雨の烙印

月世

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エピローグ

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 杉里浩太すぎさとこうたは、犬の散歩が日課だった。雨の日も風の日も、平日も休日も、同じ時間に同じコースを通る。
 そして、同じ場所で脚を止める。飼い犬のジーザスもそれをわかっていて、主人の横にピタリと体を寄せ、しばし、座り込む。
 そこはかつて友人の家が建っていた場所だ。立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされたそこは、焼け落ちた家の残骸がわずかに残っているだけで、以前の面影はない。
 友人の神崎隼人は、小学一年生で母を亡くしている。交通事故だった。父子家庭になった隼人が、どうやら父親に虐待されているらしいという噂は瞬く間に広まった。娯楽のない小さな町だからだ。
 当時、小学生だった杉里には大人たちの言う「虐待」の意味がよくわからなかった。同じ小学校に通うただの同級生で、二人はまだ、友人と呼べる関係ではなかった。
 隼人は一人で本を読んでいることの多い、大人しい子どもだった。対して杉里は、外でサッカーをしたり野球をしたり泥まみれで遊ぶ活発な子どもだった。
 正反対な二人は中学に上がり、初めて言葉を交わした。
「次、移動だぞ」
 教室の外を眺め、一人ポツンと席に座っている隼人に、杉里が声をかけた。
 隼人は感情のこもらない目で杉里を見て、こう言った。
「あんたは隼人の敵か? 味方か?」
 寝ぼけているのだと思った杉里は隼人の手を引いて、音楽室に急いだ。
「いつの間にここに?」
 音楽室に着くと、隼人がぼんやりとつぶやいた。
「お前、本当に寝ぼけてんな? 俺が連れてきたんだろが」
 笑う杉里を見て、隼人はうつむいて「ごめん」と謝った。
「そういうときはありがとう、な」
 肩を軽く叩いて杉里が言う。隼人は叩かれた肩に手をやって、照れたように「ありがとう」と返した。
 それから二人は一緒にいる時間が増え、「友人」になっていた。
 杉里にとって隼人は、今まで関わったことのないタイプだった。大人しくて控えめで、親切で優しい。基本的な部分が自分とは大きくずれている隼人は、たまに息が詰まったが、それでも放っておけない理由があった。
 隼人は、普通じゃない。
 杉里は早い段階から、隼人の内に潜む問題に気がついていた。
 今まで笑っていたのに、ふいに表情を消したり、会話の最中に急に席を立ったり、体育が苦手なのに、唐突に生き生きとサッカーボールを追いかけたり。
 多分、隼人の中には何人もの人間が住んでいる。
 一般的に、多重人格障害と呼ばれ、正式には解離性同一性障害という名称。杉里はインターネットの記事を読み漁り、ときには慣れない図書館にも通って情報を得た。
 子どもの頃に衝撃的な出来事が起こると、その苦痛を遠ざけようとして人格を生み出す。現実から逃避する手段らしい。そんなややこしい真似をしなければ耐えられないほどの苦痛。
 隼人は事故で、母親を亡くしている。それが関係していることは、杉里にもわかった。それに、子どもの頃に聞いた「虐待」の噂。組み合わせると、納得できた。
 本人も、おそらく自分の異変に気づいている。それでも杉里は、多重人格であると指摘できずにいた。そうすることで、隼人が自分から離れていくのではないかと危惧していた。
 時は流れ、二人は別々の高校へ進学した。杉里は、隼人を守るために同じ高校に通いたかったが、学力の差は努力では埋まらなかった。
 一人になることに不安を感じていた隼人に、「大丈夫」と無責任な励ましをして高校に送り出した数日後、事件が起きた。
 隼人が上級生に襲われたのだ。
 泣きながら杉里の家を訪れた隼人は、どうしよう、と繰り返した。
 隼人を落ち着かせて話を聞くと、どうやら、襲ってきた上級生を返り討ちにしたらしいことがわかった。
 柔道部の部室に呼び出され、ドアを開けたところで暗転し、気づくと顔を血まみれにした上級生が倒れていて、「助けて、もうやめて」と怯え切った目で震えていた。
 隼人はそう説明すると、自分の両手を見下ろして、怖い、と泣き声で訴えた。
「手が、血まみれだった。杉里、俺、怖いよ、自分が、怖い」
 隼人の目から涙がこぼれ落ちる。杉里はそれを見ながら、腕の中に隼人を抱きしめていた。すがってくる隼人の髪を、撫でた。間近で見る隼人の髪は、本当に茶色で、繊細で、綺麗だった。軽く、めまいがする。隼人の肩を抱きながら、杉里は、自分の胸の深い部分から沸き起こる感情に戸惑っていた。
「隼人」
 名前を呼ぶと、隼人が弾かれたように顔を上げた。
「ごめん、もう大丈夫」
 涙を拭い、杉里の胸を押し、「帰るよ」とつぶやいた。腕から逃げて行った隼人の体温に、落ち着かなさを感じた。離したら、いけない気がした。未練がましく隼人の腕を取って、早口で提案する。
「じゃあ、送る」
「一人で大丈夫」
 玄関先に繋いである犬の頭を撫でて、隼人は「またね」と言い置いた。外は薄暗かったが、その闇に向かって歩いていく。後姿を、見えなくなるまで見届け、家に入ろうとした杉里の頬に、雨粒が当たった。
 空を見上げると、どす黒い嫌な雲が、薄闇に広がっていた。
 杉里の心境をそのまま映し込んだような、不吉な空だった。
 その不吉な空は、すぐに雨をもたらした。杉里の嫌な予感は濃くなっていく。眠ろうとするのに、隼人が気になって眠れない。明日も学校だ。寝たふりでもしていよう、と目を固く閉じたとき、サイレンの音が響いた。消防車のサイレンだ。
 跳ね起きて、窓を開ける。雨は小雨だがまだ降っていて、でも、何かが燃えている。風に乗って、何かが焦げた匂いが漂ってくる。遠くで煙が上がっているのが見えた。あっちの方向は、隼人の家だ。確信があった。あれは、絶対に、隼人の家だ。
 杉里は着替えることもせず、サンダルで家を飛び出した。隼人の家に急ぐ。何人ものやじ馬が、火事の現場を見ようとぞろぞろと歩いている。それらを追い抜いて、駆けた。
 隼人。
 燃え上がる家を、見上げている小さな背中。両手をだらりと下げ、呆然と、突っ立っている。
「隼人、大丈夫か?」
 隼人が、ゆっくりと振り向いた。口をポカンと開け、何が起きたのかわからない、という様子の隼人が「杉里」と呼んだ。杉里はそれで、これはちゃんと「隼人」だ、と信じることができた。
「おじさんは?」
 隼人の父の姿が見えない。杉里の質問に、隼人は首をかしげた。
「わからない」
 その後、鎮火した家の焼け跡から遺体が見つかり、父親だと判明した。単純に火事から逃げ遅れたわけではなかった。警察は放火殺人と結論づけ、小さな町は騒然となった。殺人事件はおろか、傷害事件さえも起きたことのない、平和な地域だった。
 一体誰が、殺したのか。
 なぜ、隼人だけは、無事だったのか。
 誰も明確に口にしなかったが、その二つの疑問が一つの答えを導き出していた。
 隼人が、父親を殺して火を放った。
 それはある意味正解で、ある意味では間違っている。と、杉里は想像する。
 すべては隼人の中の人格が、やったことだ。
 放火殺人なんて、隼人にはできない。
 ともかく、隼人は家と父親を失った。そんな状況でも、隼人は悲観しなかった。涙も見せず、あっさりと「いとこの家にお世話になるよ」と別れを告げに訪れた。
「転校するのか?」
 高校生活が始まって、一か月も経っていない。
「うん、いとこと同じ学校なんだ」
 杉里はイラついた。隼人がいとこと口にするたびに、どこか嬉しそうに見えたからだ。
「もう会えないんだな」
 サンダルを履いた自分の足先を見つめ、杉里は両手を握り締めた。
「会いに来るよ。だって杉里は、たった一人の友達だから」
 隼人が手を差し出してくる。その手を握り、心にもない返事をする。
「向こうでちゃんと、友達作れよな」
「……うん、ありがとう」
 柔らかく微笑んだ隼人。多分もう会えない。杉里は本能的にそう悟った。
 帰る場所のない故郷だ。いい思い出なんて何もない。母が死に、父が死に、生家が燃えた。
 誰が、帰ってきたいと思うだろうか。
 たった一人の友達。そんなものに会うために、わざわざ帰って来るとは思えなかった。それでもいい。隼人が向こうで幸せなら、それでいい。
 隼人の幸せ。それは、なんだろう、と杉里は考えた。解離性同一性障害は、自然と治癒するものではない。隼人はそれをわかっているのか。
 隼人がいなくなってもずっと、不安を抱えていた。
 あいつは普通じゃない。放火殺人を犯すような、恐ろしい人格が中にいる。野放しにしてもいいのだろうか。誰か、大人に相談したほうがよかったのではないか。
 いや、そんなことをすれば、隼人はきっと、自由を奪われ、どこかに幽閉されてしまう。
 これでよかった。
 本当にそうか?
 葛藤をしない日がない。常に罪悪感を抱え、朝起きても憂鬱だ。その靄を吹き飛ばすために、毎朝五時に起床し、眠そうな犬を引きずって、散歩に出る。
 まだ外は暗い。人の姿もなく、静かだった。街灯もほとんどない、田舎の田んぼ道。
 遠くで車の排気音が聞こえた。聞き慣れない音に反応し、犬と杉里は脚を止める。ヘッドライトを灯した車が向かう先。まさか。杉里はリードを引いて、走り出した。
 黒い高級車が、隼人の家の前に停まっていた。杉里は藪の中に身を潜め、様子をうかがった。
 誰だ? 警察、ではなさそうだ。
 暗くてよく見えないが、二人いる。一人はボンネットに腰を下ろし、煙草を吸っていた。もう一人は家の焼け跡に身をかがめ、何かを探しているようだった。
 ガリ、ガリ、と土を削る音。地面を掘っている、と杉里は気づいた。隣で犬のジーザスが、低いうなり声をあげた。首根っこをつかんでシッとやると、ジーザスは小さく鼻を鳴らし、その場で伏せをした。
「まだか?」
 ボンネットの男が訊いた。
「ん、深く埋めたから、もうちょっと」
 土をほじくる男が答えた。耳を、疑う。まさか、と腰が跳ねた。
「それ、本当にいるか?」
「いるよ」
 杉里は無意識に立ち上がっていた。
 隼人だ。
 藪の中から飛び出して、叫ぶ。
「隼人!」
 ボンネットの男は驚いた素振りを見せず、冷静に煙草の煙を吐き出した。地面を掘っていたもう一人の人影が、腰を上げる。手に、何かを持っている。土にまみれた、サッカーボールにも見えた。後部座席のドアを開け、それを丁寧にシートに置き、「杉里」と手を払いながら答えた。
 杉里は、隼人に駆け寄った。ところが犬がブレーキを踏み、近寄ろうとしない。低くうなり続けている。
「ジーザス、どうした、隼人だぞ」
 隼人になついていたはずの愛犬が、警戒している。
「久しぶりだね、杉里」
 ドアを閉めながら、隼人が言った。杉里は顔をほころばせようとしたが、表情が、固まった。
「隼人?」
 違和感があった。どこか、何かが違う。隼人は薄く、笑っていた。笑顔なのに、温度がない。冷たい微笑みを浮かべている。
 隼人じゃない。
 杉里は察知した。これは、別の人格。そうに違いない。
 思わず後ずさると、犬のうなり声が大きくなった。
「どうしたの? 久しぶりなんだから、ハグしようよ」
 隼人が真っ黒に汚れた両手を広げて言った。
 違う。隼人はこんなふうに笑わない。スキンシップの苦手な隼人がハグしようなんて、言うはずもない。
「お前、どうなった?」
 震える声で訊いた。隼人は両手を下ろし、ふふっと軽快に笑った。
「どうなって見える?」
 いつも伏し目がちで、申し訳なさそうに、体を小さくしていた隼人。
 目の前の男は、背筋を伸ばし、堂々として見えた。耳に、赤いピアスが光っていることに気づき、杉里は眉間のシワを、深くした。
「杉里には感謝してる。いつも守ってくれたね」
 隼人が一歩前に出た。犬が慌てて飼い主の後ろに回り込む。
「俺の秘密に気づいてたのに、言わないでいてくれた」
 杉里は、無理やり唾を飲み込んで、静かに打ち震えていた。
「ありがとう」
 杉里のよく知る隼人の温かな笑顔が、そこにあった。
「隼人、俺……」
「行くぞ」
 煙草を咥えた男が吐き捨てるように言って、さっさと運転席に乗り込んだ。
「心配しなくていいよ」
 隼人が言った。
「え?」
「守って貰わなくてもいいんだ。俺はもう、何も怖くない。自由になれたんだ」
 きょとんとする杉里に、隼人が顔を寄せる。頬に、唇の感触。
「バイバイ」
 放心する杉里を置いて、隼人が後部座席に乗り込んだ。すぐにエンジンがかかり、車のテールランプがあっという間に小さくなる。
 犬のジーザスが、顔を空に向けた。口を細く尖らせ、長く、吠えた。
 杉里は崩れ落ち、飼い犬の首に抱きついて笑った。
「お前、それ、負け犬の遠吠えか?」
 心配しなくていい。
 自由になれた。
 何も怖くない。
 隼人がそう言った。杉里は安堵のため息を吐く。罪悪感が、消えた。
 明日から、爽快で気持ちのいい朝を迎えられるだろう。

〈了〉
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