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愛される。

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 それからというもの、すっかりヘソを曲げてしまった甘路はドゥートンに寄りつかなくなった。
 しかし、無理は長く続かない。
 一週間も経てば、甘音が作ったスウィーツが食べたくて仕方がなくなった。
 意地でも二度と欲しがるものかと、他のケーキ屋の品を食べてもみたが、やはりなにか違う。その時は美味しいとは思うものの、それだけで満足してまう。
 しかし、甘音のスウィーツは後を引く。
 同じ品もまた食べたい、違った品も食べてみたい。求めずにはいられなくなる、それが鬼神パティシエールと名高い佐藤甘音の腕なのだ。
 だから結局、こうなってしまう。

「食べてみる?」

 甘音が声をかけたのは、厨房の端の椅子に座った息子。
 あんなに大見得を切ったのに、気づけば元の木阿弥だ。甘路は懲りずに来てしまった自分が、悔しくて恥ずかしくて嫌だった。

「……いらない」

 甘路が無駄な抵抗を試みると、甘音は「ふーん」と気のないふりをして、ケーキを片付けようとする。

「そ、じゃあ路和に食べてもらお」
「あ、あーっ!」

 本当に食べられないと思った甘路は、慌てて立ち上がり引き止めた。
 すると甘音は振り返って、ニヤリと狡猾な笑みを浮かべる。
 最初からわかっていたのだ、甘路がスウィーツから離れられるはずがないと。
 まるで手のひらで転がされているようで、甘路は非常に腹が立った。
 それでもやはり、甘音のスウィーツを食べると、嫌な気持ちがどこかへ行ってしまう。
 こんなふうに人の心を動かすなんて、やはり母はすごい。自分もいつか、こんな品を作れたら……そう願うなら、確かに母の言う通り、ボサッとしている暇はないかもしれない。
 そう思った甘路は、意地を張っているのがもったいないと感じた。

「…………これ、どうやったら作れるの?」

 新作のババロアを試食した甘路は、ポロッと本音をこぼした。
 そして顔を上げた甘路は、母を見て驚いた。
 甘音は微笑んでいた。涙しそうに優しく、世界中の幸せを独り占めしたかのように。
 母のこんな表情は、後にも先にもこの一回だけ。だからこそ甘路の胸に深く刻まれることとなった。

「甘路、アンタはたぶん私よりすごいパティシエになるだろうから、アンタが道を極められたと思ったら、私の看板は下ろしていいからね」
 
 四十で亡くなった母は不幸だったのだろうか。
 結婚して子を持ちながら、菓子職人として生き抜いた。
 妻や親としては零点に近かったかもしれないが、甘路は母を自身の分身のように思っていた。
 母の意思を継いだといえば聞こえはいい。
 しかし、現実はそんなに綺麗ではない。
 甘路は確かめたかったのだ。
 今までずっと、洋菓子作りに母との時間を奪われてきた。自分よりも優先するほどの、それだけの価値がその世界にあったのか。
 甘路は未だにわからない。
 わからないまま、大舞台に立っている。
 理由などない。ただ作りたい。
 そしてその先に、あの笑顔があったなら――。

『私、甘路さんのケーキ大好きです!』
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