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二章 猟犬の掟
第26話 たとえ、それでもお側に……〈前編 あの子がどこへ居ようとも〉
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影の隊長ジェイド・マーロンの自室は、主人であるカイムの私室に、最も近く設えられた猟犬の部屋だった。
カイムとジェイドはよく言い合うものだ。何が嬉しくて、おっさん同士で部屋を隣り合わせにするのか。それは、まあ厳密には隣り合わせなわけではないし、挨拶のような冗談としているわけだが、現実問題カイムの身の安全を高め、任務遂行能力を高めるという、至極当然の選択だった。
そして、ジェイドは自室にいた。
内装としてはカイムの私室と同じだった。同館内なのだからそれも不思議は無い。ただ家具の好みは当たり前だが違うもので、またお値段もおそろしく違った。
居間には黒い合皮のソファセットを置き、五十二インチのテレビを壁に掛けている。装飾品類小物などは置かれておらず、家具だけが小島のように設置されていた。
寝室から居間へジェイドが来る。
部屋着の毛玉だらけなジャージ――この姿で普通にカイムと会う――で、ソファへ深く腰を下ろし、あくびをする。
カイムはジェイドの服装に関知しないし、正直ジェイド自身も近所を出歩く気持ちでカイムと会っているのだから、主従関係でありながら無惨なものだ。若い頃とは違う。
彼には家族もないので、独り日がな一日過ごす。趣味も特になく、訓練で一日を潰す日も珍しくなかった。休暇を取っても何もする事が無く、心に重いと感じてしまう方が多い。そして今は、また事情が違い強制的な休養を何より求められていた。クシエルとの出会いで心身を酷使し過ぎていた。ジェイドは一刻も早く前線へ戻る事が求められている。
と、言っても心ばかりは完璧に調節し辛かった。ジェイドが人間であれば、これ程心の扱いに苦戦はしなかったのかもしれない。ジェイドは優秀な猟犬だ。謙遜も、軽視も、卑屈になる理由もないくらいには自分を知っているから――。
――それは猟犬故に。
今回、久し振りにカイムから、主人としての感情的な叱責を受けた事も、関係がないとは絶対に言えまい。
当たり前だが、ジェイドも他の猟犬と同じように、カイムの機嫌を損ねるのが恐い。自分でも驚く程カイムの一喜一憂を気に掛けてしまう――しかしそれは、カイムが十代半ばまでだったはずなのだが。
今回、珍しくカイムは感情を猟犬へ解放していた。それはあまりに思慮外の拙い過ち、ミスからくるもののようだった。本来の彼は、十代という驚くべき若年で、既に猟犬から自身を閉ざすことを憶えている。心も身体も閉殻する事によって、猟犬への過度な干渉を行わなくなっていた。それはもう二十年近い辛抱強さと、更に正確さでもって、主人は猟犬へと、まるでヒトのように振る舞える、最適な距離感を恵んでくれていた。
ジェイド自身も猟犬である事を忘れるくらい――むしろ意図的に忘れるように――心身の自由を与えられて来た。
――しかし近頃、何かとても不安定な感じがする。
あの氷柱のようなカイムが揺れている。
ヘルレアの存在が何か予想外の形でカイムを揺さぶっている気がしてならない。あの王はジェイドですら、穏やかで人間的だと思ってしまった。それがカイムにとって鬼門のような、危うさをもたらすものになっているのかもしれない。
――人の心を動かし過ぎるというのも、最良だとは限らないか。
おそらくまだ、カイムに一番身近な猟犬である影ぐらいしか、その変化に気付いていないだろうが。
ジェイドはキッチンへ向かうと、インスタントコーヒーを淹れる。ジェイドは仕事として必要な、身体作りに求められる食事以外、あまり食べる事に拘りはない。普段、カイムにご馳走になる事を除いては、質素な食生活をしていた。
本当のところ猟犬はコーヒーを嫌うし、飲むのも望ましくない。チョコレートやココアが駄目な猟犬も珍しくなく、これもまた忌避する傾向がある。
だが、仕事上仔犬は嗜好品全般を嗜められるように訓練するもので、仔犬から正式に猟犬と呼ばれるようになる頃には、皆まるで好物でも飲食するように口にする。
そして本当に好むようになる猟犬もおり、休日だけに限り飲用の許可を貰える猟犬もいる。
主人から離れた猟犬程、異物に強いという話もある、が。
主人に最も近い猟犬であるジェイドが、大のコーヒー好きなのだから、通説は怪しいものだ。
ジェイドは擦れているから、コーヒーの不快感を好む。よく言えば大人だ。ジェイドが休日以外でもコーヒーを飲用するのを、カイムは特別に許していた。
側近の特権と言えば特権だが、コーヒーの飲用権など、変な特権とも言えよう。
当の元締めカイムはといえば、完璧な閉殻を行えるようになってから、コーヒーを飲み始めたのだと自ら言っていた。無防備なままコーヒーを飲むと、一番繊細な仔犬へ悪影響を与えるらしく、カイムは相当気を使っているようだ。何が起こるのかジェイドが聞くと、認知が乱れるという、分かるような分からないような説明をする。
コーヒーの暖かさで少しだけ息をつくと居間へ戻り、ソファへ座る。低卓へコーヒーを置くと雑誌を開く。家庭料理の雑誌だった。だが、読みはするが実践はしないので趣味と数える事はしなかった。この微妙な習慣はカイムや影共に不思議がられたものだ。作ってくれるかとカイムに言われた事もあるが、ジェイドはまず野菜と肉の細かい種類が分からないので、さすがに主人には危険過ぎて食べさせられなかった。
――家庭料理の話を知る猟犬は、もういなくなったか。
皆死んだのだと、ジェイドは思い当たった。悲しみは感じなかった。同時に顔も思い出せなかったからだ。
ジェイドは突然、降って湧いたような、出どころの分からない感情を噛み締めた。唐突なそれが何を表すのか考える。仲間の死を想ったが為に、何かを迷ってしまったのか。
その感情を抱いた事が理解もできずに、不安でたまらなくなった。
それでも分かる。これは紛れもない痛みだ。誰にも寄り掛かれず、独り蹲って抱え、耐えるしかない痛み。
そして、
そうした自らを思う、孤独。
そうあり続けなければならない、という絶望。
「……行かなくては」
無意識に言葉が漏れた。どこから来た考えなのかまったく判らない。自分で発した言葉と、激しい焦燥に愕然とする。
そして、懐かしい感覚が蘇る。
館の廊下に蟠る薄闇の中、ただ独り佇む子供。
一目、見ただけで分かった。ジェイドが生まれてから、出逢う瞬間を待ち焦がれていたのは、この方だ、と。間違いではないか、などという迷いさえ、抱く余地もなかったのだ。
その時、ジェイドは何故、己が生まれたのかを思い出した。
自分には護らなければならない方がいて、その方の為に自分を捧げ、あるいは捨て去らなければならないと。
これを愛情と言うには、あまりにも歪で醜悪なのかもしれない。純粋に愛する事とはまた違う。もう、この方しかいないという気持ち。
ジェイドは目を覆う。
幼いあの子の冷たい顔。その声はまだ高いというのに、抑揚が乏しく、聞けば重たく心に沈み入るよう。
……それは、恐怖というのではないか。
ジェイドは悲しみに微笑む。
これ程までに抗い難い恐怖は、この世で唯一無二だろう。
「そうだ、そうだった……たとえ、それでもお側にいたいと願う――」
そして、理解した。
身内で強く鎖によって御されていたものが、ジェイドの意思で僅かに緩められた。
――御力になって差し上げなければ。
どこに行くかなど考える必要もなかった。分からないわけがない。
いつだってあの子が、どこにいようとも、ジェイドには分かるのだから。
――早くお傍へ。
ジェイドは顔を、押さえるように強く覆う。
またあの子は、あの日と同じように、独りで悲しみを背負っているのだ。
ジェイドは、もうずっと長い間気が付かなかった――正しくは気付かないようにされていた。
これは、この痛みは、ジェイドの心ではない。
そう、それは約二十数年振りに触れる、あまりにも生々しい主の心だった。
主人は痛みに耐え切れなかった。
ジェイドは静かに泣いた。
カイムの閉じた心と身体が傷ついて、殻に傷口が開いてしまったのだ。猟犬であるジェイドには考えずとも分かった。けして癒えない傷がそのままに、殻だけ閉じてしまうだろう。
そして、猟犬でしかないジェイドの気付きなど、おそらくカイム本人が希釈してしまう。あった事がほとんど意味のないものへ変わる。
ただ、あっただけ、それだけ。
――どうか誰でもいい、主を救ってくれ。
たとえ、罪を重ねる数に際限がなかろうと、人独りが背負える数には限りもあるだろう。幼い頃より全ての罪咎を、必然として背負ったあの子はどうすれば赦される。
影の隊長ジェイド・マーロンの自室は、主人であるカイムの私室に、最も近く設えられた猟犬の部屋だった。
カイムとジェイドはよく言い合うものだ。何が嬉しくて、おっさん同士で部屋を隣り合わせにするのか。それは、まあ厳密には隣り合わせなわけではないし、挨拶のような冗談としているわけだが、現実問題カイムの身の安全を高め、任務遂行能力を高めるという、至極当然の選択だった。
そして、ジェイドは自室にいた。
内装としてはカイムの私室と同じだった。同館内なのだからそれも不思議は無い。ただ家具の好みは当たり前だが違うもので、またお値段もおそろしく違った。
居間には黒い合皮のソファセットを置き、五十二インチのテレビを壁に掛けている。装飾品類小物などは置かれておらず、家具だけが小島のように設置されていた。
寝室から居間へジェイドが来る。
部屋着の毛玉だらけなジャージ――この姿で普通にカイムと会う――で、ソファへ深く腰を下ろし、あくびをする。
カイムはジェイドの服装に関知しないし、正直ジェイド自身も近所を出歩く気持ちでカイムと会っているのだから、主従関係でありながら無惨なものだ。若い頃とは違う。
彼には家族もないので、独り日がな一日過ごす。趣味も特になく、訓練で一日を潰す日も珍しくなかった。休暇を取っても何もする事が無く、心に重いと感じてしまう方が多い。そして今は、また事情が違い強制的な休養を何より求められていた。クシエルとの出会いで心身を酷使し過ぎていた。ジェイドは一刻も早く前線へ戻る事が求められている。
と、言っても心ばかりは完璧に調節し辛かった。ジェイドが人間であれば、これ程心の扱いに苦戦はしなかったのかもしれない。ジェイドは優秀な猟犬だ。謙遜も、軽視も、卑屈になる理由もないくらいには自分を知っているから――。
――それは猟犬故に。
今回、久し振りにカイムから、主人としての感情的な叱責を受けた事も、関係がないとは絶対に言えまい。
当たり前だが、ジェイドも他の猟犬と同じように、カイムの機嫌を損ねるのが恐い。自分でも驚く程カイムの一喜一憂を気に掛けてしまう――しかしそれは、カイムが十代半ばまでだったはずなのだが。
今回、珍しくカイムは感情を猟犬へ解放していた。それはあまりに思慮外の拙い過ち、ミスからくるもののようだった。本来の彼は、十代という驚くべき若年で、既に猟犬から自身を閉ざすことを憶えている。心も身体も閉殻する事によって、猟犬への過度な干渉を行わなくなっていた。それはもう二十年近い辛抱強さと、更に正確さでもって、主人は猟犬へと、まるでヒトのように振る舞える、最適な距離感を恵んでくれていた。
ジェイド自身も猟犬である事を忘れるくらい――むしろ意図的に忘れるように――心身の自由を与えられて来た。
――しかし近頃、何かとても不安定な感じがする。
あの氷柱のようなカイムが揺れている。
ヘルレアの存在が何か予想外の形でカイムを揺さぶっている気がしてならない。あの王はジェイドですら、穏やかで人間的だと思ってしまった。それがカイムにとって鬼門のような、危うさをもたらすものになっているのかもしれない。
――人の心を動かし過ぎるというのも、最良だとは限らないか。
おそらくまだ、カイムに一番身近な猟犬である影ぐらいしか、その変化に気付いていないだろうが。
ジェイドはキッチンへ向かうと、インスタントコーヒーを淹れる。ジェイドは仕事として必要な、身体作りに求められる食事以外、あまり食べる事に拘りはない。普段、カイムにご馳走になる事を除いては、質素な食生活をしていた。
本当のところ猟犬はコーヒーを嫌うし、飲むのも望ましくない。チョコレートやココアが駄目な猟犬も珍しくなく、これもまた忌避する傾向がある。
だが、仕事上仔犬は嗜好品全般を嗜められるように訓練するもので、仔犬から正式に猟犬と呼ばれるようになる頃には、皆まるで好物でも飲食するように口にする。
そして本当に好むようになる猟犬もおり、休日だけに限り飲用の許可を貰える猟犬もいる。
主人から離れた猟犬程、異物に強いという話もある、が。
主人に最も近い猟犬であるジェイドが、大のコーヒー好きなのだから、通説は怪しいものだ。
ジェイドは擦れているから、コーヒーの不快感を好む。よく言えば大人だ。ジェイドが休日以外でもコーヒーを飲用するのを、カイムは特別に許していた。
側近の特権と言えば特権だが、コーヒーの飲用権など、変な特権とも言えよう。
当の元締めカイムはといえば、完璧な閉殻を行えるようになってから、コーヒーを飲み始めたのだと自ら言っていた。無防備なままコーヒーを飲むと、一番繊細な仔犬へ悪影響を与えるらしく、カイムは相当気を使っているようだ。何が起こるのかジェイドが聞くと、認知が乱れるという、分かるような分からないような説明をする。
コーヒーの暖かさで少しだけ息をつくと居間へ戻り、ソファへ座る。低卓へコーヒーを置くと雑誌を開く。家庭料理の雑誌だった。だが、読みはするが実践はしないので趣味と数える事はしなかった。この微妙な習慣はカイムや影共に不思議がられたものだ。作ってくれるかとカイムに言われた事もあるが、ジェイドはまず野菜と肉の細かい種類が分からないので、さすがに主人には危険過ぎて食べさせられなかった。
――家庭料理の話を知る猟犬は、もういなくなったか。
皆死んだのだと、ジェイドは思い当たった。悲しみは感じなかった。同時に顔も思い出せなかったからだ。
ジェイドは突然、降って湧いたような、出どころの分からない感情を噛み締めた。唐突なそれが何を表すのか考える。仲間の死を想ったが為に、何かを迷ってしまったのか。
その感情を抱いた事が理解もできずに、不安でたまらなくなった。
それでも分かる。これは紛れもない痛みだ。誰にも寄り掛かれず、独り蹲って抱え、耐えるしかない痛み。
そして、
そうした自らを思う、孤独。
そうあり続けなければならない、という絶望。
「……行かなくては」
無意識に言葉が漏れた。どこから来た考えなのかまったく判らない。自分で発した言葉と、激しい焦燥に愕然とする。
そして、懐かしい感覚が蘇る。
館の廊下に蟠る薄闇の中、ただ独り佇む子供。
一目、見ただけで分かった。ジェイドが生まれてから、出逢う瞬間を待ち焦がれていたのは、この方だ、と。間違いではないか、などという迷いさえ、抱く余地もなかったのだ。
その時、ジェイドは何故、己が生まれたのかを思い出した。
自分には護らなければならない方がいて、その方の為に自分を捧げ、あるいは捨て去らなければならないと。
これを愛情と言うには、あまりにも歪で醜悪なのかもしれない。純粋に愛する事とはまた違う。もう、この方しかいないという気持ち。
ジェイドは目を覆う。
幼いあの子の冷たい顔。その声はまだ高いというのに、抑揚が乏しく、聞けば重たく心に沈み入るよう。
……それは、恐怖というのではないか。
ジェイドは悲しみに微笑む。
これ程までに抗い難い恐怖は、この世で唯一無二だろう。
「そうだ、そうだった……たとえ、それでもお側にいたいと願う――」
そして、理解した。
身内で強く鎖によって御されていたものが、ジェイドの意思で僅かに緩められた。
――御力になって差し上げなければ。
どこに行くかなど考える必要もなかった。分からないわけがない。
いつだってあの子が、どこにいようとも、ジェイドには分かるのだから。
――早くお傍へ。
ジェイドは顔を、押さえるように強く覆う。
またあの子は、あの日と同じように、独りで悲しみを背負っているのだ。
ジェイドは、もうずっと長い間気が付かなかった――正しくは気付かないようにされていた。
これは、この痛みは、ジェイドの心ではない。
そう、それは約二十数年振りに触れる、あまりにも生々しい主の心だった。
主人は痛みに耐え切れなかった。
ジェイドは静かに泣いた。
カイムの閉じた心と身体が傷ついて、殻に傷口が開いてしまったのだ。猟犬であるジェイドには考えずとも分かった。けして癒えない傷がそのままに、殻だけ閉じてしまうだろう。
そして、猟犬でしかないジェイドの気付きなど、おそらくカイム本人が希釈してしまう。あった事がほとんど意味のないものへ変わる。
ただ、あっただけ、それだけ。
――どうか誰でもいい、主を救ってくれ。
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