雪解けの前に

FEEL

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雪月花

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 公園に遊びに行ってから、奏はいつものように登下校を一緒にするようになっていた。
 雑談を交わしながら学校に向かう毎日は久しぶりだというのに淀みがない。僕が一人で通っていた期間はなかったかのように自然に感じた。
 そう思えるくらいに奏の様子はいつも通りだった。いつも通りすぎた。

「んでね。プールサイドで飛び込むように促すと、あ~出来ないです~って話すわけよ。犬が。犬かきって泳法があるくらいなのに泳げないっていうのよ、犬が。可愛くない?」

 昨日見つけた動物の動画を熱弁している奏は忙しなく手を動かして内容を説明しようとしている。僕が興味なさそうに相槌を打っていてもお構いなしだ。
 僕は猫派なので犬の可愛い動画なんて興味ないのだけど、それを踏まえても奏の説明が普段よりも頭に入らない。それよりも頭の中では彼女の様子について考えてばかりだった。

 あまりに普段通りの奏は先輩と過ごした期間がなかったように振舞っている。彼女の口からその時の話題が出る事もなければ先輩の方ですら奏に話しかけてくることはないようで、ずっと彼女と一緒にいて数日。誰かが訪ねてくることはなかった。
 ここまで徹底されると何があったのか気になって仕方がなかったが、僕の方から聞く訳にもいかず。モヤモヤとした気持ちのまま奏の話し相手になっている。
幸い奏の方はいい加減な返事をする僕の事を気にした様子はなく。機嫌を悪くすることはない。

奏の顔をちらりと見る。楽し気に話す彼女の顔には、小さな顔が半分隠れるくらいの大きなマスクが張り付いていた。



 昼休み。
 午前の授業を終えた奏は鞄を漁り、「お弁当忘れた!」とオーバーリアクションで戦慄くと学食に向かった。
 いつも一緒にご飯を食べている習慣で、奏が戻ってくるまで弁当に手を付けずに待っていたが中々帰ってこない。

(そういえば、一人になるの久しぶりだな)

 ここのところ家に帰って落ち着くまでずっと奏と一緒にいる。こうして一人の空気を感じるのは久しぶりだった。そう考えた時、ふと思い浮かんで席を立った。今なら先輩の様子を確認しにいける。
 二人の間に何があったのか。奏の方から聞くのは難しいが、先輩の方からなら関りがない分聞きやすい。今の様子なら先輩伝に僕が話しかけに行った事も奏には伝わらないだろうし、仮に伝わったとしてももうモヤモヤをそのままにしておくのは限界だった。

 教室を出て階段を上り、上級生のクラスへと向かう。顔は薄らぼんやりとしか覚えていなかったが、奏と話している声を覚えていたのでそれを頼りに探そうと廊下を歩く。
 しかし、昼時の騒がしい校内で声を頼りに人を探すのは中々無謀だった。アテもなく歩きながら人の声に集中してみても声が重なり何がなんだかわからない。そのまま聞き覚えのある声を見つけることが出来ずに教室前を通り過ぎてしまった。
 二度、三度と引き返すがやはり騒がしい中で特定の声を探すことなんて出来そうにない。廊下で話す上級生がこちらを見て何か話しているのが目に入った。流石に目的もなく廊下を往復していると目立ってしまうか。
 視線から逃れるようにその場から離れる。教室前の廊下を真っすぐ進むと、視聴覚室と札のかかった空き教室が目に入った。

 どうやらここから先は生徒が用事のない教室が並んでいるみたいだ。少し進むと喧噪が途端に小さくなり、上履きのペタペタとした音が妙に響く。
 こんな静かな所を見たところで誰もいないだろうと思いつつも歩いていると、うっすらと話し声が聞こえてきた。声のする方へ近づくと廊下越しでも会話の内容がわかるくらい反響していて、その中に聞き覚えのある声があった。

(見つけた……先輩だ)

 楽しそうに話す男の声。その中に先輩の声が交ざっている。半ば諦めていたせいか嬉しさが込みあげる。教室の扉を開けようと手を掛けた時、

「そういえば、例の子どうしたの? 最近見ないけど」
「あぁ、奏ちゃんか……」

 奏の名前が聞こえてきて、扉を開けようとしていた僕の手はピタリと止まった。

「そうそう、そんな名前だった。明るくてスタイル良くて、いい女だよなぁ。羨ましいわ」
「俺も最初はそう思ってたんだけどさぁ、顔で萎えたから無視してる」
「は? そんな顔悪かったっけ?」
「いや、顔立ちは良いんだけど。あの子マスクしてたじゃん」
「うん」
「あれさぁ、傷痕を隠す為にしてたらしくて。気にしないよ、つってマスク取らせてみたらすんごいデカい傷ついてんの。子供の時の傷らしいけど、火傷っつーか、腐食っつーか? グロくてあー無理、ってなった」
「うわー、まじか」
「まぁ顔以外は問題ないから、ちょっとは頑張っては見たけど……いい加減祟られそうできつかったわ」
「はははっ。言い方クズ男すぎるっしょ」
「いやいや、被害者は俺の方だからね」

 扉に掛けていた手を離してその場を離れた。背中越しに楽しそうな笑い声が聞こえて、僕は爪が食い込むくらいに強く拳を握りしめていた。体中の筋肉が強張り体が震える。呼吸が浅く、眩暈を覚えるほどに頭に血が上っている。こんな感情になったのは生まれて初めての事だった。

 直接話を聞くまでもない。奏が急に先輩を避け始めたのはこれが原因だ。
 彼女をずっと見てきたのだ。色々と言っていても彼女が傷痕に対してどれだけ引け目を持っているのかは十分に知っている。だからこそ公園でポジティブに捉えようとしていた事に対して驚きを感じていた。
 僕が奏に対してそうあるように、人はコンプレックスに対して異常に神経質になる。奏は多分、先輩の態度を見て彼の気持ちを察した。だから深く考えずに、自分の心を守るために無かった事にしようとしているのだと思った。
 先輩が自分の傷に不快感を抱いていると思った時、奏は一体どんな気持ちになったのか、身を引くときに何を考えていたのか……想像するだけで胸が痛くなる。

 今すぐ振り返って先輩の顔を殴りつけてやりたい気分だった。しかしそんなことをすれば大ごとになる。そうなれば殴った理由を問われてしまい、僕が答えなくても先輩と僕との接点からいずれは奏へと行きつくだろう。
 それはもちろん僕も、奏だって望んでいないことのはずだ。沸き上がる怒りを抑えつけて僕は教室へと戻った。

「あ、帰って来た」

 教室に戻ると奏がいた。机の上に何種類かのパンとジュースを広げて焼きそばパンを頬張っているところだった。

「どこ行ってたのよ?」
「ちょっと、トイレ」
「長すぎでしょ。もう私食べ始めちゃったよ」
「大きい方だったんだよ」
「あーあー! 最悪っ! カレーパン買ってるのに!」

 奏はいつも通りだ。いつも通りすぎる。先輩のやりとりを見た僕にはそれが辛かった。
 奏はきっと、頑張って普段通りに過ごしている。悲しい気持ちを押し殺して、忘れようと努めている。暫く使っていなかったマスクがその証拠だ。パンを食べている今も、マスクは彼女の顎先に引っ掛かっていた。今見ると少しでも傷痕を隠そうとしているようにしか見えない。
 彼女にそうさせているのは僕だ。僕が彼女に傷をつけたからだ。自責の念が津波のように押し寄せてきて思わず表情が崩れそうだった。僕は必死で堪えた。彼女の前で急に表情を変えてしまったら、悲しい顔を見せてしまったら気取られるかも知れない。

 僕も奏と同じように、普段通りに過ごそう。それで彼女が少しでも楽になれるなら、それが一番いい。

「食べれないなら僕が貰おうか?」
「あっ、持ってくなっ。食べないなんて言ってないでしょーが!」

 震えそうな声を抑えて机からカレーパンを取ると奏が身を乗り出して手を伸ばす。

「かーえーせー!」
「うわっ。奏、危ないって。椅子揺れてる」
「食べるの楽しみにしてたの。私の命に代えてもカレーパンを救出する」
「ごめん、わかったから。ちょっと落ち着いて……」
「あ――」

 奏がバランスを崩して椅子が傾く。僕に向かって奏が倒れこんできたので「危ない」と声を上げて咄嗟に奏を抱え込んだ。

「大丈夫?」
「あ、うん。……ありがとう」

 顔から飛び込んだ形で奏の身体が僕に触れる。子供のように高い体温が、触れたところから僕に流れ込んでくる。
 奏の身体を起こすために肩に触れようとしたとき、指が顔に触れる。身体と違って氷のようにひやりとした感触。瞬間的に僕は奏の傷痕に触れているのだと気付いた。

「っごめん!」
「あ……」

 慌てて奏の身体を起こすと、彼女の顔からマスクが剥がれ落ちていた。頬に手を当てた奏は目を丸くして、信じられないといった様子でこちらを見ている。

「奏?」
「……なんで?」
「なんで、って?」
「何であんたまで……流星までそんな態度取るのぉ……」

 言いながら、奏の大きな瞳から涙がこぼれた。一度零れてしまうと、涙が堰を切ったように溢れ出す。瞬く間に破顔した奏の顔は怒られた子供のようにシワを作る。

「うえ、ひっく、う、うええぇぇ……」
「か、奏……」
「……!」

 訳が分からず僕は奏に手を伸ばした。それを見た奏は怯えたように顔を隠して、教室の外へと走り去ってしまった。

「奏!」

 僕はすぐに奏の後を追いかけた。しかし廊下には彼女の姿はない。他の教室を確認してみても、奏の姿はなかった。

「何してんだ森本?」
「先生……かな、立花見ませんでしたか?」
「あぁ、さっき階段ですれ違ったけど。もう昼休み終わるのにどこ行ったんだろうな……って森本!?」
「すいません。遅刻します!」

 奏の後を追いかけて階段を駆け下りる。階段を降りた先にあるのは下級生のクラスや体育館等。逃げるように走っていった逃げるように走って言った奏がそんな場所に行く可能性は低いと思う。となれば学校の外に出たかもしれない。
 一直線に下駄箱まで向かって奏の靴を確認すると、上履きが残されて彼女の靴がなくなっていた。それを見て僕は靴を履き替えると、急いで奏の家に向かった。
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