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【本編】
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しおりを挟むどうやって池田の家に帰ってきたのか、あまり覚えていない。
けど、気付くと真っ黒シーツの上で膝を抱えていた。
外は既に暗くなっている。
夕飯をまだ作っていないけど、どうしても作る気力が湧いてこない。
瞼の裏に焼き付いた光景が繰り返し繰り返し脳内で再生されて、頭まで痛くなってきた。
家に知らない女がいた。
エプロン付けて、まるで自分の家のような顔をして。
ノックも無しに自宅に繋がるドアを開いて、おやつよ、とか……ちょっと何それどちらの新婚さんですか? みたいな。
俺がいない間に兄貴が連れ込んだんだ。
分かっている。
分かっているけど、その事実が受け入れ難い。
鉛みたいにどっしり背中から圧し掛かってくるだけで、身体の中に巧く入ってこない。
兄貴、彼女とか居たんだな。
女なんか興味ありませんみたいな顔しといて……いや、エロビ持ってんだから興味ないわけないか。
違う、そうじゃなくて。
特定の相手が居るなんて知らなかった。
高校を卒業してから仕事一筋だったくせに、一体いつの間に。
というより、家の中に女を連れ込む甲斐性が兄貴にあったことに驚きだ。
俺を叩き出した兄貴が、一体どんな顔をして女を部屋に連れ込んだんだろう。
分からない。
分かりたくもない。
どうしよう。
「涼二」
名前を呼ぶ声と共に、ドアが開いた。
人の気配と共に、するりと冷気が足元から這い上がってくる。
池田だ。
そう思っても伏せた顔を上げる気になれなかった。
帰ってくるなり部屋に閉じ篭った俺に、池田は最初何かと声をかけてきていた。
けど、全部無視していればすぐに諦めて部屋から出て行った。
……それから何時間くらい経ったんだろう?
空腹もそろそろ限界なのかもしれない。
「なあ、どうしたのよ。言わなきゃ分かんねえよ。何かあったか?」
池田がベッドに腰を下ろすと、それに合わせてゆらりと身体が波打つ。
頭に乗せてきた掌をゆるゆると払いのけると、どこか疲れたような溜息が聞こえてきた。
「なあって、何か喋れよ。声聞かせて」
擦り寄ってくる肩と肩がぶつかる。
それから逃げるみたいに身体を傾かせれば、そのままぱたんとベッドに転がった。
後を追うように池田の身体は……圧し掛かってはこない。
代わりに、寄り添うように背後に身を横たえる気配があった。
「……玖朗」
「なに」
ぽつりと呼びかけると、返事はすぐにあった。
こんなことを池田に訊ねたところで意味はない。
状況は変わらない。
分かっていても、疑問を口に出さずにはいられなかった。
「兄貴に彼女がいるとかって……知ってた?」
「政一に?」
反芻するのに、顔を伏せたままこくりと頷く。
頑なに閉じていた口を開いたとはいえ、それでも顔を上げる気にはなれなかった。
多分、酷い顔をしているだろうから。
背中から思案するような気配が伝わってくる。
少し離れていた身体がゆるゆると擦り寄ってきて、腹に腕が回された。
「まあ……心当たりなら、ある。それが?」
「家にいた」
エプロンつけて、当たり前のように、まるで新妻みたいな顔をして。
「何、家帰ってたの? 忘れ物?」
「違う。夏休み……終わるより先に家に帰ろうと思って。その相談しようと思って」
ぽつりぽつりと言葉を紡ぐと、腹に回されていた手がぴくりと震えた。
本当は、兄貴を味方に付けてから池田には言いたかった。
けど、兄貴は俺の存在なんかすっかり忘れて家に女連れ込んで、三時のおやつまで作ってもらっている始末だ。
もう兄貴は頼れない。
「帰るって、何で? オレが手出すから?」
「……違う。新学期始まるのに、やっぱ色々準備とかしないといけないし、家じゃないと出来ないこともあるし……」
さらりと嘘を吐けたのは、多分防衛本能みたいなものだろう。
兄貴に忘れられて、その上池田まで怒らせたらもう無茶苦茶だ。
今は兄貴のことで頭がいっぱいなのに、池田にまで煩わせられたくない。
我ながら呼吸でもするようにするりと出てきた嘘に、池田は納得したのかしていないのか、ただ「ふうん」と呟いた。
また身体が擦り寄ってきた。
背中に完全に密着してきた体温に、何でか泣きそうになった。
自分でも意味が分からないと思うのに、勝手に涙腺が緩む。
「政一の彼女っつーなら、それはさくらだ」
「さくら?」
知らない名前だ。
というよりそもそも、兄貴の口から女の名前なんて聞いたことがない。
「ま、オレが知ってる時から別れてなけりゃ、の話だけど……多分、間違いないだろうな。アイツさくらにべた惚れだったし」
「……」
どこかしみじみと呟く池田の声に、ぎゅっと心臓が痛んだ。
俺の知らない兄貴を、池田は平然として語る。
兄貴がさくらにべた惚れ?
そんなの俺は聞いていない。
聞いたことがない。
大体、一人で最強の兄貴が誰かに心を寄せること自体が想像できない。
あの性格で、一体どんな顔をして女に愛を語るというのか。
全然似合わない。
全然。
「……」
違う。
そんなことを考えたいんじゃない。
そんな風に人格を否定したいわけじゃない。
ただ、どうしよう、と。
「で、帰省の相談に行ったら家にさくらがいて? 驚いて飛んで帰ってきたのか」
「……」
問いかけてくる言葉は、語尾に疑問符が付いている割にまるで独り言のようだった。
次いで、どこか呆れたような溜息が聞こえてくる。
それに対して何だよと噛み付く気にはなれなかった。
黙って家に帰ったことそれ自体が後ろめたい。
胃の辺りがぎゅっと痛むのを、奥歯を噛み締めてやり過ごした。
それに、兄貴に彼女が居ることを知って驚いて、家に居るのを見て大ダメージを受けて……これじゃあ本当にブラコンだ。
分かっている。
けどどうしようもないだろう。
うちの長は兄貴だ。
兄貴に否定されたら俺は生きていけない。
長い間留守にして、その間に知らない人間が家に入り込んで……いざ帰ろうと思ってもお前はもう要らないと言われたら?
新婚さんだから邪魔をするなと言われたら?
兄貴のたった一言で、帰る家がなくなる。
それが怖い。
「家に……帰れなくなったらどうしよう」
一ヶ月、いや、四十日は思ったよりも長い。
その間に兄貴はすっかり俺のいない生活に慣れて、女を連れ込む余裕まであって、普通に仕事をして、三時にはおやつまで作ってもらってる。
突然俺が顔を覗かせても、今更と言われるかもしれない。
兄貴にとっては、俺はもう過去の人間になっているかもしれない。
俺はずっと家に帰りたかったけど、兄貴にとってはそうじゃなかった。
寧ろ、俺がいないほうが自由に出来てよかったのかもしれない。
「……ッ、」
不意に喉が引き攣って、慌てて掌で唇を塞いだ。
嗚咽のような声が漏れそうになった。
腹に力を込めて震えかけた肩を鎮めはしたけど、もしかしたら気付かれてしまったかもしれない。
絡んでくる腕の力が少しだけ強まって、頬をすり寄せるように池田が軽く身動ぎした。
「……帰れなくなったら、うちの子になれば良いじゃん。あの客間、お前にやるよ」
静かな部屋の中に、静かな池田の声が響いた。
また喉が引き攣った。
ひく、と震えた後、呼吸が止まった。
優しい声音に、視界が霞む。
「……て、そういう問題じゃねえか」
乾いた笑みを漏らす様は、渾身のギャグが滑って仕方なく自分で笑うみたいな虚しさが漂っていた。
今、池田はどんな顔をしているんだろう。
ふとそんなことが気になったけど、振り向くことは出来なかった。
池田の表情を確かめるのが、何となく怖い。
怒っているかもしれないし、笑っているかもしれないし、呆れているかもしれない。
そのどれも違うかもしれないし、全部当てはまっているかもしれない。
暗闇に一人放り出されたような心許なさに、追い討ちをかけるように池田の反応まで覗き見る勇気が出ない。
自分を抱き締めるように身体に腕を回して力を込めれば、ひとまず身体は落ち着く。
けど、それだけじゃ心が埋まらない。
後から後から湧いて出る不安を紛らわせる術が分からない。
兄貴に直接聞ければ良いのは分かっている。
けど、聞くのが怖い。
もし要らないと言われたら、もうどうしたらいいのか分からない。
帰りたいと帰れないかもしれないが頭の中でせめぎ合って、息が苦しくなる。
「なあ涼二」
ふと声をかけられて、ぎゅっと閉じていた目を開く。
相変わらず池田は背中にくっ付いていて、離れる様子は微塵も無い。
ただ、時折あやすみたいに掌が甘く腹を撫でてくる。
「追い出してやろっか」
次いで投げられた言葉の意味が、咄嗟に理解できなかった。
何を、と問うために俺が振り向くよりも先に、池田がひょいと上体を起こして顔を覗き込んでくる。
見上げれば、薄闇の中でも綺麗に煌めく灰色の目が間近に迫っていた。
優しい声音とは裏腹に、向けてくる顔は殆ど表情が無い。
「さくら」
何を、と問うよりも先に池田がまた口を開いた。
底冷えするような悪寒が、背筋を這った。
翌朝目を覚ますと、池田の姿がベッドから消えていた。
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