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ビッチング
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よくも悪くも、湯浴みはひとりでできるのが好都合だった。
獅子皇国では温泉がよく湧き出て、後宮にも温泉を引いているらしい。とろみのあるお湯は彼女の体によく馴染んだ。
そして、彼女はバラの香油をすり込む。アルファは相手の性別を変えようとフェロモンを漂わせるとき、強い芳香を放つと言う。その芳香に勘付かれてはなにもかもご破算になるのだから、匂い消しとして、バラの強い匂いに頼らざるを得なかった。
「本当に……」
アンジェリカは腰は温泉に浸かりつつも、外の光景を眺めた。
婚姻日和とされる、夜の来ない白夜。空は艶めかしい色を帯び、サーモンピンクに金色の雲が流れていく。この美しい光景の中、彼女は皇太子を殺さないといけない。
本来ならば、白夜なんて選ぶべきではなかった。夜の来る季節を選ぶべきだった。だができない理由もある。
獅子皇国も白狼王国も、冬がとにかく厳しく、雪が降り積もって薄着で逃げ出すことができない。おまけに足跡だって残ってしまう。
「こんな綺麗な日なのに……」
ユールは今頃、後宮を見回って防音結界を施していることだろう。あとは酒を飲ませて酔わせた皇太子を、背後からグサリとやればいい。
アンジェリカはそう思いながら、やっと温泉から出た。
体を拭き、白い寝間着に着替える。足下が透けているが、これは明らかに初夜用の誘惑のためのものだろう。
バラの芳香を纏ったアンジェリカの、温泉でピンク色に染まった肌を白い寝間着が覆っている。艶めかしいというよりも、妖精のように儚いというよりも、戦女神のように凜々しいというのが、今のアンジェリカであった。
****
「姫様、防音結界張り巡らせ終えました」
「ありがとう、ユール。もう下がってちょうだい。あなた用の寝床もあるでしょう?」
「ですが……私が傍で待機していたほうが……」
「あまり恥ずかしいところ、あなたに聞かれたくないの。防音結界を張っていても、あなたは聞けちゃうでしょう?」
「……っ、失礼しましたっ! そうですね……アルファのフェロモンを使うのは、気が引けますよね……」
そうユールは口元をゴニョゴニョさせて出て行った。
彼女の素直で従順なところを、アンジェリカは心底申し訳なく思う。
(ごめんなさい、ユール。防音結界を張ってもらったのだって、皇太子ですもの。どうせ護衛を連れてきている。その人に少しでも見つかるのを遅らせるため。私が逃げ出すのの時間稼ぎのためですもの……)
アンジェリカは髪の毛に隠し持っていた短剣を気にしながら、ただ静かに待っていたところで。ミントのような青々しい匂いが漂ってくるのに気付いた。
「お初にお目にかかる。停戦中の婚姻につき、簡略化させてしまい、このように大きな式典もなく後宮に入れることになってしまい、誠に申し訳ない」
雄々しい声だった。
獅子皇国は、元々は海賊が建国した国だと聞いている。なるほど、薄いシャツにスラックスから見え隠れする首筋に鎖骨は美しく、そこから覗き見られる筋肉は逞しい。背中を覆う長い黒髪に、金色の瞳は鋭く、ジッとアンジェリカを検分していた。
「いいえ。このたびは我が国に慈悲をくださりありがとうございます、殿下。どうぞ末永くよろしくお願い申し上げます」
「あまりかしこまるな。貴様は俺の伴侶となるのだからな。それに殿下というのも仰々しい。ふたりのときは名前を呼べ」
「はい……?」
アンジェリカは声が冷たくならないように、必死に言葉尻を丸くした。
(我が国にしたことをよそに、なにロマンティックなことを言っているのかしら……蛮族が。そんな国が、わざわざ属国の捕虜を後宮に突っ込むのかしら? その時点で充分辱められているというのに)
アンジェリカは苛立ちがどうにか声にならないよう、精神力を総動員させて喉をねじ伏せさせ、できる限り優しい声色をつくる。
「私はあなたの名前を知りません。教えていただけませんか?」
「貴様の国は魔術を行使するはずだが、名前を教えて大丈夫か?」
「たしかに、魔術師団の師団長ともなれば、名前を使って人の運命を縛る魔術を使うと聞き及んでいますが。我が国は誰もが魔術を使う訳ではございませんよ。大丈夫です」
アンジェリカが蛮族と罵ろうとも、皇太子は普通に敵国の情報を得て、魔術に対する警戒心は身についているようだった。
実際問題、アンジェリカはアルファの血が顕現してからというもの、魔術師団に引き渡されて血を滲むような魔術の仕込みをされていたが、彼女は未だに名前で人を縛るという古典魔術は聞いたことがあっても、使ったこともなければ、使える人のことも知らなかった。
皇太子は大きな手で顎を撫でる。
「そうか……なら安心した。ユリウス、ユリウスと呼んでほしい」
「そうですか。私はアンジェリカと申します。ユリウス様……初めては痛いと聞き及んでおります。どうか痛みを忘れられるよう、先にお酒を飲んではいただけないでしょうか?」
そう言いながら、アンジェリカは夕食のときに取っておいた酒を器に入れて差し出す。それをユリウスはゆるりと喉を動かして飲み干した。
「ふむ……この酒は口には合わなかったか、アンジェリカ?」
「はい?」
「残っている量が少々多いな。それに、少し雑味がする。これは……毒という程ではないな。睡眠薬かそれくらいだろう」
「……っ!」
ユリウスはあっさりと看破したが、盛った薬が全く反応を示さない。そもそもこれはユールが眠りの魔術を施したものだから、普通の薬ですらないのだが。
「……どう、して」
「この国の住民は貴様の国のように魔術に明るくはない。だが、神殿から代々加護を受け取っていてな。俺の場合は、魔術の無効化だ。魔術という魔術は、俺には効かない。横着せず、普通に薬を盛るべきだったな?」
「こ、の……!!」
アンジェリカはブワリ……と髪の毛の逆立つほど、威圧感を込めた。
彼女の気配が途端に殺気と取れるほどに膨張する。それをユリウスは「ほう……」と目を細めて見ていた。
アルファのフェロモンは、他の性の者を屈服させるほどに強い。アルファの番となり得るオメガだけでなく、一般人とされ、強い能力が全くないベータすら、畏怖させるほどの。
だが、ユリウスは全く反応を示さない。
「なるほど……白狼王国もさすがは魔術国。アルファが生まれていたか」
「人を上から目線で見て、偉そうに……! 蛮族が我が国をよってたかって襲った癖に!」
「ずいぶんと仰々しいことを言うな、アンジェリカ? なによりも……俺には貴様の考えなしな行動が、国のためという大義名分で行う、ただの私怨に見えるぞ?」
「うるさい……! お前さえ、お前さえいなければ……!」
もうフェロモンで屈服させる間も惜しい。アンジェリカは自身の髪から短剣を抜き取ると、それをそのままユリウスに振り下ろそうとしたが。
その途端、ユリウスの青々しい匂いが切り替わった……まるでムスクのような甘い痺れるような匂い。でもこれはまるで。
(この男も……フェロモンの匂いを隠すために、わざと香油を塗ってきていたのか!?)
「残念だったなアンジェリカ。これがベータであったら、魔術の無力化の加護がなくとも奇襲で一矢報いることはできただろうが。俺は残念ながらアルファだ」
「……っ!」
「そしてさらに残念なことに、俺のほうがアルファとして強い……お前からそのアルファのフェロモン、剥ぎ取らせてもらうぞ」
「う……う……」
「舌を噛むな、傷がつく」
アンジェリカが咄嗟に舌を噛み切ろうとしたところで、ユリウスは寝所の布を彼女の口の中に突っ込んだ。
甘い痺れる匂いが、彼女の全身を駆け巡る。
「お前は、俺と番え」
(イヤだ……イヤだ……!!)
アンジェリカはその日、アルファの力を剥奪された。
彼女はオメガとなり、ユリウスと番ったのである。
獅子皇国では温泉がよく湧き出て、後宮にも温泉を引いているらしい。とろみのあるお湯は彼女の体によく馴染んだ。
そして、彼女はバラの香油をすり込む。アルファは相手の性別を変えようとフェロモンを漂わせるとき、強い芳香を放つと言う。その芳香に勘付かれてはなにもかもご破算になるのだから、匂い消しとして、バラの強い匂いに頼らざるを得なかった。
「本当に……」
アンジェリカは腰は温泉に浸かりつつも、外の光景を眺めた。
婚姻日和とされる、夜の来ない白夜。空は艶めかしい色を帯び、サーモンピンクに金色の雲が流れていく。この美しい光景の中、彼女は皇太子を殺さないといけない。
本来ならば、白夜なんて選ぶべきではなかった。夜の来る季節を選ぶべきだった。だができない理由もある。
獅子皇国も白狼王国も、冬がとにかく厳しく、雪が降り積もって薄着で逃げ出すことができない。おまけに足跡だって残ってしまう。
「こんな綺麗な日なのに……」
ユールは今頃、後宮を見回って防音結界を施していることだろう。あとは酒を飲ませて酔わせた皇太子を、背後からグサリとやればいい。
アンジェリカはそう思いながら、やっと温泉から出た。
体を拭き、白い寝間着に着替える。足下が透けているが、これは明らかに初夜用の誘惑のためのものだろう。
バラの芳香を纏ったアンジェリカの、温泉でピンク色に染まった肌を白い寝間着が覆っている。艶めかしいというよりも、妖精のように儚いというよりも、戦女神のように凜々しいというのが、今のアンジェリカであった。
****
「姫様、防音結界張り巡らせ終えました」
「ありがとう、ユール。もう下がってちょうだい。あなた用の寝床もあるでしょう?」
「ですが……私が傍で待機していたほうが……」
「あまり恥ずかしいところ、あなたに聞かれたくないの。防音結界を張っていても、あなたは聞けちゃうでしょう?」
「……っ、失礼しましたっ! そうですね……アルファのフェロモンを使うのは、気が引けますよね……」
そうユールは口元をゴニョゴニョさせて出て行った。
彼女の素直で従順なところを、アンジェリカは心底申し訳なく思う。
(ごめんなさい、ユール。防音結界を張ってもらったのだって、皇太子ですもの。どうせ護衛を連れてきている。その人に少しでも見つかるのを遅らせるため。私が逃げ出すのの時間稼ぎのためですもの……)
アンジェリカは髪の毛に隠し持っていた短剣を気にしながら、ただ静かに待っていたところで。ミントのような青々しい匂いが漂ってくるのに気付いた。
「お初にお目にかかる。停戦中の婚姻につき、簡略化させてしまい、このように大きな式典もなく後宮に入れることになってしまい、誠に申し訳ない」
雄々しい声だった。
獅子皇国は、元々は海賊が建国した国だと聞いている。なるほど、薄いシャツにスラックスから見え隠れする首筋に鎖骨は美しく、そこから覗き見られる筋肉は逞しい。背中を覆う長い黒髪に、金色の瞳は鋭く、ジッとアンジェリカを検分していた。
「いいえ。このたびは我が国に慈悲をくださりありがとうございます、殿下。どうぞ末永くよろしくお願い申し上げます」
「あまりかしこまるな。貴様は俺の伴侶となるのだからな。それに殿下というのも仰々しい。ふたりのときは名前を呼べ」
「はい……?」
アンジェリカは声が冷たくならないように、必死に言葉尻を丸くした。
(我が国にしたことをよそに、なにロマンティックなことを言っているのかしら……蛮族が。そんな国が、わざわざ属国の捕虜を後宮に突っ込むのかしら? その時点で充分辱められているというのに)
アンジェリカは苛立ちがどうにか声にならないよう、精神力を総動員させて喉をねじ伏せさせ、できる限り優しい声色をつくる。
「私はあなたの名前を知りません。教えていただけませんか?」
「貴様の国は魔術を行使するはずだが、名前を教えて大丈夫か?」
「たしかに、魔術師団の師団長ともなれば、名前を使って人の運命を縛る魔術を使うと聞き及んでいますが。我が国は誰もが魔術を使う訳ではございませんよ。大丈夫です」
アンジェリカが蛮族と罵ろうとも、皇太子は普通に敵国の情報を得て、魔術に対する警戒心は身についているようだった。
実際問題、アンジェリカはアルファの血が顕現してからというもの、魔術師団に引き渡されて血を滲むような魔術の仕込みをされていたが、彼女は未だに名前で人を縛るという古典魔術は聞いたことがあっても、使ったこともなければ、使える人のことも知らなかった。
皇太子は大きな手で顎を撫でる。
「そうか……なら安心した。ユリウス、ユリウスと呼んでほしい」
「そうですか。私はアンジェリカと申します。ユリウス様……初めては痛いと聞き及んでおります。どうか痛みを忘れられるよう、先にお酒を飲んではいただけないでしょうか?」
そう言いながら、アンジェリカは夕食のときに取っておいた酒を器に入れて差し出す。それをユリウスはゆるりと喉を動かして飲み干した。
「ふむ……この酒は口には合わなかったか、アンジェリカ?」
「はい?」
「残っている量が少々多いな。それに、少し雑味がする。これは……毒という程ではないな。睡眠薬かそれくらいだろう」
「……っ!」
ユリウスはあっさりと看破したが、盛った薬が全く反応を示さない。そもそもこれはユールが眠りの魔術を施したものだから、普通の薬ですらないのだが。
「……どう、して」
「この国の住民は貴様の国のように魔術に明るくはない。だが、神殿から代々加護を受け取っていてな。俺の場合は、魔術の無効化だ。魔術という魔術は、俺には効かない。横着せず、普通に薬を盛るべきだったな?」
「こ、の……!!」
アンジェリカはブワリ……と髪の毛の逆立つほど、威圧感を込めた。
彼女の気配が途端に殺気と取れるほどに膨張する。それをユリウスは「ほう……」と目を細めて見ていた。
アルファのフェロモンは、他の性の者を屈服させるほどに強い。アルファの番となり得るオメガだけでなく、一般人とされ、強い能力が全くないベータすら、畏怖させるほどの。
だが、ユリウスは全く反応を示さない。
「なるほど……白狼王国もさすがは魔術国。アルファが生まれていたか」
「人を上から目線で見て、偉そうに……! 蛮族が我が国をよってたかって襲った癖に!」
「ずいぶんと仰々しいことを言うな、アンジェリカ? なによりも……俺には貴様の考えなしな行動が、国のためという大義名分で行う、ただの私怨に見えるぞ?」
「うるさい……! お前さえ、お前さえいなければ……!」
もうフェロモンで屈服させる間も惜しい。アンジェリカは自身の髪から短剣を抜き取ると、それをそのままユリウスに振り下ろそうとしたが。
その途端、ユリウスの青々しい匂いが切り替わった……まるでムスクのような甘い痺れるような匂い。でもこれはまるで。
(この男も……フェロモンの匂いを隠すために、わざと香油を塗ってきていたのか!?)
「残念だったなアンジェリカ。これがベータであったら、魔術の無力化の加護がなくとも奇襲で一矢報いることはできただろうが。俺は残念ながらアルファだ」
「……っ!」
「そしてさらに残念なことに、俺のほうがアルファとして強い……お前からそのアルファのフェロモン、剥ぎ取らせてもらうぞ」
「う……う……」
「舌を噛むな、傷がつく」
アンジェリカが咄嗟に舌を噛み切ろうとしたところで、ユリウスは寝所の布を彼女の口の中に突っ込んだ。
甘い痺れる匂いが、彼女の全身を駆け巡る。
「お前は、俺と番え」
(イヤだ……イヤだ……!!)
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