死を恋う神に花束を 白百合を携える純黒なる死の天使【アルファポリス版】

高坂 八尋

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一章 死の王

第38話 交渉と波紋

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「おいで……、」

 クシエルはどこへともなく、そう呼んだ。まるで小鳥でも呼んでいるようなたおやかさだ。

 クシエルは無言でヘルレアの元へ行くと、ヘルレアの髪を掴んで引き起こした。ヘルレアの脚からの出血は止まり、股関節が正常な形に戻っている。しかし毟られた腕は出血は止まったものの、まだ失ったままで上腕は力なく垂れていた。

「再生も遅いな」

「これだけ損傷を負ったのは初めてだ……自分の再生速度など知らない」

「それはよかった。新たな事実が知られたね」

 クシエルは優しく微笑むと、髪を掴む手に力を入れて、自身の目の高さまで吊る。ヘルレアよりもクシエルの方が身長が高く、ヘルレアは爪先立つ形になった。

 結い上げていた髪が完全に解ける。ヘルレアは苦痛に顔を歪ませていた。

 すると、上空から巨大な影が差した。空から蝙蝠こうもりの様な翼を持つ綺士が降りて来る。まるで中世の鎧を纏ったような綺士だった。外殻が上向きに細く迫り出し、今までの綺士よりもほっそりとしていて体長がある。鱗は烏の濡羽色で光によって鮮やかに色を変えた。

 クシエルの綺士に人間の男が抱えられている。男はぐったりとしていて、完全に綺士へと身を任せて動く様子がない。服は血に汚れているようで斑になっている。

 綺士がクシエルの横に降り立ち、男の顔が明らかになった。

 長髪に含めても相違ない、さらりとしたチョコレートブラウンの髪。厳つさよりも、すっきりとした怜悧れいりさを感じさせる面差し。

 その顔はジェイドがよく見知っている。

 ――オルスタッド。

 ジェイドは思わず叫びそうになったが、何とか知らない振りをしてやり過ごした。気付かれたかどうかは自信はなかった、だが、ジェイドに出来ることはそれしかない。

 顔見知りである事を、利用されてしまう危険性が高過ぎる。

 ヘルレアはオルスタッドの顔を横目で見ている。黒く長い艷やかな髪が、限界まで引きつられ張り詰めている。

「ねえ、ジェイド。この男をあげるから、その代わりに僕へ下ると誓いなさい」クシエルはジェイドへあまり意識を向けていないのか、ジェイド自身の変化へ気付いている様子はなかった。

「どういう意味だ」

「この捕えた男を下僕にしようとしたのだけど、眼を覚まさなくて。だからこの男の代わりにジェイドが下僕になればいい」クシエルはさも良い提案だと言うように顔を綻ばせている。

「その代わりに、この男は食わずに助けてあげる。自己犠牲とは美しい人間愛だろう。それに自己犠牲と言っても、人間の身体でいるよりも、僕の綺士になった方が余程自由だよ」

 ――ここで答えを誤れば破滅だ。

 ヘルレアをけして死なせるわけにはいかない。たとえジェイドやオルスタッドが死んだとしても、ヘルレアだけはこの死線を乗り越えさせてやらねば。ここに来て実感したヘルレアの重要性はクシエルが示してくれた。クシエルという暴虐の王を止められるのはヘルレアしかいない。それもジェイド達が――カイムがヘルレアを、成熟した形で送り出してやらねばならないのだ。でなければ、クシエルはけして勝てる存在ではない。

 ここでようやく確信した。遅過ぎたのかもしれない、何もかも全て。

 ジェイドには僅かな答えしか残されていない。

 ジェイドは雪の上に膝を折った。王達の間に置かれ、人間の矜持などこの場では何の価値もない。

「どうかヘルレアを見逃してくれ。そうしたら俺は素直にクシエルの下僕になろう」

「……思い上がりはいけないよ。それは無理な提案だな。この男とジェイドだけで、ヘルレアの価値をあがなえるとでも」

「ジェイド、馬鹿な真似を」

 クシエルは更にヘルレアの髪を引く。

「ヘルレア、黙っていればこれ以上痛くしないよ。今は、ね」

「……お喋りが過ぎるぞクシエル」

 ヘルレアは残った手でナイフを抜き、クシエルの髪を掴んでいた手指を切り落とした。

 ヘルレアは大きく背後に飛んで、ジェイドの傍に立つ。失った下腕は関節から再生が既に完了していて、続く骨までも見て取れる速さで出来上がっていく。血管や神経も網の目の様に走っていた。

 クシエルといえば、ヘルレアに切り落とされた手は、骨が生成されると、一度期に肉が盛り上がり元通りになっている。

「黙って動かなければいいのに」

「ジェイド、クシエルの話は聞くな。交渉事など奴には必要ない。どのような手を使ってでも、全てを奪い取れるのだから」

「ヘルレアの言う通りだけれど、僕がせっかく交渉にしてあげたのだから、素直に聞くべきではないのかな……でないと、力尽くで奪うよ。
 少しづつ身体を千切っていったら、さぞかし苦しいだろうね」

 ヘルレアの目に青々と鬼火が差した。

 ジェイドは既に、その灯りの強さが情動に因るものだと了解していた。

 ――怒りに我を忘れる。

 ヘルレアが駆けた。黒く長い髪が振り乱れ、風に解けて影の様に尾を引いた。ヘルレアの全身に青い綺紋が縄の様に絡まり浮き出る。曇天の元だというのに、青い光が暗闇で輝くように浮かび上がり、閃光の如く翔んだ。

「自らの綺紋官能を晒すなんて、恥ずかしい子だね。本当に愚かしい。自分で寿命を縮めるなんて」クシエルは今までと違い構えを取っている。

 ヘルレアがクシエルと打つかる寸前、ヘルレアは綺士へ軌道を変えた。まさに直角でもって道筋を変えて、綺士へ躍り掛かったのだ。クシエルはヘルレアの速さについていけず、一拍遅れた。その内にヘルレアは反応出来ない綺士の胸を貫いて、心臓を取り上げ、どこへともなく投げ飛ばした。

「ジェイド、走れ!」

 ヘルレアはオルスタッドを、心臓を失った綺士から奪い取り、ジェイドの居る方向へ猛然と駆けて来る。直ぐにジェイドへ追いついたヘルレアは、オルスタッドを横抱きにしていた。

「――オルスタッド」

「何だ、こいつがオルスタッドか」

 ジェイドとヘルレアは走れる限り走り続けた。どこに向かっているのかは、この際関係なかった。ただ、クシエルから離れられればいいのだ。

 ヘルレアが珍しく息を乱している。綺紋官能の発露とクシエルが言っていた、ヘルレアの全身に顕れた青い文字は既に消えている。クシエルに寿命を縮めてまで、と言わせるほどの事柄があの時進行していたのだ。その為に体力を消耗したのだとすれば。

「オルスタッドの代わりに礼を言う、ヘルレア」

「不気味な事を言うな」

「これからは二度と言わない。今回は素直に受け取っておけ」

「さて、があるものかな」

「なくては困る」

「考えて置く、とだけ」

「クシエルは何故追って来ない」

「おそらく綺士の心臓を拾いに行ったんだ。クシエルは私が倒した〈黒い日輪〉を大事そうに扱っていただろう。王に取って綺士は相当大事なものらしい。だから綺士は殺さず餌として遠くへ投げた」

「ヘルレア自身はその気持ちが分からないのか」

「言っただろう、私は一度も綺士を持った事が無いと。どういう風に分かれと言うんだ。どうすればクシエルのように、あの化物どもに慈悲をくれてやれる」

 徐々にジェイドは失速してきた。さすがにクシエルとの緊張状態が続き過ぎたのだ。体力も気力も削がれて、走り続けるだけの忍耐がもうない。それでも、一刻も速くクシエルがいる場所から離れなければならない。ヘルレアは先程からジェイドに速度を合わせて走っているが、今だ止まる様子を見せず走り続けている。どれだけ離れればクシエルは気配を読めなくなるのかは未知数だ。こうして走って逃げているつもりでも、クシエルの手の届く範囲をうろついているだけかもしれないのだ。

 オルスタッドはヘルレアの腕に抱かれて、浅く弱い呼吸を繰り返している。このままでは、オルスタッドの生命が危険だ。しかし、救助を呼ぼうにもクシエルからの安全圏に入ったと確信出来てからでないとならない。下手に救助を要請すれば、要救護者が増えるだけだ。いくらヘルレアだとしても数が増えれば手に余るのは明らかだった。

「オルスタッドが危険な状態にある。救助要請を入れなければ、長くは保たないだろう、だが救命要請は危険過ぎる」

「……敢えて問おう。ジェイドの本心が聞きたい。こいつオルスタッドを助けて、私を危険に曝したいのか。それとも、見殺しにして私をクシエルから一刻も早く遠ざけたいのか」

「勿論、ヘルレアを危機から脱せられるようにしたい。だが、本音を言うと仲間を救いたいのも確かだ」

「何の答えにもなっていないぞ」

 ジェイドは微笑む。

「……ヘルレア、独りで逃げろ」

「お前……」

「囮になるなどと、上等な事は言わない。クシエルを見ていれば、俺達がそれだけ価値のある存在にはなりえない事は明白だ。それでも、ヘルレアの重石でなくなる事は出来るはず。だから、王、独りで逃げろ――俺に言えるのは、もうそれだけだ」

 ヘルレアは呆れたように笑む。

「ああ、面倒臭い奴等に関わってしまったものだ。救命要請でもなんでもしろ――その時は、

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