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1巻
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しおりを挟む(篁家の敷地……? まさか、この森が?)
ヘッドライトの明かりは、ヨーロッパの古い町並みにありそうな石畳を照らしている。その両脇には、背の高い木々が延々と立ち並んでいた。夜ということもあってか、かなりうっそうとした印象だ。
「そろそろ到着いたします」
青戸執事がそう言った途端、視界が開けた。莉緒はフロントガラスの向こうに目をやり、驚いて息をのむ。
車が向かう先には、かつてヨーロッパの貴族が暮らしていた領主の館のような、立派な建物がそびえていた。一面をレンガでしつらえた外壁に、大きなラウンド型の張り出し窓。ところどころに取り付けられた角灯が、趣深い雰囲気を醸し出している。
「素敵……!」
物語の一幕めいた光景に、莉緒はきらきらと目を輝かせた。こんな場所が街中の一角、しかも勤め先の近くにあったなんて信じられない。
屋敷の細かなデザインや周りの様子は暗くてよくわからなかったが、却ってよかったと思う。明るいうちにここへ来ていたら、とんでもないところへ来てしまったのではないかと、怖気づいたに違いないからだ。
車は屋敷の車寄せに低速で滑り込んで停まった。莉緒は青戸のドアサービスで後部座席から降り、彼の後ろについてガラス製の自動ドアを潜る。
その奥にはもうひとつ、木でできた重厚な両開きの扉があった。脇に下がった赤色の紐を青戸が引っ張ると、扉の向こうで美しい音色の鐘が鳴る。そして、ゆっくりと扉が開いた。
その瞬間。
「いらっしゃいませ!」
大きな声が響いて、莉緒が跳び上がる。
「きゃっ! な、何!?」
一瞬何が起きたのかと思った。見れば、シャンデリアが放つまばゆい光の下、ずらりと並んだメイドや使用人たちが一斉に頭を下げている。
「あ、青戸さん……!」
情けない顔をして執事を振り返ったが、彼は相変わらず穏やかな笑みを湛えているだけだ。
「驚かせてしまいまして、申し訳ございません。この屋敷の者一同、中條様を歓迎しているのでございます」
「歓迎?」
青戸がうなずく。
「あなた様は当家にとって、とても大事なお客様でございますので。すぐに食事のご用意をいたします。こちらへどうぞ」
「食事って――あっ、ちょっと待ってください! 青戸さん」
にこやかに見送るメイドたちにぴょこっと頭を下げて、足早に歩く執事を小走りで追いかける。
たかがアルバイト候補に対して、どうしてここまで丁重な出迎えをするのだろう。『大事なお客様』として扱われる理由など、ひとつも見つからない。
玄関ホールから続く優美な曲線を描く階段で二階へと上がり、二十帖はあろうかという部屋に入った。
そこはダイニングルームらしく、貴族の晩餐会にでも使われそうな横長のテーブルが、でん、とまんなかに置かれている。その上には真っ白なクロスが敷かれていて、すでにカトラリーひと揃いがセットされていた。
青戸に椅子を引かれて、「どうぞ」と促される。ついつい座ってしまったが――違う。
「青戸さん、私、食事をするためにここへ来たのではありません」
立ち上がって言うと、彼は少し困ったような顔をした。
「おっしゃるとおりでございます。ですが、坊ちゃまがお帰りになるまでには、まだ時間がございまして……。そのあいだに屋敷内をご案内申し上げてもよろしいのですが、中條様がお腹を空かせたままでは、あまりに申し訳なく――」
と、その時。
ぐーーっ……
なんというタイミングだろうか。莉緒のお腹の虫が派手に鳴いた。
カッと首から上が熱くなり、思わず下を向いてしまう。
(やだ……どうしてよりにもよってこんな時に!)
「す、すみません」
「いいえ、お気になさらず。お召し上がりになれない食材などはございますか?」
「いえ、特には」
「かしこまりました。では、しばらくお待ちくださいませ」
踵を返して去っていく青戸の背を見送って、莉緒はふたたび力なく椅子に腰を下ろした。両手で顔を覆って、深いため息を吐く。
……情けない。所詮、空腹には勝てないということか。
篁家で出された食事は、庶民には目が飛び出るほど豪華なものだった。
野菜と肉を使った冷製や、魚介のフリットといった前菜の盛り合わせは目にも美しく、食べるのが惜しいくらいだったし、メインの子羊のソテーは舌がとろけてしまいそうなおいしさ。スープやサラダといった脇を飾る料理も、逐一手が込んでいて驚かされる。
こんなに贅沢な食事を毎日召し上がっている『坊ちゃま』とは、一体どんな子供なのだろう。
ちら、と壁に掛けられた時計を見ると、時刻は七時を回っている。読み聞かせというから小さな子を想像していたが、習い事にでも出掛けているのだろうか。
食休みのあと、青戸に案内されて屋敷の二階にある書庫を見せてもらうことにした。
長い廊下には、落ち着いたデザインの紺色の絨毯が敷かれている。壁は磨き上げられた高級感のある木材。アンティーク調のランプが投げかける明かりが、ヨーロッパの由緒あるホテルのような雰囲気を醸し出している。
その廊下を歩きながら、青戸は屋敷に関するいろいろなことを説明してくれた。
彼の話によると、この屋敷は玄関ホールを中心として、大きく分けて四つの区画から成り立っているらしい。
先ほど食事をしたダイニングルームや応接間からなるパブリックスペースと、客人が使うための居室やバー、映像室などがあるゲストスペース。
住み込みの使用人が使う居室や水回り施設、厨房やランドリールームといった作業スペース。
そして、篁家の主人とその家族が使う居間や寝室、浴室などがあるプライベートスペースだ。
目的の書庫はプライベートスペースにあって、屋敷の主の書斎に隣接しているのだとか。
「この屋敷は、先代が日本で仕事をする際の拠点とするために建てたものです。ああ、申し遅れましたが、篁家は代々貿易商を営んでおります」
「貿易商……商社ということですか?」
「はい。タカムラインターナショナルは、食料品からジェット機まで、ありとあらゆる商品を取り扱っている総合商社でございます。東京の本社をはじめといたしまして、ロンドン、ヨーロッパ諸国、アメリカ大陸、中国、シンガポール、インドなど、世界各国に拠点がございます」
「タカムラインターナショナル!? ……そ、そうですか」
莉緒は急にどきどきしてきた胸を手で押さえた。
どうやら自分は、本当にとんでもないところへ来てしまったらしい。
タカムラインターナショナルといえば、知らない者などいないほどの大企業だ。このお屋敷を、まるで貴族のお城のようだと思ってはいたが、まさか世界に名だたる総合商社の経営者の自宅だったとは。
(そんな名家のご令息のお相手なんて、一介の図書館司書に務まるの……?)
前を歩く青戸の足が、重厚なアーチ形の扉の前で止まった。
「さあ、こちらでございます」
青戸が言って、手袋をはめた手で把手を引く。扉が開いた瞬間、莉緒は両手で口を押さえた。
「すごい……!」
自動点灯した明かりに浮かび上がったのは、床から天井まで、壁面いっぱいにそびえたつ木製の書棚。それらがぐるりと四方の壁を囲んでいて、中心に広く開いたスペースには、ゆったりくつろげるソファがいくつかと、丸いテーブルが置かれている。
莉緒は歩を進めると、部屋の中心に立って首を巡らせた。
とにかくものすごい蔵書の数だ。軽く見積もっても一万冊くらいはあるだろうか。少し確認できただけでも、国内で出版された書籍のほか、あらゆる言語の本がびっしりと詰まっていて、さながらミニ図書館といった具合だ。
書棚の前をゆっくりと進みつつ、青戸が言う。
「こちらの書棚は地震に備えまして、天井と床にアンカーボルトでしっかり固定されております。また、書物の劣化を防ぐため、常に室温二十度、湿度五十パーセントに保たれているのです」
「……なるほど。窓もありませんし、本には最適な環境ですね」
「さようでございます。中には大変貴重な書物もございますので、照明も紫外線カットの製品を使用しております」
貴重な書物――莉緒はごくりと唾をのんだ。これだけの蔵書家が所有する『貴重な書物』とは、一体どんなものだろう。
たとえば、活版印刷の技術が普及する以前に刷られた本とか、どこか外国の海軍の航海日誌とか。
そういった書物のコレクターは、世界じゅうに散らばる希少本をあらゆる方法で手に入れるのだと、以前に何かで読んだことがある。
契約職員としてかつかつの日々を送っている莉緒にとっては夢のような話だ。そんな珍しい本があるというこの書庫に入り浸って心ゆくまで本を読み耽ってみたい。完璧なまでに管理の行き届いた、居心地のいい自分専用の図書室があるなんて、これ以上の贅沢が存在するとは思えない。
それにしても、これだけの書物を所有している屋敷の主人――坊ちゃまのお父様とは、どんな人物なのだろう。俄然興味が湧いたので、勇気を出して青戸に尋ねてみる。
「差し支えなければ教えていただきたいのですが、こちらのご主人はどういった方なんですか?」
青戸執事は、その質問を待っていたとばかりに目を輝かせた。
「屋敷を守っておられる恭吾様は、篁家の跡取りでタカムラインターナショナルの副社長をしておられます。ほとんど身内のようなわたくしから申し上げるのもなんですが、容姿端麗、頭脳明晰にして大変お人柄のよい方です。学生時代は、飛び級を重ねて十七歳でMBAを取得、その後もご両親のお住まいになられている英国や諸外国と日本を行ったり来たりの生活ですので、英語をはじめ複数の語学に堪能でございます。そして何より、無類の本好きでいらっしゃる。こうして屋敷の中に書庫をお作りになるほどですので」
「は、はあ」
興奮した様子でまくし立てる執事の言葉に、莉緒はただふんふんとうなずいた。聞けば聞くほど坊ちゃまのお父様とは住む世界が違いすぎて、まともな受け答えもできない。
確かに、タカムラインターナショナルの御曹司ともなれば、世間一般とはかけ離れたハイスペックな人物でも不思議はなかった。しかし、莉緒とは本好きという共通点がある。それが唯一の救いだ。
「あの……まだお若い方ですよね?」
「はい。現在三十歳になります。中條様とはたったふたつ違いですので、きっと話がお合いになるでしょう」
ふたつ違い。そのことを聞いて少しだけホッとした。
でも、その歳で結婚してもう子供がいるなんて、さすが大企業の御曹司は違う、と妙に感心していたが、ふとあることに気づいて心の中で首を捻る。
(私、いつ自分の年齢を話したっけ……?)
『間もなく戻られると思いますので、こちらで今しばらくお待ちください』
そう青戸に促され、莉緒は書庫に隣接している書斎で、篁家の子息を待つことになった。
『坊ちゃま』はひとりでここへ来るのだろうか。それとも、屋敷の主人である篁氏と一緒に……?
できれば子息ひとりの方が気楽だが、未成年であれば親が同伴するのが普通だ。それに、『年齢が近い分、話が合うはず』と執事が言っていた以上、篁氏も一緒に顔を見せる可能性が高い。
部屋の中には、どこからともなく優雅なクラシックの曲が流れている。ソファは大変座り心地がいいし、茶系統の色でまとめられたインテリアの雰囲気もいい。
しかし。
初対面の人に会う時に、そうそう落ち着いてなどいられないものだ。坊ちゃまはともかく、一緒に会うことになるだろう篁氏とうまく会話が弾むのか、楽しみな気持ちより恐怖が先立ってしまう。
若くして大企業の副社長をしている優秀な人だから、自分にも他人にも厳しく冷酷かもしれない。甘えを許さず、自分の信念に絶大な自信をもち、プライベートには他人を簡単に踏み入らせない孤高の人――
莉緒は少しでも緊張を紛らわそうと、ソファから立ち上がって書斎の中を歩き回った。
二十帖ほどの広さの部屋には、いかにも書斎然とした大きな机と、立派な革張りの椅子、二人掛けのソファ、猫脚になった赤いビロード張りの椅子とガラスのテーブルが一対置いてある。
さらに、先ほど見た書庫ほどの大きさはないが、同じようなデザインの書棚がこちらにもふたつあった。その書棚に近づいて、上から順にタイトルを見ていく。
ぎっしりと詰まっているのは、外国語の本や経営学、法律関係など、商社の仕事に関係していそうな小難しい本ばかりだ。
その中に唯一、『古竜の眠るほこら』というファンタジー風の本があった。色褪せた赤い布張りの背表紙に金で箔押しされたタイトルを、半ば無意識のうちに人差し指でなぞる。
と、そこへ。
背後で扉が開く音がして、莉緒はびくりと肩を震わせた。
「失礼」
低く、張りのある男性の声が後ろで響く。待ちわびた人物がやっと現れたらしい。
書斎の入り口を振り返った莉緒は、そこにいた男の美しさにハッとした。
すらりとした手足に、広い肩幅。艶のある黒髪をきっちりセットし、見るからに仕立てのよいダークスーツを華麗に着こなしている。精悍な男らしい顔立ちには、人を寄せ付けない雰囲気があった。
やはり予想していたとおり冷酷な人物かもしれない――莉緒は瞬時に身をこわばらせた。
「お待たせしまして申し訳ありません。中條さんですね?」
彼はドアを後ろ手に閉めながら部屋へ入ってくる。
「はじめまして、中條莉緒と申します。現在、図書館司書をしております」
莉緒は両手をきちんと前で揃えて深く腰を折った。おそらくもう、審査は始まっているのだろう。ここで働くと決めたわけではないが、第一印象を悪くしたくはない。
試されていることをひしひしと感じつつ、ゆっくりと頭を上げる。しかし――
男の顔がふたたび目に入った途端、どきりと胸が鳴った。
第一印象で『冷たそうな人』に見えた彼は、陽だまりのように穏やかな笑みを浮かべている。切れ長の二重まぶたは優しく弧を描き、横に広がった形のいい唇からは白い歯が零れていた。
「篁恭吾です」
彼が一歩こちらに近づいて、目の前に大きな手を差し出す。莉緒はそれをおずおずと握った。
がっしりした体温の高い手だ。右手で握った莉緒の手の上に、さらに左手をかぶせてくるので思わず赤面してしまう。
こうして見上げると、彼がかなり背の高い人だということがわかった。莉緒自身は日本人女性の平均と同じくらいの身長だから、頭ひとつ分は高い彼の背丈は、百八十センチを優に超えているだろう。
遥か高い位置からまっすぐに向けられる目の色は、一見茶色に見えるが、ほのかに緑がかっていた。ヘーゼル、というのだろうか。そういえば、顔立ちもどことなく西洋風な気がする。
(素敵な人……こんな人が、この世の中にいたんだ)
そういえば、小さな頃にこういう色の目をした友達と遊んだ記憶がおぼろげに残っている。学校の友達ではなかったと思うし、顔は覚えていない。その子のきれいな目が子供心に羨ましくて、至近距離で見つめたものだ。そう考えると、ヘーゼルの瞳というのもさほど珍しくはないのかもしれない。
美しい恭吾の目を、もっとじっくり見てみたかったが、さすがに大人になった今ではできるはずもない。
「今夜、あなたに会えるのをとても楽しみにしていました」
「は、はい。ありがとうございます」
『楽しみにしていた』なんて、たかがアルバイト、しかもまだ決まったわけでもない相手には大げさすぎて、どぎまぎしてしまう。それに、読み聞かせの相手は篁恭吾本人ではないはずだ。
そういえば、肝心の『坊ちゃま』は一体どこにいるのだろう。今夜の主な目的は彼に会うことだった気がするが……
「あの――」
恭吾がなかなか右手を解放してくれないので、莉緒は身じろぎした。すると、それに気づいた彼が、ぱっと手を離す。
気まずい空気が流れるのを阻止しようと、莉緒は素早く質問を投げた。
「そっ、それで、読み聞かせのお相手というのは、どちらにいらっしゃるのでしょう?」
きょろきょろしていると、恭吾が訝しげな目を向けてくる。
「読み聞かせ?」
「はい。お子様の朗読係を探していらっしゃると」
「ああ、朗読を依頼したのは私です」
(……えっ?)
莉緒は目をまん丸に見開いて、目の前にいる男の端整な顔をまじまじと見る。
彼は至って真面目な表情だ。冗談を言っているわけではなさそうだが、大人相手の専属朗読係なんて聞いたことがない。少なくとも、現代日本では。
「あの、では、執事の方が『坊ちゃま』とおっしゃっていたのは――」
「私のことです。彼には幼い頃から面倒を見てもらっているので、成人したあともその呼び方が抜けないのでしょう」
恭吾は笑って、少し困ったようにはにかんでみせる。恥ずかしさと気まずさのあまり、莉緒は下を向いてしまう。
「すみません、私てっきり……」
「あなたが驚くのも無理はありません。本を読んでもらうのは小さな子供だと、相場が決まっていますから」
莉緒は眉根を寄せて首を横に振った。
「い、いえ、そんな。ご不快な気分にさせてしまったのでしたら、申し訳ございません」
「不快になど思っていませんよ。専属の朗読係を雇うのは、幼い頃からの夢でした。そういった意味では、私の心は子供時代に置き去りにされたままなのかもしれません。――どうぞおかけください」
莉緒にソファを勧めると、彼はゆっくりと部屋を横切った。
スーツのジャケットを脱ぎ、壁のフックにかけて腕まくりをする。そして、そのすぐ近くにあったらしいスピーカーをオフにして、ソファの前までやってきた。
「少し家具の配置換えをします。いえ、あなたはそのままで」
莉緒の動きを制した彼が、ガラスの天板が載った猫脚テーブルをソファの正面に置く。それから、テーブルを挟んでソファと九十度の角度になるよう猫脚椅子をずらした。さらに書棚の前まで移動した彼は、その場にしゃがみ込んで、先ほど莉緒が背表紙を指でなぞっていた『古竜の眠るほこら』を引っ張り出す。
莉緒はその一挙手一投足を見守っていた。
彼は体格がいいだけでなく、姿勢もいい。何をするにも落ち着いていて所作が美しいので、ずっと見ていられそうだ。
育ちのよさとは、こういったところにも表れるのだろう。そして何より端整な顔立ちをしているので、映画のワンシーンでも見ているような気分になる。
戻ってきた恭吾は猫脚椅子に座って、赤い布製の本をぱらぱらとめくった。
「仕事から帰った夜は、大抵こうして本を読みます。しかし、わがままを言えば、自分の目で字を追うだけではなく、誰かの声で語り掛けてもらいたい。一日の終わりのゆったりとした時間に、気に入った話を、気に入った声の朗読で聞く。最高の贅沢だとは思いませんか?」
そう言って、恭吾はにっこりと微笑む。
その顔があまりにも幸せそうだったので、胸がぽうっとあたたかくなるのを感じた。
彼の考えはよくわかる。優れた物語は何度でも読み返したくなるが、たまには違った角度で楽しんでみたい。
彼は本当に本が好きなのだ。だから読書の時間を大切にし、朗読という手段によって新たな扉を開こうとしているのではないだろうか。
「篁さんのお気持ち、よくわかります。私も寝る前には好きな本を読みます。仕事で本漬けの毎日を送っているのに、それこそお気に入りのものを、何度も何度も。……変ですよね」
莉緒は照れ隠しに軽く笑い声を立てた。それを見た恭吾が、嬉しそうな笑みを浮かべる。
「何もおかしくはありませんよ。どうやら私たちは同じタイプの人間らしい。ちなみに、私は本を持ち歩く時は必ず袋に入れます」
彼の言葉を聞いた途端、莉緒はあっ、と声を上げた。
「私も一緒です! バッグの中でページがめくれたり、ぐちゃぐちゃになったら困るので、必ず袋に入れています。あとは、作品に合ったカバーを自作してみたり――」
ふんふん、と恭吾がうなずく。
「自分の本棚も、作者名ごとに並んでないと嫌なんです!」
興奮のままに言い切ると、恭吾がくっくっと笑って、額を手で押さえた。気持ちが逸るあまり拳を前で握っていたことに気づき、莉緒は慌ててその手を下ろす。
「あなたの言っていることがわかりすぎて。失礼」
彼はまだ笑っている。その楽しそうな姿を見ているうちに、莉緒の頬も勝手に緩んでいき、気づけば一緒に笑っていた。
(篁さん、こんなふうに笑うんだ)
一気に親しみが湧いて、胸にあたたかいものが広がる。今、この空間に彼と一緒にいることが、なぜだか嬉しい。
それは、とても不思議な感覚だった。恭吾には今夜はじめて会ったのに、まるで古くからの知り合いのような、これまでずっと自分のそばにいた人のような気がしてくる。
彼のために毎晩本を読んでみたい。大好きな物語について一緒に語り合えたら、どんなに素敵だろう……
ひとしきり笑ったあと、彼は本を閉じてテーブルに置いた。
「莉緒さん」
いきなり下の名前で呼ばれて、どきっとする。
「は、はい。なんでしょう」
「今日は試しに、この本を朗読していただけませんか?」
テーブルの上に置いた赤い表紙の本を、彼がくるりと反転させた。
「……『古竜の眠るほこら』」
莉緒が呟いたタイトルに、恭吾はこくりとうなずく。
「子供の頃から、ずっとお気に入りの本です。どうぞ、お手に取ってご覧ください」
「ありがとうございます」
そう言って、テーブルの上の古めかしい本を慎重に手に取る。
日焼けした背表紙はだいぶ色褪せていたものの、表紙と裏表紙は比較的鮮やかな赤色を保っていた。そこに文字は書かれておらず、古いデザインの西洋風のドラゴンが火を噴いている図案が、金で箔押しされているだけだ。
書棚にしまわれている時はわからなかったが、背表紙が色褪せているだけでなく、小口も擦り切れて中の紙もだいぶ手垢で汚れている。本当に繰り返し読んでいるのだろう。彼のような愛書家が、こんなにも読み続けている本とはどんなお話なのか、俄然気になった。
まずは表紙をめくってみる。扉部分には、タイトルのほかに出版社、それと作者の名前があるが、いずれも知らない名だ。作者は名前からして、西洋人の女性らしい。
「二五九ページの五行目から読んでください」
「わかりました」
恭吾に言われて、莉緒はページをぱらぱらとめくった。
どういったお話かも知らずにいきなり読むのは、正直なところかなり難しい。登場人物の性格と背景、そこまでの話の流れを理解していないと、どんな抑揚やテンションで読めばいいかわからないからだ。
目的のページに指を挟んだまま、少し前までさかのぼって素早く文字に目を走らせる。
そのシーンの登場人物は、ひねくれ者の初老の男と、十代に入ったばかりで生意気盛りの少年。ふたりは病に臥せる少年の妹を助けるため、ほこらに棲む竜の力を借りようとやってきたところだ。少年の懇願に対して古の竜の神は、『妹の命を救ってほしくば、なぞなぞに答えろ』と恐ろしげな目つきで言う。
ざっと目を通し終わると、莉緒は何度か深呼吸をした。
「では、読みます。『古竜の眠るほこら』作、ルイーズ・ダンカン。翻訳、笹川圭子」
応援ありがとうございます!
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