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番外編
となりの成瀬さん
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〈成瀬編〉
男なのに、可愛いと思った。
初めて見たときに、もう惚れていたのだと思う。
別に女顔とか背が低いとかじゃない。スーツを着て出勤する姿は凛々しいし、男らしい。
朝、カーテンの隙間から、歩く隣人の姿を見届けたあとで、仕事に取り掛かる。帰りも隣のドアが開く音が聞こえるまで、眠らないと決めていた。どんなに遅くても、起きて、待っていた。
いつも朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。体を壊さないか心配で、ちゃんと生きているかを毎日確認している。
家族でもなんでもないのに。
我ながら、やばい。
何がよくて隣の男に執着しているのか、わからなかった。
不毛な恋はやめようと思うのに、朝と夜の日課をやめることができず、長年もだもだと片想いを続けてきた。七年だ。本当に、バカだ。
俺は元々男が性の対象というわけじゃない。
数人の女と付き合った経歴もある。
でもあまりにも性格が悪く、女受けがしない毒を吐くせいで、体の関係を持つまでには振られてしまう。
振られ続け、プライドは破壊され、恋愛ごとを避けるようになったが、自分が男に惚れるとは思いもしなかった。
人生、何があるかわからない。
「隣の男、今日は出かけるみたいだぞ」
妖精が言った。
「お前も外に出たらどうだ? カーテンの隙間から覗くより、近くで顔を見たくないか?」
「見たいけど」
「よし、四十秒で支度しろ」
三年前、三十歳の誕生日に出現した謎の生物は、自分を妖精だと名乗り、「童貞を卒業する手伝いをしてやろう」と胸を張った。
最初はひたすら気味が悪かった。頭がおかしくなったのかとも思った。
妖精は俺の頭を見透かして、隣人に対する感情もすぐに言い当てた。手伝ってやるから隣人にアタックしろとしつこかった。
もちろんあいつと付き合いたい、どうにかなりたいという気持ちはある。それ以前に上手く話す自信もなく、行動するのが怖かった。
口を開けば嫌味や文句が出てしまう。優しく微笑みたいのに、にらみつけてしまう。
嫌われるのが嫌だ。ただ、見ているだけでいい。存在を、感じていられればそれでよかった。
それに、月日が経つうちに、俺は妖精を大切に思うようになっていた。
友人や家族に近い感情を抱いていた。
妖精は、童貞を卒業させるために俺に憑いている。もし誰かとセックスをしたら。消えてしまう。
だから俺は、こいつを消さないために、生涯童貞でいることを約束していた。
「ただ見るだけだからな」
「はっはっは、そうか?」
「別に、話しかけたりしねーから」
「そうかそうか、はっはっは」
「……嘘だ、めちゃくちゃ話したい」
「はーっはっはっは、可愛い奴め」
玄関で靴を履いて、スタンバイしていると、妖精が「今だ!」とわめいた。ドアを開ける。ドキドキしながら横目で見ると、微笑んで、頭を下げてきた。
「おはようございます」
天使かよ。
まぶしくて、顔をしかめた。
「ごめんなさい、うるさかったですか?」
何がだ?
「話し声です。昨日結構、うるさかったかもって気になってて」
どういうことだ。誰か来てたのか?
引っ越してから一度だって誰かが訪ねてくることなんてなかったのに。
彼女とか。
ダメだ、泣きそうだ。
「別に……。何、誰か泊まりに来てんの?」
違うと言ってくれ。
「すいません、ただの独り言です」
よし、女じゃなかった。てか独り言可愛いな。
「こわ、あんた大丈夫?」
ジャケットのポケットの中でこぶしを握り締めたが、どうしても憎まれ口が勝手に出てきてしまう。違う、そうじゃない。もっとこう、「何も聞こえないから大丈夫、安心して独り言をどうぞ」みたいな、気遣いの言葉をかけてやりたいのに。
口から出るのは攻撃的な科白ばかり。
やっぱりダメだ。空回る。どうしてこうなのだと自己嫌悪に陥っていると、肩に止まった妖精が言った。
「おい、こいつ妖精が憑いてるぞ。どうやら三十路童貞デビューを果たしたらしいな」
へえ、という感想だった。
となりの男が三十路童貞だとしても、驚かない。
社畜だし、女を作っている暇なんてないはずだ。
というか、童貞で素直に嬉しい。しかも妖精が憑いている。仲間だからというよりも、誰とも関係を持っていない事実が、嬉しかった。
誰も触れたことのない、未開封の新品。もし、俺の手でそれを開封できるとしたら。
悶々としていると、唐突に「あの、おとなりさん」と呼ばれた。
「成瀬」
反射的に苗字を名乗ってしまったが、下の名前を言えばよかった。少しだけ後悔する。
「成瀬さん、今日はお休みですか? 今からお仕事?」
「休みだけど」
「どこに行くんですか? 何か用事ですか?」
なんだ? 興味を持たれてるのか? なぜ急に? もしや何かに誘われるとか?
行く。どこにだって、行ってやる。卵の特売だろうと、同人誌の即売会だろうと、なんだっていとわない。
「別に……、ただそこのコンビニでメシ買ってくるだけ。あんたに関係ある?」
口を開けば可愛げのない言葉。訂正したいが手遅れだ。
「まったくお前は。ある意味天才だな」
妖精が褒めてくれたが、頭を抱えたい。
ああああああ違う、やり直したい、と脳内で嘆いていると、隣人が言った。
「よかったら、ナンパに付き合ってくれませんか?」
「……はあ?」
目の前が、暗くなる。
船が沈没する難破《なんぱ》じゃないよな。
いや、ワンチャン「難波《なんば》」の聞き違いもありうる。今から大阪に行くというなら喜んでお供する。
「ナンパなんて一人じゃ絶対に無理だけど、成瀬さんがいたら心強いかなって。女の子にモテそうだし。あ、今彼女とか」
「今はいないけど。あんた、彼女欲しいの?」
膝から崩れ落ちそうなくらい、ショックだった。やはり女をナンパしたいらしい。
「彼女っていうか」
何か、言いにくそうにしている。まさか、男か?
「ありうるぞ」
肩の妖精がクスクス笑う。
「ダメならいいです。突然変なお願いしてすみませんでした」
「どうするんだ? いいのか? あいつに女、もしくは男ができても」
背を向ける隣人が、行ってしまう。
とっさに呼び止めていた。
そして、のこのこと、ナンパに同行することになった。
でも考えようによっては、これはデートだ。二人で街を歩けるなんて、思いもしなかった。たとえ並んで歩くとか、手を繋ぐとかがなくても、楽しい。後ろ頭を見ていられるだけで、幸せだった。
「こんにちは。突然すみません。少しお時間よろしいですか?」
街頭アンケートでもするかのように、女に話しかける隣人が真面目で可愛い。
声をかけられた女は、隣人を値踏みして、それから後ろの俺を見る。
すごんでやった。白目をむき出しにした、精一杯の怖い顔を作って脅してやった。
すくみ上り、逃げていく女の後姿を見て、満足した。それを何度も繰り返すうちに、再びの自己嫌悪に陥る。
こんなことをして何になる?
想いを伝える勇気もない俺が、前向きに彼女を作ろうとしている男の邪魔をして。
何になる。
ああ言え、こう言えと指示を出してくる妖精に従っていたが、隣人の、俺に対する不信感が募っていくのが空気でわかる。全力で、怖がっている。
完全に、いろいろ間違えた。
もうおしまいだ。
アパートに戻ると、気まずいままで別れた。自室でふて寝しようかとも思ったが、酒がいる。
買い出しに出かけよう。
「買い物はお前一人でいけ。おれはおれ会議をしてくる」
妖精が言った。
「おれ会議?」
「隣の妖精と作戦を練るのだ」
「あー……、もういいって。なんかダリいし、別に、俺は、見てるだけでいいし」
「カーテンの隙間からか? あと何年そうするつもりだ?」
「うるせーな。じゃあもう見ねーよ」
まったく! と妖精が吠えた。
「お前はすぐ拗ねる。いいか。とびきりいい酒を買ってこい。それから、何か、そうだな、鍋をしろ。鍋はいいぞ。仲間意識が生まれる」
「誘えってことか? めっちゃ怖がってたし、来るわけねーよ」
「大丈夫だ、断られないようにあっちの妖精に頼んでおく。二人きりにしてやるから、あとはお前の好きなようにすればいい。いいか、これがラストチャンスだと思え。リラックスして自然体でいけ。怯えるな。お前という人間を、ありのままのお前を見せるのだ。お前はできる子だ。あまり自分を貶めるな。素のお前を、きっとあいつは好きになる。なんといっても、顔がいい。おれが保証する」
「……関係ねーんだよ、顔なんてよくても」
そもそもあいつは女が好きだ。男の俺が、どうあがいたって、無駄だ。
「そうだな、顔の良し悪しは関係ないかもしれんが、お前はいい奴だ。おれを可愛がってくれるしな。おれはお前が大好きだ。本当だ。気づいてないだろうが、お前は本当にいい奴だぞ。だから幸せになってほしい。というか、幸せになれる」
妖精が、ふわりと飛び立った。
「酒を買え。日本酒だ。甘口より辛口がいい。鍋の材料は、白子と牡蠣があるといいぞ。それに、コンドームとローションを忘れるな」
言い置いて、壁の向こうにすり抜けていく。
「コンドームとローション?」
あほらしい。と思う。第一、今まで妖精の言うことを聞いて、上手くいった試しがない。
試しがないが、スーパーで適当な野菜と、白子と牡蠣をカゴに入れ、ドラッグストアでコンドームとローションを買って、帰宅した。
別に、何も期待はしていない。
していなかった。
どうせ怯えさせて終わりだと思ったが、奇跡が起きた。
コンドームとローションの、出番があったのだ。
眼前には、とろけた表情で、大股を広げる童貞の三十路男。
触れただけで射精したペニスは、すぐに復活し、物欲しそうに腹の上で揺れている。
たまらずに、かぶりつく。口の中に頬張って、顔を上下させた。舌先でカリをくすぐって、先端を責めると、精液が、ぴゅ、と可愛らしく飛び出した。
「あーっ、あっ、はあっ、……ん、あ、すごい、何これ、気持ちいい」
「俺のも舐める?」
「舐める」
ハァハァ言いながら、シーツの上を這って、俺の股間に顔をうずめた。
夢だろうか。もう夢でもいいか。好きにしよう。
フェラをさせ、顔面に、胸に、ぶっかけた。
俺の精液を、全身に塗りたくってやった。ペニスであちこちを撫でこすると、めちゃくちゃいい声であんあんと啼いた。特に、先端で乳首をつつくと、喜んだ。
童貞のくせに。なんでこんなにエロいんだよ。
自分で自分のペニスをしごきながら、俺のペニスにくっつけて、腰を振る。
「はあっ、はっ、あっ、これ、いい、すごい、ねえ、成瀬さんも気持ちいい?」
「気持ちいい」
酔っているから? 初めてだから?
俺たちは、止まらなかった。
二人ともが未経験のくせに、解き放たれた獣のように、交わった。
やり方だけは、よく知っている。
俺はエロ漫画家だ。知識だけは豊富で、偏っている自覚はあったが、アナルは完璧だ。
「アナルは任せろ」
耳元で囁くと、彼は「あはは、うん、アナルって?」ととぼけていた。
可愛いな。
なんでだろう。
好きだな。
なんでだろう。
なぜかはわからないが、七年間、まともに喋らなくても俺の恋心は膨れ上がり、ここまできた。
つながったとき、泣けた。
バレないように、素早く涙を拭い、丁寧に、優しく抱いた。
俺が動くたびに、喘いでくれる。ビンビンに勃起したペニスと、硬く立ち上がった乳首を見れば、感じてくれているのが一目瞭然で、嬉しかった。
可愛い。火照った頬で、何度も気持ちいいと言って、俺の腰に脚を絡ませ、「もっと、イク」と身体を痙攣させていた。
愛しかった。
ずっと好きだった、ずっと見てきた隣の男。
浮かれていた。
「お別れのときがきたようだ」
腕の中の可愛い寝顔を見つめて幸せに浸っていると、妖精が現れた。暗闇に光る妖精が穏やかに笑っている。
「お別れ?」
「三年も一緒にいたのはお前が初めてだ」
「あ……、え? いや、嘘だろ」
ようやく、気がついた。妖精は、童貞を卒業したら、消えてしまう。
「嘘だ、行くな、頼むから、行くなよ」
「だがおれは、そういう生き物なのだ」
「待てって、なあ、なんかあるんだろ、残れる方法。別に消えなくても、許されんだろ。妖精ってたくさんいるんだよな? じゃあお前はずっと俺と」
「残念だが、おれはもう行かなくては」
「イヤだ」
首を横に激しく振ったが、妖精の姿がどんどん薄くかすんでいく。
「お前はできる子だって言っただろう? ちゃんと、好きな奴と結ばれることができた。おれはお前を誇りに思う」
「行くなよ、俺を一人にするな……っ」
「一人じゃない。お前は大丈夫だ」
何が。何が大丈夫なのか。
「三年間、楽しかったぞ。じゃあな」
妖精が、目の前で、消えていく。信じられなかった。これからもずっと一緒にいると思っていた。あいつだけが俺を理解してくれたのに。
声を上げずに泣いた。
泣いて、泣いて、やがて、涙が止まった。
人肌を、感じた。太ももに触れる温かい人の体温だ。寝息が聞こえる。胸の上に耳をつける。心臓の音。生きている人間の、鼓動。
ぐ、と胸が詰まる。
この人が、好きだと思った。一人じゃない、と感じた。
あいつがいなくても。この人がいれば。もしかしたら、大丈夫かもしれない。
誇りに思う。
妖精の声が、耳に残っている。
息を吸って、吐く。
本当に、人生何があるかわからない。
〈おわり〉
男なのに、可愛いと思った。
初めて見たときに、もう惚れていたのだと思う。
別に女顔とか背が低いとかじゃない。スーツを着て出勤する姿は凛々しいし、男らしい。
朝、カーテンの隙間から、歩く隣人の姿を見届けたあとで、仕事に取り掛かる。帰りも隣のドアが開く音が聞こえるまで、眠らないと決めていた。どんなに遅くても、起きて、待っていた。
いつも朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。体を壊さないか心配で、ちゃんと生きているかを毎日確認している。
家族でもなんでもないのに。
我ながら、やばい。
何がよくて隣の男に執着しているのか、わからなかった。
不毛な恋はやめようと思うのに、朝と夜の日課をやめることができず、長年もだもだと片想いを続けてきた。七年だ。本当に、バカだ。
俺は元々男が性の対象というわけじゃない。
数人の女と付き合った経歴もある。
でもあまりにも性格が悪く、女受けがしない毒を吐くせいで、体の関係を持つまでには振られてしまう。
振られ続け、プライドは破壊され、恋愛ごとを避けるようになったが、自分が男に惚れるとは思いもしなかった。
人生、何があるかわからない。
「隣の男、今日は出かけるみたいだぞ」
妖精が言った。
「お前も外に出たらどうだ? カーテンの隙間から覗くより、近くで顔を見たくないか?」
「見たいけど」
「よし、四十秒で支度しろ」
三年前、三十歳の誕生日に出現した謎の生物は、自分を妖精だと名乗り、「童貞を卒業する手伝いをしてやろう」と胸を張った。
最初はひたすら気味が悪かった。頭がおかしくなったのかとも思った。
妖精は俺の頭を見透かして、隣人に対する感情もすぐに言い当てた。手伝ってやるから隣人にアタックしろとしつこかった。
もちろんあいつと付き合いたい、どうにかなりたいという気持ちはある。それ以前に上手く話す自信もなく、行動するのが怖かった。
口を開けば嫌味や文句が出てしまう。優しく微笑みたいのに、にらみつけてしまう。
嫌われるのが嫌だ。ただ、見ているだけでいい。存在を、感じていられればそれでよかった。
それに、月日が経つうちに、俺は妖精を大切に思うようになっていた。
友人や家族に近い感情を抱いていた。
妖精は、童貞を卒業させるために俺に憑いている。もし誰かとセックスをしたら。消えてしまう。
だから俺は、こいつを消さないために、生涯童貞でいることを約束していた。
「ただ見るだけだからな」
「はっはっは、そうか?」
「別に、話しかけたりしねーから」
「そうかそうか、はっはっは」
「……嘘だ、めちゃくちゃ話したい」
「はーっはっはっは、可愛い奴め」
玄関で靴を履いて、スタンバイしていると、妖精が「今だ!」とわめいた。ドアを開ける。ドキドキしながら横目で見ると、微笑んで、頭を下げてきた。
「おはようございます」
天使かよ。
まぶしくて、顔をしかめた。
「ごめんなさい、うるさかったですか?」
何がだ?
「話し声です。昨日結構、うるさかったかもって気になってて」
どういうことだ。誰か来てたのか?
引っ越してから一度だって誰かが訪ねてくることなんてなかったのに。
彼女とか。
ダメだ、泣きそうだ。
「別に……。何、誰か泊まりに来てんの?」
違うと言ってくれ。
「すいません、ただの独り言です」
よし、女じゃなかった。てか独り言可愛いな。
「こわ、あんた大丈夫?」
ジャケットのポケットの中でこぶしを握り締めたが、どうしても憎まれ口が勝手に出てきてしまう。違う、そうじゃない。もっとこう、「何も聞こえないから大丈夫、安心して独り言をどうぞ」みたいな、気遣いの言葉をかけてやりたいのに。
口から出るのは攻撃的な科白ばかり。
やっぱりダメだ。空回る。どうしてこうなのだと自己嫌悪に陥っていると、肩に止まった妖精が言った。
「おい、こいつ妖精が憑いてるぞ。どうやら三十路童貞デビューを果たしたらしいな」
へえ、という感想だった。
となりの男が三十路童貞だとしても、驚かない。
社畜だし、女を作っている暇なんてないはずだ。
というか、童貞で素直に嬉しい。しかも妖精が憑いている。仲間だからというよりも、誰とも関係を持っていない事実が、嬉しかった。
誰も触れたことのない、未開封の新品。もし、俺の手でそれを開封できるとしたら。
悶々としていると、唐突に「あの、おとなりさん」と呼ばれた。
「成瀬」
反射的に苗字を名乗ってしまったが、下の名前を言えばよかった。少しだけ後悔する。
「成瀬さん、今日はお休みですか? 今からお仕事?」
「休みだけど」
「どこに行くんですか? 何か用事ですか?」
なんだ? 興味を持たれてるのか? なぜ急に? もしや何かに誘われるとか?
行く。どこにだって、行ってやる。卵の特売だろうと、同人誌の即売会だろうと、なんだっていとわない。
「別に……、ただそこのコンビニでメシ買ってくるだけ。あんたに関係ある?」
口を開けば可愛げのない言葉。訂正したいが手遅れだ。
「まったくお前は。ある意味天才だな」
妖精が褒めてくれたが、頭を抱えたい。
ああああああ違う、やり直したい、と脳内で嘆いていると、隣人が言った。
「よかったら、ナンパに付き合ってくれませんか?」
「……はあ?」
目の前が、暗くなる。
船が沈没する難破《なんぱ》じゃないよな。
いや、ワンチャン「難波《なんば》」の聞き違いもありうる。今から大阪に行くというなら喜んでお供する。
「ナンパなんて一人じゃ絶対に無理だけど、成瀬さんがいたら心強いかなって。女の子にモテそうだし。あ、今彼女とか」
「今はいないけど。あんた、彼女欲しいの?」
膝から崩れ落ちそうなくらい、ショックだった。やはり女をナンパしたいらしい。
「彼女っていうか」
何か、言いにくそうにしている。まさか、男か?
「ありうるぞ」
肩の妖精がクスクス笑う。
「ダメならいいです。突然変なお願いしてすみませんでした」
「どうするんだ? いいのか? あいつに女、もしくは男ができても」
背を向ける隣人が、行ってしまう。
とっさに呼び止めていた。
そして、のこのこと、ナンパに同行することになった。
でも考えようによっては、これはデートだ。二人で街を歩けるなんて、思いもしなかった。たとえ並んで歩くとか、手を繋ぐとかがなくても、楽しい。後ろ頭を見ていられるだけで、幸せだった。
「こんにちは。突然すみません。少しお時間よろしいですか?」
街頭アンケートでもするかのように、女に話しかける隣人が真面目で可愛い。
声をかけられた女は、隣人を値踏みして、それから後ろの俺を見る。
すごんでやった。白目をむき出しにした、精一杯の怖い顔を作って脅してやった。
すくみ上り、逃げていく女の後姿を見て、満足した。それを何度も繰り返すうちに、再びの自己嫌悪に陥る。
こんなことをして何になる?
想いを伝える勇気もない俺が、前向きに彼女を作ろうとしている男の邪魔をして。
何になる。
ああ言え、こう言えと指示を出してくる妖精に従っていたが、隣人の、俺に対する不信感が募っていくのが空気でわかる。全力で、怖がっている。
完全に、いろいろ間違えた。
もうおしまいだ。
アパートに戻ると、気まずいままで別れた。自室でふて寝しようかとも思ったが、酒がいる。
買い出しに出かけよう。
「買い物はお前一人でいけ。おれはおれ会議をしてくる」
妖精が言った。
「おれ会議?」
「隣の妖精と作戦を練るのだ」
「あー……、もういいって。なんかダリいし、別に、俺は、見てるだけでいいし」
「カーテンの隙間からか? あと何年そうするつもりだ?」
「うるせーな。じゃあもう見ねーよ」
まったく! と妖精が吠えた。
「お前はすぐ拗ねる。いいか。とびきりいい酒を買ってこい。それから、何か、そうだな、鍋をしろ。鍋はいいぞ。仲間意識が生まれる」
「誘えってことか? めっちゃ怖がってたし、来るわけねーよ」
「大丈夫だ、断られないようにあっちの妖精に頼んでおく。二人きりにしてやるから、あとはお前の好きなようにすればいい。いいか、これがラストチャンスだと思え。リラックスして自然体でいけ。怯えるな。お前という人間を、ありのままのお前を見せるのだ。お前はできる子だ。あまり自分を貶めるな。素のお前を、きっとあいつは好きになる。なんといっても、顔がいい。おれが保証する」
「……関係ねーんだよ、顔なんてよくても」
そもそもあいつは女が好きだ。男の俺が、どうあがいたって、無駄だ。
「そうだな、顔の良し悪しは関係ないかもしれんが、お前はいい奴だ。おれを可愛がってくれるしな。おれはお前が大好きだ。本当だ。気づいてないだろうが、お前は本当にいい奴だぞ。だから幸せになってほしい。というか、幸せになれる」
妖精が、ふわりと飛び立った。
「酒を買え。日本酒だ。甘口より辛口がいい。鍋の材料は、白子と牡蠣があるといいぞ。それに、コンドームとローションを忘れるな」
言い置いて、壁の向こうにすり抜けていく。
「コンドームとローション?」
あほらしい。と思う。第一、今まで妖精の言うことを聞いて、上手くいった試しがない。
試しがないが、スーパーで適当な野菜と、白子と牡蠣をカゴに入れ、ドラッグストアでコンドームとローションを買って、帰宅した。
別に、何も期待はしていない。
していなかった。
どうせ怯えさせて終わりだと思ったが、奇跡が起きた。
コンドームとローションの、出番があったのだ。
眼前には、とろけた表情で、大股を広げる童貞の三十路男。
触れただけで射精したペニスは、すぐに復活し、物欲しそうに腹の上で揺れている。
たまらずに、かぶりつく。口の中に頬張って、顔を上下させた。舌先でカリをくすぐって、先端を責めると、精液が、ぴゅ、と可愛らしく飛び出した。
「あーっ、あっ、はあっ、……ん、あ、すごい、何これ、気持ちいい」
「俺のも舐める?」
「舐める」
ハァハァ言いながら、シーツの上を這って、俺の股間に顔をうずめた。
夢だろうか。もう夢でもいいか。好きにしよう。
フェラをさせ、顔面に、胸に、ぶっかけた。
俺の精液を、全身に塗りたくってやった。ペニスであちこちを撫でこすると、めちゃくちゃいい声であんあんと啼いた。特に、先端で乳首をつつくと、喜んだ。
童貞のくせに。なんでこんなにエロいんだよ。
自分で自分のペニスをしごきながら、俺のペニスにくっつけて、腰を振る。
「はあっ、はっ、あっ、これ、いい、すごい、ねえ、成瀬さんも気持ちいい?」
「気持ちいい」
酔っているから? 初めてだから?
俺たちは、止まらなかった。
二人ともが未経験のくせに、解き放たれた獣のように、交わった。
やり方だけは、よく知っている。
俺はエロ漫画家だ。知識だけは豊富で、偏っている自覚はあったが、アナルは完璧だ。
「アナルは任せろ」
耳元で囁くと、彼は「あはは、うん、アナルって?」ととぼけていた。
可愛いな。
なんでだろう。
好きだな。
なんでだろう。
なぜかはわからないが、七年間、まともに喋らなくても俺の恋心は膨れ上がり、ここまできた。
つながったとき、泣けた。
バレないように、素早く涙を拭い、丁寧に、優しく抱いた。
俺が動くたびに、喘いでくれる。ビンビンに勃起したペニスと、硬く立ち上がった乳首を見れば、感じてくれているのが一目瞭然で、嬉しかった。
可愛い。火照った頬で、何度も気持ちいいと言って、俺の腰に脚を絡ませ、「もっと、イク」と身体を痙攣させていた。
愛しかった。
ずっと好きだった、ずっと見てきた隣の男。
浮かれていた。
「お別れのときがきたようだ」
腕の中の可愛い寝顔を見つめて幸せに浸っていると、妖精が現れた。暗闇に光る妖精が穏やかに笑っている。
「お別れ?」
「三年も一緒にいたのはお前が初めてだ」
「あ……、え? いや、嘘だろ」
ようやく、気がついた。妖精は、童貞を卒業したら、消えてしまう。
「嘘だ、行くな、頼むから、行くなよ」
「だがおれは、そういう生き物なのだ」
「待てって、なあ、なんかあるんだろ、残れる方法。別に消えなくても、許されんだろ。妖精ってたくさんいるんだよな? じゃあお前はずっと俺と」
「残念だが、おれはもう行かなくては」
「イヤだ」
首を横に激しく振ったが、妖精の姿がどんどん薄くかすんでいく。
「お前はできる子だって言っただろう? ちゃんと、好きな奴と結ばれることができた。おれはお前を誇りに思う」
「行くなよ、俺を一人にするな……っ」
「一人じゃない。お前は大丈夫だ」
何が。何が大丈夫なのか。
「三年間、楽しかったぞ。じゃあな」
妖精が、目の前で、消えていく。信じられなかった。これからもずっと一緒にいると思っていた。あいつだけが俺を理解してくれたのに。
声を上げずに泣いた。
泣いて、泣いて、やがて、涙が止まった。
人肌を、感じた。太ももに触れる温かい人の体温だ。寝息が聞こえる。胸の上に耳をつける。心臓の音。生きている人間の、鼓動。
ぐ、と胸が詰まる。
この人が、好きだと思った。一人じゃない、と感じた。
あいつがいなくても。この人がいれば。もしかしたら、大丈夫かもしれない。
誇りに思う。
妖精の声が、耳に残っている。
息を吸って、吐く。
本当に、人生何があるかわからない。
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