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三章 棘の迷宮
第19話 二者択一
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天使が眼前のオリヴァンへ、幸福そうに微笑む。その笑顔はまるで、幼子を見守る母親のようだった。
覚醒めてしまった。
ジェイドにはもう何も出来なかった。既に彼が身代わりになれるような距離でも、状況でもなかった。天使がオリヴァンを認識し、問答の相手と定めていた。
ジェイドは思わず俯いて顔を覆う。
主の友人を犠牲にしてしまった。本来ならば、ここはジェイドがその役にならなければならなかったのだ。
ジェイドの袖を掴む者が居た。眼を遣るとヘルレアが既に傍にいて、顔を強張らせていた。
もう音を出しても危険はなかった。それでも言葉は何も出て来ず、二人は無言で見合うしかなかった。
オリヴァンの背中に緊張の色は見えない。
「天使君、問題をおくれ」
「……人智を超えたる知識を授ける。二択のうちの正否を以って答を享受するが良い。贄は全官能を賭し、問答によりて、その生涯を数多に選別し、誤れば道は永久に正されぬ。覚悟を持って挑まれよ」
「あいよ、了解!」
「では、執り行う。石樹海の始まりは何とする――砦か、それとも塔か」
「あはは、塔だね」
オリヴァンは一切の躊躇いも見せず淀みなく答えた。
ジェイドとヘルレアが身動き出来ずにいると、しばらくしてからヘルレアは独りほっと息を付く。
「何も起こっていない。当たりだ。あいつはやっぱり頭がおかしい」
オリヴァンが唐突に手を胸に添えて、天使へ頭を垂れる。最高礼を天使へ尽くしていた。あのオリヴァンが他者へ対して礼を――それも最高立礼を取るのをジェイドは初めて見た。
「当たって良かったなあ……と、言うわけで、もういいかな――下級天使よ掟によりて、貴様の名前を賭けよ。人界へ触れる禁忌を犯した罪により、堕天を求める」
硝子のひび割れるような音が走った。すると、一息にいくつもの高い音が重なり合い、粉砕される凄まじい破壊音が廊下に響き渡った。
ジェイドにはオリヴァンが何を言ったのか、音としてしか捉えられなかった。ヘルレアも唖然としているようで、ジェイドと理解の差は大して無いようだった。
「オリヴァン・リード、あいつ何かしやがった」
天使が胸に、両手をクロスするように添えて頭を垂れる。
「承った。我が名はタンタル――掟によりて名を賭し、敗北せし時、主へ堕落を知らしめん」
「よろしい、タンタル。じゃあ俺っちは取り敢えず、こういう時には定番の地獄にでも堕ちるか」
ヘルレアが走り出そうとした時、ジェイドは王の手を掴み首を振った。
「あいつ何か普通ではないような事をしているぞ。天使が完全に引きずり出されて、異常な形で顕現しやがった。危険過ぎる」
「駄目だ、ヘルレア。お前は近寄るな。ヨルムンガンドへ絶対に瑕は負わせない」
オリヴァンが自然な姿勢へ戻ると、手を上げてピースサインを送って来た。
「いっちょ、やってやるか」
オリヴァンがポケットに手を突っ込むと、何かを取り出すのが解った。それを摘み掲げた時、それが一枚のコインだと言うことに気付く。
「タンタル、人間の知覚と同等へ下れ。公正公平な勝負を望む。コインの表裏を賭けて勝負だ。表裏を確認せよ」
オリヴァンはコインを天使に掲げ、表裏を示した。
「承知した。勝負は一度切り、いかなる理由による再戦も許されぬ。よろしいか」
「異存はない」
「承知した」
ヘルレアがジェイドを一瞥すると、オリヴァンへ振り返る。
「止めろ、お前。もう、人界から切り離され掛けてるぞ。戻れなくなる」
「もう、無理無理。止められないよん。その綺麗なお目々をくりくりにして、俺っちの大活躍を見て頂戴ね」
オリヴァンがコインを高く弾き上げると、手の甲でそのコインを受け止め、素早く手を重ねた。
「一問目は俺っちの勝ちだったから、先行ね――裏だ」
「よろしい、では、開示せよ」
オリヴァンは一拍間を置いた。
「……カイム、聞こえるか。どちらが先に地獄へ堕ちるか楽しみだな」
初めて聞いたオリヴァンの落ち着いた声に、ジェイドは否が応でも終わりを感じた。
カイムへと確かにオリヴァンの声は届いているが、カイムは何も言わず、そして心を動かす事も無かった。
オリヴァンが手の甲に重ねている手を上げようとする、その間際、発砲音が轟いた。ジェイドは反射的にヘルレアを庇い抱き竦めていた。その無意味さに気付いた時には、ジェイドの腕の中でヘルレアが天使を指し示していた。
「ジェイド、天使の後ろだ」
ジェイドが天使の背後へ、遠く見渡すと、体格的に男であると解る二人が立っていた。彼らは全身黒い装備で、フルフェイスマスク、戦闘服にベストと、揃えたさまが組織に属する者の姿をしている。そして彼らは明らかに実用的な筋肉を備えた、兵士である事が解った。
「お止め下さい、オリヴァン様。教主様!」
二人はマスクを何の躊躇もなく外してしまう。
第一声を上げたのは中年の男で、隣には居るのは二十代半ばくらいの若い男だった。
ジェイドは衝撃にもたつきそうになったが、それでも銃の照準を既に謎の男達、その声を張り上げた男へ定めていた。
「あらら、信者君かな。俺っちの事まだ教主様って呼ぶなんて、なんて物好きなんだろうね」
「何を仰られる、今でもオリヴァン様が我等の教主様でございます」
隣の若い男だけが唐突に最高立礼を行った。だが、その礼はどこへ向けて示した敬意なのか、ジェイドには、何故か今一判からなかった。幾ら遠くからとはいえど、状況を観察すれば天使へ礼を尽くしているようだとは解るものだが、ただ空虚にその頭は垂れるのみに見えた。
そして、ジェイドは自らの主人を、何の前触れもなく思い出す。
――意識がここには無いのだ。
「天使タンタル、どうかお赦しを――お帰り下さいませ。我が血と肉と魂を捧げます」
中年の男が手を上げると、隣に居た男が腰のベルトから刃物を抜いた。すると自分の首を真一文字に切り裂いた。血飛沫が上がると、若い男がそのまま力なく廊下に崩折れた。倒れた男は血溜まりで痙攣している。
ヘルレアがジェイドの裾を引く。それで視線を動かすと天使が眼を伏せる瞬間を見た。天使の姿が薄っすらとぼやけると徐々に色が滲み、霧のように消えていった。
あの若い男が召喚者だったのだ。代償に天使を慰め帰還させた――それもオリヴァンを救う為に。
「ああ、若いのに可哀想。ま、自業自得だわな……残念、俺っちカイムより先に地獄へ堕ちてたわ」
オリヴァンがジェイド達へコインを弾いて見せた。あのまま賭けを続けていたら、オリヴァンは本当にどうなっていたのだろうか。しかし、ジェイドは直ぐに召喚体への思考を払って、遠く廊下に佇む男に集中する。
「……あれは、人間だぞ」ヘルレアがジェイドから僅かに身を離す。
オリヴァンが丁度壁となるように、謎の男とジェイドの間に立っている。ジェイドはオリヴァン越しに兵士へ照準を定めていた。
「俺っちを教主様って呼ぶ奴等は、今でもそこそこには多いから、どこのどいつか判らんね。有識者のムー君なら解るかい? やーい、ムームー君このイカれた奴等は誰だい」
――聞いているか、カイム。俺には状況が判らん。
【――組織全体の意向かは判らないが、あの男達は〈聖母の盾〉、その信者だろう。オリヴァンは未だ教主の座から下ろされていない】
――オリヴァン殿は教主なのか?
【――あいつの血筋はヨルムンガンド・クレメンティリス……レンティスだ。何代前かすらもう判らないくらい、僕の血よりずっと古い。それが今でも〈聖母の盾〉として血統を繋いでいる。オリヴァンは幼い頃から教主として育てられたんだ】
――〈聖母の盾〉? あの数百ヶ国もが国教にしている、あれか。信じられん。
【――あの馬鹿は離脱したが、何らかの理由で、一度教主へ祀り上げたら、下ろせないような推移があったのを確認している。そういう理由だ】
「おい、ジェイド。カイムは何て言っているんだ」
「オリヴァン殿は〈聖母の盾〉の教主なのだと」
「……人間はどいつもこいつもイカれていやがるな」
「こればかりは、俺でも否定の言葉が見つからん」
【――信徒が居るとしても、それは攻めてきた者を特定出来る材料にはならない。恐らく組織で動いている連中だろうが、それがアンチ聖母ではないとしても、その情報に大して意味は無いだろう】
天使が眼前のオリヴァンへ、幸福そうに微笑む。その笑顔はまるで、幼子を見守る母親のようだった。
覚醒めてしまった。
ジェイドにはもう何も出来なかった。既に彼が身代わりになれるような距離でも、状況でもなかった。天使がオリヴァンを認識し、問答の相手と定めていた。
ジェイドは思わず俯いて顔を覆う。
主の友人を犠牲にしてしまった。本来ならば、ここはジェイドがその役にならなければならなかったのだ。
ジェイドの袖を掴む者が居た。眼を遣るとヘルレアが既に傍にいて、顔を強張らせていた。
もう音を出しても危険はなかった。それでも言葉は何も出て来ず、二人は無言で見合うしかなかった。
オリヴァンの背中に緊張の色は見えない。
「天使君、問題をおくれ」
「……人智を超えたる知識を授ける。二択のうちの正否を以って答を享受するが良い。贄は全官能を賭し、問答によりて、その生涯を数多に選別し、誤れば道は永久に正されぬ。覚悟を持って挑まれよ」
「あいよ、了解!」
「では、執り行う。石樹海の始まりは何とする――砦か、それとも塔か」
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「当たって良かったなあ……と、言うわけで、もういいかな――下級天使よ掟によりて、貴様の名前を賭けよ。人界へ触れる禁忌を犯した罪により、堕天を求める」
硝子のひび割れるような音が走った。すると、一息にいくつもの高い音が重なり合い、粉砕される凄まじい破壊音が廊下に響き渡った。
ジェイドにはオリヴァンが何を言ったのか、音としてしか捉えられなかった。ヘルレアも唖然としているようで、ジェイドと理解の差は大して無いようだった。
「オリヴァン・リード、あいつ何かしやがった」
天使が胸に、両手をクロスするように添えて頭を垂れる。
「承った。我が名はタンタル――掟によりて名を賭し、敗北せし時、主へ堕落を知らしめん」
「よろしい、タンタル。じゃあ俺っちは取り敢えず、こういう時には定番の地獄にでも堕ちるか」
ヘルレアが走り出そうとした時、ジェイドは王の手を掴み首を振った。
「あいつ何か普通ではないような事をしているぞ。天使が完全に引きずり出されて、異常な形で顕現しやがった。危険過ぎる」
「駄目だ、ヘルレア。お前は近寄るな。ヨルムンガンドへ絶対に瑕は負わせない」
オリヴァンが自然な姿勢へ戻ると、手を上げてピースサインを送って来た。
「いっちょ、やってやるか」
オリヴァンがポケットに手を突っ込むと、何かを取り出すのが解った。それを摘み掲げた時、それが一枚のコインだと言うことに気付く。
「タンタル、人間の知覚と同等へ下れ。公正公平な勝負を望む。コインの表裏を賭けて勝負だ。表裏を確認せよ」
オリヴァンはコインを天使に掲げ、表裏を示した。
「承知した。勝負は一度切り、いかなる理由による再戦も許されぬ。よろしいか」
「異存はない」
「承知した」
ヘルレアがジェイドを一瞥すると、オリヴァンへ振り返る。
「止めろ、お前。もう、人界から切り離され掛けてるぞ。戻れなくなる」
「もう、無理無理。止められないよん。その綺麗なお目々をくりくりにして、俺っちの大活躍を見て頂戴ね」
オリヴァンがコインを高く弾き上げると、手の甲でそのコインを受け止め、素早く手を重ねた。
「一問目は俺っちの勝ちだったから、先行ね――裏だ」
「よろしい、では、開示せよ」
オリヴァンは一拍間を置いた。
「……カイム、聞こえるか。どちらが先に地獄へ堕ちるか楽しみだな」
初めて聞いたオリヴァンの落ち着いた声に、ジェイドは否が応でも終わりを感じた。
カイムへと確かにオリヴァンの声は届いているが、カイムは何も言わず、そして心を動かす事も無かった。
オリヴァンが手の甲に重ねている手を上げようとする、その間際、発砲音が轟いた。ジェイドは反射的にヘルレアを庇い抱き竦めていた。その無意味さに気付いた時には、ジェイドの腕の中でヘルレアが天使を指し示していた。
「ジェイド、天使の後ろだ」
ジェイドが天使の背後へ、遠く見渡すと、体格的に男であると解る二人が立っていた。彼らは全身黒い装備で、フルフェイスマスク、戦闘服にベストと、揃えたさまが組織に属する者の姿をしている。そして彼らは明らかに実用的な筋肉を備えた、兵士である事が解った。
「お止め下さい、オリヴァン様。教主様!」
二人はマスクを何の躊躇もなく外してしまう。
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ジェイドは衝撃にもたつきそうになったが、それでも銃の照準を既に謎の男達、その声を張り上げた男へ定めていた。
「あらら、信者君かな。俺っちの事まだ教主様って呼ぶなんて、なんて物好きなんだろうね」
「何を仰られる、今でもオリヴァン様が我等の教主様でございます」
隣の若い男だけが唐突に最高立礼を行った。だが、その礼はどこへ向けて示した敬意なのか、ジェイドには、何故か今一判からなかった。幾ら遠くからとはいえど、状況を観察すれば天使へ礼を尽くしているようだとは解るものだが、ただ空虚にその頭は垂れるのみに見えた。
そして、ジェイドは自らの主人を、何の前触れもなく思い出す。
――意識がここには無いのだ。
「天使タンタル、どうかお赦しを――お帰り下さいませ。我が血と肉と魂を捧げます」
中年の男が手を上げると、隣に居た男が腰のベルトから刃物を抜いた。すると自分の首を真一文字に切り裂いた。血飛沫が上がると、若い男がそのまま力なく廊下に崩折れた。倒れた男は血溜まりで痙攣している。
ヘルレアがジェイドの裾を引く。それで視線を動かすと天使が眼を伏せる瞬間を見た。天使の姿が薄っすらとぼやけると徐々に色が滲み、霧のように消えていった。
あの若い男が召喚者だったのだ。代償に天使を慰め帰還させた――それもオリヴァンを救う為に。
「ああ、若いのに可哀想。ま、自業自得だわな……残念、俺っちカイムより先に地獄へ堕ちてたわ」
オリヴァンがジェイド達へコインを弾いて見せた。あのまま賭けを続けていたら、オリヴァンは本当にどうなっていたのだろうか。しかし、ジェイドは直ぐに召喚体への思考を払って、遠く廊下に佇む男に集中する。
「……あれは、人間だぞ」ヘルレアがジェイドから僅かに身を離す。
オリヴァンが丁度壁となるように、謎の男とジェイドの間に立っている。ジェイドはオリヴァン越しに兵士へ照準を定めていた。
「俺っちを教主様って呼ぶ奴等は、今でもそこそこには多いから、どこのどいつか判らんね。有識者のムー君なら解るかい? やーい、ムームー君このイカれた奴等は誰だい」
――聞いているか、カイム。俺には状況が判らん。
【――組織全体の意向かは判らないが、あの男達は〈聖母の盾〉、その信者だろう。オリヴァンは未だ教主の座から下ろされていない】
――オリヴァン殿は教主なのか?
【――あいつの血筋はヨルムンガンド・クレメンティリス……レンティスだ。何代前かすらもう判らないくらい、僕の血よりずっと古い。それが今でも〈聖母の盾〉として血統を繋いでいる。オリヴァンは幼い頃から教主として育てられたんだ】
――〈聖母の盾〉? あの数百ヶ国もが国教にしている、あれか。信じられん。
【――あの馬鹿は離脱したが、何らかの理由で、一度教主へ祀り上げたら、下ろせないような推移があったのを確認している。そういう理由だ】
「おい、ジェイド。カイムは何て言っているんだ」
「オリヴァン殿は〈聖母の盾〉の教主なのだと」
「……人間はどいつもこいつもイカれていやがるな」
「こればかりは、俺でも否定の言葉が見つからん」
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