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第壱章 前夜、凛の章
第弐節 政略結婚の道具
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本能寺の変の、およそ8年前。
ここは近江国の坂本城[現在の滋賀県大津市]。
明智光秀が築き、完成して間もない城である。
「あまりにも酷い!
信長様は、家臣の娘までも政略結婚の道具になさるのですか!」
娘の悲痛な叫びが響いている。
その美しい瞳からは、涙が流れ続けて止まることがない。
「可哀想に……」
悲痛な叫びを聞いた人は皆、胸が締め付けられる思いをしていた。
住んだこともないばかりか、行ったこともない摂津国・有岡城[現在の兵庫県伊丹市]へ行き、会ったこともない、見知らぬ男性と結婚することを命じられた。
これを『政略結婚の道具』という。
父の主である織田信長の命令とあれば、逆らうことなど決して許されない。
光秀の長女として生を受けた凛が自分の力では絶対に変えられない未来……
運命という言葉よりも、むしろ『宿命』という言葉の方が相応しい。
彼女を絶望の淵にまで追い込んだのは、既に愛する相手がいたことだ。
名前を左馬助と言う。
◇
この当時。
身分の高い女性は皆、花嫁修業をするのが習わしであった。
具体的には……
礼儀作法を覚え、歌を暗記し、茶道や書道を習い、箏や笛などの楽器を演奏することなどを指す。
他にも女性特有の嗜みとして、着物や化粧、華道などもある。
それらを凛は比較的早く身に付けていた。
父譲りの賢さゆえだと思われるが、そのどれにも『興味』を抱かなかったらしい。
凛が興味を持つ対象は、人間そのものにあった。
「人は獣[動物のこと]とは全く違う!
本能や感情を持ち、学習して成長するのは同じだけれど……
獣にはなく、人だけが持つものがあまりにも多いのでは?
そうならば……
人とは、どんな『存在』なの?」
「獣に『他人を思いやる心』があるとは思えない。
身近な存在の他は、警戒する対象でしかないのだから。
赤の他人であっても、傷付いた人を見て同情を感じるのは人だけ」
「それに。
人を傷付けた相手に対して憤りを感じるのも人だけ。
人だけが『正義感』を持っている……」
「人だけが己の『生き方』について考え、悩んでいる。
生きる目的を探している!」
「人は、獣とは全く別の……
『特別』な存在なのでは?」
「何らかの意図を以って生み出され、果たすべき使命を与えられていると考える方が自然でしょう?
銭[お金]を増やすこと、楽しむこと、有名になること、このことばかりを追求する生き方が、人らしい生き方であるはずがない!」
「そうならば……
わたしは、どんな生き方をすればいいの?」
時代、人種、性別、年齢を問わず、大勢の人間がこの答えを探し求めている。
◇
屋敷の中では、よく書物を読んでいた。
創作でも実話でも、小説でも日記でも……
そこには『物語』がある。
ときに強く感動し、ときに深く悲しむ。
物語の世界に深く入り込んで出られないこともしばしばあった。
「どうして人は、己の都合ばかり考えるの?」
「だから一つになれず、争いが起こるんでしょう!」
「そして、間違った正義を振りかざして戦を始める!」
「いつもこの繰り返しでは?」
こう呟いていた。
「人は、『なぜ』……
美しい景色に魅了されるのです?」
屋敷の外に出て美しい景色を見ると、一緒に付いてきた従者と侍女たちに難しい質問をしていた。
湖や滝、海岸線などの起伏に富んだ地形、あるいは扇状地や沖積平野などの広大な平地。
どの土地にも無数の植物が生え、季節ごとに様々な彩りを見せ、美しい景観を作り出して観る者を魅了する。
これは火山活動による土砂の堆積、河川による侵食などが気の遠くなるほどの長い年月を費やして生み出された地形だと解明されてはいるが……
人間『だけ』が魅了される理由については全く解明されていない。
「わたくしは、人だけが魅了される理由を聞いているのです。
答えになっていませんが。
神話がどうしたと?
人が面白おかしく作った程度の話に『答え』などあるわけないでしょう」
従者と侍女たちが地域に伝わる神話をいくら説明しても、凛は何の興味も抱かず全て聞き流していたようだ。
◇
加えて。
「これらは、誰が、何を目的に造ったのですか?」
草木や花、動物や虫などの生物、そして人間自身についてこう聞かれると、従者と侍女たちは困り果てた。
凛が現代の教科書を読む機会があれば、こう感想を漏らしたに違いない。
「あなた方は……
全てのモノが何もない所から勝手に生み出され、挙げ句の果てに人間が猿から生じたと聞いて何の疑問も抱かず、おかしいとすら思わなかったのですか?
『科学とかいう代物が導き出した答えがその程度とはな』
わたくしの生きた時代の人々なら、こう言うと思いますが」
と。
◇
「あの方は何をしているのですか?
その仕事には、どんな目的があるのですか?」
働く人々を見る度に凛は質問し……
従者と侍女たちが答えられないと、直接本人に尋ねようとしてよく止められていた。
「わたくしが尋ねた方が早いではありませんか」
こう言って、更に困らせていたようだ。
もっとも。
凛に尋ねられた人は皆、彼女に好感を持ったようである。
自分のことを理解しようと努める相手に好感を持つのは当然だろう。
人から愛される素質を持っているのかもしれない。
◇
加えて。
凛は、女性にも関わらず雑談を苦手にしていた。
雑談を雑談で返すことができない。
「なぜ、そんな展開になったのですか?」
「思い込みを省いて、事実だけを教えてください」
「そういう一方的な視点ではなく、他の視点からも考えてみたいのですが」
およそ雑談には似合わない返し方ばかりだ。
「分かって欲しくて言っただけなのに」
「全然楽しくない」
相手からはそう思われていたに違いない。
冷淡な人間だと思われる場合もあったらしいが……
それだけは彼女に全く当てはまらないと言えるだろう。
彼女はそもそも、冷淡とは真逆で感情豊かな人物である。
感受性が強いあまり、ついつい相手に感情移入してしまう。
思いやりがあって優しい反面、感情に流されやすく喜怒哀楽が激しい。
こんな並外れた純粋さを持つ人間が、他人に対して冷淡になれるはずがないのだ。
それでもやはり……
雑談を苦手にしているのは致命的であった。
つまらない人間だと思われ、友達になる人間が限られる。
同年代の女性の中でよく『孤立』していた。
◇
凛の理解者。
両親を除くと侍女頭[侍女の代表のこと]の阿国ともう一人の侍女・比留だろう。
この2人の他にもう一人、左馬助がいた。
凛より20歳以上も年上ながら、不思議と馬が合っていたらしい。
同じ価値観を持つ人間同士に年の差は関係ないのかもしれない。
恋をする年齢になると……
左馬助がその対象となるのは、ごく自然の成り行きであった。
それは彼も同様だろう。
凛が大人へと近付くにつれ、彼女への意識が変わっていくのだから。
妹のような存在ではなく『女』として。
やがて大人になり、恋に愛が加わった。
互いに生涯を共にしたい相手になっていた。
凛の想いも、左馬助の想いも、父はよく知っている。
左馬助は父が最も信頼する家臣でもある。
結婚相手として何ら問題はない。
適齢期となれば、すぐに左馬助の妻にするつもりだったのだ。
信長の命令は……
父と娘の願いを見事に打ち砕いてしまった。
◇
「凛様。
お父上様がお呼びにございます」
この日。
侍女頭・阿国の様子は、あまりにも異常であった。
顔面が蒼白になっている。
「大丈夫ですか?
阿国」
相手を心配するあまり……
凛は、自分が呼ばれていることにすら気付いていない。
「いえ。
何でもございません。
急ぎ、向かいましょう」
こう言われてようやく気付くほどであった。
阿国と比留を連れて父の待つ部屋へと向かう。
まさか、自分の身にこれから起きることなど知りようがない。
「父上、参りました。
凛でございます」
部屋の入口で頭を下げた。
父親とはいえ、光秀は明智家の主人でもある。
「凛、ここへ」
席が用意されていた。
「かしこまりました」
頭を上げたとき、事態の深刻さに気付く。
父の様子もまた異常であったからだ。
「凛。
そなたに織田信長様よりの命令を伝える。
『明智光秀の長女、凛。
摂津国へ行き、荒木村重の長男・村次に嫁ぐように』」
え?
今、何と?
わたしが摂津国へ行って、荒木村重の長男に嫁ぐ?
荒木家と言えば、摂津国を治める立派な『大名』のはず。
家臣の娘に過ぎないわたしが、どうして大名の長男に?
何か悪い夢でも見ているの?
【次節予告 第参節 天下布武、その意味とは】
織田信長からの命令は、あまりにも奇妙でした。
後継者になれない次男や三男ならまだしも……
長男の嫁に、家臣の娘をもらって喜ぶ大名などいるわけがないのです。
ここは近江国の坂本城[現在の滋賀県大津市]。
明智光秀が築き、完成して間もない城である。
「あまりにも酷い!
信長様は、家臣の娘までも政略結婚の道具になさるのですか!」
娘の悲痛な叫びが響いている。
その美しい瞳からは、涙が流れ続けて止まることがない。
「可哀想に……」
悲痛な叫びを聞いた人は皆、胸が締め付けられる思いをしていた。
住んだこともないばかりか、行ったこともない摂津国・有岡城[現在の兵庫県伊丹市]へ行き、会ったこともない、見知らぬ男性と結婚することを命じられた。
これを『政略結婚の道具』という。
父の主である織田信長の命令とあれば、逆らうことなど決して許されない。
光秀の長女として生を受けた凛が自分の力では絶対に変えられない未来……
運命という言葉よりも、むしろ『宿命』という言葉の方が相応しい。
彼女を絶望の淵にまで追い込んだのは、既に愛する相手がいたことだ。
名前を左馬助と言う。
◇
この当時。
身分の高い女性は皆、花嫁修業をするのが習わしであった。
具体的には……
礼儀作法を覚え、歌を暗記し、茶道や書道を習い、箏や笛などの楽器を演奏することなどを指す。
他にも女性特有の嗜みとして、着物や化粧、華道などもある。
それらを凛は比較的早く身に付けていた。
父譲りの賢さゆえだと思われるが、そのどれにも『興味』を抱かなかったらしい。
凛が興味を持つ対象は、人間そのものにあった。
「人は獣[動物のこと]とは全く違う!
本能や感情を持ち、学習して成長するのは同じだけれど……
獣にはなく、人だけが持つものがあまりにも多いのでは?
そうならば……
人とは、どんな『存在』なの?」
「獣に『他人を思いやる心』があるとは思えない。
身近な存在の他は、警戒する対象でしかないのだから。
赤の他人であっても、傷付いた人を見て同情を感じるのは人だけ」
「それに。
人を傷付けた相手に対して憤りを感じるのも人だけ。
人だけが『正義感』を持っている……」
「人だけが己の『生き方』について考え、悩んでいる。
生きる目的を探している!」
「人は、獣とは全く別の……
『特別』な存在なのでは?」
「何らかの意図を以って生み出され、果たすべき使命を与えられていると考える方が自然でしょう?
銭[お金]を増やすこと、楽しむこと、有名になること、このことばかりを追求する生き方が、人らしい生き方であるはずがない!」
「そうならば……
わたしは、どんな生き方をすればいいの?」
時代、人種、性別、年齢を問わず、大勢の人間がこの答えを探し求めている。
◇
屋敷の中では、よく書物を読んでいた。
創作でも実話でも、小説でも日記でも……
そこには『物語』がある。
ときに強く感動し、ときに深く悲しむ。
物語の世界に深く入り込んで出られないこともしばしばあった。
「どうして人は、己の都合ばかり考えるの?」
「だから一つになれず、争いが起こるんでしょう!」
「そして、間違った正義を振りかざして戦を始める!」
「いつもこの繰り返しでは?」
こう呟いていた。
「人は、『なぜ』……
美しい景色に魅了されるのです?」
屋敷の外に出て美しい景色を見ると、一緒に付いてきた従者と侍女たちに難しい質問をしていた。
湖や滝、海岸線などの起伏に富んだ地形、あるいは扇状地や沖積平野などの広大な平地。
どの土地にも無数の植物が生え、季節ごとに様々な彩りを見せ、美しい景観を作り出して観る者を魅了する。
これは火山活動による土砂の堆積、河川による侵食などが気の遠くなるほどの長い年月を費やして生み出された地形だと解明されてはいるが……
人間『だけ』が魅了される理由については全く解明されていない。
「わたくしは、人だけが魅了される理由を聞いているのです。
答えになっていませんが。
神話がどうしたと?
人が面白おかしく作った程度の話に『答え』などあるわけないでしょう」
従者と侍女たちが地域に伝わる神話をいくら説明しても、凛は何の興味も抱かず全て聞き流していたようだ。
◇
加えて。
「これらは、誰が、何を目的に造ったのですか?」
草木や花、動物や虫などの生物、そして人間自身についてこう聞かれると、従者と侍女たちは困り果てた。
凛が現代の教科書を読む機会があれば、こう感想を漏らしたに違いない。
「あなた方は……
全てのモノが何もない所から勝手に生み出され、挙げ句の果てに人間が猿から生じたと聞いて何の疑問も抱かず、おかしいとすら思わなかったのですか?
『科学とかいう代物が導き出した答えがその程度とはな』
わたくしの生きた時代の人々なら、こう言うと思いますが」
と。
◇
「あの方は何をしているのですか?
その仕事には、どんな目的があるのですか?」
働く人々を見る度に凛は質問し……
従者と侍女たちが答えられないと、直接本人に尋ねようとしてよく止められていた。
「わたくしが尋ねた方が早いではありませんか」
こう言って、更に困らせていたようだ。
もっとも。
凛に尋ねられた人は皆、彼女に好感を持ったようである。
自分のことを理解しようと努める相手に好感を持つのは当然だろう。
人から愛される素質を持っているのかもしれない。
◇
加えて。
凛は、女性にも関わらず雑談を苦手にしていた。
雑談を雑談で返すことができない。
「なぜ、そんな展開になったのですか?」
「思い込みを省いて、事実だけを教えてください」
「そういう一方的な視点ではなく、他の視点からも考えてみたいのですが」
およそ雑談には似合わない返し方ばかりだ。
「分かって欲しくて言っただけなのに」
「全然楽しくない」
相手からはそう思われていたに違いない。
冷淡な人間だと思われる場合もあったらしいが……
それだけは彼女に全く当てはまらないと言えるだろう。
彼女はそもそも、冷淡とは真逆で感情豊かな人物である。
感受性が強いあまり、ついつい相手に感情移入してしまう。
思いやりがあって優しい反面、感情に流されやすく喜怒哀楽が激しい。
こんな並外れた純粋さを持つ人間が、他人に対して冷淡になれるはずがないのだ。
それでもやはり……
雑談を苦手にしているのは致命的であった。
つまらない人間だと思われ、友達になる人間が限られる。
同年代の女性の中でよく『孤立』していた。
◇
凛の理解者。
両親を除くと侍女頭[侍女の代表のこと]の阿国ともう一人の侍女・比留だろう。
この2人の他にもう一人、左馬助がいた。
凛より20歳以上も年上ながら、不思議と馬が合っていたらしい。
同じ価値観を持つ人間同士に年の差は関係ないのかもしれない。
恋をする年齢になると……
左馬助がその対象となるのは、ごく自然の成り行きであった。
それは彼も同様だろう。
凛が大人へと近付くにつれ、彼女への意識が変わっていくのだから。
妹のような存在ではなく『女』として。
やがて大人になり、恋に愛が加わった。
互いに生涯を共にしたい相手になっていた。
凛の想いも、左馬助の想いも、父はよく知っている。
左馬助は父が最も信頼する家臣でもある。
結婚相手として何ら問題はない。
適齢期となれば、すぐに左馬助の妻にするつもりだったのだ。
信長の命令は……
父と娘の願いを見事に打ち砕いてしまった。
◇
「凛様。
お父上様がお呼びにございます」
この日。
侍女頭・阿国の様子は、あまりにも異常であった。
顔面が蒼白になっている。
「大丈夫ですか?
阿国」
相手を心配するあまり……
凛は、自分が呼ばれていることにすら気付いていない。
「いえ。
何でもございません。
急ぎ、向かいましょう」
こう言われてようやく気付くほどであった。
阿国と比留を連れて父の待つ部屋へと向かう。
まさか、自分の身にこれから起きることなど知りようがない。
「父上、参りました。
凛でございます」
部屋の入口で頭を下げた。
父親とはいえ、光秀は明智家の主人でもある。
「凛、ここへ」
席が用意されていた。
「かしこまりました」
頭を上げたとき、事態の深刻さに気付く。
父の様子もまた異常であったからだ。
「凛。
そなたに織田信長様よりの命令を伝える。
『明智光秀の長女、凛。
摂津国へ行き、荒木村重の長男・村次に嫁ぐように』」
え?
今、何と?
わたしが摂津国へ行って、荒木村重の長男に嫁ぐ?
荒木家と言えば、摂津国を治める立派な『大名』のはず。
家臣の娘に過ぎないわたしが、どうして大名の長男に?
何か悪い夢でも見ているの?
【次節予告 第参節 天下布武、その意味とは】
織田信長からの命令は、あまりにも奇妙でした。
後継者になれない次男や三男ならまだしも……
長男の嫁に、家臣の娘をもらって喜ぶ大名などいるわけがないのです。
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