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1巻
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あおいはテーブルに手をつき、丁寧に頭を下げた。
「勝負ありがとうございました。蒼也さんもすごかったですよ。私が今までに対戦した人の中で一番強かったかも」
それに楽しかった。会話もよく弾んだし、最後までおいしく酒がのめたからだ。
「え? 勝負あったんです? どっちが勝ったんですか?」
優愛がパッとこちらを向いた。のんだ数をカウントしていたはずの彼女は、途中から審判そっちのけで向こうの会話に夢中になっていたのだ。
あおいはガッツポーズを取ってみせた。
「優愛ちゃんのことは私が守ったからね!」
「あおいお姉さま、素敵~~!」
互いに伸ばした両手を握り、きゃあきゃあと声をあげる。
「盛り上がってるところ悪いんだけど、そろそろ店を出ようか。あんまり長居しちゃ悪いし」
「じゃあ私たちも」
蒼也が伝票を手に会計に向かったため、あおいも彼に続く。立ち上がった彼は見上げるほど背が高かった。バレエシューズを履いているあおいの目線が、彼の肩甲骨のあいだにある。おそらく一八五センチくらいか。
蒼也の大きな背中の陰からレジを覗き、思わず笑ってしまった。表示された金額はたった六人でのんでいたとは信じがたいものだった。どちらもなかなか音を上げずに杯を重ねた結果だ。
「部長、経費で落ちますか?」
後ろからこそこそとやってきた部下の男性に、蒼也が唇を曲げてみせる。
「ダメだな。ここ最近は経理がうるさいんだよ。お前らふたりとも四千円な」
たはー、とうなだれて戻っていった男性が、テーブルで代金を徴収している。
「じゃ、私の分はこれで」
あおいは財布から取り出した一万円札二枚を泣く泣く差し出した。わけあって、あおいの懐具合は同年代の女性と比べるとかなり苦しい。今日はたまたま銀行から生活費を下ろしたばかりだったため、財布にたくさん入っていたのだ。
「悪い。あとでいい?」
蒼也は長財布をジャケットの内ポケットにしまい、テーブルに向かった。
「みんな帰るぞー」
「はーい」
蒼也の指示に従って、全員がぞろぞろと店をあとにする。優愛と美尋までが彼の部下みたいだ。
「はい、さっきのお金」
店を出たところで、あおいは折りたたんだ一万円札を蒼也の胸に押しつけた。なんとなく受け取ってくれない予感はしていたが、案の定、彼は駅のほうに足を向ける部下たちを見送っていて気づかないふりをしている。
「そ、う、や、さん」
一万円札を握った手でトントンと彼の胸を叩く。蒼也はやれやれといったふうにこちらを見た。
「じゃあ五千円だけもらっていいかな」
「そんなわけにはいきませんよ。私のほうが多くのんでるんだし」
「勝負を持ちかけたのは俺のほうだよ」
ポケットに両手をしまい込んだ蒼也が目じりを下げる。
これは本気で受け取らないパターンだ。たった数時間前に出会って、たまたま一緒にのんだ人にそこまでしてもらう理由がない。
「じゃ、あおいさん。お先に帰りまーす」
声がして振り返ると、美尋が手を振っている。
「あ、うん……! 気をつけてねー!」
「お前ら送りオオカミになるなよ!」
蒼也が店の前から動きもせずに、彼らの後ろ姿に声をかけた。
「私も帰らなきゃ! 先輩、これから蒼也さんとはしごしたりしませんよね?」
男性のひとりに腕を取られた優愛が、後ろ髪を引かれるようにあおいたちを振り返る。
「しないから安心して。ほら、早く行かないと電車なくなっちゃうよ!」
「ヤバい、ヤバい! お疲れ様で~す!」
優愛がぱたぱたと走っていき、店の周りがやっと静かになった。実家暮らしの彼女は家が遠く、宴会の途中で先に帰ることが多いのだ。
彼らの姿が見えなくなると、あおいはくるりと振り返って代金を突き出した。
「はい、蒼也さん。受け取ってくれないと本当に困ります」
「今度会った時でいいから」
蒼也が薄く笑みを湛えてあおいの手を押し戻す。あおいはため息をついた。
「またそんなこと言って。次にいつ会えるかわからないでしょう?」
「そうか。それは困るな。じゃあ今からちょっとだけ付き合ってよ」
「はい?」
しばらく押し問答したのち、なんだかんだと言いくるめられて、気づけばタクシーに乗っていた。
十分ほどタクシーの後部座席で揺られてやってきたのは、繁華街の裏通りにある落ち着いた雰囲気のバー。看板らしい看板もなく、こんな店よく知っているなあ、と感心する。
目立たない木製のドアを開けると、カウンターの中にいるマスターが小さく頷いた。店内は薄暗く、木目と黒を基調とした内装が大人っぽい。こぢんまりした店内にはスローテンポのピアノジャズが流れている。
客はまばらで、男性のふたり組とひとり客が数人いるだけだった。皆静かに酒を楽しんでおり、口髭を生やした中年のマスターが熟練した手つきでシェイカーを振っている。
蒼也がボックス席に着き、あおいはその隣に座った。座席はL字型になっているため、小さな声でもじゅうぶん会話ができそうだ。
「こういうお店、初めて来ました」
あおいは両手を膝に置き、蒼也の耳元に囁いた。借りてきた猫みたいな気持ちだ。会社の同僚と仕事帰りにのむのは居酒屋と決まっていて、こういう静かなバーは緊張してしまう。
蒼也は笑い、テーブルに両肘をついてあおいの顔を覗き込んできた。
「強いからひとりでこういう店に来るのかと思ってた。で、何にする?」
「えーと、おすすめはなんですか?」
「んー……せっかくだからテキーラいっとく? 明日休みだろう?」
「土日休みです。蒼也さんも?」
「そうだよ。じゃ、決まりだな」
蒼也が手を挙げると、カウンターの中にいた女性店員がやってきた。黒色のベストにパンツ、えんじ色のネクタイをしている。
注文から五分と経たずにグラスがふたつ運ばれてきた。琥珀色の液体が満たされたショットグラスの上にはライムが載せられ、グラスのふちに塩がついている。
「はい、乾杯」
「乾杯」
ライム片手にグラスを指先で持ち上げる蒼也に、あおいも倣う。テキーラは過去に一度のんだだけで、作法もよく知らない。蒼也の真似をして一気にグラスをあおり、すぐさまライムをかじる。
「ん~~~」
喉を駆けおりる刺激が日本酒の比じゃない。口から胃にかけてカッと熱くなり、目をぱちぱちとしばたたく。
「効くなあ。久々にのんだ」
「いいですね。もう一杯いきたくなります」
「いくか? いこう」
蒼也が店員を呼び、今度はつまみになるものも頼んだ。あまり頻繁に呼ぶのも悪いので、テキーラは一度に三杯頼む。
二杯目をのんだあたりで、なんだか気持ちがハイになってきた。
「ああ、おいしい。楽しいなあ……」
はーっと息を吐き、すでにかじってあるライムをチュッと吸う。あおいの家はここからそう遠くないため、終電まではあと一時間ほどある。ここまでのんでしまったからには、時間いっぱいまで酒を楽しみたいところだ。
蒼也が頬杖をついてこちらを見る。
「本当、うまそうにのむよな。やっぱり君とは気が合いそうだ」
「まだわかりませんよ。お互い何も知らないわけですし」
「知りたいと言ったら?」
思いがけず蠱惑的な目で見つめられて、あおいの心臓がドキンと跳ねた。きれいな二重瞼にすっと通った鼻筋。ふっくらと濡れた唇。滅多にお目にかかれないような美丈夫の視線が、あおいの顔のパーツの上を行ったり来たりしている。
(えっと、これは……まさか、口説こうとしてる?)
ふっ、とあおいは噴き出した。
「そういう冗談はシラフの時に言うものですよ。ほらほら、蒼也さんももっとのんで」
かんぱーい、と勝手に三杯目のショットグラスを鳴らして、琥珀色の液体を喉に流し込む。ああ、最高だ。こうしてずっと朝までのんでいたい。
蒼也も三杯目のショットグラスを素早くあおった。その前にちょっと不満げに唸るような声が聞こえたが気のせいだろう。イケメンはそんなこと言わないし、だいいち彼のような男は優愛みたいなかわいい子を選ぶはずだ。
瞼を刺激する明るい日差しが、あおいをまどろみの世界から呼び起こそうとしている。
いつもと違う部屋の匂い。温度。湿度。肌に触れる上質なリネンの正体を知りたいような、もうしばらく寝ていたいような……
住み慣れた自分の部屋にしてはやけに明るかった。休日はゆっくり寝ていたいから遮光カーテンをぴっちり閉めて布団に入るのに、昨夜は忘れたのだろうか。酔っぱらってそのまま眠ってしまったとか……?
「う……ん? ……んんッ?」
パチッと目を開けて頭を起こす。ベッドのスプリングが揺れた。いつも寝ているせんべい布団じゃないことに気づき、違和感のある自分の身体を見下ろしてみる。
「……えっ。えっ? えっ? ええっ? 嘘。何が起きた?」
がばりと飛び起きて自分の身体を呆然と眺める。未だ状況が読めないながらも、大変なことをしでかしたのはすぐにわかった。身体を覆うものが、小さな布切れひとつない。念のため、おそるおそるベッドの脇にあるごみ箱を覗いてみると――
「ひゃあーーッ!!」
そこにあった情熱的な一夜の残骸に、素早くベッドに突っ伏す。
やってしまった。
やってしまった。
しかも避妊具が三つも。ちょっと盛りすぎなのでは!?
(嘘でしょ? 信じられない……! この世に生まれ落ちて約三十年。真面目に地味に生きてきた私が、行きずりの男とワンナイトだなんて……!!)
「うう~~、ちょっと、ちょっと~~……」
裸のままうずくまり、シーツを握りしめてぶるぶると震える。テキーラを四杯のんだところまでの記憶は確かだ。そのあと五杯目を頼んだところで記憶がプッツリと途切れている。
いや、こんなことをしている場合だろうか。
「……って、ここどこなの!? ――いたぁっ!」
慌ててベッドから下りようとしたら、シーツが足に絡まって転げ落ちた。
「いった~~……もう!」
起き上がってバッグを探そうと一歩進み、引き返してシーツを身体に巻きつける。もしかしたら、まだ部屋のどこかに昨夜のお相手がいるかもしれない。お相手といっても、それが誰なのか想像に難くないのだけれど。
窓際のソファの上に、ベージュのバッグが置いてあった。あおいが着ていた服も丁寧に畳んである。スマホを取り出してマップを開くと、ここが会社と自宅とを三角で結んだ一角であることがわかる。
「セレネタワートウキョウ……?」
ズームしたところ、どうやらシティホテルの一室のようだ。
それがわかったところでようやく気づいたが、室内はびっくりするくらいに豪華だった。ベッドはクイーンサイズで、藍色を基調としたシンプルなデザインの壁と、チャコールグレーのソファと椅子。壁のテレビモニターは六〇インチだろうか。すべてのインテリアが都会的で、洗練されている。カーテンの隙間からちらりと見えるのは、目もくらむような都会のビル群。
おそらくラグジュアリー感を売りにした高層階のダブルルームなのだろう。窓に近寄れば朝日を浴びる高層ビルを睥睨できそうだ。
服の上には昨夜渡せなかった二万円が置いてあった。このホテル代も出してもらったのだろうし、ずいぶん借りができてしまったようだ。『今度会った時』なんて言っていたけれど、次に会ったらいくら返せばいいのかと考えただけでゾッとする。
洗面所も浴室も覗いてみたが、お相手のイケメンはもういなかった。連絡先を書いたメモもなければ、名刺もない。本当に一夜限りの、後腐れのない行為だったのだろう。
「慣れてるんだなあ……」
なんとなくがっかりしている自分に驚いた。未だ身体の奥に残る余韻からして、優しく抱かれたことは疑いようもない。何から何まで完璧なあの人を、一周回って尊敬する思いだった。
あおいが暮らすアパートは会社から電車で二十分の距離にある。さっきまでいたホテルからも二十分。地下鉄で自宅に戻った時には、午前十時を少し回っていた。
駅から歩いて十五分の静かな住宅街にある、家賃十万円の古い3DK。これがあおいたち家族の城だ。
「ただいまー……」
あまりにばつが悪くて小声でそろりとドアを開ける。いつもならチャイムを鳴らすところだが、今日は鍵を開けて入った。いつの間にか帰っていた体を装うつもりだったのに、妹の楓が部屋から飛び出してくる。
「お姉ちゃん! おかえり。どこに行ってたの?」
「あ、ああ~、えーと、飲み会のあと後輩のお宅にお邪魔して泊まらせてもらって……」
「後輩って誰? 優愛ちゃん? いいなあ、私も行きた~い!」
顔を輝かせて腕を組んできた妹を、やんわり押し戻す。普段からスキンシップの多い姉妹だけど、今日はダメだ。男の匂いがついているかもしれない。
「あなたは受験生でしょ」
「ええ~、ケチだなあ。おねぇ顔赤いよ。まだ酔ってんじゃないの?」
「姉貴はのんだって赤くならないだろう?」
ダイニングキッチンから訳知り顔で出てきたのは弟の漣だ。大学に入ってから急に大人びた弟は、サークルの飲み会だ、バイトだ、クラブだ、と毎日忙しくしている。
あおいはハッとした。
(まさか、漣はすでに女の子と……?)
エプロン姿でニヤニヤしている漣。昨夜あおいが行きずりの男と一夜をともにしたことに気づいている、とでもいった表情だ。
「あんた、気をつけなよね」
「何が」
「その……女の子といろいろ……間違いを起こさないようにさ」
漣は笑いながらダイニングキッチンへ戻り、慣れた手つきで鍋を火にかける。
「そういうことする時はちゃんと対策してますって。オカンかよ」
「オカンで悪かったわね。心配もするよ。私はあんたたちの母親みたいなものなんだから」
後ろからやってきた楓が、ポンとあおいの肩を叩く。
「ちゃんと模試でA判定もらってくるから。優愛ちゃんのお宅訪問の件、よろしくね~」
「はいはい、前向きに検討します」
「あーっ、その言い方!」
「姉貴、しじみの味噌汁のむだろ?」
「もちろん」
漣に言われて振り返る。お椀に注がれた湯気の立つ味噌汁のおいしそうなこと。楓は部屋に戻ったようだ。
「おいしそう~。漣はやっぱり気が利くわ。何から何までやってくれてありがとう」
「いいよ。のんだ翌朝はしじみの味噌汁って決まってるから、昨日の夜作っておいたんだ」
得意げに胸を反らす弟が頼もしい。立ったままひと口啜ると、のみすぎて疲れた胃に塩分がしみわたる。
「ああ、おいしい。幸せ~……」
漣が火を止めてお椀をもうひとつ取り出す。
「俺もこれから朝飯なんだ」
「じゃあ一緒に食べよっか」
脱いだスーツの上着をダイニングの椅子に掛け、冷蔵庫から作り置きのおかずと漬物のタッパーを取り出した。毎日こんな感じで、あおいはもう十年以上も賑やかな家族の『お母さん』をしている。最近ではふたりが手を離れつつあるのがちょっと寂しい。ふたりの結婚式ではきっと泣いてしまうだろう。
月曜の朝はちょっぴり憂鬱な気持ちで迎えた。外は冷たい雨模様で、玄関脇のコート掛けから、晴雨兼用の紺色のコートを取って羽織る。
つい先日まではブラウスにカーディガン一枚で過ごせたのに、十一月も下旬となるとさすがに寒さも増してきたようだ。来月はもうクリスマス。バイトや遊びに忙しい漣はともかく、今年は楓と家で過ごすことになりそうだ。
(髪を下ろすのなんて久しぶりだなあ)
狭い玄関でパンプスを履き、壁にかかった鏡で前髪を直す。いつもはゴムでひとつに縛るだけの髪を、今日は下ろしてみたのだ。明るめの栗色をした髪は自毛で、学生時代は『染めているんじゃないか』と先生によく怒られた。くるりとカールしたくせ毛の先を指で弄る。
髪を下ろしたのは、何も特別な心境の変化があったからじゃない。寒くなってきたから、といえばそうだし、同じ髪型に飽きたからともいえる。自分では、ただなんとなくのつもりだけれど、優愛には何か言われるかもしれない。
「うーん……」
(やっぱり結んでいこう)
手首にはめてあったゴムで、いつもどおり緩めに結ぶ。
「漣ー? 行ってくるねー」
ダイニングのドアが勢いよく開いた。弟は今日、午後からの講義らしい。
「行ってらっしゃい。別に帰ってこなくてもちゃんとやっとくから」
ドアから顔だけ出した弟はニヤニヤしている。笑いながらパンチを食らわす手ぶりをして、あおいは外に出た。
フジチョウ建設の最寄り駅から職場までは、普通に歩いて八分で着く。いつもよりのんびり歩いて到着し、ゆっくりと階段を上って資産運用部のある五階に着いた。
きょろきょろとあたりを見回し、目の前にある給湯室へ飛び込む。後ろ手に閉めたドアにもたれかかり、ホッと息をついた。
(よかった……! ふたりに会わなかった)
ふたり、とはもちろん優愛と美尋のことだ。金曜の夜、あんなふうに蒼也と最後まで残っていたのだから、『あの後どうなったのか』と絶対に聞かれるだろう。適当にサクッとのんで帰ったと言えば済む話だが、嘘をつくのはあまり得意ではない。
「わっ」
その時、急にドアが開いて後ろに倒れそうになった。
「先輩……! びっくりしたぁ!」
「びっくりはこっちだよ。……って、寄りかかってた私が悪いよね。ごめん」
やってきたのは優愛だ。今日もきれいに巻いた髪に、ほわほわした起毛がかわいらしいピンクのニットを着ている。
優愛が給湯室に入ってきてドアを閉めた。
「私のほうこそごめんなさい。それで、それで? あのあとどうなったんですかぁ~? もしかしてお持ち帰りされたとか!?」
「う……」
茶色のカラコンを入れた目をキラキラと輝かせる優愛に、あおいは尻込みした。赤面しそうな予感がして、急いで背を向けて棚からマグカップを取り出す。
「お、お持ち帰りなんてされるわけないでしょ。コーヒーでいい?」
「お願いします。え~、でもいい雰囲気だったじゃないですか」
「そんなことないよ。あれからちょっとお酒のんで終電で帰ったけど、連絡先すら交換しなかったし。ほらほら、もう始業時間だから行こう」
ごめん! と心の中で謝る。でも、連絡先を知らないのは嘘じゃない。蒼也にとっては本当に興味がなかったのだろう。
「咲良ー、どこ行ったー?」
コーヒーを手に給湯室のドアを開けると、課長の岩本が優愛を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ヤバッ。課長に呼ばれてるんだった。請求書の金額が違ってたって、めちゃくちゃ怒ってるんですよ」
優愛が廊下に出しかけていた足を引っ込める。
「訂正すればいいんじゃないの?」
「それが、先方に送ったあとで発覚したみたいで……」
「うわ……一緒に怒られようか? 一応営業部の主任だし」
「やったぁ、先輩優しい~~」
優愛が甘えた声でしなだれかかってくる。
「咲良」
岩本が急にドアの前に現れたため、優愛が飛び上がった。
「課長……!」
「お前また須崎に甘えようとしてるな? 須崎もダメだぞ。お前が庇ってたらいつまでたってもひとり立ちできないだろ。はい、おいで」
クイクイと厳しい顔つきで手招きされて、優愛が泣きそうな顔で岩本についていく。
「先輩、さっきのことあとでまた教えてくださいね! 約束ですよ~~!」
振り返って手を振る優愛を、あおいは苦笑いとともに見送った。この部署で唯一彼女のかわいさにほだされないカタブツの課長は、あおいもあまり得意ではない。でも今は、ちょっと救われた気分だった。
「おはようございます」
挨拶とともに部署へ入ったあおいは、コーヒーをデスクに置いてからロッカーにコートとバッグをかけて戻った。今日は例の地主にパンフレットとプレゼン資料を持っていく日だ。積算部に依頼した概算の見積書ができるまでに数日かかるため、熱が冷めないように顔を繋いでおく必要がある。
地主の山田氏は一般的な商業ビルの線で考えていたようだが、対象の土地が駅から少し離れた幹線道路沿いにあるため、複合商業施設を提案した。土地の広さも容積率も申し分ない。
あおいとしては、スーパーと衣料品店、スポーツジムの三階建てがいいように思う。小さなスペースが残ったら歯医者やリズム教室、塾などを入れてもいいかもしれない。
敷地内には芝生の広場を設けて、そこでイベントを開いたりキッチンカーを呼んだりできるといい。きっと家族連れで賑わうことだろう。
(家族連れか……いいなあ)
複雑な家庭に育ったあおいは、家族揃ってどこかへ出かけた思い出がほとんどない。唯一記憶に残っているのは、弟と妹が生まれる前に一度だけ連れていってもらった遊園地。
その頃の両親はまだ仲がよく、夏休みの自由研究で賞を取ったご褒美にとねだったのだ。あおいが思春期に近づくにつれて母と父のあいだには喧嘩が増えていったけれど、父の様子がおかしくなる前はそれなりに幸せだった。
(あ……)
幸せそうな家族を思い浮かべると、なぜか蒼也の顔が頭に浮かんだ。背が高く体格のいい彼なら、私服も素敵だろう。意外と小さな子を抱いている姿も様になるかも……
「先輩。せーんぱい!」
肩を叩かれてびくりとする。優愛が戻ってきて隣の席に座った。
「おかえり。お説教終わったの?」
「やっと終わりましたよ~~。先輩がボーッとするなんて珍しいですね」
「お疲れ様。ちょっと考えごとしちゃって」
ふふ、と笑ってごまかしつつ、資料の印刷ボタンをクリックする。
あのワンナイトの翌朝から、蒼也のことがたびたび頭にチラついて困っていた。風呂に入っている時も、食器を洗っている時も、通勤のあいだにも。それでも脳内で勝手にリフレインされるのがベッドシーンではなく、楽しく酒をのんだ時のやりとりであることには安心感を覚えていた。
(考えてみれば、あの遊び人がいいお父さんになるはずがないしなあ)
勝手に漏れ出たため息は、何を血迷っているのか、という自分への戒めだ。確認を終えたプレゼン資料の印刷を続けながら、優愛のほうに身体を寄せる。
「ところで課長、大丈夫だった?」
「大丈夫じゃないですよ。課長ったら、めちゃくちゃ言い方キツいんです。さっきだって、私のことをチャラチャラしてサボってばかりいるって……」
「そっかあ、大変な目に遭ったねえ」
すんすんと鼻を啜り出した優愛に、ポケットから取り出したハンカチを渡す。
「須崎~、優愛ちゃんを泣かすなよ」
「え? 私?」
「勝負ありがとうございました。蒼也さんもすごかったですよ。私が今までに対戦した人の中で一番強かったかも」
それに楽しかった。会話もよく弾んだし、最後までおいしく酒がのめたからだ。
「え? 勝負あったんです? どっちが勝ったんですか?」
優愛がパッとこちらを向いた。のんだ数をカウントしていたはずの彼女は、途中から審判そっちのけで向こうの会話に夢中になっていたのだ。
あおいはガッツポーズを取ってみせた。
「優愛ちゃんのことは私が守ったからね!」
「あおいお姉さま、素敵~~!」
互いに伸ばした両手を握り、きゃあきゃあと声をあげる。
「盛り上がってるところ悪いんだけど、そろそろ店を出ようか。あんまり長居しちゃ悪いし」
「じゃあ私たちも」
蒼也が伝票を手に会計に向かったため、あおいも彼に続く。立ち上がった彼は見上げるほど背が高かった。バレエシューズを履いているあおいの目線が、彼の肩甲骨のあいだにある。おそらく一八五センチくらいか。
蒼也の大きな背中の陰からレジを覗き、思わず笑ってしまった。表示された金額はたった六人でのんでいたとは信じがたいものだった。どちらもなかなか音を上げずに杯を重ねた結果だ。
「部長、経費で落ちますか?」
後ろからこそこそとやってきた部下の男性に、蒼也が唇を曲げてみせる。
「ダメだな。ここ最近は経理がうるさいんだよ。お前らふたりとも四千円な」
たはー、とうなだれて戻っていった男性が、テーブルで代金を徴収している。
「じゃ、私の分はこれで」
あおいは財布から取り出した一万円札二枚を泣く泣く差し出した。わけあって、あおいの懐具合は同年代の女性と比べるとかなり苦しい。今日はたまたま銀行から生活費を下ろしたばかりだったため、財布にたくさん入っていたのだ。
「悪い。あとでいい?」
蒼也は長財布をジャケットの内ポケットにしまい、テーブルに向かった。
「みんな帰るぞー」
「はーい」
蒼也の指示に従って、全員がぞろぞろと店をあとにする。優愛と美尋までが彼の部下みたいだ。
「はい、さっきのお金」
店を出たところで、あおいは折りたたんだ一万円札を蒼也の胸に押しつけた。なんとなく受け取ってくれない予感はしていたが、案の定、彼は駅のほうに足を向ける部下たちを見送っていて気づかないふりをしている。
「そ、う、や、さん」
一万円札を握った手でトントンと彼の胸を叩く。蒼也はやれやれといったふうにこちらを見た。
「じゃあ五千円だけもらっていいかな」
「そんなわけにはいきませんよ。私のほうが多くのんでるんだし」
「勝負を持ちかけたのは俺のほうだよ」
ポケットに両手をしまい込んだ蒼也が目じりを下げる。
これは本気で受け取らないパターンだ。たった数時間前に出会って、たまたま一緒にのんだ人にそこまでしてもらう理由がない。
「じゃ、あおいさん。お先に帰りまーす」
声がして振り返ると、美尋が手を振っている。
「あ、うん……! 気をつけてねー!」
「お前ら送りオオカミになるなよ!」
蒼也が店の前から動きもせずに、彼らの後ろ姿に声をかけた。
「私も帰らなきゃ! 先輩、これから蒼也さんとはしごしたりしませんよね?」
男性のひとりに腕を取られた優愛が、後ろ髪を引かれるようにあおいたちを振り返る。
「しないから安心して。ほら、早く行かないと電車なくなっちゃうよ!」
「ヤバい、ヤバい! お疲れ様で~す!」
優愛がぱたぱたと走っていき、店の周りがやっと静かになった。実家暮らしの彼女は家が遠く、宴会の途中で先に帰ることが多いのだ。
彼らの姿が見えなくなると、あおいはくるりと振り返って代金を突き出した。
「はい、蒼也さん。受け取ってくれないと本当に困ります」
「今度会った時でいいから」
蒼也が薄く笑みを湛えてあおいの手を押し戻す。あおいはため息をついた。
「またそんなこと言って。次にいつ会えるかわからないでしょう?」
「そうか。それは困るな。じゃあ今からちょっとだけ付き合ってよ」
「はい?」
しばらく押し問答したのち、なんだかんだと言いくるめられて、気づけばタクシーに乗っていた。
十分ほどタクシーの後部座席で揺られてやってきたのは、繁華街の裏通りにある落ち着いた雰囲気のバー。看板らしい看板もなく、こんな店よく知っているなあ、と感心する。
目立たない木製のドアを開けると、カウンターの中にいるマスターが小さく頷いた。店内は薄暗く、木目と黒を基調とした内装が大人っぽい。こぢんまりした店内にはスローテンポのピアノジャズが流れている。
客はまばらで、男性のふたり組とひとり客が数人いるだけだった。皆静かに酒を楽しんでおり、口髭を生やした中年のマスターが熟練した手つきでシェイカーを振っている。
蒼也がボックス席に着き、あおいはその隣に座った。座席はL字型になっているため、小さな声でもじゅうぶん会話ができそうだ。
「こういうお店、初めて来ました」
あおいは両手を膝に置き、蒼也の耳元に囁いた。借りてきた猫みたいな気持ちだ。会社の同僚と仕事帰りにのむのは居酒屋と決まっていて、こういう静かなバーは緊張してしまう。
蒼也は笑い、テーブルに両肘をついてあおいの顔を覗き込んできた。
「強いからひとりでこういう店に来るのかと思ってた。で、何にする?」
「えーと、おすすめはなんですか?」
「んー……せっかくだからテキーラいっとく? 明日休みだろう?」
「土日休みです。蒼也さんも?」
「そうだよ。じゃ、決まりだな」
蒼也が手を挙げると、カウンターの中にいた女性店員がやってきた。黒色のベストにパンツ、えんじ色のネクタイをしている。
注文から五分と経たずにグラスがふたつ運ばれてきた。琥珀色の液体が満たされたショットグラスの上にはライムが載せられ、グラスのふちに塩がついている。
「はい、乾杯」
「乾杯」
ライム片手にグラスを指先で持ち上げる蒼也に、あおいも倣う。テキーラは過去に一度のんだだけで、作法もよく知らない。蒼也の真似をして一気にグラスをあおり、すぐさまライムをかじる。
「ん~~~」
喉を駆けおりる刺激が日本酒の比じゃない。口から胃にかけてカッと熱くなり、目をぱちぱちとしばたたく。
「効くなあ。久々にのんだ」
「いいですね。もう一杯いきたくなります」
「いくか? いこう」
蒼也が店員を呼び、今度はつまみになるものも頼んだ。あまり頻繁に呼ぶのも悪いので、テキーラは一度に三杯頼む。
二杯目をのんだあたりで、なんだか気持ちがハイになってきた。
「ああ、おいしい。楽しいなあ……」
はーっと息を吐き、すでにかじってあるライムをチュッと吸う。あおいの家はここからそう遠くないため、終電まではあと一時間ほどある。ここまでのんでしまったからには、時間いっぱいまで酒を楽しみたいところだ。
蒼也が頬杖をついてこちらを見る。
「本当、うまそうにのむよな。やっぱり君とは気が合いそうだ」
「まだわかりませんよ。お互い何も知らないわけですし」
「知りたいと言ったら?」
思いがけず蠱惑的な目で見つめられて、あおいの心臓がドキンと跳ねた。きれいな二重瞼にすっと通った鼻筋。ふっくらと濡れた唇。滅多にお目にかかれないような美丈夫の視線が、あおいの顔のパーツの上を行ったり来たりしている。
(えっと、これは……まさか、口説こうとしてる?)
ふっ、とあおいは噴き出した。
「そういう冗談はシラフの時に言うものですよ。ほらほら、蒼也さんももっとのんで」
かんぱーい、と勝手に三杯目のショットグラスを鳴らして、琥珀色の液体を喉に流し込む。ああ、最高だ。こうしてずっと朝までのんでいたい。
蒼也も三杯目のショットグラスを素早くあおった。その前にちょっと不満げに唸るような声が聞こえたが気のせいだろう。イケメンはそんなこと言わないし、だいいち彼のような男は優愛みたいなかわいい子を選ぶはずだ。
瞼を刺激する明るい日差しが、あおいをまどろみの世界から呼び起こそうとしている。
いつもと違う部屋の匂い。温度。湿度。肌に触れる上質なリネンの正体を知りたいような、もうしばらく寝ていたいような……
住み慣れた自分の部屋にしてはやけに明るかった。休日はゆっくり寝ていたいから遮光カーテンをぴっちり閉めて布団に入るのに、昨夜は忘れたのだろうか。酔っぱらってそのまま眠ってしまったとか……?
「う……ん? ……んんッ?」
パチッと目を開けて頭を起こす。ベッドのスプリングが揺れた。いつも寝ているせんべい布団じゃないことに気づき、違和感のある自分の身体を見下ろしてみる。
「……えっ。えっ? えっ? ええっ? 嘘。何が起きた?」
がばりと飛び起きて自分の身体を呆然と眺める。未だ状況が読めないながらも、大変なことをしでかしたのはすぐにわかった。身体を覆うものが、小さな布切れひとつない。念のため、おそるおそるベッドの脇にあるごみ箱を覗いてみると――
「ひゃあーーッ!!」
そこにあった情熱的な一夜の残骸に、素早くベッドに突っ伏す。
やってしまった。
やってしまった。
しかも避妊具が三つも。ちょっと盛りすぎなのでは!?
(嘘でしょ? 信じられない……! この世に生まれ落ちて約三十年。真面目に地味に生きてきた私が、行きずりの男とワンナイトだなんて……!!)
「うう~~、ちょっと、ちょっと~~……」
裸のままうずくまり、シーツを握りしめてぶるぶると震える。テキーラを四杯のんだところまでの記憶は確かだ。そのあと五杯目を頼んだところで記憶がプッツリと途切れている。
いや、こんなことをしている場合だろうか。
「……って、ここどこなの!? ――いたぁっ!」
慌ててベッドから下りようとしたら、シーツが足に絡まって転げ落ちた。
「いった~~……もう!」
起き上がってバッグを探そうと一歩進み、引き返してシーツを身体に巻きつける。もしかしたら、まだ部屋のどこかに昨夜のお相手がいるかもしれない。お相手といっても、それが誰なのか想像に難くないのだけれど。
窓際のソファの上に、ベージュのバッグが置いてあった。あおいが着ていた服も丁寧に畳んである。スマホを取り出してマップを開くと、ここが会社と自宅とを三角で結んだ一角であることがわかる。
「セレネタワートウキョウ……?」
ズームしたところ、どうやらシティホテルの一室のようだ。
それがわかったところでようやく気づいたが、室内はびっくりするくらいに豪華だった。ベッドはクイーンサイズで、藍色を基調としたシンプルなデザインの壁と、チャコールグレーのソファと椅子。壁のテレビモニターは六〇インチだろうか。すべてのインテリアが都会的で、洗練されている。カーテンの隙間からちらりと見えるのは、目もくらむような都会のビル群。
おそらくラグジュアリー感を売りにした高層階のダブルルームなのだろう。窓に近寄れば朝日を浴びる高層ビルを睥睨できそうだ。
服の上には昨夜渡せなかった二万円が置いてあった。このホテル代も出してもらったのだろうし、ずいぶん借りができてしまったようだ。『今度会った時』なんて言っていたけれど、次に会ったらいくら返せばいいのかと考えただけでゾッとする。
洗面所も浴室も覗いてみたが、お相手のイケメンはもういなかった。連絡先を書いたメモもなければ、名刺もない。本当に一夜限りの、後腐れのない行為だったのだろう。
「慣れてるんだなあ……」
なんとなくがっかりしている自分に驚いた。未だ身体の奥に残る余韻からして、優しく抱かれたことは疑いようもない。何から何まで完璧なあの人を、一周回って尊敬する思いだった。
あおいが暮らすアパートは会社から電車で二十分の距離にある。さっきまでいたホテルからも二十分。地下鉄で自宅に戻った時には、午前十時を少し回っていた。
駅から歩いて十五分の静かな住宅街にある、家賃十万円の古い3DK。これがあおいたち家族の城だ。
「ただいまー……」
あまりにばつが悪くて小声でそろりとドアを開ける。いつもならチャイムを鳴らすところだが、今日は鍵を開けて入った。いつの間にか帰っていた体を装うつもりだったのに、妹の楓が部屋から飛び出してくる。
「お姉ちゃん! おかえり。どこに行ってたの?」
「あ、ああ~、えーと、飲み会のあと後輩のお宅にお邪魔して泊まらせてもらって……」
「後輩って誰? 優愛ちゃん? いいなあ、私も行きた~い!」
顔を輝かせて腕を組んできた妹を、やんわり押し戻す。普段からスキンシップの多い姉妹だけど、今日はダメだ。男の匂いがついているかもしれない。
「あなたは受験生でしょ」
「ええ~、ケチだなあ。おねぇ顔赤いよ。まだ酔ってんじゃないの?」
「姉貴はのんだって赤くならないだろう?」
ダイニングキッチンから訳知り顔で出てきたのは弟の漣だ。大学に入ってから急に大人びた弟は、サークルの飲み会だ、バイトだ、クラブだ、と毎日忙しくしている。
あおいはハッとした。
(まさか、漣はすでに女の子と……?)
エプロン姿でニヤニヤしている漣。昨夜あおいが行きずりの男と一夜をともにしたことに気づいている、とでもいった表情だ。
「あんた、気をつけなよね」
「何が」
「その……女の子といろいろ……間違いを起こさないようにさ」
漣は笑いながらダイニングキッチンへ戻り、慣れた手つきで鍋を火にかける。
「そういうことする時はちゃんと対策してますって。オカンかよ」
「オカンで悪かったわね。心配もするよ。私はあんたたちの母親みたいなものなんだから」
後ろからやってきた楓が、ポンとあおいの肩を叩く。
「ちゃんと模試でA判定もらってくるから。優愛ちゃんのお宅訪問の件、よろしくね~」
「はいはい、前向きに検討します」
「あーっ、その言い方!」
「姉貴、しじみの味噌汁のむだろ?」
「もちろん」
漣に言われて振り返る。お椀に注がれた湯気の立つ味噌汁のおいしそうなこと。楓は部屋に戻ったようだ。
「おいしそう~。漣はやっぱり気が利くわ。何から何までやってくれてありがとう」
「いいよ。のんだ翌朝はしじみの味噌汁って決まってるから、昨日の夜作っておいたんだ」
得意げに胸を反らす弟が頼もしい。立ったままひと口啜ると、のみすぎて疲れた胃に塩分がしみわたる。
「ああ、おいしい。幸せ~……」
漣が火を止めてお椀をもうひとつ取り出す。
「俺もこれから朝飯なんだ」
「じゃあ一緒に食べよっか」
脱いだスーツの上着をダイニングの椅子に掛け、冷蔵庫から作り置きのおかずと漬物のタッパーを取り出した。毎日こんな感じで、あおいはもう十年以上も賑やかな家族の『お母さん』をしている。最近ではふたりが手を離れつつあるのがちょっと寂しい。ふたりの結婚式ではきっと泣いてしまうだろう。
月曜の朝はちょっぴり憂鬱な気持ちで迎えた。外は冷たい雨模様で、玄関脇のコート掛けから、晴雨兼用の紺色のコートを取って羽織る。
つい先日まではブラウスにカーディガン一枚で過ごせたのに、十一月も下旬となるとさすがに寒さも増してきたようだ。来月はもうクリスマス。バイトや遊びに忙しい漣はともかく、今年は楓と家で過ごすことになりそうだ。
(髪を下ろすのなんて久しぶりだなあ)
狭い玄関でパンプスを履き、壁にかかった鏡で前髪を直す。いつもはゴムでひとつに縛るだけの髪を、今日は下ろしてみたのだ。明るめの栗色をした髪は自毛で、学生時代は『染めているんじゃないか』と先生によく怒られた。くるりとカールしたくせ毛の先を指で弄る。
髪を下ろしたのは、何も特別な心境の変化があったからじゃない。寒くなってきたから、といえばそうだし、同じ髪型に飽きたからともいえる。自分では、ただなんとなくのつもりだけれど、優愛には何か言われるかもしれない。
「うーん……」
(やっぱり結んでいこう)
手首にはめてあったゴムで、いつもどおり緩めに結ぶ。
「漣ー? 行ってくるねー」
ダイニングのドアが勢いよく開いた。弟は今日、午後からの講義らしい。
「行ってらっしゃい。別に帰ってこなくてもちゃんとやっとくから」
ドアから顔だけ出した弟はニヤニヤしている。笑いながらパンチを食らわす手ぶりをして、あおいは外に出た。
フジチョウ建設の最寄り駅から職場までは、普通に歩いて八分で着く。いつもよりのんびり歩いて到着し、ゆっくりと階段を上って資産運用部のある五階に着いた。
きょろきょろとあたりを見回し、目の前にある給湯室へ飛び込む。後ろ手に閉めたドアにもたれかかり、ホッと息をついた。
(よかった……! ふたりに会わなかった)
ふたり、とはもちろん優愛と美尋のことだ。金曜の夜、あんなふうに蒼也と最後まで残っていたのだから、『あの後どうなったのか』と絶対に聞かれるだろう。適当にサクッとのんで帰ったと言えば済む話だが、嘘をつくのはあまり得意ではない。
「わっ」
その時、急にドアが開いて後ろに倒れそうになった。
「先輩……! びっくりしたぁ!」
「びっくりはこっちだよ。……って、寄りかかってた私が悪いよね。ごめん」
やってきたのは優愛だ。今日もきれいに巻いた髪に、ほわほわした起毛がかわいらしいピンクのニットを着ている。
優愛が給湯室に入ってきてドアを閉めた。
「私のほうこそごめんなさい。それで、それで? あのあとどうなったんですかぁ~? もしかしてお持ち帰りされたとか!?」
「う……」
茶色のカラコンを入れた目をキラキラと輝かせる優愛に、あおいは尻込みした。赤面しそうな予感がして、急いで背を向けて棚からマグカップを取り出す。
「お、お持ち帰りなんてされるわけないでしょ。コーヒーでいい?」
「お願いします。え~、でもいい雰囲気だったじゃないですか」
「そんなことないよ。あれからちょっとお酒のんで終電で帰ったけど、連絡先すら交換しなかったし。ほらほら、もう始業時間だから行こう」
ごめん! と心の中で謝る。でも、連絡先を知らないのは嘘じゃない。蒼也にとっては本当に興味がなかったのだろう。
「咲良ー、どこ行ったー?」
コーヒーを手に給湯室のドアを開けると、課長の岩本が優愛を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ヤバッ。課長に呼ばれてるんだった。請求書の金額が違ってたって、めちゃくちゃ怒ってるんですよ」
優愛が廊下に出しかけていた足を引っ込める。
「訂正すればいいんじゃないの?」
「それが、先方に送ったあとで発覚したみたいで……」
「うわ……一緒に怒られようか? 一応営業部の主任だし」
「やったぁ、先輩優しい~~」
優愛が甘えた声でしなだれかかってくる。
「咲良」
岩本が急にドアの前に現れたため、優愛が飛び上がった。
「課長……!」
「お前また須崎に甘えようとしてるな? 須崎もダメだぞ。お前が庇ってたらいつまでたってもひとり立ちできないだろ。はい、おいで」
クイクイと厳しい顔つきで手招きされて、優愛が泣きそうな顔で岩本についていく。
「先輩、さっきのことあとでまた教えてくださいね! 約束ですよ~~!」
振り返って手を振る優愛を、あおいは苦笑いとともに見送った。この部署で唯一彼女のかわいさにほだされないカタブツの課長は、あおいもあまり得意ではない。でも今は、ちょっと救われた気分だった。
「おはようございます」
挨拶とともに部署へ入ったあおいは、コーヒーをデスクに置いてからロッカーにコートとバッグをかけて戻った。今日は例の地主にパンフレットとプレゼン資料を持っていく日だ。積算部に依頼した概算の見積書ができるまでに数日かかるため、熱が冷めないように顔を繋いでおく必要がある。
地主の山田氏は一般的な商業ビルの線で考えていたようだが、対象の土地が駅から少し離れた幹線道路沿いにあるため、複合商業施設を提案した。土地の広さも容積率も申し分ない。
あおいとしては、スーパーと衣料品店、スポーツジムの三階建てがいいように思う。小さなスペースが残ったら歯医者やリズム教室、塾などを入れてもいいかもしれない。
敷地内には芝生の広場を設けて、そこでイベントを開いたりキッチンカーを呼んだりできるといい。きっと家族連れで賑わうことだろう。
(家族連れか……いいなあ)
複雑な家庭に育ったあおいは、家族揃ってどこかへ出かけた思い出がほとんどない。唯一記憶に残っているのは、弟と妹が生まれる前に一度だけ連れていってもらった遊園地。
その頃の両親はまだ仲がよく、夏休みの自由研究で賞を取ったご褒美にとねだったのだ。あおいが思春期に近づくにつれて母と父のあいだには喧嘩が増えていったけれど、父の様子がおかしくなる前はそれなりに幸せだった。
(あ……)
幸せそうな家族を思い浮かべると、なぜか蒼也の顔が頭に浮かんだ。背が高く体格のいい彼なら、私服も素敵だろう。意外と小さな子を抱いている姿も様になるかも……
「先輩。せーんぱい!」
肩を叩かれてびくりとする。優愛が戻ってきて隣の席に座った。
「おかえり。お説教終わったの?」
「やっと終わりましたよ~~。先輩がボーッとするなんて珍しいですね」
「お疲れ様。ちょっと考えごとしちゃって」
ふふ、と笑ってごまかしつつ、資料の印刷ボタンをクリックする。
あのワンナイトの翌朝から、蒼也のことがたびたび頭にチラついて困っていた。風呂に入っている時も、食器を洗っている時も、通勤のあいだにも。それでも脳内で勝手にリフレインされるのがベッドシーンではなく、楽しく酒をのんだ時のやりとりであることには安心感を覚えていた。
(考えてみれば、あの遊び人がいいお父さんになるはずがないしなあ)
勝手に漏れ出たため息は、何を血迷っているのか、という自分への戒めだ。確認を終えたプレゼン資料の印刷を続けながら、優愛のほうに身体を寄せる。
「ところで課長、大丈夫だった?」
「大丈夫じゃないですよ。課長ったら、めちゃくちゃ言い方キツいんです。さっきだって、私のことをチャラチャラしてサボってばかりいるって……」
「そっかあ、大変な目に遭ったねえ」
すんすんと鼻を啜り出した優愛に、ポケットから取り出したハンカチを渡す。
「須崎~、優愛ちゃんを泣かすなよ」
「え? 私?」
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