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二章 猟犬の掟
第2話 相対の天秤
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腹部を赤く染めた王が、執務室のソファで横になっている。
正直ジェイドは冷や冷やしていた。エマに刺された、と言うか王が自分で刺されに行った状態にあるが、どうも王は何の配慮もなく、臓器をダガーで刺し貫いている。見ている方は恐ろしくてたまらなかった。だが、勿論ヘルレア本人は何も気にしている様子はなく、ソファに転がっていた。別段、苦しそうにしているわけでも、眠っているわけでもない。ただ、暇そうにしているのだ。
「お前、わざと騒ぎを大きくしてどういうつもりだ」ジェイドはヘルレアへ眉間を寄せる。
「何の事だ?」ヘルレアは鼻で嘲笑った。
「いったい何がしたかったんだ。怪我まで負って、ヘルレアに何の得がある」
「そんな事、人間が深く考えてもあまり意味がないと思うぞ」
「ヨルムンガンドには意味があるのか?」
「そこまで話しを引き上げなくてもいい。お前らの馬鹿みたいな顔が見たかっただけだよ」
「何を言ってやがる」
ヘルレアが指を立てて数え出す。
「カイムの女に触りたかっただろ。刺されたらどうするか見たかっただろ。脅しつけるってのも楽しかった。と、いうわけで茶番劇は止められないよな」
「どうかしてる」
「ヨルムンガンドに期待すんな」
「おぞましいことだ」
「ありがとよ」王がひらひらと手を振った。
「それにしても、エマの相手をしていた時は男のように見えた」
ジェイドはヘルレアに顔を顰めた。
「それは、女がいれば男の所作もするさ。まあ、先程のあれは誇張し過ぎて臭いがな。迫られればそれなりの相手もする。さすがにあれこれ人間のように食い散らかしはできないが、女を相手にする時は結構積極的になる」
「俺はどちらかというと、王が女寄りに見えていたから奇妙なものだった」
「それは普通だよ。人間は私を自分にとって好ましいものに錯覚しやすいようだ。男は女、女は男。あるいは、数限りない性。自然な事だ。ただし、先入観や思い込みがない限り」
「なるほどな。なら敢えて聞くが、男が欲しい時は」
「媚びを売るかな。あと、相手からのアプローチを待つ。後者は必須だな。意気地のない男は嫌いだ」
ジェイドは絶望的な気持ちでヘルレアを見る。
あの女関係からっきし駄目なカイムにどうしろという。カイムは一切合切、ステルスハウンドに人生を捧げて来た男だ。ジェイドから見てカイムは女にモテる容貌はしていると思うが、それでも本人があの様子では一生妻子などできそうもなかった。
カイムの場合、元からして難がある。異性に興味を持ちだす頃から、交際が一切禁止されていたらしいのだ。血筋も血筋故に仕方がないとは思うが、今回の様に実践となると、経験がない分、他の同性に劣る事になってしまう。本来、カイムだからこそ必要な能力だというのに、幼い頃から身を守るあまり逆に競争力を失ってしまった。
ヘルレアは小さく吹き出した。
「カイムに困ってるんだろう」
「やはり、分かるか。もしも、カイムが変わればヘルレアも応えてくれるのか」
「まさか、そんなわけがない。あいつがどれ程の色好みになって迫って来ようとも、私には関係ないさ」
「カイムには最も程遠い言葉だな。色好みになってくれとは言わないが、それなりの振る舞いを覚えて欲しいところだ」
「カイムも怖いもの知らずな事だ。相手が私ではあそこまで必死にはならないだろう」
「自分の女となれば話は別だ。お前はエマ以上に思ってもらえるぞ」
「それはないさ。あの二人を見ていれば分かる。ジェイドだって承知なのだろう」
「気付く前に、ヘルレアが終わらせてしまえばいい」
「あれ程カイムを思うお前が、そんな風に思っていたとは」
「そう考える以外に道はないだろう。カイムは文字通り犠牲になる。王が動く度に何かが必ず死んでいく。それは未来も可能性も含めて。ならば潰えるのは少ない方がいい」
「非情だな」
「王がそれを言うか」
「何を言っても、お前には言い訳にしか聞こえないだろう」
「何かを変えてくれるというなら、番を持ってくれ。俺にはそれしか言えない。それがたとえ……エマを苦しめるとしても」
「エマはどのような女だ」
「手を出す気ではないだろうな」
「この先の事は分からない。誰にも――〈女達〉以外は」
「危うい言いようだな。まあ、いい。エマはこの館で生まれ育った。穏やかで働き者の良い子だ。カイムはそのエマを見守ってきた。これで、分かるだろう」
「私の入る隙きなど、初めからないではないか」
「何を言う。奪ってやれ」
「カイムはいいのか?」
「それがカイムの仕事だからだ」
「明確なのだな」
「当たり前だ」
「そういうところは悪くない」
「惚れるなよ」
「ジェイドはない」二人は密やかに笑った。
「失礼な奴だな」
「その方が良い。幸せな事だよ」
「自覚しているのか」
「当たり前だろう。人間は人間同士の方が良いに決まっている」
「なら王には幸せになれる相手がいないな」
「短い寿命も悪くないだろ。〈向こう側の女達〉がくれた唯一の祝福かもしれないな」
「孤高というより。孤独だな」
「憐れんでくれるのか。この私を」
「馬鹿な事を言った。この世の全てはお前のものだろう。何を寂しがる必要がある」
「全ては私のものだが、何一つ私は持っていないよ」
「それで良いのか、王よ」
「気楽な生き方もいいものだ」
ヘルレアがソファから立ち上がり、踵を返して颯爽と、行く前にジェイドは襟首を掴んだ。
「王、どこに行くつもりだ」
「どこでもないところへ」
「チェスカル、王を捕まえておけ」
「自分がですか」恐る恐るヘルレア見る。
「だとよチェスカル。お前の名前は覚えた」
「チェスカル、絶対に逃がすなよ。ステルスハウンドが潰れる」
釘を差されたチェスカルの顔は、いつもより強張っていた。
エマは医務室から医療棟へと移った。カイムはエマに付き添って、一緒に医療棟へ行っているので、ジェイドもそちらへ向かう事にする。
医療棟というのは元々館の離れにある、別館と呼ばれる建物だ。別館は本館の半分以下程度の大きさだが、民間の総合病院くらいの設備と病床数があるという規模で、完全に病院として機能運営されている。
ジェイドが連絡通路を通ってエントランスへ行くと――既に全員顔馴染みという受付係――そのうちの一人が、彼へ頷いていた。ジェイドが意図を理解して、手を上げ軽く挨拶すると、待合室を覗く。モノトーンで調えられた待合室。悠然とした大きなソファが並び、大型テレビが一台対面している。複数の人影がある。猟犬などが点々とソファを埋める間を縫って、視線を動かすと隅にカイムが座っていた。不自然なくらい猟犬共はカイムを避けて座っている。
カイムはいつも通りに見えるが、ジェイドにはどこか落胆している様に感じられた。
ソファを避けて歩いていると、猟犬共がカイムへ興味を示しているのが、明らさまに分かった。
「カイム、エマの様子はどうだ」
「泣いていたけれど、落ち着いている」
「そうか、とりあえず今はそれで良い」
「僕は何も見えていなかった。知らない間に、あれ程エマを傷つけていたなんて」
「世界蛇を前にして、心を乱さない人間などいないだろう」
「そう、分かっていたはずなのに」
「皆はお前のようにはいかない、背負ったもの、選んだものが違う」
カイムがどこか遠くを見ている。
「私情など赦されないのだ、なんだのと、言われて育ったものだが、こういう時、馬鹿らしいくらい弱いな」
「自嘲している暇があったら、ヘルレアと二人で過ごすんだ。今はそれがお前に出来る最善だろう……気は休まらんだろうが」
「今回の出来事で、あの方と向き合えるものか、少し考えてしまった」
「お前はステルスハウンドの……猟犬の主だ。一人の女の為に身を割いてはいけない。誰かの為というのが許されるのは、ただ一人、ヘルレアの為だけだ。理不尽でも、お前が選んだのだろう」
「……そうだな。それが僕の仕事であり最善の選択だ。ありがとう、少し気持ちが切り替えられた」
「良い方へ気分が変わったのならよかった。ヘルレアを喜ばせてやれ。チェスカルが王に逃げられないように見張ってる。あいつは直ぐに逃げようとする」
「猫のような性分なのだろう。掴まえていないと見失ってしまう」
「お前が掴まえておいてやれよ。他の誰かでは、俺は納得しない」
「ジェイドが納得しないのか」
「そうだ、この俺が」
「これは責任重大だな」カイムはどこか力なく笑った。
カイムはいつもと何ら変わらない様子で立ち去った。
素知らぬ顔で酷な事を言うものだ。
ジェイドの口にする言葉は、完全に相手を思いやる言葉ではない、ただの誘導だ。最善のようでいて、その実、人を不幸にする誘いの言葉。
結局、これで誰が救われるというのだろう。
ヘルレアか、
しかし、それはない。ヘルレアとて番を得ても、真実、救われるとは思わない。カイムもまた幸せにはなれないように――。
無いものを埋め合わせして、継ぎ接ぎして、そこにできるものは、なんだというのだろうか。
この先に何が残る。
「仲間、か……」
下僕かと、クシエルに問われたヘルレアの答え。
一人の人間に対する、王が下した関係性の評価。それは真実、ジェイドへ向けられた言葉なのだろうか。何かを意図した言葉だったのではないか。
東占領区で見て来たヘルレアが本当なら、あの王はあまりにも――。
ジェイドは脳裏に画いた言葉を呑み込んだ。
分かっている。あまりに愚かな事だ。猟犬が軽々しく言うべき言葉ではないだろう。
ジェイドが通用口へ行くと、自動ドアのガラス戸から雨が降っているのが見えた。
――忌々しい。
本館の通路側から襤褸を着た子供が来た。艷やかな長い髪を揺らしていて、凍り付いたような面差しが美しい。瞳は深い海のよう。
――ああ、光が灯る以外にも瞳の色が変わるのか。
どこか沈んだような色合い。憂いを帯びたその色は影が差しているようだ。
ヘルレアが笑う。その笑顔はイノセントで、無垢な幼子のようだった。青い瞳が柔らかな空色にうつろう。
その笑みはジェイドへと向けられていた。眩いばかりの笑顔に誘われ、ジェイドは微かに笑う。
ジェイドが微笑み返した事で、王は自身の存在に、彼が気付いたと、察したようだ。すると王は穏やかに笑みを収めて、眼を伏せ気味にする。犯し難い尊さが表情に芽生えた。喜怒哀楽全て内包したような、人間の表情筋では作りようの無い、複雑な清麗さと曖さを湛えている。
――あれが死なのだ。
苛烈な生がいずれ迎える斜陽。死は常に残酷で無慈悲なものとは限らない。壮絶な生を全うすれば、いつかは、あれ程に穏やかで静かな死も迎えられようもの。
――それもまた死の一面であろう。
それにしても、ヘルレイアという死の具現は、あまりにも豊かだ。
今はあの笑顔に応えよう。
だが、いつかは必ず償わねば。
ヘルレアの死を持って。
「チェスカルのやつ逃げられたな」
腹部を赤く染めた王が、執務室のソファで横になっている。
正直ジェイドは冷や冷やしていた。エマに刺された、と言うか王が自分で刺されに行った状態にあるが、どうも王は何の配慮もなく、臓器をダガーで刺し貫いている。見ている方は恐ろしくてたまらなかった。だが、勿論ヘルレア本人は何も気にしている様子はなく、ソファに転がっていた。別段、苦しそうにしているわけでも、眠っているわけでもない。ただ、暇そうにしているのだ。
「お前、わざと騒ぎを大きくしてどういうつもりだ」ジェイドはヘルレアへ眉間を寄せる。
「何の事だ?」ヘルレアは鼻で嘲笑った。
「いったい何がしたかったんだ。怪我まで負って、ヘルレアに何の得がある」
「そんな事、人間が深く考えてもあまり意味がないと思うぞ」
「ヨルムンガンドには意味があるのか?」
「そこまで話しを引き上げなくてもいい。お前らの馬鹿みたいな顔が見たかっただけだよ」
「何を言ってやがる」
ヘルレアが指を立てて数え出す。
「カイムの女に触りたかっただろ。刺されたらどうするか見たかっただろ。脅しつけるってのも楽しかった。と、いうわけで茶番劇は止められないよな」
「どうかしてる」
「ヨルムンガンドに期待すんな」
「おぞましいことだ」
「ありがとよ」王がひらひらと手を振った。
「それにしても、エマの相手をしていた時は男のように見えた」
ジェイドはヘルレアに顔を顰めた。
「それは、女がいれば男の所作もするさ。まあ、先程のあれは誇張し過ぎて臭いがな。迫られればそれなりの相手もする。さすがにあれこれ人間のように食い散らかしはできないが、女を相手にする時は結構積極的になる」
「俺はどちらかというと、王が女寄りに見えていたから奇妙なものだった」
「それは普通だよ。人間は私を自分にとって好ましいものに錯覚しやすいようだ。男は女、女は男。あるいは、数限りない性。自然な事だ。ただし、先入観や思い込みがない限り」
「なるほどな。なら敢えて聞くが、男が欲しい時は」
「媚びを売るかな。あと、相手からのアプローチを待つ。後者は必須だな。意気地のない男は嫌いだ」
ジェイドは絶望的な気持ちでヘルレアを見る。
あの女関係からっきし駄目なカイムにどうしろという。カイムは一切合切、ステルスハウンドに人生を捧げて来た男だ。ジェイドから見てカイムは女にモテる容貌はしていると思うが、それでも本人があの様子では一生妻子などできそうもなかった。
カイムの場合、元からして難がある。異性に興味を持ちだす頃から、交際が一切禁止されていたらしいのだ。血筋も血筋故に仕方がないとは思うが、今回の様に実践となると、経験がない分、他の同性に劣る事になってしまう。本来、カイムだからこそ必要な能力だというのに、幼い頃から身を守るあまり逆に競争力を失ってしまった。
ヘルレアは小さく吹き出した。
「カイムに困ってるんだろう」
「やはり、分かるか。もしも、カイムが変わればヘルレアも応えてくれるのか」
「まさか、そんなわけがない。あいつがどれ程の色好みになって迫って来ようとも、私には関係ないさ」
「カイムには最も程遠い言葉だな。色好みになってくれとは言わないが、それなりの振る舞いを覚えて欲しいところだ」
「カイムも怖いもの知らずな事だ。相手が私ではあそこまで必死にはならないだろう」
「自分の女となれば話は別だ。お前はエマ以上に思ってもらえるぞ」
「それはないさ。あの二人を見ていれば分かる。ジェイドだって承知なのだろう」
「気付く前に、ヘルレアが終わらせてしまえばいい」
「あれ程カイムを思うお前が、そんな風に思っていたとは」
「そう考える以外に道はないだろう。カイムは文字通り犠牲になる。王が動く度に何かが必ず死んでいく。それは未来も可能性も含めて。ならば潰えるのは少ない方がいい」
「非情だな」
「王がそれを言うか」
「何を言っても、お前には言い訳にしか聞こえないだろう」
「何かを変えてくれるというなら、番を持ってくれ。俺にはそれしか言えない。それがたとえ……エマを苦しめるとしても」
「エマはどのような女だ」
「手を出す気ではないだろうな」
「この先の事は分からない。誰にも――〈女達〉以外は」
「危うい言いようだな。まあ、いい。エマはこの館で生まれ育った。穏やかで働き者の良い子だ。カイムはそのエマを見守ってきた。これで、分かるだろう」
「私の入る隙きなど、初めからないではないか」
「何を言う。奪ってやれ」
「カイムはいいのか?」
「それがカイムの仕事だからだ」
「明確なのだな」
「当たり前だ」
「そういうところは悪くない」
「惚れるなよ」
「ジェイドはない」二人は密やかに笑った。
「失礼な奴だな」
「その方が良い。幸せな事だよ」
「自覚しているのか」
「当たり前だろう。人間は人間同士の方が良いに決まっている」
「なら王には幸せになれる相手がいないな」
「短い寿命も悪くないだろ。〈向こう側の女達〉がくれた唯一の祝福かもしれないな」
「孤高というより。孤独だな」
「憐れんでくれるのか。この私を」
「馬鹿な事を言った。この世の全てはお前のものだろう。何を寂しがる必要がある」
「全ては私のものだが、何一つ私は持っていないよ」
「それで良いのか、王よ」
「気楽な生き方もいいものだ」
ヘルレアがソファから立ち上がり、踵を返して颯爽と、行く前にジェイドは襟首を掴んだ。
「王、どこに行くつもりだ」
「どこでもないところへ」
「チェスカル、王を捕まえておけ」
「自分がですか」恐る恐るヘルレア見る。
「だとよチェスカル。お前の名前は覚えた」
「チェスカル、絶対に逃がすなよ。ステルスハウンドが潰れる」
釘を差されたチェスカルの顔は、いつもより強張っていた。
エマは医務室から医療棟へと移った。カイムはエマに付き添って、一緒に医療棟へ行っているので、ジェイドもそちらへ向かう事にする。
医療棟というのは元々館の離れにある、別館と呼ばれる建物だ。別館は本館の半分以下程度の大きさだが、民間の総合病院くらいの設備と病床数があるという規模で、完全に病院として機能運営されている。
ジェイドが連絡通路を通ってエントランスへ行くと――既に全員顔馴染みという受付係――そのうちの一人が、彼へ頷いていた。ジェイドが意図を理解して、手を上げ軽く挨拶すると、待合室を覗く。モノトーンで調えられた待合室。悠然とした大きなソファが並び、大型テレビが一台対面している。複数の人影がある。猟犬などが点々とソファを埋める間を縫って、視線を動かすと隅にカイムが座っていた。不自然なくらい猟犬共はカイムを避けて座っている。
カイムはいつも通りに見えるが、ジェイドにはどこか落胆している様に感じられた。
ソファを避けて歩いていると、猟犬共がカイムへ興味を示しているのが、明らさまに分かった。
「カイム、エマの様子はどうだ」
「泣いていたけれど、落ち着いている」
「そうか、とりあえず今はそれで良い」
「僕は何も見えていなかった。知らない間に、あれ程エマを傷つけていたなんて」
「世界蛇を前にして、心を乱さない人間などいないだろう」
「そう、分かっていたはずなのに」
「皆はお前のようにはいかない、背負ったもの、選んだものが違う」
カイムがどこか遠くを見ている。
「私情など赦されないのだ、なんだのと、言われて育ったものだが、こういう時、馬鹿らしいくらい弱いな」
「自嘲している暇があったら、ヘルレアと二人で過ごすんだ。今はそれがお前に出来る最善だろう……気は休まらんだろうが」
「今回の出来事で、あの方と向き合えるものか、少し考えてしまった」
「お前はステルスハウンドの……猟犬の主だ。一人の女の為に身を割いてはいけない。誰かの為というのが許されるのは、ただ一人、ヘルレアの為だけだ。理不尽でも、お前が選んだのだろう」
「……そうだな。それが僕の仕事であり最善の選択だ。ありがとう、少し気持ちが切り替えられた」
「良い方へ気分が変わったのならよかった。ヘルレアを喜ばせてやれ。チェスカルが王に逃げられないように見張ってる。あいつは直ぐに逃げようとする」
「猫のような性分なのだろう。掴まえていないと見失ってしまう」
「お前が掴まえておいてやれよ。他の誰かでは、俺は納得しない」
「ジェイドが納得しないのか」
「そうだ、この俺が」
「これは責任重大だな」カイムはどこか力なく笑った。
カイムはいつもと何ら変わらない様子で立ち去った。
素知らぬ顔で酷な事を言うものだ。
ジェイドの口にする言葉は、完全に相手を思いやる言葉ではない、ただの誘導だ。最善のようでいて、その実、人を不幸にする誘いの言葉。
結局、これで誰が救われるというのだろう。
ヘルレアか、
しかし、それはない。ヘルレアとて番を得ても、真実、救われるとは思わない。カイムもまた幸せにはなれないように――。
無いものを埋め合わせして、継ぎ接ぎして、そこにできるものは、なんだというのだろうか。
この先に何が残る。
「仲間、か……」
下僕かと、クシエルに問われたヘルレアの答え。
一人の人間に対する、王が下した関係性の評価。それは真実、ジェイドへ向けられた言葉なのだろうか。何かを意図した言葉だったのではないか。
東占領区で見て来たヘルレアが本当なら、あの王はあまりにも――。
ジェイドは脳裏に画いた言葉を呑み込んだ。
分かっている。あまりに愚かな事だ。猟犬が軽々しく言うべき言葉ではないだろう。
ジェイドが通用口へ行くと、自動ドアのガラス戸から雨が降っているのが見えた。
――忌々しい。
本館の通路側から襤褸を着た子供が来た。艷やかな長い髪を揺らしていて、凍り付いたような面差しが美しい。瞳は深い海のよう。
――ああ、光が灯る以外にも瞳の色が変わるのか。
どこか沈んだような色合い。憂いを帯びたその色は影が差しているようだ。
ヘルレアが笑う。その笑顔はイノセントで、無垢な幼子のようだった。青い瞳が柔らかな空色にうつろう。
その笑みはジェイドへと向けられていた。眩いばかりの笑顔に誘われ、ジェイドは微かに笑う。
ジェイドが微笑み返した事で、王は自身の存在に、彼が気付いたと、察したようだ。すると王は穏やかに笑みを収めて、眼を伏せ気味にする。犯し難い尊さが表情に芽生えた。喜怒哀楽全て内包したような、人間の表情筋では作りようの無い、複雑な清麗さと曖さを湛えている。
――あれが死なのだ。
苛烈な生がいずれ迎える斜陽。死は常に残酷で無慈悲なものとは限らない。壮絶な生を全うすれば、いつかは、あれ程に穏やかで静かな死も迎えられようもの。
――それもまた死の一面であろう。
それにしても、ヘルレイアという死の具現は、あまりにも豊かだ。
今はあの笑顔に応えよう。
だが、いつかは必ず償わねば。
ヘルレアの死を持って。
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