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第一章
白木蓮の女怪 《四》
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紅流児は、緑松や丁香の前に座り、壽慶三蔵の文を開いた。
【紅流児、お前がこの文を読む頃には、もう私はこの世にはいないかも知れない。だがよく読み、無用な行動はせぬようにしなさい。詳しく文を書く時はないが、わからぬことは緑松と丁香に聞いて欲しい。二人の言葉は私の言葉なのだから。
私は、この世を平和に導くとされる天上の桜の鍵の護り手なのだ。天上の桜は、どんな願いも叶えるとされる、天上界よりの賜り物。今その天上の桜を我が物にしようと、人ならざる者達が動き出した。そして、各地で三蔵が狙われ、鍵の一つが奪われた。奴らは五つの鍵を手に入れるまで、寺と言う寺を狙い、すべての三蔵を狩り尽くすだろう。私達は残り四つの鍵を、なんとしても護り通さなければならない。
信じられないかも知れないが、お前に託した腕釧が天上の桜の鍵なのだ。その鍵は、持ち主によって形を変える。今はまだその形だが、お前が三蔵となった時には、別の形に変わるだろう。
紅流児、お前には緑松のもとで三蔵真経を学び、私のあとをついで三蔵となり、天上の桜の護り手となってもらいたい。お前のことは、緑松と丁香が必ず護ってくれる。
紅流児、お前にこんな茨の道を歩ませるこの私を、どうか許しておくれ。お前の母、私の姉がこれを知ったらどう思うだろうか。お前に両親の話をしたことはなかったが、お前の父親は科挙に合格した英才で、若くして長官に抜擢された人物だ。心優しく実直で、とてもよい義兄だった。母親は宰相の娘で、美しく才媛の誉れ高い女性で、私とは仲もよかった。夫婦で任地に向かう途中、姉を見初めた邪心を持った商人の男に義兄は殺され、姉は妾として連れていかれてしまった。すでにお前を身籠っていた姉は、男の留守中にお前を生み、信頼のおける者に預けた。そしていつも遠くからお前を見守っていたのだ。だが、男に怪しまれていることを知り、姉はお前を私に預け自らは自害した。お前のことを知られぬために。私は権力争いが嫌で、早々と仏閣に修行に行き出家して、この金山寺の住職をしていた。不憫な姉夫婦に代わり、私がきっとお前を育て上げようと誓ったはずだったが、もうそれは叶わない。
紅流児、私は誰よりもお前を信用している。お前が立派な三蔵となり、私のあとをついでくれることを。どうか、どうか生き延びておくれ。お前と共に過ごした時は僅かであったが、甥と一緒に暮らせてとても幸せだった。ありがとう紅流児、この愚かな叔父を許しておくれ】
壽慶からの文を読み終えた紅流児は、机に両手をつき立ち上がった。
『どうしたんだい、紅流児』
丁香は、い抜くような双眸で紅流児を見つめた。
『帰るのです、金山寺に!』
『帰って、いったいお前に何ができる。無駄死にでもするつもりかい』
冷たく言い放った丁香の言葉に、紅流児は怒りの形相を見せ、その顔を真っ赤にさせて、“黄道士!” と叫んだ。
紅流児は、物心ついた時から何時でも一人だった。小さな小さな山寺の近くに養祖父母と暮らし、義務的に育て上げられた。そこには、愛情などない。そんなある日、突然金山寺に預けられたのである。修行中の身には血族も他人も関係ないが、兄弟子達は本当の兄弟かと思える程に面倒見がよく、壽慶は厳しい中にも深い愛情を持って接してくれた。紅流児が生まれて初めて、此処は大丈夫だと、安心して暮らせる程に。
紅流児は焦っていた。無駄死にでも何でもいい、金山寺に帰り御師匠様を、兄弟子達を助けるんだ! そのためなら、自分はどうなってもいい! あの場所を、兄弟子達を、御師匠様を助けるんだ!!
『落ちつきなさい、紅流児! 壽慶の文にはなんと書いてあった! 無用な行動はせぬようにと、私と丁香の言葉は壽慶の言葉だと、そう書いてあったのではなかったか!』
『李…道士……』
紅流児の、ハッと見開いた双眸からは涙がこぼれ落ち、震えるその両手でギューッと壽慶からの文を握りしめた。何故自分には許されないのか、兄弟子達の元へ、御師匠様の元へ行くことが……。紅流児は唇を強く噛んで下を向き。その場に崩れ落ちた。丁香は紅流児の側に近づくと跪き、そっとその小さな背を撫で抱きしめた。
『紅流児、お前は生きるんだよ。生にしがみつき、壽慶の分も生きて、天上の桜の護り手となったその姿を、壽慶に見せておやり』
『お前のことは、私達が護る。相手が何者であってもだ。それがこの世界を護るためならば、私達は喜んでこの身を投げ出そう』
『その時は、お前はあたし達の屍を踏みつけ越えて行け。血の海をひたすら前に歩んでいけ。あたし達は、そのためにいる』
紅流児は、驚きの表情で丁香と緑松を見つめた。その表情は、金山寺の兄弟子達や壽慶と同じように感じられ、ただただ子供のように嫌だとその首を左右に降った。
『それが、あたし達の運命なのさ』
『私と丁香と壽慶と……紅流児達の、な』
目の前が霧に包まれると同時に、意識が浮上する。夢から覚めるのだと、玄奘は思った。そして、すっと何かに頬を撫でられたような気がして、目が覚めた。
見つめた先にあるのは、昔よく見た天井だった。それでも玄奘は夢の中の壽慶の姿を求めて、その腕を伸ばす。掌が空を舞い、夢の残骸が消え去る。壽慶はもういないのだと、伸ばした腕が力無げに落ちた。
その時、辺りが瞬き、白木蓮の花びらが舞った気がした。
「来たか!」
玄奘は寝台から飛び降りると、中庭にある白木蓮に向かって駆け出した。
********
科挙→中国で約1300年間にわたって行われた官僚登用試験
英才→すぐれた才能・才知。また、その持ち主
才媛→高い教養・才能のある女性
【紅流児、お前がこの文を読む頃には、もう私はこの世にはいないかも知れない。だがよく読み、無用な行動はせぬようにしなさい。詳しく文を書く時はないが、わからぬことは緑松と丁香に聞いて欲しい。二人の言葉は私の言葉なのだから。
私は、この世を平和に導くとされる天上の桜の鍵の護り手なのだ。天上の桜は、どんな願いも叶えるとされる、天上界よりの賜り物。今その天上の桜を我が物にしようと、人ならざる者達が動き出した。そして、各地で三蔵が狙われ、鍵の一つが奪われた。奴らは五つの鍵を手に入れるまで、寺と言う寺を狙い、すべての三蔵を狩り尽くすだろう。私達は残り四つの鍵を、なんとしても護り通さなければならない。
信じられないかも知れないが、お前に託した腕釧が天上の桜の鍵なのだ。その鍵は、持ち主によって形を変える。今はまだその形だが、お前が三蔵となった時には、別の形に変わるだろう。
紅流児、お前には緑松のもとで三蔵真経を学び、私のあとをついで三蔵となり、天上の桜の護り手となってもらいたい。お前のことは、緑松と丁香が必ず護ってくれる。
紅流児、お前にこんな茨の道を歩ませるこの私を、どうか許しておくれ。お前の母、私の姉がこれを知ったらどう思うだろうか。お前に両親の話をしたことはなかったが、お前の父親は科挙に合格した英才で、若くして長官に抜擢された人物だ。心優しく実直で、とてもよい義兄だった。母親は宰相の娘で、美しく才媛の誉れ高い女性で、私とは仲もよかった。夫婦で任地に向かう途中、姉を見初めた邪心を持った商人の男に義兄は殺され、姉は妾として連れていかれてしまった。すでにお前を身籠っていた姉は、男の留守中にお前を生み、信頼のおける者に預けた。そしていつも遠くからお前を見守っていたのだ。だが、男に怪しまれていることを知り、姉はお前を私に預け自らは自害した。お前のことを知られぬために。私は権力争いが嫌で、早々と仏閣に修行に行き出家して、この金山寺の住職をしていた。不憫な姉夫婦に代わり、私がきっとお前を育て上げようと誓ったはずだったが、もうそれは叶わない。
紅流児、私は誰よりもお前を信用している。お前が立派な三蔵となり、私のあとをついでくれることを。どうか、どうか生き延びておくれ。お前と共に過ごした時は僅かであったが、甥と一緒に暮らせてとても幸せだった。ありがとう紅流児、この愚かな叔父を許しておくれ】
壽慶からの文を読み終えた紅流児は、机に両手をつき立ち上がった。
『どうしたんだい、紅流児』
丁香は、い抜くような双眸で紅流児を見つめた。
『帰るのです、金山寺に!』
『帰って、いったいお前に何ができる。無駄死にでもするつもりかい』
冷たく言い放った丁香の言葉に、紅流児は怒りの形相を見せ、その顔を真っ赤にさせて、“黄道士!” と叫んだ。
紅流児は、物心ついた時から何時でも一人だった。小さな小さな山寺の近くに養祖父母と暮らし、義務的に育て上げられた。そこには、愛情などない。そんなある日、突然金山寺に預けられたのである。修行中の身には血族も他人も関係ないが、兄弟子達は本当の兄弟かと思える程に面倒見がよく、壽慶は厳しい中にも深い愛情を持って接してくれた。紅流児が生まれて初めて、此処は大丈夫だと、安心して暮らせる程に。
紅流児は焦っていた。無駄死にでも何でもいい、金山寺に帰り御師匠様を、兄弟子達を助けるんだ! そのためなら、自分はどうなってもいい! あの場所を、兄弟子達を、御師匠様を助けるんだ!!
『落ちつきなさい、紅流児! 壽慶の文にはなんと書いてあった! 無用な行動はせぬようにと、私と丁香の言葉は壽慶の言葉だと、そう書いてあったのではなかったか!』
『李…道士……』
紅流児の、ハッと見開いた双眸からは涙がこぼれ落ち、震えるその両手でギューッと壽慶からの文を握りしめた。何故自分には許されないのか、兄弟子達の元へ、御師匠様の元へ行くことが……。紅流児は唇を強く噛んで下を向き。その場に崩れ落ちた。丁香は紅流児の側に近づくと跪き、そっとその小さな背を撫で抱きしめた。
『紅流児、お前は生きるんだよ。生にしがみつき、壽慶の分も生きて、天上の桜の護り手となったその姿を、壽慶に見せておやり』
『お前のことは、私達が護る。相手が何者であってもだ。それがこの世界を護るためならば、私達は喜んでこの身を投げ出そう』
『その時は、お前はあたし達の屍を踏みつけ越えて行け。血の海をひたすら前に歩んでいけ。あたし達は、そのためにいる』
紅流児は、驚きの表情で丁香と緑松を見つめた。その表情は、金山寺の兄弟子達や壽慶と同じように感じられ、ただただ子供のように嫌だとその首を左右に降った。
『それが、あたし達の運命なのさ』
『私と丁香と壽慶と……紅流児達の、な』
目の前が霧に包まれると同時に、意識が浮上する。夢から覚めるのだと、玄奘は思った。そして、すっと何かに頬を撫でられたような気がして、目が覚めた。
見つめた先にあるのは、昔よく見た天井だった。それでも玄奘は夢の中の壽慶の姿を求めて、その腕を伸ばす。掌が空を舞い、夢の残骸が消え去る。壽慶はもういないのだと、伸ばした腕が力無げに落ちた。
その時、辺りが瞬き、白木蓮の花びらが舞った気がした。
「来たか!」
玄奘は寝台から飛び降りると、中庭にある白木蓮に向かって駆け出した。
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