天上の桜

乃平 悠鼓

文字の大きさ
17 / 204
第一章

白木蓮の女怪 《三》

しおりを挟む
御師匠様おっしょうさま、すべての準備が調いました』
『そうか、小坊主達は』
『今、此方こちらにまいります』

 あぁ、これはあの日の夢だ。玄奘はそう思った。十五年前、金山寺を旅立つ日の、御師匠様と兄弟子あにでし達の様子だ。厳しくも穏やかで幸せだった日々、胸元をかきむしるような苦痛など存在しなかった日々のことだ。

『早くにすまないね、皆』

 起床時間よりも一時間以上も早く兄弟子達に起こされ、旅の装束しょうぞくを着せられた小坊主三人。一人は七歳、一人は八歳は、そしてもう一人は十歳になったばかりの紅流児こうりゅうじだった。

『急ぎの用ができてね、お前達に使いに出てもらいたい。少しばかり長旅になるが、旅の準備はすべて調えてある。船着き場には案内人もいる、安心して行きなさい。いいね。』
『はい』

 壽慶じゅけい三蔵は、小坊主達に言い聞かせるように言った。小坊主に長旅とは如何いかなることかとも思われたが、御師匠様の言いつけにいなはありえない。小坊主達には、兄弟子達が準備してくれた荷物が一つずつ手渡された。

『ゆっくりしている暇はありません。すぐに立ちなさい。皆、気をつけて行くのですよ。怪我をせぬよう、騙されぬよう、一刻も早くこの文を届けておくれ』
『はい』

 小坊主達は壽慶に頭を下げると部屋を出て行く。

『紅流児』

 紅流児が最後に部屋を出ようとした時、壽慶に呼びとめられた。壽慶はそっと、自分の目の前に座るように紅流児を促した。紅流児は黙って壽慶の前に座る。

『紅流児、お前の行き先が一番遠い。お前はしっかりしているから大丈夫だろうが、くれぐれも気をつけておいき。とても大切な文だ、寄り道などせずに必ず緑松りょくしょうに届けておくれ』
『はい。急ぎ道士にお届けし、すぐに帰ってまいります』

 その言葉に、壽慶は静かに紅流児の両手をとると

『帰りは、ゆっくりでよいのだ。あちらでは緑松と丁香ていかの言うことをよく聞いて、元気に過ごしておくれ』

 と言った。

こう道士は少し離れた所にいらっしゃいますから、たぶんお会いできないと思います。でも李道士の言うことをよく聞いて戻ってまいります』
『あぁ、頼んだ。頼んだよ紅流児。それから、これを持っていきなさい』

 壽慶はそう言うと、自らの右手首につけていた水色の花びらのような形がいくつも連なる腕釧ブレスレットを外し、紅流児の右手首につけた。

『御師匠様、これはとても大切な物だとおっしゃって、いつも肌身離さず持ってらっしゃった腕釧ブレスレットではないですか。』
『そうだ。だからこそ、お前に持って行って欲しいのだ。』
『そんな大切な物を』
『紅流児、けして無くさぬよう肌身離さず持っておくのです。いいね。さぁ、長居はいけない。早く行きなさい』
『はい。行ってまいります、御師匠様』

 この時は、これが壽慶三蔵との最後の会話になるとは思ってもいなかった。これが、兄弟子や同部屋の小坊主達との永遠の別れになるとは、知りもしなかったのだ。

『許しておくれ紅流児、お前にこの重荷を背負わせる私を、お前のを、どうか許しておくれ』

 この日、早朝に兄弟子達に見送られた小坊主達が、寺院として建てられた金山寺に戻って来ることは二度となかった。玄奘が次に此処を訪れた時、そこには何もない更地が広がっていたからだ。

『紅流児、いったいどうした。一人で来たのか』

 翡翠観ひすいかんへたどり着いた時、金山寺から此処までの長旅を、十歳の紅流児が一人で来たのかと、緑松は驚きの表情をみせた。壽慶のともで来たことはあったが、まさか一人でやって来るとは。

『御師匠様から、これを急いで届けるように言われてまいりました』

 紅流児から渡されたその文に、緑松はただならぬものを感じとった。そして文を受け取ると

『壽慶から、そうか。奥の離れを用意させよう。疲れただろう、少し休みなさい』

 と紅流児を気づかい、穏やかな笑みを見せ言った。

『はい、ありがとうございます』

 翡翠観にたどり着いた紅流児は長旅の疲れもあって、その日はただひたすらに眠った。金山寺から翡翠観までは、急いでも数日かかる。紅流児は、と言った壽慶の言葉を守って、寝る暇も惜しんで翡翠観までやって来たのだ。翌日、

『おはよう紅流児、ゆっくり眠れたか』
『はい、お陰様かげさまで』
『そうか。では、朝食あさげにしよう』

 離れから楼閣ろうかくへ向かおうとする緑松のあとを追いながら

『あの、御師匠様の文への返事は今日いただけるのでしようか』

 と、紅流児は聞いた。その言葉に緑松は

『紅流児は、早く金山寺に帰りたいか』

 と言った。“はい”、と言う紅流児に

『あの文は私だけでなく、丁香に宛てられた物もあった。今白水観びゃくすいかんに使いを出しているから、今少し待ちなさい』

 とだけ告げた。その時紅流児は、数日間は翡翠観に泊まりかなと、ただそれだけを思った。これから先、此処に住むことになるとも知らずに。

『お久しぶりです、黄道士』
『あぁ、久しぶりだね』

 三日後の夕方、丁香は急ぎ翡翠観にやって来た。そして壽慶からの文に目を通すと、緑松と丁香は紅流児を呼んだ。

『御師匠様の文は見ていただけましたか』
『あぁ、読んだよ』

 “では”、と言葉を発した紅流児に、“待ちな” と、丁香は言った。

『紅流児、お前は、此処翡翠観で暮らすことになった』
『な、何を……』

 突然の緑松の言葉に、紅流児は思わず後ずさった。そんな紅流児に、こっちへおいでと声をかけた丁香は

『壽慶からお前宛ての文だ、此処で読みな』

 と、一通の文を差し出した。その文は、見慣れた壽慶三蔵の文字で書かれていた。




********
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...