凶悪ハニィ

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【本編】

88【了】

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 池田の主張は最初から変わらなかった。
 怯えるな怖がるな側に居るのを嫌がるな。
 やらせろ抱かせろ逃げ出すな。
 時に高圧的に、時にしおらしく……けど主張することはずっと一緒だった。
 我儘を言え甘えろと。
 何でもしてやるからと。

「ちょっと涼ちゃん、そろそろ出てこない?」

 つんと布団が引っ張られる。
「……いやだ」
 それをそのまま引き剥がされまいと、端を握ってみのむしを強化する。
 結局、夕飯の時間までに家に帰ることは出来なかった。
 ……それどころか、その日の間中に帰ることすら出来なかった。
 気付いたら翌日の朝だったからだ。
 知らない間に身体は客間のベッドに転がっていて、ぼんやり鈍い頭で一体何がどうなっているんだろうと考えている途中で、池田は部屋に入ってきた。
 状況が分かっていない俺に対し、池田は肩を竦めるようにして苦笑した。
「だって、オレのベッドもうぐちゃぐちゃでさ……使い物になんねえんだもん」
 と。
 一体何を言っているのか咄嗟に分からず、分かった瞬間から布団から出られなくなった。
 瞬間湯沸かし器みたいに頭に血が上り、とてもじゃないが池田と顔を合わせていられなくなった。
 昨日だけで、一体何度抱かれた?
 何回いかされた?
 どのくらいキスした?
 分からない覚えていない数え切れていない。
 腕を伸ばして迫り来る頭を捕まえると、擦り寄ってくる身体はただ可愛くて可愛くて可愛くて、夢中で何度も唇を寄せた。
 自分から。
 我に返ると居た堪れない。
 酷い醜態を晒した。
 顔なんて見られるわけがない。
「なあ涼二、顔くらい見せろよ」
 池田は何度か部屋にやってきて、こうやって声をかけてきた。
 けど、その顔が見せられないんだから布団から出て行くことなんか出来るわけがない。
 身体が、特に腰が、だるくて重くて鈍く痛む。
「なあ」
 つんと布団が引っ張られる。
 けど、顔なんか出せるわけがないどんな顔をして池田を見たら良いのか分からない。
「……家、帰んの怖い」
 今度はゲンコがくるかもしれない。
 勢いだけで、俺はなんてことをしてしまったんだろうか。
 布団の中からぽつりと呟けば、ひっそり笑う声が聞こえてきた。
 布団越し、身体の上に何かが乗っかってきた。
 池田の腕か身体か、どっちかだ。
 羽毛の壁に隔たれているはずなのに、体温が伝わってくるようで眩暈がした。
「だったらさ、うちの子になれば良いじゃん」
「……」
 忍び笑いでうっとりと囁く声に、返事が出来なかった。
 軽い口調だけど、池田は冗談を言っているわけじゃない。
 それが分かってしまったから、もう気楽に「馬鹿じゃねえの」と跳ね除けることが出来ない。
 池田の主張はいつでもいつでも一緒で変わらない。
 怯えないで怖がらないで側に居てと。
 やりたい抱きたい逃げ出さないでと。
 我儘言って甘えてきてよなんでもするから――側に居てと。


 *****


 新学期が始まってから二週間、生活はすっかり元通りになった。
 朝目を覚まして準備をして、学校に行って帰ってくる。
 家事は兄貴と半分この当番制。
 大枚握り締めての凱旋は、結局出来なかった……いや、しなかった。
 一ヶ月のバイト代として惜し気もなく差し出された金を、結局俺が受け取らなかったからだ。
 だって、友達……いや、何て言ったら良いかよく分からないけど、兎に角、俺と池田の間で金のやり取りは何か違うだろ、と。
 そんな風に思ったから要らないと突っぱねた。
 予定より二日遅れて家に帰ると、兄貴は池田をゲンコで殴りつけ、俺には平手を食らわせた。
 怒り心頭で暫くは目も合わせてもらえなかったけど、結局最後まで「出て行け」という言葉は口にしなかった。
 そしてなんと、池田に出入り禁止令が出た。
 お前暫く顔を見せるなと高らかに言い放った兄貴に、俺は青くなったけど池田は案外けろりとしていた。
 曰く、「暫く」なんて言葉を使った時点で、アイツが折れたも同じだと。
 そんな風に言って笑っていたけど、呑気そうに笑えるその神経が俺には理解できなかった。
 兄貴と池田の関係は不思議だ。
 途切れそうで途切れない。
 途切れているように見せかけて、実は底の方でこっそり繋がっている。
 そんな風に見える。
 二週間のうちに一度だけ、さくらが家にやってきた。
 晩ご飯リベンジだと言って作ってくれた肉じゃがは、俺の味とも兄貴の味ともお母さんの味とも少し違っていて、何となく不思議な感じがした。
 朝比奈さんは仕事の関係上地元にいないことの方が多いらしく、夏祭り以来一度も顔を合わせていない。
 けど、時折「こんな所にきました」と、写真をメールで送ってきてくれる。
 この一ヶ月で俺の世界に増えた人たちは、じわりと染み込むようにゆっくりと身体に馴染んだ。
 知らない部分を多く見たという点では、兄貴も新しく増えた一人にカウントしても良いだろう。
 兄貴の裏側を知り、さくらの存在を知り、朝比奈さんに手を引かれ池田を捕まえた。
 池田。
 池田とも、実はあの日以来会っていない。
 出入り禁止令が出たことで、池田の方からうちに寄ってくることはないし、俺もあの部屋に自分から入ろうとは思えない。
 入ったら、多分あれを思い出す。
 隙間なくぴったり肌を合わせたあの日をきっと思い出す。
 二週間経った今ですら、時折思い出しては羞恥に頭を抱えるのに、顔を見たら絶対に絶対に思い出してしまう。
 そうしたら、またどんな顔をしたら良いのか分からなくなってしまう。
 完全に離れたいとは思わないのに、自分から近付くのは気恥ずかしい。
 あんな醜態は二度と晒したくないと思うのと同時に、触れてくる肌の心地好さを思い出して身体が疼く。
 自分自身ですら持て余しているのに、池田の相手なんてしていられない。
 けど、もう少し……もう少し、気分的に落ち着いたら、自分から電話してみようとは、思っている。
 何を喋れば良いのか、まだ全然思い浮かばないけど。
 それでも、ちゃんとやってるのか声くらいは聞きたい。

「涼!」

 名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
 見れば、鞄を抱えたサハラが目の前に立っていた。
「なんかさ、皆で街出ようかって話になってんだけど、お前も行く?」
「あー……」
 お誘いに、咄嗟に頭に浮かぶのは家のことだ。
 今日の食事当番は……兄貴だ。
 なら、一言連絡を入れておけば多少帰りが遅くなっても構わないだろう。
 そう考え、頷き立ち上がる。
「行く」
 サハラ以外のメンバーは、全部で五人。
 途中廊下で擦れ違う女子を誘って、昇降口から出る時には総勢十一人の大所帯になった。
「サハラ、筋トレの調子どうなんだよ」
 歩きながら、ぷに、と隣の腹に指を突っ込んでみる。
 サハラは笑いながら「きゃ」と跳ね上がり、俺から逃げるみたいに鞄を抱え直した。
「結構順調。来年の夏は、一緒に海行こうな」
 誘いに快く頷き、笑い返す。
 夏。
 来年の夏は、一体どんな風に過ごすことになるんだろうか。
 ふとそんなことを考えていれば、胸ポケットの中で携帯が震えた。
 肌身離さず持つようになって常に音を消すのが習慣になった、艶々綺麗な飴色の携帯だ。
 池田とは顔こそ合わせていないけど、メールは毎日のようにやり取りしている。
 一言二言の、ごく短いものだけど。
「何、メール?」
「うん」
 頷きながらぱちんと携帯を開き、それから足が止まった。

『攫いに来ました』

 たった一言、それだけの内容に弾かれたように顔が上がった。
 見れば、校門前に見覚えのある車が止まっている。
 そのドアに、気だるげに白金の髪が凭れ掛かっている。
 手には携帯。
「あれ? あの人……」
「ごめん、行けなくなった」
 サハラが呟く言葉が終わるよりも先に、足が駆け出した。
 勝手に。
 近付ききるよりも先に、灰色の目がこちらを向いた。
 ぱちりと目が合って、また足が鈍る。
 ゆったり向けられてくる微笑に、足の代わりみたいに心臓が駆け足を始める。
 目を見ていられなくて俯けば、視界の端にドアから身体を起こす姿が引っかかった。
 近付いてくる動きに合わせて、逃げ出したい衝動に駆られる。
 それから、飛びつきたい衝動。
 決着のつかない俺の中大戦がまた始まった。
 目の前でぴたりと足が止まる。
「触っていい?」
 こんにちは、よりも、久しぶり、よりも先にこんな言葉を吐き出すこの男は、本当に変だ。
 何でも持ってて何でも出来るような顔をして、とんだ欠陥人間だ。
 俺のものだ。
「……だめ」
「けち」
 ぽつりと呟けば、笑いながら額を小突かれた。
 この男は多分、俺の「駄目」を「良い」と勘違いしていると思う。
 小突かれた額に手を遣りじろりと見上げると、軽く舌を出して悪戯っ子の笑みを覗かせる。
「週末だろ? どっか行こうよ。どこでも好きなとこ連れてってやるよ、ダーリン?」
「……」
 アンタが連れてってくれるならどこでも良いよ、ハニー。
 とは、勿論言えなかった。





【20090918】了



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