妖精が見える三十路童貞の話

月世

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最終話

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 いろいろ、わかったことがある。
 セックスは気持ちいいということ。
 人との触れ合いは、悪くないこと。
 一人でもいいと、一人がいいと、思っていた。俺はそういう人間だと、決めつけていた。
 知らなかった。
 二人で鍋を囲む楽しさを。
 特に意味のない会話が許されるということを。
 二人で飲む酒が美味いことも、唇が触れ合うだけで、脳が、しびれるということも。
 俺は何も知らなかった。
 一番驚いたのは、自分の中に抑制の効かない性欲が潜んでいたことだ。
 自分が、あんなことになるなんて。
 あんなこと。とはいうものの、酔っていたから正直あまりよく覚えていない。
 気持ちよかったのは確かだ。
 気持ちよかったなあ、と冷えた鍋を見つめていると、急に、覚醒した。
「今何時!?」
 ベッドから転げ落ちて、よろよろと立ち上がり、服を探す。
「ち、遅刻する、やばい、もういっそ、裸で」
「おはよう」
 のんびりとした声に急いで振り向くと、成瀬さんが上半身を起こしてあくびしていた。
「おはよう!」
 やけくそで叫んだ。
「パンツ、俺のパンツ、どこだ? 仕事、仕事行かないと」
「あんたんとこ祝日は休みだろ?」
「え? 祝日? 今日、祝日? 本当に?」
「本当に」
「セーフ……」
 全裸のまま、床の上に崩れ落ちた。
「次の日祝日じゃなきゃ、飲もうなんて誘わねーし」
 床の上で頭をもたげ、ベッドの成瀬さんを見上げた。
「あんたが社畜なのはよく知ってる」
 成瀬さんが微笑んでいる。あれ、優しい顔だな、こういう顔もできるのか、この顔も好きだなと見惚れてしまった。
 見惚れてしまったのだ。
 見惚れてしまったという事実に愕然とし、顔が、熱くなってきた。俺は昨夜、この人と。
 生々しい感覚と自分の卑猥な喘ぎ声を思い出し、うわあと頭を抱えた。
 俺はこの人と、セックスしてしまった。
「はっ、そういえば」
 妖精が、消えた?
「まさか、いない……?」
「いるが?」
 にょき、と頭上からさかさまになって現れた妖精に、悲鳴を上げそうになった。
「あ、あれ? なんで? だって、俺」
 確かにセックスしたのに。童貞を卒業したはずだ。
「お前が卒業したのは、どうやら処女のほうだな」
「しょ……?」
「まったく、挿入もしてないくせに何が童貞卒業だ」
「じゃあ、俺、童貞のまま?」
「童貞非処女の出来上がりだ。おめでとう」
 めでたくない。
「妖精と話してんの?」
 うなだれる俺の背中に、成瀬さんが訊いた。
「はい」
 普通に返事をしてから、ゆっくりと彼を振り返る。
「……え? 今、妖精って」
「やべーな、完全に独り言だし、めちゃくちゃやべー奴じゃん。それ、やべーぞ。外では気ぃつけろよ」
 相当やばいということは伝わった。成瀬さんがベッドを下りて、下着に脚を通しながら言った。
「俺以外に妖精きが存在したのがちょっと感動」
「え、なんで、え?」
 混乱する俺をしり目に彼がデスクからタブレットを持って、戻ってきた。ベッドに腰を掛け、何か、描いている。
「あんたが見えてるのって、こういうの?」
 彼が俺に画面を向けた。トゲトゲ頭で紅白模様の服、ステッキを持っていて、キリッとした眉、真一文字の口の、妖精の絵だ。
「そう、まさにこのまんま、え、待って……、すごい絵、上手いなー」
 タブレットに飛びついた。空中に漂う実物と見比べ、うなる。
「そっち?」
 成瀬さんは頭を掻いて、俺にタブレットを押しつけると、布団の中に潜り込んでいく。
「俺一応、漫画家だから」
「すごい。ジャンルは? どういうの描いてるんですか?」
「エロ漫画」
「そんな顔で?」
「どんな顔だよ」
「そっか、まさか成瀬さんにも妖精が……、あれ、成瀬さんっていくつ?」
「三十三」
「妖精が見えてたってことは、三十路童貞だったんですか? そんな顔で?」
「だからどんな顔だって」
「もしかして、昨日まで童貞? 俺が初めての相手? 童貞なのにエロ漫画家?」
 成瀬さんが無言で俺に背を向けて、布団を被る。
 彼の後ろ頭を見ながら、ごちゃごちゃになった頭の中を、整理する。
 三十路童貞デビューを果たした成瀬さんに、妖精がついた。彼はきっと、妖精が邪魔で、なんとしても童貞を卒業したくて、誰でもよくて、隣人の俺に狙いをつけた。誰でもよかった。そうか。納得した。
「とんだ名探偵だな」
 妖精が言った。俺の推理は外れたらしい。
「お前の推理はすべて間違っている」
 整理した頭の中を覗いた妖精が、口を挟む。
「お前がこのアパートに引っ越してきたころからずっと、あいつはお前に惚れていたし、誰でもいいというのは違うぞ。そもそもあいつは妖精と仲良しでな。童貞を卒業するのは不本意だったんだ。一生童貞でいるとさえ、誓い合っていたらしい。美しい友情だ」
 そんなことが、あるのか?
 でも、わからないでもない。家にいる仕事をしていて、外に出ず、人に会わないでいると、話し相手が欲しいと思うこともあるのかもしれない。
「どうせお前とはどうにかなれるはずもないと諦めていたところで、このおれの登場により、状況が変わった。宿主の恋心を成就させたいと、あいつの妖精に相談されてな」
 宿主、という単語に多少の恐怖を感じるものの、これはいい話なのだろうか。語る妖精の目に、光るものがあった。それを拭って、妖精が続ける。
「ナンパについていったのも、あいつにとってはただの棚ぼたデートだ」
 デート。あれが? あんなのが?
「お前に彼女ができるのが嫌だから、声をかけた女を威圧して、邪魔をしていたというわけだ」
 なるほど、だから。女の子たちが、怯えた表情で逃げていく理由がわかった。マックで急にぐいぐいきていたのも、あっち側の妖精の入れ知恵だったのだろう。
 胸につかえていた違和感が、消えた。
 なるほど、なるほど、と口中でつぶやいて、膝を抱えた。
 俺は、妖精に操られていたのか。
 妖精二匹と人一匹のたくらみによって、この部屋に来てセックスするように仕向けられたのか。
「それも違うな。お前は自分の意志でセックスした。おれに人間を操る能力なんてない。ただ、少し先の未来を予知することは可能だ」
 こうなることが、わかってた?
「まあな。多少、見える。便利だろう」
「なんだよ、それ……」
「やはり、お前とは長い付き合いになるな」
「それ予言?」
「あいつらのように、おれもお前と強いきずなで結ばれたい。うっふん」
「いや、そういうのはいいよ」
「もう、いけず!」
 まとわりつく妖精を払いのけ、布団に潜り込んだ。俺に背を向けていた成瀬さんが、向きを変えた。
「いいな、あんたは妖精がいて。俺のは消えたから」
「いいかな? なんの役にも立たなくない?」
「あー……、まあ、あいつらのアドバイスはクソだな」
「うんうん、そうそう、本当にクソバイス」
 笑い合う。
 ふいに目が合うと、お互いに慌てて視線を逸らす。
「成瀬さん」
「何」
「過去に彼女いたみたいに言ってなかった?」
 彼女は? との問いに、今はいないと答えていた。
「高校のとき、それらしいのはいたけど、キス止まり」
 ファーストキスだったのは、俺だけだとわかって、少しだけがっかりした。
「……童貞なんて、好きな奴に知られたくない。人づきあいが苦手で、今までろくに他人と関わってこなかった。こんなんだって、知られたくなかったんだよ」
「成瀬さんと俺、似た者同士かも」
 ただ俺よりも、人間みのある人だと思う。
 人を好きになって、妖精と友達になれる優しさを持っている。他人に興味を持てなかった俺とはちょっと違う。
「うるさくてうっとうしいし、俺は妖精を早く消したかったんです」
 そう言うと、ベッドの端で寝転んでいた妖精が「ひどい!」と鳴いた。
「だからナンパ?」
「今思うと、短絡的だったなって」
「ごめん、ナンパ、あれ、実は邪魔してた」
「はい、いいんです。いいんですよ。よくぞ邪魔してくれました」
 成瀬さんの頬に、手を伸ばす。
 触れると、彼がビクッと震えて驚いた顔になる。
「すいません、触りたくて。俺、成瀬さんのことが好きみたいです」
「マジで? なんで?」
「なんでかな……」
「……勃起した」
「俺もです」
 抱き合うタイミングとか、お互いのどこに触れていいのかとか、何もわからない同士が、ギクシャクと抱き合った。
 次はどうしよう。いろんなところを触ってみたり、キスしてみたり、模索しているうちに気がついた。
 妖精が、いない。
 妖精は、人のセックスを見ると死ぬ。今からセックスが始まると悟って、逃げたらしい。そう思うと急に恥ずかしくなった。
 昨日の夜は、酒が入っていた。
 しらふでセックスをするなんて、まだ俺には早いのかもしれない。どうしても、恥ずかしさが先に立つ。
「そ、そうだ。おじや、温めて食べましょうよ」
「あとでな。あんたを食べるのが先」
「うわ、オヤジギャグ」
「おじやだけに」
「上手い」
 笑いながら、彼が覆いかぶさってくる。胸板に、ぎこちなく触れた。平たい胸に手を這わせ、硬くとがっていく乳首をなんとなく爪の先でいじくっていると、成瀬さんが「あっ」と声を漏らした。淫靡な声だった。それで、俺は閃いた。
「逆でしませんか?」
「逆?」
「俺が、成瀬さんに挿入します」
「はあ?」
 そうしたら、妖精が消える。ほんの少しの罪悪感と寂しさはあったが、ほんの少しだ。長く付き合えばもっと、それが濃くなる。消すなら今だと思ったのだが、成瀬さんはお怒りだった。 
「あんた、妖精を消すつもりかよ? 消えたらもう二度と会えねんだぞ。頼むから、大事にしろ」
 叱られて、「はい」と肩を落とす。
「別に、挿れられるのがイヤだから言ってんじゃねーから」
「挿れられるのはやぶさかではないと?」
「やぶさかじゃねーよ」
「成瀬さん、男らしい」
 どういうマジックなのか、まったく恋愛感情なんて抱いていなかった隣人が、今はとにかく輝いて見える。
「童貞を大切にしろ。失ったら二度と戻らない。それが童貞だ」
「わかりました」
 名言っぽく言われて、納得した気になり、何がわかったのか、そう答えていた。
 あいつの予言は当たるらしい。
 俺と妖精は、以後、長く付き合うことになる。

〈おわり〉
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