように汝に命ずるぅ! 我を見逃せぇ!」
「何を言っているんだ、お前は……?」
嫌悪感。生理的な拒絶反応。無理。ぞくぞくするような悪寒を感じながらレツィアが剣の柄に力を込める。
するとパウロスが「うわぁぁぁ」と大きな泣き声を上げると同時に、ものすごい力でレツィアの剣をはねのけると、恐ろしく素早い突きを繰り出した。
レツィアが咄嗟に飛び退きその剣をかわしたが、頬に血が伝う。レツィアはその鋭い痛みに顔を歪めた。
「ルカ将軍!」
周辺の敵を制圧しつつある歩兵がレツィアの下へ駆けつけてきた。
レツィアが一瞬それに気を取られ、慌てて再びパウロスをみやったときには、彼の背中が林の中に消えていくところだった。
「逃げ足の早い奴。何が不退転だ」
レツィアが毒づく。だが内心ではどこか胸をなでおろす思いだった。あの男、ただの無能というわけではないらしい。
「将軍、ナプスブルク軍の本隊も駆けつけました、大公は無事です」
「そうか……」
レツィアは今度こそ心の底から安堵した。そして夜空を見上げ乱れた呼吸を整えるよう努めた。
***
ナプスブルク軍の本隊が到着すると同時に敵は退却し、夜襲はひとまずの決着を見た。
ロイは月明かりと松明の下、大公ディアノ・バルディーニと初めて顔を合わせ、お互いに言葉を交わした。
「これは、あなたがナプスブルクの新しい摂政、ロイ・ロジャー・ブラッドフォード殿ですか。お初にお目にかかる。フィアット王国大公、ディアノ・バルディーニです」
「お初にお目にかかります。ご無事で良かった。しかし敵は思ったより少数だったようですね」
ロイはこの夜襲で胸につかえていた疑問を口にした。
敵の総軍勢は少なく見積もって一万五千。ところが今回の夜襲は三千に満たない。フィアットを殲滅する絶好の機会だったというのに敵はその程度しか送り込まず、結果ナプスブルク軍本隊が到着するころには劣勢となっている。
この一連の手際の良さに対してこのことが一層不気味に感じられる。退却の手際も見事だった。もし敵の知恵者、枢機卿ヨハン・クリフトアスの策であったとするならば、この違和感の正体はなんだ。
気にし過ぎだろうか。フィアットの壊滅は避けられたのだ。
「ああ、我が将兵たちがよく戦ってくれたおかげだ。しかし将軍の一人が深手を負ってしまった」
フィアット軍のこの夜襲で、今回従軍する者の中で最も古参の将軍であるベルテ・ニーロが重傷となっていた。
戦い始まったばかりであるのに、という雰囲気を大公は見せていた。
「それでもフィアット軍は健在です。それに敵の将軍の一人はこちらが討ち取っている。これは勝利と言っても良い戦果です」
ロイはランドルフが討ち取った敵将のことを指して言った。勝利などと呼べるものではないのはわかっていたが、ここはこの言葉が必要だ。
「うむ……そうだな。戦はまだこれからだ」
大公が自身に言い聞かせるように頷く。
そのとき、ロイの頬を明りが照らした。
その明りの正体を探し求めロイが横を見た時、戦慄が走った。
「摂政! あれは!」
将校のランゲが叫び声を上げて指差すその先には、恐るべき光景が広がっていた。
ルアン峠の尾根。ナプスブルクの宿営地。その進攻作戦のための軍備と糧秣の全てが集積されているその野営が、赤く燃えている。
その炎が起こす煌々とした明りによって、ロイの驚愕する顔が照らされていたのだった。
「ランドルフ!」
ロイは直ちに命令を下そうとした。
「……摂政、守備するジュリアン・ダルシアク率いるパッシェンデール勢は小勢。今からでは間に合いますまい……」
こうしてナプスブルク軍は、戦いの初戦にして宿営のための軍備とその糧秣のほとんどを失った。
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