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【本編】
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しおりを挟む乾いた音と共に、目の前に星が飛ぶ。
ぶたれた頬が瞬く間に熱を持つ。
殴られることは予想していた……けど、やっぱり痛い。
白状すると、俺はあんまり殴られ慣れていない。
兄貴は放し飼いにされた怪獣みたいだけど、それでも手を上げてくることは滅多にないからだ。
親がいなくなり二人になってから、喧嘩は多々あったけど殴られたのは数える程度。
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兄貴はそういうことを酷く嫌う。
気に入らないことははっきりと口に出して訴えろ、筋の通らないことはするな、と。
俺が何かをやらかしたときは、決まってそう説教してくる。
「自分から消えといて、よくもまあのこのこ顔出せたもんだな」
さらりと吐き出される冷たい言葉に、奥歯を噛み締める。
条件反射みたいに噛み付き返そうとする闘争本能を、理性で踏み潰す。
ともすれば項垂れそうになる頭を無理矢理引き起こし、見下ろす視線を受け止める。
「言い訳は」
「ない。ごめん」
目を見てはっきりと言い放てば、兄貴はふんと鼻を鳴らして踵を返した。
お説教終了。
口先だけの謝罪は何でか見透かされて懇々と悪態を吐かれるけど、そうじゃないときの引き際はあっさりとしたものだ。
嘘と本当をどう見極めているのかはいまだに分からないけど、的中率は百パーセント。
野性の勘だろうか。
ちらりと頭の片隅にそんなことを思いながらも、振り向かず店の中に入っていくその背中を追う。
一連の流れを見ていた池田は、兄貴がシャッターを潜るなりびっくり眼を引っ込めた。
「……過保護でも手上げることあるんだな。びっくり」
場違いに能天気なその感想に、多分兄貴が睨みを効かせたんだろう……池田が軽く肩を竦めて舌を出した。
こういう態度を見ると、池田も元ヤンなんだとしみじみ思い出す。
敵意を向けられることにあまりにも無頓着だ。
兄貴は既に俺とも池田とも話をする気はないらしく、ガラス戸を開けて事務所に入ってしまった。
そんな兄貴の背中を、後ろ髪引かれる思いでちらちら盗み見しつつ池田にも目を向ける。
池田は視線に気付くと、僅かに目を細めて手を伸ばしてきた。
未だ熱を持つ頬を、指が撫でてくる。
と、違和感に気付くと同時に、は、と感嘆の声が漏れた。
「玖朗、手」
「ん? ああ……今朝やっと外れた」
ギプスが無い。
視線に気付いた池田が、ほら、と左腕を捲くる。
右腕に比べてやっぱりほっそりとしてしまった左腕を隠すために、長袖のシャツを羽織っているんだろう。
袖を捲くって差し出してくる腕を思わず触った。
撫でるというよりは掴み、減ってしまった筋肉の奥にあるしっかりとした骨の感触を確かめる。
池田が手を開閉させれば、連動して中が動く。
そんな当たり前のことにほっとして息が漏れた。
「……よかったな」
これで池田は元通りだ。
厳密に言えば、筋力が戻るまでは元通りとは言えないかもしれないけど……それでも、見た目だけならすっかり元通りだ。
こうなってくると、やり残しているのはたったの一つだけ。
ガラス戸越しの兄貴にちらりと目を向ける。
「戦況は?」
池田の来訪の目的は、考えるまでもなく分かっている。
きっと仲直りのためだ。
そして、兄貴のあの態度を見るに、状況はやっぱり芳しくない。
「まあまあ、かな」
ぽつりと呟く池田の声は、さしてがっかりしている風にも聞こえない。
不審に目を上げると、池田は兄貴じゃなく俺を見ていた。
俺を、というより……正確に言えば、ぶたれた頬を、だ。
また手が伸ばされて、頬に触る。
赤くなっているのかもしれないそこを、その色を拭おうとでもするみたいに何度も撫でる。
「……平気だよ。あんま痛くないし」
ちょっと嘘だけど。
けど、その仕草があんまりしつこいものだから、思わず声が漏れた。
「平手って時点で手加減してくれてんだよ。もっと酷くなるとゲンコが飛んでくるから」
「おっかねえな」
「ごくごくたまに、だけどな」
ひっそりと微笑する池田に、苦笑を返す。
眼前に迫っていた胸に拳を当てて、踵を返す。
池田の「仲直り」が巧くいっていない責任は、俺にある。
そもそも俺がごねたのが原因だ。
片山さんちの息子が片山さんちに帰りたいといって何が悪い。
そう思った俺は、間違いじゃなかった。
兄貴が俺に「出て行け」と言うことは、絶対にない。
俺はいつでもここに帰ってきて良いんだから……だったらもう、素直に言ってしまおう。
実際に兄貴を見て、改めて池田を見て、すとんと定められていた場所に落ちてくるみたいに自然とそう思えた。
ぶたれたときの衝撃で、腹にわだかまっていたもやもやとしたものが耳から出て行ったのかもしれない。
あの日、兄貴とさくらが一緒に居る場面を見て、酷く落ち込んだと言おう。
そんな俺を見かねて、池田が助けてくれたんだと言おう。
だから池田は悪くない。
けど、家に帰りたいと言った俺だって悪くない。
悪いのは、はっきりと不満を口に出さずに勝手に落ち込んだ、俺だ。
「兄ちゃん、話あんだけど!」
勢い任せにガラス戸を引き、気合を込めてそう怒鳴る。
兄貴の視線はちらりとも寄越されず、
「俺はねえ」
返事もこの上なくつれない。
わざわざ店内に背を向けるみたいにカウンタの外側に座っていた兄貴の隣に無理矢理腰を下ろす。
兄貴が池田に対して怒っているのは、俺をくれと言ったからだ。
さくらがいるから、涼二は要らないだろ、と。
俺とさくらを天秤にかけるみたいな物言いをしたから、そんな池田に対して怒っている。
さくらがそう言っていた。
正直なところ、兄貴のブチ切れっぷりの理由にはちょっとパンチが足りないような気もするけど……他でもない、さくらの言ったことなんだから間違いではないんだろう。
だったら、その時の池田の言葉は本心じゃないと分からせればいい。
池田自身が「あの時の言葉は嘘だよ」と告げたところで何の信憑性も感じられないが、当事者にしてすっかり第三者扱いの俺が言えばまだマシかもしれない。
「なあ、玖朗と仲直りしろよ。許せよ」
じろりと視線が向けられた。
攻撃してくるわけじゃないけど、聞く耳持ちませんの鉄壁の防御だ。
それに負けじと身を乗り出し、向けられてくる視線をがっちりと捕まえる。
「そもそも、俺が悪いんだよ。ホームシックになって家帰りたいってごねたから、玖朗はわざわざ兄ちゃんが俺を迎えに来るように仕向けてくれただけなんだよ。吹っかけたのは本心じゃない。俺の所為で喧嘩すんなよ。仲良かったんだろ?」
「良かねえよ」
「嘘吐け」
否定を即座に切り返す。
兄貴は怪獣だけど、人間語が通じないわけじゃない。
一連の流れにちゃんと道筋が通っていると分からせれば、納得するはずだ。
池田の突飛な言動の原因が俺にあると分かれば、兄貴が池田に怒る理由もなくなる。
「夏休み終わるよりも先に家に帰りたがった俺が悪いんだよ。だから玖朗は全」
「はいそこまで」
口許を掌が覆ってきた所為で、言葉が途中で途切れた。
むが、と格好の悪い声を上げると同時に顔を上げて見れば、知らぬ間に背後に迫っていた池田がにっこり兄貴に笑顔を向けている。
「懐柔されんなよ政一」
笑顔をそのままにきっぱり言い放った池田の言葉に、ぎょっとした。
「オレが言ったことは全部、本心で事実だ。平和主義の涼ちゃんに騙されないでね、お兄ちゃん?」
「……池田」
「……!」
ぼそりと吐き出された兄貴の声に、背筋が寒くなった。
明らかにトーンが下がった。
慌てて口を挟もうとむがむがもがくが、完全復活の池田の手は口から離れない。
ちょっと待てと言いたいのにそれも叶わず、ただ目を瞠って兄貴の表情の変化を見守るしかない。
馬鹿。
池田の馬鹿。
何だってわざわざ火に油を注ぐような真似をするんだ。
仲直りしに来てたんじゃなかったのか?
つれない兄貴の後を付け回して、ごめんと謝り倒していたんじゃなかったのか?
平和主義で何が悪い。
俺は、自分が原因で起こった問題を無視できるほど心が強くない。
二人の和解を望んで何が悪い。
「涼に触るな」
ゆらりと立ち上がった兄貴の手が、池田の腕を掴む。
池田は挑発の微笑を消さない。
いつぞやのパペットの夢が脳裏に甦る。
「本当のお母さん再び」の予感に、背筋が震え上がる。
完全復活の池田と、怪獣の兄貴に引っ張りまわされたら俺は千切れるかもしれない。
「触るよ。オレは触りたいときに触りたいものに好きに触る。オレにコイツを引き渡したのが、お前の敗因だ」
駄目だ。
険を帯びた兄貴の気配に、頭から血の気が引いていく。
口に張り付く掌を引っ掻き引っ掻き、拘束からの解放を促す。
早く早く早くと急き立ち、心臓がどくどく脈打つ。
この雰囲気じゃ、手が出てくるのも時間の問題だ。
それまでに何とかしないとと思うのに、肝心の言葉が発せない。
「涼二はいつまでもお前だけの「涼」じゃねえよ。いい加減、弟離れしろ」
「!」
俺にはいつまでも俺の兄貴だって言ったくせに。
本当に、池田の言うことは信用が出来ない。
所違えば発言も変わる。
ころころとその場に合わせて言葉を選ぶ池田は、本当に本当に信用に足りない。
けど。
「……悪党が」
「いい奴だよ!」
手が取れた。
と同時に怒鳴り返していた。
今にも手が出てきそうな兄貴を、目で牽制する。
内心はおっかなびっくりだけど、それは悟られないように。
「玖朗はいい奴だよ! 短気でちょっとおっかないとこもあるけど、悪党なんかじゃねえよ! 俺より付き合い長いんだ、それくらい分かってんだろ!」
怒鳴る声に、ぎり、と奥歯を噛み締める音が聞こえたような気がした。
ぶちん、と何かが切れる音を聞いたような気がした。
射殺す視線が、池田から俺に標的を変える。
「お前、強姦されといてよく庇えるな!」
「はいッ?」
憤懣遣る方なしといった体の兄貴の怒声に、素っ頓狂な悲鳴が上がった。
ごーかん。
……強姦?
不穏な単語に思考が氷結、と同時に氷解。
光の速さで背後から抱え込んでくる池田を振り仰ぐ。
「……」
まさか、言ったのか。
ベッドの上でくんずほぐれつ、夜の格闘技をかました事実を、池田は兄貴に言ったのか?
「それとも何か?」
ドスの効いた声が、腹の底辺を撫でる。
兄貴の怒りの原因が……本当の原因が、やっと分かった。
「お前、合意して池田と寝たってのか」
かちゃかちゃ頭の中で電卓を叩くみたいな音がする。
冷静になれ。
ここは冷静になれ。
状況を正しく把握して、今度こそ間違った方向に向かわないようにしないといけな……出来るか!
池田がへらりと笑う。
驚愕の表情から俺の思考を正しく読み取り、えへへとそれを誤魔化すみたいに。
「ごッ、合意だよッ!」
どもった。
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