中古一国記

安川某

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二章

第26話 変革の兆し

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「まことに、面目次第もごぜいません……」

 ルアン峠の麓にて、ナプスブルク軍本営の守備を千五百の兵と共に任されていたジュリアン・ダルシアクは憔悴しきった顔で跪き、ロイに深く頭を垂れた。

 傍らにいたグレーナーが極めて冷淡な口調で言う。

「我らが到着するまで持ちこたえることもできなかったとは」

「……敵は少なく見ても我々の三倍はおり、奇襲による動揺も大きく……」

「我軍の糧食を始め、野営のための備えと攻城兵器。これらの多くを失った責任はどうするおつもりか」

 ジュリアンの頬を大粒の汗が滴っていく。唇を強く噛み締め、身体を強張らせたまま、ただ地面に目を落している。

 そこで沈黙を保っていたロイが初めて口を開いた。

「難を逃れることが出来た物資は、どれほどある」

「……食料はおよそ一週間分。家畜のための干し草は全滅。野営は露天で行う他なく、使用に耐える攻城兵器はほとんど残っておりません」

 一同が天を仰ぐように空を見た。夜明けの霞がかった空が、これからの苦難を思わせる。ランドルフはじっと目を閉じ、黙ったままだ。

 しかしロイは特に動じる様子もなく言う。

「わかった、ご苦労。下がって休め」

 その言葉にジュリアンは驚いて顔を上げ、「あの、私への処罰は」と震える声で尋ねた。

 するとロイは顔の前で軽く手を振って、こう答えた。

「いや、これは私が判断を誤っていた。私は戦が下手だな」

 その言葉は場に居合わせた全員にとって意外を極めるものであったため、皆唖然した。これにはランドルフですら同様の様子だった。

「だが戦いはこれからだ。計画の大筋に変更は無い。フィアット軍と共にセラステレナを屠る」

 実際のところ、ここで全軍退却という選択肢はロイに残されていない。そうなれば敵はセラステレナ本国からの援軍を得てナプスブルクかフィアット、あるいはその両方の領内になだれ込んでくる。そうなれば勝ち目は無い。

 ロイはグレーナーに目線を移すと言った。

「グレーナー、君は歩兵をいくらか連れて本国に戻れ。そして人夫をかき集めて糧食と、最低限の物資、攻城兵器を持ってきてくれ。攻城用の兵器は間に合せで良い」

「……残る食料は一週間分、とても間に合わないでしょう。それに野戦を挑み敵を殲滅するのが計画だったはず。輸送速度を遅くしてでも攻城兵器が必要なのですか?」

「こちらが城を攻める意志があると思わせるために攻城兵器が必要だ。そうでなければ敵は必ず城に籠もるだろう。食料はまあ、そうだな」

 そこでロイはふふっと小さく笑い、「なんとかするさ」と言った。

 もしや摂政は自暴自棄になったのかとその場の何名かが思ったが、ロイの目には未だに光が宿っていることをランドルフやグレーナーは見逃さなかった。

 それは暗闇に灯った小さくおぼろげな光に過ぎないのかも知れないが。

「三時間後に出発だ。目標はアミュール城南、ダカン砦。各自支度を整えたら身体を休めよ」

 ランドルフらが一礼をしてその場を去る。誰の姿も見えなくなってからロイは考えた。戦はままならないものだと。

 ロイにとってもわかりきっていたことだが、内政はとは何もかもが異なった。

 内政であるならば、ロイは基本となる方程式を確立している。

 ロイが摂政として就任したその日から、直ちに部下に命じた事がある。
 それは国内で収穫される全ての作物、そして家畜の生産数を調べ上げることだった。それらの取れ高を各年ごと、ものによっては月ごとに文書にまとめ、その数値の変化を比較した。

 例年よりも収穫高が高いか、低いか。減少傾向になったタイミング、上昇傾向に転じたタイミング、それらを見つけると、その原因となった事象をざるでさらうように徹底的に調査した。

 事象の原因は様々だった。
 天候のせいであれば灌漑事業を推進し、水が安定して供給されるようにした。水害であれば堤防を築いた。病や虫が原因であれば益鳥を放ち、病にかかった作物を直ちに間引くように命じた。産業物の原料となる作物の生産数が落ちている背景には、商いの問題が見えた。そのような時はフィアットやロッドミンスターとの交易を強化して対処した。

 出荷前の家畜が盗賊に襲われていることがわかるとすぐに兵を送り鎮圧させ、不作の原因が官吏による人為的な怠慢や不正であることを発見すれば罰した。
 そして豊作の原因が人にあると知れば褒賞し、場合によってはたとえ農民であっても役人に登用した。

 ロイのこのような政策は目覚ましい成果を上げており、ナプスブルクの国力全体は右肩上がりの状態となりつつある。同時に政治が再動したことで役人を始め官吏の活性化が起こり、政庁は先王の時代に匹敵する賑わいを見せている。

 一方で戦はこのようなことができなかった。その決定的な要因は時間である。

 ロイは何事にも思慮深く考察し、念入りな調査の上で実験し、成功因子を拡大することで効果を最大化させる手法を好む。

 戦においてはそれができない。
 矢継早に新たな情報が入り、それが誤報である可能性もある中、瞬時に判断を下さねば時期を逸するという状況には経験が浅く、己の判断に自信を持ちきれないでいる。
 また、自信を持てぬままに足を踏み出すという行為には嫌悪すら覚えていた。

 さらには情報についても国内の政治と異なり入手が極めて困難であることも、判断を鈍らせる原因となっている。当然敵は誤情報を駆使ししてくるし、秘匿する。状況は刻一刻と変化する。それは事実上の同盟国であっても同様だった。

 そして外交的要因はコントロールできない事象も多く、この度の戦のように万全には程遠い状況で戦いの火蓋を切る判断をしなければならないこともあった。

 だが、それでもこの軍団の最高指揮官を勤め上げなければならない。大将が戦わずして国体を保てるほどにナプスブルクは安定などしていないし、ロイにその信望はない。

 そして、自らの戦の無能を隠しきれる段階でもなくなった。

 だからロイはそれを隠さないことに決めた。
 もはや摂政は孤高の雄才たり得ない。それを受け入れる。

  そして決意する。今の自分にそれが無いのであれば、身につけてみせる。戦に方程式など存在しないのならそれでも良い。

 学んでみせる。

 そう思うと、不思議と気分が高揚してくる。それが先程のロイの含み笑いと皆が意外に思う態度の理由だった。

 自分の願いはセラステレナを打倒した先にある。見ていろヨハン・クリフトアス。地獄に身を置く者の飢えが、お前を討ち破る。

 ロイは隈がより濃くなったその目を鋭く光らせ、そう心に念じた。
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