天上の桜

乃平 悠鼓

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第一章

白木蓮の女怪 《一》

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「世話になったね、玄奘。翡翠観ひすいかんまでは何事もないだろうが、気をつけてお行き。向こうに着いたら、緑松りょくしょうにもよろしく言っといておくれ。たまには、酒でも持って訪ねて来いってね」

 宿屋の前で、丁香ていかは玄奘に言った。ナタ降臨後、後片付けに手間は取られたものの、人間の被害はなかった。ただ、沙麼蘿さばらの後先のない攻撃により、辺りの建物は被害をこうむっているが。

此処ここでいいのかおっちゃん」
「あぁ、すまないな。助かるよ」

 悟空はキン斗雲とうんに乗り、木材を屋根の上に運んでいた。出発直前まで修理を手伝うつもりらしい。

「もしかしなくてもよ、公女様が加減を考えて行動してくれれば、建物も無傷とはいかないまでも何とかなったんじゃねぇか」
「それはそうかもしれませんが、人間の方が無傷ではいられなかったのでは」
「そんなもんか」

 “そうですよ” と、悟浄と八戒は言葉を交わしながら、別れの挨拶をかわす玄奘とこう丁香ていかを見ていた。

「ハムちゃん、おわかれね。これ、おひるにたべてね」
「ぴゅ」
「ハム様、色々とありがとうございました」
「ハム様、元気でな」
「またとまりにきてね、ハムちゃん」
「ぴゅ」

 宿屋の玄関先では、玉龍ハムちゃんと宿屋の主人夫婦そして娘の鈴麗りんれいが別れを惜しんでいる。

「沙麼蘿公女、お世話になった。これからは、よくよく考えて行動するよう心がけるよ。」

 沙麼蘿は何も答えなかったが、丁香は深々と頭をさげた。

「玄奘、この旅が終わったらお前も一度は訪ねておいで」
「はい。その時は、道士も連れて」
「あぁ、頼むよ」

 七年ぶりの短い再会ではあったが、黄丁香は白水観びゃくすいかんへ、玄奘一行は翡翠観へと別れて行った。








 翡翠観は、三扇さんせんの西側の山中にある。北側にある白水観の黄丁香と共に、この国全土の乾道けんどうの頂点に立つ緑松りょくしょうが構える道観どうかんだ。
 丁香と緑松は共に貧民街の出。丁香は物心ついた時から両親の記憶はなく、同じ貧民街の孤児達と共に育ってきた。緑松は八歳までは父親と一緒に暮らしていたが、父を亡くしてからは貧民街に落ちた。行き場のない緑松を丁香は仲間として迎え、面倒をみた。同年齢でありながら、この時丁香は孤児達のトップにたっていたのだ。
 その頃、貧民街の子供達が消えると言う事件が起きていた。だが、貧民街の出来事故に事件とはみなされなかった。丁香達の面倒をみてくれていた兄さん姉さん達も、気がつけば誰もいなくなっていた。わずか八歳の丁香が、年下の孤児達の面倒をみなければならない程に。もともとあねさん気質だった丁香は、幼い身で仕事をして金を稼ぎ、時には盗みなども働いた。皆を食べさせて行くために。だがある日、丁香達はさらわれそうになった。孤児達を拐っていたのは奴隷商人だったのだ。大人達に囲まれもう駄目かと思った時、声をかけ助けてくれたのは道士の道袍ほういまとった老人。

「この手を取るのならば連れて行こう」

 丁香や緑松達は、皆その手を取った。連れていかれたのは古びた道観だったが、老人は子供達が生きて行くための知恵を授け導いてくれた。その中でも最も優秀だった丁香と緑松は、今や道士として二大巨頭とまで言われる地位を得ている。彼らを助け育ててくれたのは、遥か昔道士として生きていた地仙ちせんだったのだ。地仙の老人は、子供達の成長を見守ると後を丁香と緑松に任せ、須弥山しゅみせんに帰って行った。








「なんだコレ」
「冗談だろ」
「これはなんとも」

 悟空、悟浄、八戒が見上げた先には、終わりが見えない程の長い長い階段。翡翠観の道門は、この階段の先にある。

「行くぞ」

 と声をかけ、玄奘は慣れた様子で終わりの見えない階段を登って行く。この翡翠観に暮らすものなら皆、武術の訓練でこの階段を登り降りさせられるのだ。幼い頃から慣れ親しんだこの階段を登ることは、玄奘にとってしたることではなかった。
 登りつめた階段の、なんと長かったことか。

「疲れたー」
「さすがにコレはなしだろ」
「まぁ、頑張ったと言うことでしょう」

 荒い息を繰り返す悟空、悟浄、八戒の横で、琉格泉るうのの頭の上に乗り悠々と歩くことなく此処にたどり着いておきながら

「ぴゅ」

 “階段を登ったくらいで動けなくなるなんて情けない”、と言った玉龍ハムスター

「ハムちゃんだけには言われたくない!」

 と叫んだのは悟空だった。キン斗雲を使えば一気に登れた悟空だったが、あえてそれはしなかった。皆で自力で登る方を選んだからだ。

「やっぱ化け物か、公女様は」
「歩いていましたか、彼らは」

 確かに、沙麼蘿も琉格泉も自分達の後方にいたような気はする。だが、足音も気配もないままに気がつけば、階段の上から自分達を見下ろしていたのだ。

沙麼蘿アレに、常識が通じるわけがないだろ」

 久しぶりの階段登りにいささかの息切れを感じながらも、玄奘は目の前の道門を見た。七年ぶりの翡翠観だ。

紅流児こうりゅうじ……」

 今は懐かしい幼名ようみょうで玄奘を読んだのは、よく知る人物だった。

山茶さんさ

 この道門に布でくるまれ置かれていた、捨て子だった山茶だ。




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