死を恋う神に花束を 白百合を携える純黒なる死の天使【アルファポリス版】

高坂 八尋

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二章 猟犬の掟

第3話 断罪の果て〈前編 氷のくちづけ〉

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 ……どうか、心安らかに。

 カイムはそれ以外の言葉を、エマに寄せる事が出来なかったのだろう。彼はヨルムンガンドとの関わりを、言葉にして否定することはけして許されない。たとえどんな苦痛や悲しみを抱えようとも、私情は押し潰さなければならないのだから――カイムにはそれが出来る。何も無いように、心すら凍らせて微笑む。それがカイムなのだ。

 涙が止まらなかった。それも熱い涙。

 これは過ちなのだろうか。一番大切な人を悲しませてしまった。耐え続ける彼の、努力を踏み躙ってしまったかもしれない。けれど、この憎しみはどうすればいいのだろう。

 胸の奥で、今もなお身を焦がすようなほむらが燃えている。

 この焔を消せるものなど有りはしない。

 ――双生児を殺さない限り。

 何故あれ程の暴虐をしても、今尚生きる事を許されるのか。全てを食い尽くし、犯し穢していく。その、おぞましく美しいさまは、まさに死を総べる王。死そのものが顕現けんげんしている。それも残虐な死を。

 エマの両親は使徒に殺された。その姿は相当酷かったらしく、エマはジェイドに長い事、口をつぐまれていた。エマが十七歳になった時、事実を知らされた。両親は直ぐに死なないようなやり方で甚振いたぶられてから、食われたのだという。

 その日、エマは吐いた。真実を打ち明けたジェイドを恨みもした。それはどこにもぶつけられない怒りから来るものだった。エマでは使徒すら殺す事が出来ず、綺士や王など見る事さえ出来ないのだ。それを十二分に理解出来る齢だった。

 この怒りをどうすればいい。

 よりによって王が猟犬の棲家に現れ、エマにも手の届くところにきたのだ。襲ったのは罪だろうか。あれ程、穢れた生き物はいない。それでも許されないのか。

 分かっている。

 許されない。許されないのだ。

 エマの気持ちなど関係ない。

 全ては大義の為に。これから死に行く幾万幾億の命を救う為に。

 ――それでも私は、過ちを犯すだろう。

 エマが瞼を落としてから、どれだけの時が過ぎたか分からなくなる頃、扉がノックされた。掠れる声で返事をすると、扉が開き、エマは普通より高い位置にある顔へ薄く笑ってみせた。

 茶髪茶眼の大男が眉根を寄せてエマを心配そうに見詰めている。

「ハルヒコ、仕事はどうしたの。そんなところに立っていないで部屋に入って来たら」

 ハルヒコ・ホンダは影の猟犬ゴーストハウンドの一人だ。東洋人と西洋人のハーフだが、身長はゴーストで二番目に高くジェイドに次ぐ。その恵まれた体格で、格闘技を得意としているのだが、人以外にはあまり意味が無いのが欠点だった。

 ハルヒコは促されるまま、ベッドの側に置いてある椅子に座った。ハルヒコが座ると椅子が子供用の小さな椅子に様変わりしてしまう。

「チェスカル副隊長に聞いて来たんだ。エマが医療棟にいると。理由は知っている……すまない、余計なお世話だと思ったんだが、どうしても」

「ハルヒコは相変わらず気遣い屋ね。心配してるって素直に言ってくれてもいいの。嬉しいわ。来てくれて。余計なお世話だなんて思わない……独りでいると考えてしまうの。色々な事を。とても悪い事ばかりで、押し潰されてしまいそうになる」

「俺で良ければ、いつでも傍に居て話し相手になる。力不足かもしれないが、居ないよりはマシだって言って貰える様になれれば。俺は何を言っているんだろうな」

「ありがとう、ハルヒコ……私、そう言ってほしかったのかもしれない――カイムに、」涙が睫毛に溜まる。

 ハルヒコは薄く笑んだ。エマの強い否定になりかねない言葉に、何も言わなかった。ただ優しくエマを見詰めている。

「……カイム様はね、エマのことが、とても大切なんだよ。猟犬なら誰でも解る。だから、猟犬みんなもエマがとても好きだ。でも、きっとカイム様が、エマと出会わなかった未来があったとしても、猟犬はエマを好きになっていただろう。エマは一緒に戦っている仲間だ。痛みも分かち合ってきたのだから……俺は間違っているとは思わない、ヨルムンガンドと刺し違えても」

「ハルヒコは過ちだと、言わないのね」

「ステルスハウンドに生きる者なら誰でも理解できる。だからエマも間違ってはいないはずだ」

「ありがとう……でも、本当にごめんなさい。どんなに正しくても、間違っていても、カイムは私の元へ来てくれないわ」

 カイムにどれだけ大切にされても、彼はエマのものではない。カイムは組織のものなのだ。――いては王のもの。あまりにも大きな役割を負った、ノヴェクの血族、その主。エマ個人がカイムを繋ぎ止められるはずがない。分かっていながらなお、カイムを想う。

 今、傍に居て欲しいと願っても、カイムはけしてエマに振り向かない。既に双生児を戴いているのだから。王以上の大事はない。それがこれ程に苦しい。

 ――憎むべき王は、大切な人の最も愛しい人になる。

 それは酷く怖気おぞけを震う。

 ハルヒコは眼を一時いっとき瞑ると、もう一度優しく微笑んだ。

「カイム様は例えエマの傍に居られなくとも、いつもエマの事を想っているはずだ。誰よりも強く」

「私は自分で思っていたより、ずっと欲張りだったみたい。カイムは私を絶対に見てくれない。私とカイムの想いは重ならないの。だから永遠に満たされたりしない。王はカイムを奪って行く」

「双生児が死ねば全てが終わる。カイム様も解放されるだろう。俺は双生児を討ち滅ぼす。その為にゴーストに居るのだから。エマ、信じて待っていてくれ」

「……そうしてあなたも帰って来なくなる。いつまでも待って、待ち続けて。私を独りにしてしまう。皆、死んでしまった。何一つ遺さずに居なくなって、何事もなかった様に日常が過ぎ去って、いつの間にか過去になって行く。
 もう、双生児には何一つ奪われたくない」

「それでも、俺は戦いたい。失いたくないから戦うんだ。それ以外、道はない」

「ごめんなさい、私、もう疲れたの。眠らせて」

 ハルヒコは少し肩を落として、振り返りつつも部屋を去った。

 失わない為に戦う。そして、失われて行くのだ。

 何度も繰り返される言葉は呪詛のようにエマを蝕んでいた。堂々巡りの思考に溺れ、エマは虚空に手を伸ばすと、唇に冷ややかな感触を思い出して指でなぞってみた。

 まるで死者とくちづけを交わしたかのような冴え冴えとした感慨。

 死の王。

 ヨルムンガンド――ヘルレイア。

 ヘルレアはエマよりも背が低くて、寄り掛かった身体は、華奢で幼いとさえ言ってよかった。それなのに抱える力は強く、けして揺らぐ事はなかった。それは死でありながら、同時に確かな生でもあった。あまりにも苛烈で、抗う事が難しい生。何者にも侵されない生命。

 まなじりから大粒の涙が重みを持って溢れ落ち、嗚咽を誘った。

 エマの刃など通りはしないのだ。

 憎しみも痛みも、全て王に対しては無力で何の意味のないものでしかない。エマなど取るに足りない、何の価値のない人間だ。だからこそカイムに求められた事はないし、これからもそれはないのだ。


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