電車の男

Ⅲ．倉知編

まぶしい

　時計を見る。もうすぐ十一時だ。
　こんな夜に電話はできない。それに、もしかしたら酔っぱらいの世話で忙しいかもしれない。メールなら、迷惑にならないだろうか。
　迷いながら作成画面を開く。

『夜分遅くに大変申し訳ありません。
さきほどはありがとうございました。
実は困ったことになりました。
土曜日に外泊することを母に伝えたところ、
姉が相手を見ないと不安だと言うのです。
連れてこいと言われました。
すみません、姉（二番目の姉です）は
心配性でおれに対してなぜか過保護なんです。
正直姉には会わせたくありません。
二番目の姉はいいのですが、
一番目の姉はちょっとおかしくて、
丸井のおばさん（お好み焼き屋です）から、
加賀さんのことを聞いたらしく、
イケメン誰よと散々絞られました。
多分すごく失礼なことを言ったりしたり
すると思うので、おれは会わせたくありません。
加賀さんに迷惑をかけたくもないので、
今回の外泊はなかったことにします。
長々とすみませんでした。
夜なので、返信不要です。
またお手すきのときによろしくお願いします。』

　何度か文章を読み返し、伝わりますようにと送信する。
　本当はこんな時間に人にメールをするのもはばかられる。誰もが夜更かしだとは限らない。
　軽く筋トレでもしてから寝よう、と腕立てを始めたところでスマホの画面が明るくなったのが見えた。明かりが点滅している。メールだ。
『起きてる？　電話していい？』
　加賀さんからの返信だった。急いで加賀さんの番号を出して、通話ボタンを押した。コール音が一回鳴って、加賀さんが電話に出た。
「もしもし、すいません、変なメールして」
『いや、すげえ面白かった』
「え、どこか変でした？」
　何回も読み返したのに、誤字でもあっただろうか。
『なんであんな業務メールみたいな文章なんだよ。面白すぎて癒された』
「癒されたならよかったです。あの、さっきの人、どうなりました？」
『今送り届けて、帰り道のタクシー』
　加賀さんは、本当に面倒見がいいと思う。普通会社の上司にあそこまで甘えられるものなのだろうか。
『倉知君のほうがよっぽど大人だわ。あいつ頭ん中小学生だからな』
　小学生はひどいが、それほど手のかかる部下なのだろう。
「あの、それで……」
『ああ、お姉さんの件。いいよ、水曜でいい？』
「え？」
『一回挨拶しといたほうがいいだろ。休みのたびにどこ行ってんだってなるぞ、そのうち』
　両親は放任だからそんなことにはならない。でも姉は別だ。これからも絡んでくるのが目に見える。
『怪しい奴じゃなければ安心なんだろ、お姉さんも』
「そう、だと思います」
『俺、怪しい？』
「まったく、全然、これっぱかしも」
　はは、と電話の向こうで加賀さんが笑う。
『じゃあ水曜、仕事終わったらお前んち行くから』
「駅に迎えに行きます」
『いいよ、家わかる。七時ちょい過ぎるかな。大丈夫？』
「……はい、あの、でも俺、本当に姉には会わせたくないんです」
『アポ取っても下着で出迎えてくれるの？』
　嬉しそうな声で言って口笛を吹く。
「そうじゃなくて、姉はその、すごいモテるんです。今彼氏いるんですけど、多分そんなこと関係なく加賀さんのこと狙ってきます」
　加賀さんが黙った。
『ちょっと待ってて。いくら？』
　誰かと会話している。タクシーの運転手だろう。しばらくして車のドアを閉める音が聞こえた。
『心配？』
「え、はい。そうです」
『俺がお前からお姉さんに乗り換えるって？』
「だって加賀さん、男が好きってわけじゃないでしょ」
『うん。でも俺は今お前にハマってるから、お姉さんにはなびかない自信あるよ』
　甘い囁き声。耳が熱くなるのがわかった。
「……そう、ですか」
『そうです』
　泣きそうになるのを堪える。
『大丈夫だから、安心しろ』
「わかりました。ありがとうございます」
『じゃあ、もう寝ろ。筋トレして寝ろ』
「はい、あと腹筋百回してから寝ます」
『ちょ、しすぎじゃねえ？』
　ツッコミを入れて、笑いながら「ほどほどにな、おやすみ」と言った。
「おやすみなさい」
　電話が切れた。
　信用していいと思う。五月が何をしたところで、加賀さんは落ちない。
　大丈夫、という言葉を信じようと思う。お前にハマってる、とまで言ってくれた。
　俺は幸せ者だ。
　次の日の朝。駅のホームで電車を待ちながら、改めて昨日のことを思い返していた。
　冷静に考えるとものすごく恥ずかしい体験をしてしまった。
　人前で三回も絶頂を迎えた。握られたり、舐めたり、今までの俺の生活ではあり得ないことばかりだ。
　ファーストキスも、経験した。初めての相手があの人で、本当によかった。
　すごく、好きな人。
　電車の音がして、目の前で車体が停車する。ドアが開いて中の人が降りて、ホームの人が乗り込む。いつもの場所にスーツの加賀さんを見つけて思わず顔が笑う。
「おはようございます」
　読んでいた小説から目を上げて、加賀さんが「おはよう」と短く応えた。
「お前昨日、忘れ物してったぞ」
　周囲を気にしながら、加賀さんが小声で言った。
「え、なんですか」
　そもそも何も持っていっていない。スマホもあるし、忘れるものなんてない。
「今日天気いいし、乾いたら持ってきてやる」
　あ、と気づいた。そういえばパンツを置いてきてしまった。
「すいません、洗わせてしまって」
　加賀さんは本に視線を戻してニヤニヤ笑っている。それきり何も言わなくなった。今まで通り、本を読む加賀さんを眺めることにした。舐めるように、見つめる。いつも見てきた。見ているだけだったのに、触れることを許された。
　俺の視線は勝手に唇に移動して、止まった。
　キスしたい。
　股間に血がみなぎるのがわかった。少し前傾になる俺に、加賀さんが気づく。
　何か言いたそうに口を開きかけて、やめた。
　やがて加賀さんの降りる駅が近づくと、本を片付けて、外を見る。
　朝日を浴びた加賀さんは、チカチカと光って見えた。
　まぶしい。
「じゃあな、いってらっしゃい」
　電車が止まると真っ先に降りて、手を振ってくれた。振り返す暇も与えずさっさと歩いていってしまう。
　後ろ姿を未練がましく見つめ続けた。一瞬振り返り、目が合うと笑ってくれた。人混みで、すぐに見えなくなる。
　これから毎朝こうだと逆につらいものがある。今までは俺が一方的に見ているだけで、向こうはこっちの存在など気にも留めなかった。話すことも、目が合うこともなかった。
　見ているだけで満足だったから、今みたいな物足りなさを感じずに済んでいた。
　キスしたいし、触りたい。
　自分の浅ましさに少しうんざりした。
　電車を降りて改札を通り、しばらくすると、背中を叩かれた。
「おはよう、倉知君」
　風香だった。
「あれ、この電車だっけ？」
　確か風香は自転車通学だ。
「昨日、自転車乗ってて車に撥ねられてさ」
「え」
　あまりにも簡単に言うから聞き間違いかと思った。どこも怪我をしているふうじゃない。
「軽自動車と接触したんだけど、なんでか無事で」
「なんだそれ、怪我は？」
「ないよ。けど自転車は大破しちゃった。買い物帰りだったんだけど、カゴに入れてたもの全部パァ。でも私は無傷。すごくない？」
　あっけらかんとして笑う風香を見て、ホッとした。車に撥ねられたのに無傷なんて奇跡だ。
「なんともなくてよかった」
　真剣な声が出た。風香は俺を見上げて、嬉しそうに笑った。
「ありがと」
　二人で並んで登校するのは初めてで、何か不思議な感じがする。普段、気詰まりなんて思ったことがなかったのに、変な間が空いてそわそわしていると、風香が「あのさ」と思いつめたような声を出した。
「何？」
「倉知君、大きいから、電車でもすぐ見つけられるね」
「そっか」
　隣を歩く風香を見下ろした。何か様子が変だ。
「ああ、どうしよ。やっぱり気になる」
　風香が鞄を振り回して身もだえた。
「何？　何が？」
「電車の中で喋ってた人って、誰？　お兄さん？」
「お……、兄さんではないけど」
　風香の顔を確認する。頬がピンクだ。
「なんか仲良さそうだったけど、知り合いなんだよね？」
　まさか。嘘だろ。
「カッコイイ人だね」
「うん」
　呆然としながらそこは淀みなく肯定する。
「ああいう人すごいタイプなんだー。スーツで大人の男って感じ。本読んでたし、頭良さそうだし、理想だなー」
　はしゃぐ風香を見て、危機感を覚えた。風香は可愛い。それは認める。単純に友達として好きだ。だから、恋敵になんてなりたくない。
「ねえ、明日さ、紹介してよ」
　息苦しい。俺は胸を押さえて「うーん」と曖昧な返事をする。
「え、どっち？」
「紹介してどうするの？　付き合いたい？　あの人と」
「えー、うん、でもー、彼女いそう」
　――今現在の俺の彼女はお前だよ。
　加賀さんの声が脳内で俺を励ました。
「彼女はいるみたい」
　多少の心苦しさがあったが、嘘はついていない。と思いたい。
「そうなんだ。いいなあ、彼女さん」
　ほう、とため息をついて、風香はうつむいた。彼女がいるなら奪ってやろうというタイプじゃない。それきり加賀さんの話はしなくなった。
　何かを振り切る感じで、次々と話題を振ってくる。
　ごめん。
　心の中で謝った。
　他人の淡い恋心を踏み潰してしまった。
　もし俺より先に、風香があの人と出会っていたら。
　どうなっていただろう。加賀さんは優しいから、受け入れた？
　俺を受け入れたように。
　暗くなる。
　慌てて振り払う。
　もし、なんて関係ない。
　今俺が、加賀さんが好きで、加賀さんも俺を好きだと言ってくれて。
　それがすべてだ。