今宵、あなたへ恋物語を

ととりとわ

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1巻

1-3

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 エリックの言うことを聞いて、竜の目つきが意地悪そうに細められた。

「では私が出す問いに答えてもらおうか」
「問い? ……なぞなぞのこと?」
「そのようなものだ。そこのじいさんに答えを尋ねてはならん。妹を救いたくば、お前が答えるのだ」
「……わかりました」

 エリックはごくりと唾をのみ、ぶかぶか鳴っている竜の鼻先をにらみつけた。
 竜は問題を待つエリックに少しでも近づこうというのか、彼には小さすぎる穴の中で、心もち頭を下げる。

「ある男は、いつも大勢の友達に囲まれているが、寂しそうにしている。またある男は、いつもひとりぼっちでいるのに、楽しそうにしている。これはいかに」

 洞窟内に静寂せいじゃくが広がって、エリックは竜が問題を出し終えたことに気づいた。
 問われているのは、実際は孤独でない男が寂しく、逆にひとりでいる男が楽しそうなのはなぜか、ということだ。これをなぞなぞと言っていいのか、エリックにははなはだ疑問だが、妹のエマを助けるためには何か答えなければならない。
 かなりのいじわる問題だ。
 エリックはチェスターじいさんの顔をちらとうかがった。町いちばんのひねくれ者で、寄りつく人がひとりもいなかったじいさんなら何かわかるかもしれない。
 そう思ったが、じいさんはむっつりと黙ったまま、竜の下腹あたりをじっと見つめている。
 友達に囲まれている男は、実はかごの中に囚われているとか、ひとりでいる男が楽しんでいるのは、面白い本でも読んでいるのか……
 なんとか答えをひねり出そうとするけれど、気の利いた答えが浮かばない。
 途方に暮れるエリックの頭に、倒れる前はにこにこ顔で自分のあとをついてきていたエマの姿が浮かぶ。
 かわいいエマ。笑うと頬にえくぼができた。エマに会いたい。
 故郷を出発してからもう二週間がたつが、父も母もなく、妹とたったふたりで生きてきたエリックにとって、こんなに長く妹と会わないなんて、これまで一度としてなかったことなのだ。
 その時、エリックの脳裏にひとつの考えが浮かんだ。まったくとんちんかんな答えかもしれないが、言ってみる価値はある。
 エリックは自分を落ち着かせようと、目をつぶり顔をごしごしとこすった。
 そして――


「そこまで」

 突然割り込んできた恭吾の声に、莉緒はハッとした。
 顔を上げてみれば、猫脚椅子から立ち上がった恭吾が、惜しみない拍手を送ってくれている。

「素晴らしい朗読でした。エリックの必死な思いが伝わってくるようでしたよ」
「あ……ありがとうございます!」

 莉緒は本を閉じて、ソファから立ち上がりぺこりと頭を下げた。そしてふたたび腰を下ろすと、ソファの背もたれに背中を預けて安堵のため息を吐く。

(……よかった。とりあえずは成功したみたい)

 はじめは緊張したが、途中から物語の世界にどっぷりとかっていた。気持ちが高揚したのかすっかり汗だくになっていて、背中にシャツが貼りついている。
 莉緒の胸のうちは今、やり遂げたという達成感と喜びに沸き返っていた。
 大人を対象にして朗読するのははじめての経験だったが、これも新鮮な緊張感と共感性とに溢れた素晴らしいものだということに、改めて気づかされた気がする。
 恭吾は書斎入り口の脇に置かれたウォーターサーバーから、ふたり分の水をグラスに注いで戻ってきた。

「ありがとうございました。声量、速度、息継ぎのタイミング、それから抑揚よくよう――すべて私が長年思い描いていた、理想的な読み方です。どうぞ」
「いただきます」

 受け取ったグラスを、莉緒は一気に傾けた。のどすべり落ちていく清冽せいれつな水が、すうっと身体にみこんでいくようだ。
 やはりこの瞬間は、最高に心地いい。
 朗読は腹式呼吸の繰り返しなので、長さによっては運動をしたあとのように身体が火照ほてる。それが冷たい水によって一気にしずめられると同時に、頭もすっきりとえわたっていく気がするのだ。
 恭吾はおかわりの水を注ぎ、莉緒の前に置いて席についた。そして、ガラステーブルの上で両手を組んで、真剣な眼差まなざしで見つめてくる。

「これから毎晩、私のためにここへ来て本を読んでくださいますか? あなたの声を聞いて眠りにけたら、とても幸せな気分で朝を迎えられそうです」

 言い終わると同時に、恭吾は穏やかな笑みを浮かべた。彼の口元から白い歯がこぼれるのを見た瞬間、どきんと胸が高鳴る。
 まるで愛の告白だ。瞬時に頬が熱くなってしまい、それを隠すようにうつむく。
 はじめに青戸執事に声を掛けられた時は、正直言って、うさん臭さすら感じていた。しかし、実際に恭吾に会ってみて、その人柄に触れて、今では彼のために本を読んでみたいと思っている。
 元より、莉緒は活字に命を吹き込む作業である朗読が大好きなのだ。その対象が大人ならば、より複雑な感情を込めることができるだろう。

「はい……私でよろしければ」

 緊張にかすれた声で答える。すると彼は一瞬の間ののち、輝かんばかりの笑顔となった。

「……よかった! 朗読係はあなたにお願いしたかったのです。ほかの方は考えておりませんでしたので」
「は、はあ」

 確か、同様のことを青戸執事にも言われた。だからでも、と頼み込まれてここへやってきたのだ。一体彼らはどうしてそんなに莉緒に固執こしゅうするのだろうか。
 考えてもわからず、莉緒は小さく頭を振った。
 それはともかく、毎日たった数時間の朗読の仕事では、生活できるほどの収入は得られないだろう。でも、昼間は昼間でまた別の仕事を探せばいい。仕事の内容もそうだが、この屋敷の雰囲気も、篁恭吾の人柄も、莉緒はすっかり気に入っていた。
 立ち上がった恭吾が手を差し伸べてきたので、莉緒も慌てて立ち上がってその手を握る。

「給与など、事務的なことはすべて青戸に任せていますので、今夜は打ち合わせをしてからお帰りください。明日も楽しみにしています」
「よろしくお願いします」

 最初に握手した時と同じく、あたたかな両手が莉緒の手を包み込んだ。おずおずと顔を上げてみれば、はるか高い位置からはしばみ色の美しい目が、じっとこちらを見下ろしている。

(篁さん……本当に素敵な人)

 胸の高鳴りを禁じ得ない。こんなに見目うるわしく穏やかな男性と、これから毎晩ふたりきりで過ごすなんて、心臓がもつのだろうか……

「下までお送りします」

 彼は壁際のフックからスーツのジャケットを取って羽織はおった。そしてふたたび莉緒の手を取ると、ドアの方へ進もうとする。

「あの、ひとつ質問してもよろしいでしょうか」

 莉緒の問いかけに、恭吾が振り返った。

「なんでしょう」
「先ほど読んだ『古竜の眠るほこら』ですが……エリックは竜が出したなぞなぞに、なんと答えるのでしょうか」

 彼は怪訝けげんそうな顔をしていたが、その表情をふっと緩めると、握った手に力を込める。

「『寂しいと思う気持ちは、会いたい人がいるからじゃないのかな。人に囲まれている男は、その中に好きな人がいなくて、会えずに寂しいと思ってる。ひとりでいる男は、そもそも好きな人がいないから、寂しいと思うこともないんだよ。きっと』――これがエリックの答えです。そして見事、竜の問いに答えたエリックとチェスターは、万病に効くと言われる竜のうろこを手に入れて、妹を救うことができたのです」


 一階に下りると、深々と腰を折る数人のメイドと青戸執事に迎えられた。
 若干足元がふらつく感じがするのは、階段の中央にかれた赤い絨毯じゅうたんのせいだけではないだろう。
 ここまで恭吾のエスコートを受けて、莉緒はすっかり参っていた。
 彼は二段ほど先を下りつつ、シャンデリアの光を受けて不思議に輝く目で時折こちらを見上げてくる。もちろん、輝いているのは目だけではない。セットされた髪も、唇も、長い指も、スーツでさえも、すべてがきらきらとして見えているのだ。
 これほど素敵な男性にお姫様のように扱われて、心動かされない女性などいないだろう。熱い視線を間近に感じながら、勘違いしないようにと自分に言い聞かせる。
 だから、青戸執事にバトンタッチして恭吾が姿を消した時には、正直言ってホッとした。青戸も上品ではあるが、見た目はいたって普通のおじさんなので、身構えなくて済む。
 玄関ホールの奥にある広間で、莉緒と青戸は待遇について話すことにした。
 青戸は、莉緒が朗読係を引き受けたことをいたく喜んでいる様子だ。その証拠に、彼のしわの刻まれた目尻には涙がにじんでいた。

「坊ちゃまには、いくら積んでも構わないと言われております。ご希望の金額をおっしゃってください」

 彼がテーブルにひたいをぶつけそうな勢いで頭を下げるので、莉緒は困惑した。希望と言われても、朗読係という仕事がどれくらいの報酬をもらえるものなのか、見当もつかない。

「いえ、相場程度で結構ですので」
「相場、ですか……ちなみに、現在はいかほど?」

 下からうかがうように青戸が見上げてくる。

「えーと……時給ですので、その月によって多少変わりますが、大体ひと月の手取りはこれくらいでしょうか」

 そう言って、莉緒はテーブルの下で指をそろりと出す。執事はふたつの目を落とさんばかりに見開いた。

「ええっ!?」
「えっ?」

 青戸がったので、莉緒も同じリアクションを取る。彼は細い鼻梁にしわを寄せて、悔しそうに首を振った。

「おいたわしい……こんなことを申してはなんですが、世の中の芸術に対する評価の低さには、たびたび怒りを通り越して、悲しみを禁じ得ません」
「……はあ。お言葉は嬉しいのですが、私はもともと朗読係ではなく、一介の図書館司書ですので」

 すると突然、青戸ががばりと顔を上げたので、莉緒は飛び上がる。

「今の三倍はお支払いいたします」
「はっ!?」
「もちろん送迎付き、夕食も今夜お召し上がりいただいたような食事を、毎日提供させていただきます。ちなみに、いつでもお好きな時にご宿泊ください。屋敷の使用人一同、心を込めて中條様のご滞在をおもてなしさせていただきます」

 莉緒は両手を胸の前にかざして、やんわりと拒否の姿勢を取った。

「そ、それはさすがに待遇がよすぎるのではないでしょうか。篁さんがご帰宅されてからですと、何時間も仕事をするわけではないのですから」

 確かに、それだけ収入があれば昼間の仕事を探す必要はないし、おいしい食事を毎日食べられるのも魅力的だ。しかし、あまり丁重に扱われると、何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
 長く働き続けるためには、普通の待遇で、普通の仕事をこなすのが一番な気がするのだが……
 青戸はテーブルに両手をついて、ぐいっと身を乗り出す。

「中條様がご滞在されるお時間は、一時間でも、三十分でもよいのです。坊ちゃまからは、とにかく、と、に、か、く! あなた様を大切にするようにとの命を受けておりますゆえ――」

 青戸の勢いに、莉緒はもうたじたじだ。

「わ、わかりました。では、それでお願いします」

 そう返事をするしかなかった。


 翌日。いつもより少しだけ重いまぶたを時折押さえながら、莉緒は図書館に新しく受け入れた本へICタグを取りつける作業をこなしていた。
 今月入荷した本で、まだ処理されていないものがあったのだ。この図書館の閉館まではあとひと月しかないが、ここにある本はすべて新しい図書館に移動するので、無駄になるということはない。
 今日の館内には、比較的ゆったりとした時間が流れていた。
 こうなると、自然と考え事をする時間が増えるもので、莉緒はずっと昨日の件を思い返している。
 昨日、青戸執事に声を掛けられたのは、ちょうどおはなし会が終わった頃のことだった。
 その直前の昼休みに、楢崎課長に事実上の解雇予告を言い渡されてから、まだ一日もたっていない。それなのに、もう次の仕事が決まったなんて自分でも信じられなかった。まさに青天の霹靂へきれき、急転直下の出来事である。
 思い返せば思い返すほど、篁家の屋敷で過ごした時間は夢のように光り輝いていた。
 森の中の石畳いしだたみを抜けた先にある屋敷は、おとぎ話にでも出てきそうな大豪邸。
 その扉を開ければ、ずらりと並んだお仕着せ姿のメイドたち。
 そして、黒のタキシードやベストをまとった執事に使用人。
 ぜいを尽くした食事に、お城を連想させる豪華な内装をほどこした廊下、個人の蔵書とはとても思えない、私設図書室。
 何より、物腰が柔らかく見目うるわしい屋敷のあるじ、篁恭吾の存在が、昨夜の出来事をよりきらきらと輝かせている。
 彼は青戸執事の言うとおり、見た目が美しいばかりではなく、聡明にして優雅、理想そのものの男性にほかならなかった。
 タカムラインターナショナルは世界に名のとどろく、誰もが知っているビッグカンパニーだ。その御曹司おんぞうしだというのに、一介の図書館司書である莉緒にもきちんと敬語で応対し、レディとして丁重に扱ってくれる。
 それは、図書館で日々いろいろな人と相対している莉緒にとっては信じられないことだった。年齢の違い、あるいは職員と利用者という立場の違いだけで横柄おうへいな態度を取る人が、世の中にどれだけいることか。
 恭吾のことを思い出すと、仕事中であっても頬が緩んだ。
 今夜はどんな本を読むのだろう。彼とのあいだに、どんな会話が生まれるのだろう……
 また今夜も恭吾に会えることに、莉緒ははっきりとときめきを覚えていた。まるで恋の予感に浮かれる、少女のような気持ちで。


 昼食の時間になり、莉緒はいつもと同様に会議室のテーブルで手作りの弁当を広げていた。今日はシフトの関係で人が少なく、珍しくひとりの昼食なので、食事後に本を読もうと思う。
 昨日篁家で朗読した際には、あらかじめ恭吾が本を用意してくれていた。しかし、いつかチャンスがあれば、自分のおすすめの本を彼に紹介してみたい。いつその時がきてもいいように、候補になりそうな本の朗読ポイントは、きっちりと押さえておきたいのだ。
 食事を終えた莉緒は、かばんから本を取り出した。
 今日持ってきたのは、長いこと不和が続いていた家庭の父が主人公の話で、娘の結婚式直前に家族三人で旅行に行き、失われたきずなを取り戻そうとする物語である。
 目ぼしい箇所は大体わかっているので、そこに付箋ふせんを貼っていく。強く読むところにはピンク、弱く読むところには水色の付箋ふせんを貼り、シャープペンシルで注意書きを入れる。
 黙々と作業をしていると、会議室の扉がノックされた。

「どうぞ」

 返事をしたところ、小さく開いたドアの隙間から、太い黒縁くろぶちの眼鏡をかけた男性の顔が覗く。

「お疲れ様」
渡会わたらいさん。お疲れ様です」

 渡会は会議室の中に身体をすべり込ませて、ドアを後ろ手に閉めた。そして莉緒の正面の席に座り、コンビニの袋からサンドイッチを取り出す。

「何か作業中だった? 昼飯食べてもいいかな」
「ええ、もちろん」

 莉緒は読んでいた本を閉じて、散らばっていた筆記用具をペンケースにしまった。壁にかかった時計に目をやると、昼休憩の終わりまであと十分ほどに迫っている。
 思わずホッとしたのは、渡会のことが少し苦手だからだ。
 彼は市の総務課から派遣されている職員で、主に図書館職員の人事や細かな事務処理を担当している。スーツよりもウールのベストやセーターを好み、茶色がかったナチュラルヘアに眠たげな目元をした、今どきの青年だ。
 歳は莉緒とひとつしか違わない二十九歳なので、並ぶとそれなりにお似合いらしい。そう言って同僚から冷やかされることもあるが、少々うんざりしている。
 その理由は、渡会が何かにつけ、莉緒のプライベートにやたらと踏み込んでくるせいだった。映画を見たと言えば、誰と行ったのかとしつこく尋ねてくるし、旅行の土産みやげを持っていけば、相手は男か女かと詮索せんさくしてくる。
 正直なところ、だいぶ困っていた。莉緒にとって彼はただの同僚で、男性として思う気持ちはまったくないからだ。

「昨日、楢崎課長に言われてたでしょ。例のこと」

 彼はサンドイッチをほおばりながら気の毒そうな顔を向けてきた。

「よく知ってますね。でも、予測はしていましたので、それほどダメージは負っていません」
「そうか。しょげてるんじゃないかと心配してたけど、よかった。女の子はこういう時あっさりしてるなあ」

 渡会はペットボトルのふたを開けつつ、拍子抜けしたように眉を上げる。

「くよくよしても仕方ないですからね。案外、パッといい仕事が見つかるかもしれませんし」

 適当にかわした莉緒は、荷物をまとめ始めた。
 篁家での朗読の仕事については、周りの誰にも打ち明けるつもりはない。仕事内容も職場も特殊なだけに、ほかの人が知ったら興味きょうみ津々しんしんでいろいろと聞かれるだろうから、と秘密にしておくことを昨日恭吾に提案されたのだ。確かに彼の言うとおりで、あれこれと詮索せんさくされたり、自分のあずかり知らぬところで噂のまとになったりするのは、いい気分がしない。
 渡会はペットボトルのお茶をひと口含んで身を乗り出した。

「で、新しい仕事、何か考えてるの? また図書館の仕事とか?」
「あー、えっと……実はまだ全然考えてなくて」

 そう言ってお茶を濁すと、彼がくすりと笑う。

「昨日の今日じゃ仕方ないよね。参考までに、司書の仕事だったら、今は大学の求人が出てるよ。あと、中町なかまちの図書館」
「えっ? 調べたんですか?」

 渡会が誇らしげにうなずいた。

「君にはどんな仕事がふさわしいかと思ってね。とはいえ、俺としては役所の職員を一番に勧めるけど」
「そ、そうですか。……図書館の閉鎖までには、ひと月あるのでゆっくり考えます。あ、私そろそろ行かなくちゃ」

 時計を確認して、荷物を持って立ち上がる。

「力になれることがあったら言ってね。なんでもするよ」
「はい。ありがとうございます」

 にこにこと微笑んで見送る渡会に頭を下げて、莉緒はそそくさと会議室を出た。
 一年ほど前に異動でやってきた渡会とは、仕事以外の会話も交わすことはあったが、特にプライベートでの付き合いはない。しかし図書館閉鎖の話が出てからは、こうして莉緒の今後を心配してか、よく声を掛けてくるようになった。
 ありがたいことではあるけれど、同時に少し気が重い。付き合っているわけでもないのに、ああまでプライバシーの領域に踏み込んでくる人は、あまり得意ではないのだ。以前から気にはなっていたが、最近はそれに拍車がかかってきた。
 莉緒は洗面所のドアをくぐると同時にため息を吐く。

(基本的には悪い人じゃないんだけどなあ。……困ったもんだ)

 退勤時間の午後六時を迎えると同時に、莉緒は図書館のバックヤードに引っ込んだ。
 更衣室でエプロンを外したあとは、化粧室に駆け込んで手洗いを済ませる。そして鏡の前に立ち、結んでいた髪をほどいて、これまではしたことがない『化粧直し』をやってみることにした。
 あぶら取り紙でしっかりひたいと鼻筋を押さえ、ファンデーションを上から重ねる。眉を描き直して、最後に薄紅色うすべにいろの口紅を引くと、ぱっと華やいだ気分になった。
 支度が終わって廊下へ出たところ、通用口付近で「なにあれ!」という大きな声がする。
 振り向いてみれば、声の主は同僚の司書である瀬田だった。通勤用の大きなバッグを肩から下げている。
 嫌な予感がした。そろそろと後ろから近づいていくと、案の定、彼女が見ているのは篁家の車だ。おまけに、例によって青戸執事とドライバーの女性が、大粒の雨が降っているというのに車の外で待っている。

(ああ、まずい……どうしよう!)

 迫りくる嵐の予感に、莉緒は手のひらでひたいを押さえた。
 しかし、こうしているあいだにも雨脚はどんどん強まるばかり。このまま瀬田がいなくなるまで、彼らを立たせておくわけにもいかない。
 そうこうするうちに、通用口の中にいる莉緒の姿を見つけたのか、黒い大きな傘を差した青戸が小走りにやってくる。瀬田が後ずさりして、その拍子に莉緒にぶつかった。

「ひっ……莉緒さん! びっくりしたあ!」
「瀬田さん、お疲れ様」

 ねぎらいの言葉をかけると、何かに気づいたらしい瀬田がこちらに向き直る。そして莉緒の顔をまじまじと見つめ、口に手を当ててにやりと笑った。

「あれえ、もしかして今日はデートですか?」
「そ、そういうわけじゃ……あ、もしかして瀬田さん、傘持ってないの?」
「そうなんですよ。夕方から雨だって天気予報で言ってたのに、忘れちゃって」

 そこへ青戸がやってきて、莉緒の前で深々とこうべを垂れた。彼の手には傘がもう一本ある。

「中條様、お疲れ様です。お迎えにあがりました」

 青戸の言葉を聞いて、瀬田が目を丸くした。青戸と莉緒の顔を交互にうかがい、何か言いたそうにしている。
 莉緒はこほん、と咳払いをして執事を見る。

「青戸さん、同僚の瀬田さんに傘をお借りできませんか?」
「それはもちろん結構でございますが……もしよろしければ、ご自宅までお送りいたしましょうか?」
「えっ? えっ、えっ?」

 明らかに戸惑っている様子の瀬田の代わりに、莉緒がうなずいた。

「そうしていただけると助かります。確か瀬田さんの自宅まではそう遠くないので」
「かしこまりました。では、どうぞ車にお乗りください」

 莉緒は青戸が持ってきたもう一本の傘を受け取り、それを瀬田に手渡す。そして青戸の差し出す傘に入り、ドアサービスを受けて車に乗り込んだ。
 反対側のドアから運転手の補助で後部座席へ乗り込んだ瀬田が、いぶかるような目つきでにじり寄ってくる。

「ちょっと莉緒さん、一体どういう――」
「しっ。わけは聞かないで」

 莉緒は瀬田に顔を近づけて、人差し指を唇に当ててみせた。彼女はすごすごと引っ込んで、まっすぐに前を向く。
 相手が職員の中で一番仲のいい瀬田でも、朗読の件を話すつもりはなかった。図書館の人間関係は狭いのだ。いくら信用できる相手とはいえ、彼女を発端として全体に広まってしまう可能性もある。そうなったら、せっかくよくしてくれている篁家に迷惑がかかるだろう。
 青戸に住所を尋ねられて、瀬田が普段より二オクターブほど高い声で答えた。運転手がカーナビを設定して、すぐに車が発進する。
 図書館のある路地から大通りへ出ても、瀬田は前を向いたまま無言だった。ぴっちりと両膝を揃え、背筋を伸ばして借りてきた猫のように静かにしている。
 たまらず莉緒から話しかけた。

「瀬田さんは明日も出勤?」
「はい、そうです」

 緊張しているのか、瀬田の返事は棒読みだ。

「えっと……最近、瀬田さんはどんな本を読んでるの?」
「『少年探偵Jシリーズ』と、『漂泊ひょうはくの箱庭』『徳田梅子とくだうめこの生涯』『アンスリープグッデイ』『じんがらどん』、それから……」
「それから?」

 莉緒がうながすと、瀬田が勢いよくこちらを向いたので、思わずびくっとする。

(な、なに!?)

 彼女はにこりともせずに、顔をずい、と近づけてきた。

「私が今ハマってるお話で、なんの変哲へんてつもない女の子が主人公の本があるんです。昼間はしがないスーパーの店員なんですが、実はとんっでもない大金持ちのお嬢さんで、夜になると困ってる人たちのところに行って、バンバンお金や物をバラまいて人助けをしちゃうんです。もう気持ちいいほどに! バンバン!」

 最後のところは興奮したらしく、とんでもない大声で彼女はまくし立てた。
 一体何だというのか。ハマっているというからには、おすすめだと言いたいのだろうが。

「な、なんか、すごいね」

 たじたじになって応じると、瀬田が莉緒の顔を覗き込んできた。

「もしかして……莉緒さんも?」
「はい?」
「お金持ちなんですか?」

 ちらちらと青戸執事の方を見ながら、小声で尋ねてくる。莉緒は苦笑して手を振った。

「全然違うから」
「じゃあ、彼氏? がお金持ちとか」
(か、彼氏!?)


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