死を恋う神に花束を 白百合を携える純黒なる死の天使【アルファポリス版】

高坂 八尋

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三章 棘の迷宮

第18話 天使の囁き

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18


「……よりによって天使だとは。たとえ下級天使と言えど、正攻法の撃退が出来ず、しかも一方的な規則で縛られて逃れる術がないのなら、それはもう既に勝負が決まっているも同然だ」

 カイムは額を抱え重くため息をつくと、チェスカルと女王蜂も眉をひそめた。

「巣に何体居るか確認できますか?」

「残念ながら天使の気配は捉えられません。あの者たちは我等の世界、その裏におりますから、人界へ物質的、エネルギー的な接触を行ってはいないのです。例えるなら硝子を挟んでこちらを覗いているような状態で、まだ人界へは進行してはおりません」

 チェスカルが腕を組んで、どこへともなく視線を留めている。

「天使は顕現しなければ、感知も出来ないか……」

「そもそも顕現させるわけにはいかない。あのようなものをヘルレアや猟犬へ接触させるのだけは避けなければ。一生癒えない瑕疵かしを負わせるのは絶対に御免だ」

 ジェイド達はゆっくりと天使から遠ざかってはいたが、それでも真っ直ぐに続く障害物の無い廊下では、天使から隠れる事が出来なかった。カイムはジェイドの意識が散じないよう、接触を断っていたが、いつでも猟犬の呼び声に応えられるように意識を集中していた。


 ――エルド、どうするべきだ。


【――天使あれは駄目です。逃げるしかないでしょう。〈天使のささやき〉が始まる前に、とにかく逃げ切らなければ。二分の一で行う当てずっぽうの問答など、受け入れられるはずが無い】


 天使は戦わない。

 そして何者も害する事が出来ず、触れる事すら出来なかった。

 天使は格に寄って、相対する者へもたらす災厄が異なる。下級天使は相手へ質問を投げかけるという形で、災害を起こす。その投げ掛けられる質問というのが、人智を超える事柄故に、正答をと選べる人間など存在しないという、理不尽極まりない質問だった。問答は必ず二択から選ぶように出題され、そうした中で二分の一で答えを誤れば、感覚をランダムで奪われていき、二度と能力を取り戻す事は出来ない。そのやり取りは感覚全てを賭けるまで続き、一度問答が始まれば途中で止める事も出来なかった。

 下級天使は感覚を欲している。

 そう言われているのだが、勿論正答を知るものなど居なかった。

「厄介極まりない」

 カイムはジェイドへ繋げている感覚から、天使を垣間見る。美しい見目ではあるが、それはどこか無機質な印象を見ている者へ与える。触れようとも柔らかに押し返して来るような感覚があるようには思えず、硬質な、それこそ硝子その物に触れるような冷たさを想起させる。この印象を強く与えるのは、よく観察した時だけに見える、奇妙な皮膜感から来る艶めきだった。僅かに判る程度の違和感でしかない、それでも、ほんのりと輪郭が青く光を帯びるのが錯覚のように視界へ残る。まるで水の中に居て、空気の膜でもまとっているようだ。微細な被毛が空気を含み、それに覆われているような。


【――カイム】


 ――どうしたジェイド、何か異常が?


【――やはり今の状況は危険過ぎる。ヘルレアを逃がす。それでいいな】


 カイムはジェイドの言葉で、更に己が冷静になって行く様を実感した。今一番大切な事は何か。最も優先すべき事は。


 ――よろしい、許す。


 チェスカルが無言で目を伏せたのが感じられた。

 ジェイドはヘルレアの盾になると言っているのだ。

 カイムはジェイドの感覚を今までよりも強く繋ぐと、主人と猟犬が行える最大の結び付きである、同調同化の姿勢へ浸潤していった。自己の意識がジェイドと重なる様を感じ始めると、自らの存在が消え行くような思いに捕われた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 カイムは夢を見ているような心持ちになった。自分がどこに居て、何をしているのか、つい一瞬考えると、唐突に氷のような容貌の子供が視界に捉えられた。

 ――なんと、清冷なのだろう。

 ヘルレアが緊張した面持ちで傍近くに居る。

 そして、カイムは気付く。強い緊張と焦り。そうでありながら、燃え盛るような凄まじい闘争心が、胸を焼き尽くすような強さで湧き上がってくる。

 ――ジェイド。

 良く慣れた愛しい猟犬の感覚へ、今度こそ意識を集中して心を澄ませると、カイムは自己を没して掻き消した。

 カイムはジェイドとの境界を失ったのだ――。

 ジェイドは廊下をゆっくりと後退している。ヘルレアの小さな手がジェイドの太く引き締まった腕を引き続けていた。廊下へ少し視線を上げると天使が漂っている。

 ジェイドはヘルレアの手を軽く叩くと、誰も居ない廊下の先を指差し頷く。ヘルレアは一瞬で察したようで眉をひそめた。ジェイドはオリヴァンもヘルレアへと押し付けるような挙動を取って、もう一度頷くと、彼は片頬だけで無言のまま笑ってみせる。

 ヘルレアはジェイドを無表情で見詰めていたが、オリヴァンの顔へ視線を移すと、ため息を付くかのような表情で俯くように頷いた。

 ヘルレアはジェイドから腕を離すと、オリヴァンの口をジェイドの代わりに塞いでから、二人だけで後退を始めた。その速度は今までよりも少しだけ早いものへ変わり、天使から離れて行った。反対にジェイドは、以前よりもゆっくりとした歩みへと足歩を切り替えて、一定の間隔を空けて天使と向き合い続ける。

 ジェイドはなるべく気息を整え、後ろ歩きで天使を見据える。近付き過ぎず離れ過ぎず、ただ歩みを乱さないように歩き続けた。

 どれだけ近付けば天使は覚醒するのか。いかなる刺激に強く反応するのか。そして、召喚から顕現まで、どれだけの時間的猶予があるのか。
 
 外道の召喚体になど人間の常識は通用しない。過去の人類が行って来た召喚経験からもたらされる規則性など、存在しないも同然だった。

 しかし、実のところヨルムンガンドならば、下級天使程度で抵抗する術が無いとは思われなかった。たとえそれが、綺紋を失い、身体能力が落ちた世界蛇だとしても、その認識に僅かな誤差しか生じさせない。

 だが、それでもジェイド達は、手探りでさせるような、少しでも危うい戦闘など、ヘルレアへけしてやらせるつもりなど端から無いのだ。

 ――いかなる瑕も許されない。

 そして、ヘルレアは己の立場を理解している。

 的確な動作を直ぐに選び取った。

 それで良い。何も間違っていない――。

 ジェイドはここでもう猟犬としての一生が終わるかもしれない。

 けれども、そこには恐れよりも強い使命感が心を満たしていた。これもまた、猟犬故の強い服従心から来る、自己犠牲の精神なのだと解っていた。

 暖かな感覚が心の奥底で灯った。ジェイドは味わうように意識を寄せると、不思議な多幸感に包まれた。ジェイドはけして何物とも違えるはずの無い感情に、心が鎮まった。


【――ジェイド、傍に居るよ】


 ――そうか、これが最期かもしれないな。


【――恐れなくて良い。ただ、伴に】


 主人はここには居ないというのに、誰よりもジェイドの傍に寄り添ってくれている。ジェイドはゆったりと笑んだ。この笑みは確かに主人へと届いている。

 ジェイドには解る。主人は希釈を始めている。それは裏返せば、ジェイドが恐れを感じ始めているという証だった。彼は希釈されながらも、断ち切れない恐れに背を向けないように、ただ無心に天使を見据える。

 ジェイドが天使とヘルレアの間に立てば、絶対に王を守り切る事が出来る。天使の災厄は一対一。人界の個と接触すれば、それで問答が行われて感覚を全て賭け終えれば、天使は消失する。

 ジェイドはヘルレア達との距離も測りながら、天使との間隔を注意深く取り続け、いざとなれば問答を自ら受けに行けるであろう位置を保つ事を怠らなかった。

 そうしているうちに、ジェイドは背後から足音が近付いて来る気配を察した。彼が本能的に背後へ顔を向けようとした瞬間、手が彼を廊下の壁へと押し遣った。突然の事にジェイドは動作が遅れていた――ヘルレアが背後に居る事で油断していたのだ。

 攻撃を覚悟したジェイドだったが……しかし、何ら気の無い速度で、前を歩いて行ったのはオリヴァンだった。

 オリヴァンは既にジェイドの手が届く範囲には居らず、声も掛けられないので、自分がこれからどう行動を移すべきか、一切思考できなくなっていた。

 
【――あいつは何を考えている】


 カイムの悪態に近い声音でジェイドは、オリヴァンを止めようと一歩を踏み出す姿勢を取る。しかし、オリヴァンは後ろ手に、その手を振ってジェイドの動きを明らかに止めていた。

 オリヴァンはまるで常態のように平気で、足音を立てながら散策する速度で天使へ近寄って行く。


 ――カイム、どうしたらいい。


【――もう何もするな。様子を見ろ】


 オリヴァンは天使から後数歩というところで立ち止まる。

「やあ、問答を始めようじゃないか」

 天使は覚醒めた。

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