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罪なき日々の終着
無傷の中の傷跡 ヒーローの名は東雲柳
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クリスの部屋は夕暮れ時に窓から射し込むオレンジ色の光で照らされていた。
部屋の中は静かで、外の世界から切り離されたような静寂が漂っている。壁にはバスケットボールのイラストが淡い色合いにデフォルメされたポスターや学校のイベントの写真が飾られ、普段はここがクリスの安らぎの場所であることを物語っている。
しかし今日のクリスの心境は安らぐどころではなかった。
ベッドの端に座り、ぼんやりと部屋の隅を見つめている。心は今日の昼間に起きた事件に囚われ、柳の痛々しい姿が頭から離れない。
体育館の倉庫の扉の外で、クリスは凍りついていた。中からは柳が殴られる音、彼の抑えきれない呻き声が漏れ聞こえてきた。
「…………!……ッ、ぁ……」
複数の低い声が彼を責め立てている。内容は酷いもので、クリスにとっては普段ならば強く嫌悪感を表すようなものである。
しかし、困惑と恐怖、中にいる柳の姿を想像することすらも震えを強くするような異常事態に、ただ分厚い扉に当てた拳を握り、助けを祈り求めるかのように頭を垂れることしかできない。
「やだ……やだ、柳……!」
クリスは何もできず、ただその場に震えたまま立ち尽くすしかなかったのだった。リリアと鞠也が教師を呼びに行くのを待つ間、その扉を開ける勇気も力も、結局のところは、なかった。
「……や…………めて……!」
いや、側におり、一緒にこの状況を認識していたリリアと鞠也は、共に教師たちを呼びに行くためにクリスの肩を叩いた。
何の役にも立っていない。その自認が自己嫌悪感を更に強めた。
肩を叩かれた時に、応じて一番に駆け出さなかったのはなぜだ。自分がいの一番に走り出すべきである。
泣くな、泣くんじゃない! 今から走ってももう、それは呼びに行ったリリアらと教師たちに鉢合わせるだけの無意味な結果となる。
現状、ここで待つことしかできない。
無力は罪。ここで彼の苦しみを聞くことは、自分に下された罰。ようやく教師が到着し扉が開いたときにも、心境とは裏腹に体はすぐには動かなかった。
「……おい、クリス。おい!」
「桐崎さん、先生きたよ、もう大丈夫!」
複数の教師が先に扉を抜け、倉庫内から大きな怒号が飛び交った。先輩らはクリスを意に介さず横を走り去ろうとするが、遅れて到着した教師陣に止められる。
担任の体育教師が彼の名を呼び、意識と怪我の有無を確認し始めたとき、クリスはようやく動くことができた。
柳のもとへと駆け寄ったが、彼はすでに意識を失いかけ、顔は血にまみれ、頬が腫れ上がっていた。なんてひどいことを。いや、自分のせいだ。すぐに動けなかった。実際に助け出す方法を実践できなかった。名前を呼んでも、触れても、意味なんてない。
教師が柳を担いで保健室に向かう際、クリスの目からは涙が溢れそうだった。保健室で柳が治療を受ける間、横で小さく彼の手を握りしめた。
痛みで顔を真っ青にしていた柳がようやく言葉を発した時、それはクリスの心を抉るようなものだった。
「……なんで、クリスのほうが泣きそうなの?」
クリスはその質問に答えることができず、ただ唇を噛んだ。
「あんたが……そんなだからだよ……」
この返答が、精一杯だった。クリスは柳に対する自分の感情を真剣に考える。自分の部屋で一人、柳との今後について深く、深く記憶の海へと潜る。
「……さいあく」
彼がどれだけ自分にとって大切な存在であるか、そして、もはや友情だけでは説明できない深い感情が心の中にあることを認めざるを得なかった。
「こんなことで……気付くなんて」
夕暮れが更に深まり、部屋は薄暗くなっていく。 クリスは窓の外を見つめながら、自分の心に正直になることについて、その怖さを感じていた。
「……やだなあ」
「おはよ、クリス」
柳の姿を目にした瞬間、その決意と強さに圧倒される。笑顔で言う柳のその言葉が、クリスには途方もない勇気と自己犠牲のように思えた。部屋の中は朝の光で明るく照らされているが、心はどんよりと重い雲に覆われていた。
「どうして……それでも、学校に行くの?」
声を震わせながら尋ねる。その心からは、もはや抑えることができない涙がこぼれ始めていた。しかし、柳にこれを見せることは憚られる。きつく唇を噛み、返答を待つ。
柳は少し驚いたようにクリスを見つめ、優しく言葉を選ぶ。
「クリス、僕は大丈夫だよ。あの……もう、ああいうことには慣れてるからね」
「慣れてるなんて……そんなの慣れちゃいけないよ!」
クリスの声は怒りとも悲しみともつかない感情で震えていた。柳のガーゼで覆われた顔に手を伸ばし、ゆっくりとその痛々しい部分に触れる。
その温かさが、手のひらから伝わった。
「……痛そう」
「ん……、ッ、流石に昨日だからね」
「ごめんね……」
「ううん。クリスならいいんだよ」
柳は深く息を吸い、ゆっくりと息を吐いた。
「クリス、ありがとう。でもね、僕は逃げたりしない。ここにいる意味を、しっかり持っているから」
クリスは柳の決意に改めて心を打たれる。
「逆に、今日学校に行くことには大きな意味があると思うんだよ。僕は負けてない。暴力によって怪我をさせられたけど、強さを示すために僕は、今日も変わらずに日常生活を送ってみせるんだ」
どれだけ強い精神を持っているのか、彼のその深さに改めて気づかされた瞬間だった。静かにクリスの手を握りしめ、柳は力強く頷いてみせる。
「ね? クリス。大丈夫だよ。ありがとう」
「わかった……でも、何かあったらすぐに言ってね。私はいつだって、柳のそばにいたいの」
その言葉に柳は少し安心した表情を浮かべ、ゆっくりと頷いた。登校中、二人の間には静かな空気が流れていた。クリスは柳に向かって、心からの謝罪を口にする。
「柳……その時、扉を開けられなくて……本当にごめんね。私、ただ立ってるしかできなくて」
声は震え、目元はうっすらと赤くなっていた。
「……大事なのに……あんたのことが、私は……!」
柳は彼女の目をじっと見つめた。
「クリス、謝らないで。それはクリスのせいじゃない。その状況で何ができたかなんて、誰にも分からないよ」
目を伏せ、涙を堪えながら、もっともっと自分が何かできたはずだと心の中で自責の念に駆られる。しかし柳の言葉が、心に少しずつ温かみを与えていた。
「でも、あの時のことを思い出すと……すごく……悔しいっ……!」
声が小さく震える。柳がどれほど苦しんでいたかを目の当たりにして、自分が無力だったことに深く傷ついていた。
柳はクリスの背中を優しく叩く。励まそうとしているかのようだった。
「ありがとう、クリス。でも、本当に大丈夫。君が心の中だけでもずっとそばにいてくれるだけで、僕は強くなれる。それが僕にとってどれだけの支えになっているか、君には想像もつかないくらいなんだよ」
クリスは柳の言葉に心を動かされ、優しさと理解に心から感謝する。柳の綺麗な瞳がこちらを見ていた。心が洗われるように感じ、その色に感謝した。
「柳……これからも、ずっと一緒だからね」
クリスはリリアと鞠也と教室の隅に集まり会話を楽しんでいた。
二人は中学校入学と共に島外から引っ越してきた新しい友人であり、クリスの心の支えでもある。この日、クリスはいつものように元気で明るく振る舞っていたが、内心では葛藤が渦巻いていた。
「クリス、最近どうなんだよ? 東雲とは仲良くやってる?」
リリアが気軽に尋ねた。
「うん、柳は……相変わらずだよ」
クリスは少し眉を寄せながらも、微笑を浮かべる。
「あのね、でも最近……というか、この前の柳の件から、柳のことが気になってるの」
クリスは続けた。その声には少し迷いがみえる。
「どうしたの? 桐崎さん。なにかあったの?」
鞠也が気遣いながら先を促した。
クリスは少しの間を置いてから、正直な気持ちを打ち明ける。
「実はね、柳をもっと……もっと支えたいっていう気持ちがすごくあって。でも、それがただの友情なのか、それとも……もっと別の何かなのか、自分でもよくわからないの」
リリアと鞠也は少し驚いた表情を見せたが、すぐにクリスを支える態度を見せた。
「クリス、それってもしかしなくても、ラブだろ! 普段から東雲のこと、いつも特別な目で見てるじゃん」
鞠也もうなずき、助言を加えた。
「桐崎さんが東雲くんのことをどれだけ大事に思ってるか、私たちにはよくわかってるわ。でもね、その気持ちが何を意味しているのかは、桐崎さん自身が一番よく知ってるはずのこと」
クリスは友人たちの言葉に心を動かされ、自分の内面と向き合う勇気を持つことを決めた。深く息を吸い込み、宣言する。
「ありがとう、リリア、鞠也。私、自分の気持ちとちゃんと向き合ってみる」
その日の夕暮れ時、クリスはいつもの通り待ち合わせの場所に向かうが、その前に夕陽に照らされた廊下で彼に偶然出会った。
その刹那、心の中で何かが弾ける。柳の声は、クリスにとっての鼓動だ。その声が暗く沈めば、クリスの心も沈む。明るく響けば、クリスの心には光がさす。
今は傷ついているが、その顔はいつもクリスに安らぎをくれた。優しく綻んだ笑顔を向けられると、どうしようもなく幸せが心を満たす。
彼の両手が好きだ。いつもずっと優しく、自分の手を包み込んでくれる。悲しみを溶かして、癒してくれる。
濃い髪色が光を透かして青く輝くのを、綺麗だと思っていた。自分のものとは違う、色素を集めたような影色に光が丸く反射する姿は、クリスを虜にしていた。
整った鼻筋、安心させるように甘い眦。薄く、柔らかな唇。そして一番好きなのは、その両眼に宿る雪原だった。
銀灰色が思索を反映して影を落とす様も、光を反射して輝く瞬間も、どちらも等しく愛おしい。柳の瞳を見つめながら、自分の心の奥底にある真実を感じ取った。
「柳……実はね……私、あんたのことが……!」
クリスの声が震えた。
「ん?」
柳は言葉を待ち、静かにその続きを聞く準備をしていた。
クリスは自分が柳に対して抱いているのが、ただの友情以上の深い愛情であることを自覚した。そしてその感情が自分をどれほど苦しめ、同時にどれほど幸せにしているかを理解した。
「……ごめん。何でもない。帰ろう」
クリスは柳の隣に並び立つと、顔を見られないように半歩先を歩いた。
「あ、うん」
柳が後ろから答え、後をついて歩いてくる。
なぜ、言おうとしてしまったのか。クリスは激情が渦巻く自らの内面に嫌悪感を自覚する。扉を開けられなかった自分に、柳に何ができるというのだろう。自らの存在そのものに苦しみ続ける柳に、なんと言えるというのだろう。
柳への思いはクリスにとって今、あの厚く重い扉と同じだった。
「あっ……」
後ろで柳が、歩道の階段に躓く。クリスは瞬時に気づいて体を支え、転倒を防いだ。少しだけ彼より高い身長が段差によって調整され、目線が並行に交わる。
「柳、やっぱり怪我で?」
「腫れてるから、前が見にくくて。目は開くんだけどね」
言うと、柳はそのままクリスを追い抜くようにして階段を進んだ。
クリスは柳の存在の大きさと、自分の内面が伴わない感情の風が吹き荒れる中、後に続いて歩き出した。
「ねえ、手、繋ごう」
「いいの? クリス、からかわれて恥ずかしいって言ってたじゃない」
「あんたが転ぶ方が、今はイヤ」
「……ふふ、ありがとう」
日が沈んでしまう。街の明かりが自動的に点灯しているが、やはりいつどんな時にでも、彼の姿をこの目に映しておきたい。
クリスは、劇的な事件や少女漫画のような出来事が起こることによってではなく、こういったことはただ日々を過ごす中で結論が出るのだろうと思った。
「……あんたこそ、嫌じゃないの? なかなか背が高くならないって言ってたし……自分より大きな女の子と手を繋いで歩くの、男の子は嫌なんじゃないの?」
「え? クリス、そんなこと気にしてたの」
「……もう! 柳ってほんと、そういうところ!」
「えっ……ごめん」
柳はまだ、きっと自分のことを恋愛の対象として見ていない。ならば今自分が彼に思いを告げたところで、進展はないのかもしれないと思う。
強くなり、いつか言ってみせる。彼に相応しい自分になりたい。その瞬間まで、この言葉は心の中にしまっておくことにしよう。
────柳、だいすき。
部屋の中は静かで、外の世界から切り離されたような静寂が漂っている。壁にはバスケットボールのイラストが淡い色合いにデフォルメされたポスターや学校のイベントの写真が飾られ、普段はここがクリスの安らぎの場所であることを物語っている。
しかし今日のクリスの心境は安らぐどころではなかった。
ベッドの端に座り、ぼんやりと部屋の隅を見つめている。心は今日の昼間に起きた事件に囚われ、柳の痛々しい姿が頭から離れない。
体育館の倉庫の扉の外で、クリスは凍りついていた。中からは柳が殴られる音、彼の抑えきれない呻き声が漏れ聞こえてきた。
「…………!……ッ、ぁ……」
複数の低い声が彼を責め立てている。内容は酷いもので、クリスにとっては普段ならば強く嫌悪感を表すようなものである。
しかし、困惑と恐怖、中にいる柳の姿を想像することすらも震えを強くするような異常事態に、ただ分厚い扉に当てた拳を握り、助けを祈り求めるかのように頭を垂れることしかできない。
「やだ……やだ、柳……!」
クリスは何もできず、ただその場に震えたまま立ち尽くすしかなかったのだった。リリアと鞠也が教師を呼びに行くのを待つ間、その扉を開ける勇気も力も、結局のところは、なかった。
「……や…………めて……!」
いや、側におり、一緒にこの状況を認識していたリリアと鞠也は、共に教師たちを呼びに行くためにクリスの肩を叩いた。
何の役にも立っていない。その自認が自己嫌悪感を更に強めた。
肩を叩かれた時に、応じて一番に駆け出さなかったのはなぜだ。自分がいの一番に走り出すべきである。
泣くな、泣くんじゃない! 今から走ってももう、それは呼びに行ったリリアらと教師たちに鉢合わせるだけの無意味な結果となる。
現状、ここで待つことしかできない。
無力は罪。ここで彼の苦しみを聞くことは、自分に下された罰。ようやく教師が到着し扉が開いたときにも、心境とは裏腹に体はすぐには動かなかった。
「……おい、クリス。おい!」
「桐崎さん、先生きたよ、もう大丈夫!」
複数の教師が先に扉を抜け、倉庫内から大きな怒号が飛び交った。先輩らはクリスを意に介さず横を走り去ろうとするが、遅れて到着した教師陣に止められる。
担任の体育教師が彼の名を呼び、意識と怪我の有無を確認し始めたとき、クリスはようやく動くことができた。
柳のもとへと駆け寄ったが、彼はすでに意識を失いかけ、顔は血にまみれ、頬が腫れ上がっていた。なんてひどいことを。いや、自分のせいだ。すぐに動けなかった。実際に助け出す方法を実践できなかった。名前を呼んでも、触れても、意味なんてない。
教師が柳を担いで保健室に向かう際、クリスの目からは涙が溢れそうだった。保健室で柳が治療を受ける間、横で小さく彼の手を握りしめた。
痛みで顔を真っ青にしていた柳がようやく言葉を発した時、それはクリスの心を抉るようなものだった。
「……なんで、クリスのほうが泣きそうなの?」
クリスはその質問に答えることができず、ただ唇を噛んだ。
「あんたが……そんなだからだよ……」
この返答が、精一杯だった。クリスは柳に対する自分の感情を真剣に考える。自分の部屋で一人、柳との今後について深く、深く記憶の海へと潜る。
「……さいあく」
彼がどれだけ自分にとって大切な存在であるか、そして、もはや友情だけでは説明できない深い感情が心の中にあることを認めざるを得なかった。
「こんなことで……気付くなんて」
夕暮れが更に深まり、部屋は薄暗くなっていく。 クリスは窓の外を見つめながら、自分の心に正直になることについて、その怖さを感じていた。
「……やだなあ」
「おはよ、クリス」
柳の姿を目にした瞬間、その決意と強さに圧倒される。笑顔で言う柳のその言葉が、クリスには途方もない勇気と自己犠牲のように思えた。部屋の中は朝の光で明るく照らされているが、心はどんよりと重い雲に覆われていた。
「どうして……それでも、学校に行くの?」
声を震わせながら尋ねる。その心からは、もはや抑えることができない涙がこぼれ始めていた。しかし、柳にこれを見せることは憚られる。きつく唇を噛み、返答を待つ。
柳は少し驚いたようにクリスを見つめ、優しく言葉を選ぶ。
「クリス、僕は大丈夫だよ。あの……もう、ああいうことには慣れてるからね」
「慣れてるなんて……そんなの慣れちゃいけないよ!」
クリスの声は怒りとも悲しみともつかない感情で震えていた。柳のガーゼで覆われた顔に手を伸ばし、ゆっくりとその痛々しい部分に触れる。
その温かさが、手のひらから伝わった。
「……痛そう」
「ん……、ッ、流石に昨日だからね」
「ごめんね……」
「ううん。クリスならいいんだよ」
柳は深く息を吸い、ゆっくりと息を吐いた。
「クリス、ありがとう。でもね、僕は逃げたりしない。ここにいる意味を、しっかり持っているから」
クリスは柳の決意に改めて心を打たれる。
「逆に、今日学校に行くことには大きな意味があると思うんだよ。僕は負けてない。暴力によって怪我をさせられたけど、強さを示すために僕は、今日も変わらずに日常生活を送ってみせるんだ」
どれだけ強い精神を持っているのか、彼のその深さに改めて気づかされた瞬間だった。静かにクリスの手を握りしめ、柳は力強く頷いてみせる。
「ね? クリス。大丈夫だよ。ありがとう」
「わかった……でも、何かあったらすぐに言ってね。私はいつだって、柳のそばにいたいの」
その言葉に柳は少し安心した表情を浮かべ、ゆっくりと頷いた。登校中、二人の間には静かな空気が流れていた。クリスは柳に向かって、心からの謝罪を口にする。
「柳……その時、扉を開けられなくて……本当にごめんね。私、ただ立ってるしかできなくて」
声は震え、目元はうっすらと赤くなっていた。
「……大事なのに……あんたのことが、私は……!」
柳は彼女の目をじっと見つめた。
「クリス、謝らないで。それはクリスのせいじゃない。その状況で何ができたかなんて、誰にも分からないよ」
目を伏せ、涙を堪えながら、もっともっと自分が何かできたはずだと心の中で自責の念に駆られる。しかし柳の言葉が、心に少しずつ温かみを与えていた。
「でも、あの時のことを思い出すと……すごく……悔しいっ……!」
声が小さく震える。柳がどれほど苦しんでいたかを目の当たりにして、自分が無力だったことに深く傷ついていた。
柳はクリスの背中を優しく叩く。励まそうとしているかのようだった。
「ありがとう、クリス。でも、本当に大丈夫。君が心の中だけでもずっとそばにいてくれるだけで、僕は強くなれる。それが僕にとってどれだけの支えになっているか、君には想像もつかないくらいなんだよ」
クリスは柳の言葉に心を動かされ、優しさと理解に心から感謝する。柳の綺麗な瞳がこちらを見ていた。心が洗われるように感じ、その色に感謝した。
「柳……これからも、ずっと一緒だからね」
クリスはリリアと鞠也と教室の隅に集まり会話を楽しんでいた。
二人は中学校入学と共に島外から引っ越してきた新しい友人であり、クリスの心の支えでもある。この日、クリスはいつものように元気で明るく振る舞っていたが、内心では葛藤が渦巻いていた。
「クリス、最近どうなんだよ? 東雲とは仲良くやってる?」
リリアが気軽に尋ねた。
「うん、柳は……相変わらずだよ」
クリスは少し眉を寄せながらも、微笑を浮かべる。
「あのね、でも最近……というか、この前の柳の件から、柳のことが気になってるの」
クリスは続けた。その声には少し迷いがみえる。
「どうしたの? 桐崎さん。なにかあったの?」
鞠也が気遣いながら先を促した。
クリスは少しの間を置いてから、正直な気持ちを打ち明ける。
「実はね、柳をもっと……もっと支えたいっていう気持ちがすごくあって。でも、それがただの友情なのか、それとも……もっと別の何かなのか、自分でもよくわからないの」
リリアと鞠也は少し驚いた表情を見せたが、すぐにクリスを支える態度を見せた。
「クリス、それってもしかしなくても、ラブだろ! 普段から東雲のこと、いつも特別な目で見てるじゃん」
鞠也もうなずき、助言を加えた。
「桐崎さんが東雲くんのことをどれだけ大事に思ってるか、私たちにはよくわかってるわ。でもね、その気持ちが何を意味しているのかは、桐崎さん自身が一番よく知ってるはずのこと」
クリスは友人たちの言葉に心を動かされ、自分の内面と向き合う勇気を持つことを決めた。深く息を吸い込み、宣言する。
「ありがとう、リリア、鞠也。私、自分の気持ちとちゃんと向き合ってみる」
その日の夕暮れ時、クリスはいつもの通り待ち合わせの場所に向かうが、その前に夕陽に照らされた廊下で彼に偶然出会った。
その刹那、心の中で何かが弾ける。柳の声は、クリスにとっての鼓動だ。その声が暗く沈めば、クリスの心も沈む。明るく響けば、クリスの心には光がさす。
今は傷ついているが、その顔はいつもクリスに安らぎをくれた。優しく綻んだ笑顔を向けられると、どうしようもなく幸せが心を満たす。
彼の両手が好きだ。いつもずっと優しく、自分の手を包み込んでくれる。悲しみを溶かして、癒してくれる。
濃い髪色が光を透かして青く輝くのを、綺麗だと思っていた。自分のものとは違う、色素を集めたような影色に光が丸く反射する姿は、クリスを虜にしていた。
整った鼻筋、安心させるように甘い眦。薄く、柔らかな唇。そして一番好きなのは、その両眼に宿る雪原だった。
銀灰色が思索を反映して影を落とす様も、光を反射して輝く瞬間も、どちらも等しく愛おしい。柳の瞳を見つめながら、自分の心の奥底にある真実を感じ取った。
「柳……実はね……私、あんたのことが……!」
クリスの声が震えた。
「ん?」
柳は言葉を待ち、静かにその続きを聞く準備をしていた。
クリスは自分が柳に対して抱いているのが、ただの友情以上の深い愛情であることを自覚した。そしてその感情が自分をどれほど苦しめ、同時にどれほど幸せにしているかを理解した。
「……ごめん。何でもない。帰ろう」
クリスは柳の隣に並び立つと、顔を見られないように半歩先を歩いた。
「あ、うん」
柳が後ろから答え、後をついて歩いてくる。
なぜ、言おうとしてしまったのか。クリスは激情が渦巻く自らの内面に嫌悪感を自覚する。扉を開けられなかった自分に、柳に何ができるというのだろう。自らの存在そのものに苦しみ続ける柳に、なんと言えるというのだろう。
柳への思いはクリスにとって今、あの厚く重い扉と同じだった。
「あっ……」
後ろで柳が、歩道の階段に躓く。クリスは瞬時に気づいて体を支え、転倒を防いだ。少しだけ彼より高い身長が段差によって調整され、目線が並行に交わる。
「柳、やっぱり怪我で?」
「腫れてるから、前が見にくくて。目は開くんだけどね」
言うと、柳はそのままクリスを追い抜くようにして階段を進んだ。
クリスは柳の存在の大きさと、自分の内面が伴わない感情の風が吹き荒れる中、後に続いて歩き出した。
「ねえ、手、繋ごう」
「いいの? クリス、からかわれて恥ずかしいって言ってたじゃない」
「あんたが転ぶ方が、今はイヤ」
「……ふふ、ありがとう」
日が沈んでしまう。街の明かりが自動的に点灯しているが、やはりいつどんな時にでも、彼の姿をこの目に映しておきたい。
クリスは、劇的な事件や少女漫画のような出来事が起こることによってではなく、こういったことはただ日々を過ごす中で結論が出るのだろうと思った。
「……あんたこそ、嫌じゃないの? なかなか背が高くならないって言ってたし……自分より大きな女の子と手を繋いで歩くの、男の子は嫌なんじゃないの?」
「え? クリス、そんなこと気にしてたの」
「……もう! 柳ってほんと、そういうところ!」
「えっ……ごめん」
柳はまだ、きっと自分のことを恋愛の対象として見ていない。ならば今自分が彼に思いを告げたところで、進展はないのかもしれないと思う。
強くなり、いつか言ってみせる。彼に相応しい自分になりたい。その瞬間まで、この言葉は心の中にしまっておくことにしよう。
────柳、だいすき。
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