引きこもりの受難

小桃沢ももみ

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50 悪夢ですか?

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 数日後、星からメールでアメリカに着きましたの連絡が来た。富士子と平介にも来たそうだ。無事に着いて良かったと返信したけど、それに対する返事はなかった。星なら更に返信して来そうなのに、忙しいのだろうかと洋介は首を傾げた。

 富士子と平介は何も星の話をしない。ただ時々スマホで誰かとLINEをしている。二人がLINEする相手は星しか居ないので、聞かずとも相手は決まっている。
 星と洋介はLINEのアドレスは交換していない。知っているのは携帯電話会社のメールアドレスだけだ。若い星にとってはメールよりLINEの方が慣れてるんじゃないだろうか? だから返事がないとか? 俺もLINEで連絡した方がいいのかと洋介は悩む。星のLINEのアドレスは、富士子に聞けば教えてくれそうだが、本人に許可を得てないのに勝手に教えて貰うのは良くない気がして聞けない。
 星から手紙の返事もない。「ご返事します」と言っていたが、アメリカからだとエアメールになってしまう。返事がないのは、もしかしたら日本に帰国してから送ってくれるつもりなのかもしれないと自分を納得させつつ、いやアメリカからだって送れる、海外生活に慣れてる人ならエアメールが手間になるのは分かるが、星は違う、それって……という不安がじわじわと湧き上がってくる。
 向き合おうと決めたのに、何も変わってない。寧ろ悪くなってるような?
 秋の筈なのに毎日暑いねと親子でダラダラ過ごす内に九月は終わった。

 十月。
 悩んだ末に洋介は星に様子伺いのメールを出した。あんまり身体の事に触れるのも良くないかと、当たり障りのない内容にした結果、業務連絡みたいになったけれど、返事はない。
 星ならすぐに返事が来ると思ったのに。
 LINEなら既読かわかるのに、メールだと分からないのが焦ったい。
 星は仕事と検診で渡米すると話していた。恐らくは、まず検診して、問題無いとなれば仕事、の予定だろう。
 直ぐに返事がないのは、また入院しているのだろうか? でもそうなら富士子か平介が何か言う筈だ。それに病院でもよっぽど具合が悪くない限り、メールは出来るんじゃないだろうか? 富士子だって入院した時、メールして来てたし。もしかしたらアメリカと日本は違うのかもしれないが。
 第一、星が渡米してもう一ヶ月だ。流石に検診は終わって今は仕事しているのでは? ずっと入院したりしていたから、仕事が忙しくて返事をする余裕がないとか? でも、星は洋介に対して好意を持っているみたいなので、仮に忙しくても「メールありがとうございます。仕事が忙しいので落ち着いたらメールします」くらいの返事はくれるんじゃないか? 自分だったら絶対そうする。けどそれって常識じゃないのだろうか? 
 ずっと引きこもっているから社会人の常識が分からなくなった。社会人としてだけじゃない、一般人としても恋愛のも。


 洋介は久しぶりに悪夢を見るようになった。

 総務部長がA 4の用紙を一枚、指で見せつけるように摘んで、ピラピラと振りながら編集部に入って来る。

 「××先生からファックス来たぞー! 誰宛だ?」

 始業時間三十分前で、社員の姿は疎だ。がらんとした室内に総務部長の大声が響く。
 あと数年で定年らしい総務部長はいつもポマードでかっちりと頭をセットしていて身嗜みに厳しい。会社規定では『服装は自由』なのだが、洋介がチノパンにジャケットを合わせたりしてると「それは休日の服装だ! スーツを着ろ! スーツを!」としつこく絡んで来て煩い。
 ファックスを誰宛だと叫んでるけど、宛名が書いてないだけで、誰が担当なのか総務部長は分かっていて聞いている。嫌味な性格なのだ。××先生と洋介の確執を知ってる癖に。黙って席に置いて行ってくれればいいのに。他の総務の人ならそうしてくれるのに、と洋介の胃がキリキリと痛む。
 ××先生は心理学の先生だ。大学の名誉教授で洋介が担当する子供向け心理学の本の著者。洋介は間違えたのだ。子供向けだと言ってるのに専門書並みの硬くて難しい文章。編集プロダクションの担当者を交えて何度も何度も話し合った。その度にニコニコとして分かったと××先生は受け合うが直さない。どう見ても子供向けじゃないまま原稿が上がってくる。いい加減印刷所に入稿しないとスケジュールに間に合わない。

 「口で子供向けだと説明するだけじゃ先生は理解出来ていらっしゃらないんじゃないでしょうか?」
 「そうですね。普段大学の教科書になるような専門書を書かれてる方ですから」

 何度目かの先生との全く変わり映えのないやり取りの後、編集プロダクションの担当者と入った喫茶店で二人は頭を抱えていた。編集長に急かされている。このままでは発行スケジュールが遅れる、営業に文句を言われたらどうしてくれるんだと。

 「一度見本をお見せしたらどうでしょうか? 先生の原稿を基に子供向けにリライトした文章をお見せするとか」
 「一部分ですか?」
 「ええ」
 「しかし今からライターさんを探すとなると締め切りが」
 「私が書きましょうか?」
 「岬さんが、ですか?」
 「ええ」

 この判断が大間違いだった。××先生は心理学の専門家でもない洋介にリライトされたのに激怒して抗議文をファックスで送って来た。
 ファックスの複合機は総務部にある。何故か狙い済ましたように××先生からのファックスは総務部長がファックスの横を通る時に届いた。
 当時はまだスマホもなく、パソコンも誰もが持っているのではない時代。原稿をメールで送る人は少数派だった。××先生からのファックスは手書きで、小さな文字が神経質にびっしりと並ぶ。
 最初に届いた時、総務部長が「誰宛だ?」と顰めっ面でピラピラさせながら持って来た。後から思うに読んだ後だったんだろう。総務部長の近くにいた社員が覗き込んで、「えっと××大学××って」と読み上げるのに「はい」と洋介は手を挙げた。受け取ると宛名は編集部宛になっていた。
 何で? 俺が担当だって知ってる筈なのに、何度も会ってるのに俺宛じゃないんだ? それとも先生がファックスを送り慣れてないからか?と疑問に思いながら読み進めていく内に血の気が引いた。
「編集長」と声を掛けると、編集長は掛かって来た電話を取った所だった。待てと合図されて待っていると、また総務部長がファックスの紙をピラピラさせながら持って来た。

 「また届いたぞ」

 編集長の電話の相手は編集プロダクションの社長だった。向こうにも先生からファックスが届いたらしい。そんなやり取りを受話器を持つ編集長越しに聞いていると、また総務部長が先生からのファックスを持って来た。
 ファックスは何枚も何枚も届いた。

 直ぐに編集長と共に大学へ謝りに行って洋介は担当を外された。代わりの担当者は編集長になり、××先生は満足したように「最初から編集長が担当が良かったな。どうも若い人は信用出来なくてね」とニコニコしていた。
 あんなに何度も打ち合わせしたのに、その間そんな素ぶりは微塵も見せなかったのに。寧ろ感じのいい穏やかな老教授に見えたのに。
 いつもと同じニコニコ顔だった。ただ洋介を一瞥もしなかった。まるで洋介なんか居ないものみたいに編集長とだけ話した。
 
 「あれ、多分最初から担当が岬君じゃ不満だったんだろうな。きっといつも書いてる出版社だと社長クラスの担当が付いてたんじゃないか? 名誉教授だからな。うちみたいな実用書の出版社と専門書出してる出版社じゃ扱いが違ったのかもしれない」
 
 研究室を辞すと編集長が頭を振りながらため息を吐いた。

 「けど、だからって勝手に書き直したのは良くない。話し合うのを諦めた岬君が悪い」
 「……はい」

 硬い文章は編集プロダクションの社長の説得に先生が折れてライターが入る事になった。心理学を専門にしているライターだ。締め切りもトラブルで没になるくらいならと営業が譲って大幅に延びたから間に合う。
 担当が変わっても先生との窓口が編集長になっただけで、実際は洋介が担当のままだ。もう一切洋介が××先生と直接やり取りする事がないだけだ。洋介が原稿を確認して気になった事を編集長に相談する。編集長がいいと言った事だけ、編集プロダクションに修正を依頼する。もう入社して何年も経っているのに、新人の頃みたいに上司に逐一チェックされるのがしんどい。しかも編集長は自分の仕事で忙しいのでなかなか相談の時間が取れない。ストレスが溜まる。
 相変わらず××先生はファックスを送りつけてくる。ライターの原稿にびっしり赤を入れたのを。ファックスは白黒だから赤い色は分からなくて、文字が多くなるだけでただただ見辛い。原稿自体に赤を入れたのを編集プロダクションだけに渡してくれれば良いものを、編集部宛てにも同じのをファックスで送ってくる。大量だ。その度に用紙が足りなくなって補充させられる総務部長が煩い。
 総務部長の苦情に耐えかねた編集長が「原稿を編集プロダクションだけに渡して下されば大丈夫です。それを私も見せて貰ってますし、先生のファックス代も掛かりますでしょうし」と電話したが、その方が安心だからと引かない。揉めた後なので、編集長もしつこくは言えない。
 その代わり総務部長が煩い。何度も何度もファックスを持って「誰宛だ!」とやって来る。もう今では編集部全員が事の次第を知っているから、総務部長が来た瞬間に皆こちらを向く。その度に洋介は胃がキリキリと痛む。
 悪いのは洋介なのだが、まるでこっちの状況が先生には見えてて、洋介に対してわざと嫌がらせしているんじゃないかとすら思えた。うちの総務部長が煩いのを知っていて、わざわざ総務部長がファックスの横を通るタイミングを見計らって送っているんじゃないかと。
 本が出るまで先生は大量にファックスを送り続け、宛名は最後迄編集部宛てで、その度に総務部長が怒鳴りながら持って来た。

 夢は時系列通りではなくて、ぼんやりとその時だけ一部分だけを切り取って見せる。前後のストーリーもないのに、ただその場面だけ見せられて、あの時の感情が一つ残らず思い出される。
 しかもそれが夢だと洋介が分かっているから、名前も忘れたし、思い出したくもないあの先生が目の前で、優しい老教授の顔でニコニコしているけど本心では俺じゃ不満だと腹ん中が煮えくり返ってるんだよな、と打ち合わせしながら鬱々としてしまう。
 悪かったのは自分だと分かっている。他人の文章に勝手に手を入れるのは良くない。思い上がっていたのだ、あの頃は立て続けに洋介が担当した本の重版が掛かって天狗になっていた。自分の文章にも自信があった。だから判断にも迷いがなかった。
 目が覚めると、取り止めもなく、出版社時代の嫌な思い出が、あの事件以外の色んな事が思い出されてしまう。それだけでなく、学生時代の失敗まで思い出される。あの時の事以外、嫌な思い出ばかりを切り取った夢を洋介は見るようになった。

 本が出た後しばらくして、もう何もあの本と関係なくなった頃、身体が急に変になった。朝、一人暮らしのアパートを出ようとしたら、コートを羽織った途端に寒くてガクガクと震え出した。なんか俺、変だ、とコートを脱ぐと今度は暑くて堪らない。汗がブワッと噴き出した。身体が変だ。おかしい。そう考えた途端に洋介は力が抜けてその場に座り込んで立てなくなった。
 俺はダメな人間だ。何一ついい所なんてありやしない。

 不意にガタガタと網戸が揺らされる音で洋介は我に返った。
 風太郎だ。猫の風太郎が外から帰って来て中に入れろとアピールしている。鳴いても洋介が起きないと、風太郎は網戸の目に前足の爪を引っ掛けてぶら下がり、網戸をガタガタといわせる。六キロある風太郎に爪でぶら下がられると、網目が広がって夏場そこから蚊が入ってくる羽目になる。それが嫌なので、洋介が飛び起きるのを風太郎は理解しているのだ。

 「へえへえ、今開けますよ」

 寒さにぶるっと震えながら、洋介が風太郎を迎え入れると風太郎はそのまま部屋を突っ切って更に部屋のドアを開けろと鳴く。洋介が窓を閉める時間すら待てないと急かす。ドアを開けると風太郎は軽い足取りで階段を降りて行って、今度は餌入れの前で鳴く。

 「へえへえ、下僕は今行きますよ」

 外よりはマシだが廊下も寒い。可愛がっている猫だが、こう寒い時に起こされるのは普段ならうんざりでどんなに鳴いて急かされてもノロノロと動作が遅くなってしまう。だが、今日のような悪夢の後は気持ちが切り替えられてありがたい。新しい水とカリカリを入れ、無心で食べている風太郎の小さな頭をしきりに撫でる。風太郎は煩そうに尻尾をパタンパタンと振る。邪魔するなと言われているのは分かっているが、洋介はその小さな頭を撫でる手を止められなかった。

 
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