34 / 36
最終章 最後の事件
034 最後の事件3
しおりを挟む
「あ」
手を滑らせて、落ちていくスープ皿。残念ながら映画のようなスローモーションとはいかず、声を上げる間に綺麗にひっくり返ってしまった。
「おい」
「分かってる。ミネストローネだ。残念ながらミルクスープじゃない」
「何も分かってない。白いカーペットだからな」
「血の海だね。真っ赤になってる」
タオルをかけて上から叩くが、乾くくらいで色は残るだろう。
「仕事帰りでもカーペット見てこようか?」
「いい。安物だ。あとでネットで買おう……仕事帰りって言ったか?」
「言った。仕事だよ、今日も」
「……………………」
こういう場合、いつもならジョークを交わしながら言い合えるのに、どうにも乗らない。
冷凍フルーツでスムージーを作ったが、あまり美味しくはなかった。野菜の入れすぎで、生臭い。何もかも上手くいかない朝だった。
事件が飛び込んできたのは、午後のランチを終えたときだった。
マンションで立てこもり事件があったと緊急が入り、上司のドーソンは頭を抱えた。
組織の殲滅は終えていないというに、事件はこちらの事情なんてお構いなしだ。最悪なことに、人手不足でうちのチームが行くことになった。
「男が銃を発砲。隣の部屋の住人が通報した。男が二人、女が一人。子供がいるが、女が幼稚園に送っていく瞬間は見られている。だから部屋にはいないと思われる」
本当に警察か、と疑いたくなるほどやる気がないドーソン。
「マンションの名義だが、エリー・ブラウン。子供と二人で暮らしている」
「エリーだと?」
「知り合いか?」
「……俺の元妻だ」
隠したい理由は山ほどあるが、どうせばれる。それなら自ら暴露した方がいい。
「一緒にいるのは、リックの可能性が高い」
「リック……モリスか?」
「そうだ。依頼で子守りをしている。今日も呼ばれた可能性が高い」
「あいつはまた、なんでこう……」
「あいつがトラブルを起こしたわけじゃない。俺も現場に向かう」
もとあといえば俺のせいでもある。家庭のゴタゴタに巻き込んだ。
オーズリーが自ら運転手役を買って出てくれ、俺は助手席へ乗り込んだ。
「あなたの元妻は、銃を持っているのですか?」
「俺と住んでいた頃は持っていなかった」
「そうですか。三人部屋にいるとして、一人がエリーさん、リック、それともう一人は?」
「出入りしている男がもう一人いる。子供はドーラというんだが、その子の父親だ」
オーズリーは話そうとして、口を閉ざした。複雑すぎてフォローもできないのだろう。俺、元妻、子供の父親と、三拍子揃ったハリケーン状態だ。
俺の道案内で数台のパトカーを引き連れ、エリーのマンションへやってきた。銃声のせいか人通りはなく、かえって好都合だ。
「あのブラウンのマンションだ」
カーテンは閉まっていて、中は覗けない。
「連絡先は分かるか?」
「エリーとリックなら分かる」
どちらにかけるべきか。おそらく、問題を起こしたのはエリーだ。誰が銃を撃ったかは定かではないが、リックではない。あいつは銃を持たない。
端末を前に固まっていると、オーズリーが手を掴んできた。
「暴走していると思われるのは?」
「多分としか言いようがないが、エリーだと思う」
「私がかけます」
「リックじゃなくてか?」
「ええ。まずは、犠牲者を出さないように気持ちを鎮めなくてはなりません」
「お前に任せる」
オーズリーは盗聴できる端末から電話をかける。運転しながら話をまとめていたのだろうが、タップする指に迷いが一切なく、頼もしいにもほどがある。
『ハロー』
電話に出たのはエリーではなく、赤毛の男だ。俺の恋敵だった男。
「銃声が聞こえたと通報が入りました。あなたにお怪我はありませんか?」
『だ、大丈夫……でも俺じゃなくて……便利屋さんが……』
「怪我をされたのですね。状況をお願いします」
『…………、…………』
拳を作り、落ち着けと自分に言い聞かせた。頭に血が上っては、できることもできやしない。
『腕を、包丁で……』
「できれば怪我をした便利屋さんに代わって頂きたいのですが」
電話の奥で、女の声が聞こえる。エリーだ。怒鳴り声が木霊し、隣で聞いていたドーソンも顔をしかめる。
『…………やあ』
「便利屋さん、怪我の具合はいかがですか?」
『ミネストローネくらいかな? 腕の感覚がない』
「ミネストローネ?」
血の気が引いた。
俺にしか分からない話だ。オーズリーは何かの暗号かと首を捻るが、分からなくても無理はない。あいつは今朝、皿をひっくり返してミネストローネを零した。それくらい血が広がっているのだろう。
電話をひったくり、代わりに出た。
「おい」
『やあ』
一言で理解した。声がおかしい。息遣いも荒い。
あ、と声と共に電話に雑音が入ると、次に出たのは元妻だった。
「エリー」
『私の子供を連れてきて! 子供と一緒に死ぬわ!』
「バカなことを言うな。簡単に口にするもんじゃない」
『どうせ私なんて生きていたっていいことないのよ!』
お前のせいで夫婦生活は終わったんだ。口から出そうになるが、ここは抑えなければならない。一にも二にもリックの命だ。
「望みはなんだ?」
『何でも叶えてくれるの?』
「できる限りは。その代わり、そこにいる全員解放してほしい」
『嫌よ』
「ならば、せめてケガ人だけでも」
『じゃあ代わりにあなたが来て』
「分かった。一度切る。またかけ直す」
ぎょっとするオーズリーを前に、電話は勝手に切らせてもらった。
「何を考えているのです?」
「カメラはあるか?」
オーズリーの小言を綺麗に無視し、渡されたネクタイに付け直した。真ん中に小さな穴が開いていて、ここにカメラが仕組まれている。
「リックを頼む」
「分かりました」
「電話の通りだが、代わりに俺が中に入る。それまで突撃するなと伝えてほしい。まずはケガ人を病院へ運ぶのが優先だ。かなり出血していると想定してくれ。ドーソン、許可がほしい」
名ばかりの上司だが、上司であることに変わりはない。
ドーソンは嘆息を漏らし、許可を出した。
エリーに電話をかけると、さっきよりもいくらか落ち着いているように聞こえた。
「俺と、もう一人いく。そいつにケガ人を渡したら、俺が代わりに中へ入る」
『本当に来てくれるの……?』
「ああ」
来るの、ではなく、来てくれるの。違和感のある言葉だ。まるで俺が来るのを見越して待ちわびていたような。
だとしたら、俺はまたあいつを巻き込んでしまった。父も俺も、あいつから何もかも奪っていく。たった一人守れなくて、何が警察官だ。
「行こう」
「ええ」
オーズリーと短めに会話し、服の上から銃に触れた。
手を滑らせて、落ちていくスープ皿。残念ながら映画のようなスローモーションとはいかず、声を上げる間に綺麗にひっくり返ってしまった。
「おい」
「分かってる。ミネストローネだ。残念ながらミルクスープじゃない」
「何も分かってない。白いカーペットだからな」
「血の海だね。真っ赤になってる」
タオルをかけて上から叩くが、乾くくらいで色は残るだろう。
「仕事帰りでもカーペット見てこようか?」
「いい。安物だ。あとでネットで買おう……仕事帰りって言ったか?」
「言った。仕事だよ、今日も」
「……………………」
こういう場合、いつもならジョークを交わしながら言い合えるのに、どうにも乗らない。
冷凍フルーツでスムージーを作ったが、あまり美味しくはなかった。野菜の入れすぎで、生臭い。何もかも上手くいかない朝だった。
事件が飛び込んできたのは、午後のランチを終えたときだった。
マンションで立てこもり事件があったと緊急が入り、上司のドーソンは頭を抱えた。
組織の殲滅は終えていないというに、事件はこちらの事情なんてお構いなしだ。最悪なことに、人手不足でうちのチームが行くことになった。
「男が銃を発砲。隣の部屋の住人が通報した。男が二人、女が一人。子供がいるが、女が幼稚園に送っていく瞬間は見られている。だから部屋にはいないと思われる」
本当に警察か、と疑いたくなるほどやる気がないドーソン。
「マンションの名義だが、エリー・ブラウン。子供と二人で暮らしている」
「エリーだと?」
「知り合いか?」
「……俺の元妻だ」
隠したい理由は山ほどあるが、どうせばれる。それなら自ら暴露した方がいい。
「一緒にいるのは、リックの可能性が高い」
「リック……モリスか?」
「そうだ。依頼で子守りをしている。今日も呼ばれた可能性が高い」
「あいつはまた、なんでこう……」
「あいつがトラブルを起こしたわけじゃない。俺も現場に向かう」
もとあといえば俺のせいでもある。家庭のゴタゴタに巻き込んだ。
オーズリーが自ら運転手役を買って出てくれ、俺は助手席へ乗り込んだ。
「あなたの元妻は、銃を持っているのですか?」
「俺と住んでいた頃は持っていなかった」
「そうですか。三人部屋にいるとして、一人がエリーさん、リック、それともう一人は?」
「出入りしている男がもう一人いる。子供はドーラというんだが、その子の父親だ」
オーズリーは話そうとして、口を閉ざした。複雑すぎてフォローもできないのだろう。俺、元妻、子供の父親と、三拍子揃ったハリケーン状態だ。
俺の道案内で数台のパトカーを引き連れ、エリーのマンションへやってきた。銃声のせいか人通りはなく、かえって好都合だ。
「あのブラウンのマンションだ」
カーテンは閉まっていて、中は覗けない。
「連絡先は分かるか?」
「エリーとリックなら分かる」
どちらにかけるべきか。おそらく、問題を起こしたのはエリーだ。誰が銃を撃ったかは定かではないが、リックではない。あいつは銃を持たない。
端末を前に固まっていると、オーズリーが手を掴んできた。
「暴走していると思われるのは?」
「多分としか言いようがないが、エリーだと思う」
「私がかけます」
「リックじゃなくてか?」
「ええ。まずは、犠牲者を出さないように気持ちを鎮めなくてはなりません」
「お前に任せる」
オーズリーは盗聴できる端末から電話をかける。運転しながら話をまとめていたのだろうが、タップする指に迷いが一切なく、頼もしいにもほどがある。
『ハロー』
電話に出たのはエリーではなく、赤毛の男だ。俺の恋敵だった男。
「銃声が聞こえたと通報が入りました。あなたにお怪我はありませんか?」
『だ、大丈夫……でも俺じゃなくて……便利屋さんが……』
「怪我をされたのですね。状況をお願いします」
『…………、…………』
拳を作り、落ち着けと自分に言い聞かせた。頭に血が上っては、できることもできやしない。
『腕を、包丁で……』
「できれば怪我をした便利屋さんに代わって頂きたいのですが」
電話の奥で、女の声が聞こえる。エリーだ。怒鳴り声が木霊し、隣で聞いていたドーソンも顔をしかめる。
『…………やあ』
「便利屋さん、怪我の具合はいかがですか?」
『ミネストローネくらいかな? 腕の感覚がない』
「ミネストローネ?」
血の気が引いた。
俺にしか分からない話だ。オーズリーは何かの暗号かと首を捻るが、分からなくても無理はない。あいつは今朝、皿をひっくり返してミネストローネを零した。それくらい血が広がっているのだろう。
電話をひったくり、代わりに出た。
「おい」
『やあ』
一言で理解した。声がおかしい。息遣いも荒い。
あ、と声と共に電話に雑音が入ると、次に出たのは元妻だった。
「エリー」
『私の子供を連れてきて! 子供と一緒に死ぬわ!』
「バカなことを言うな。簡単に口にするもんじゃない」
『どうせ私なんて生きていたっていいことないのよ!』
お前のせいで夫婦生活は終わったんだ。口から出そうになるが、ここは抑えなければならない。一にも二にもリックの命だ。
「望みはなんだ?」
『何でも叶えてくれるの?』
「できる限りは。その代わり、そこにいる全員解放してほしい」
『嫌よ』
「ならば、せめてケガ人だけでも」
『じゃあ代わりにあなたが来て』
「分かった。一度切る。またかけ直す」
ぎょっとするオーズリーを前に、電話は勝手に切らせてもらった。
「何を考えているのです?」
「カメラはあるか?」
オーズリーの小言を綺麗に無視し、渡されたネクタイに付け直した。真ん中に小さな穴が開いていて、ここにカメラが仕組まれている。
「リックを頼む」
「分かりました」
「電話の通りだが、代わりに俺が中に入る。それまで突撃するなと伝えてほしい。まずはケガ人を病院へ運ぶのが優先だ。かなり出血していると想定してくれ。ドーソン、許可がほしい」
名ばかりの上司だが、上司であることに変わりはない。
ドーソンは嘆息を漏らし、許可を出した。
エリーに電話をかけると、さっきよりもいくらか落ち着いているように聞こえた。
「俺と、もう一人いく。そいつにケガ人を渡したら、俺が代わりに中へ入る」
『本当に来てくれるの……?』
「ああ」
来るの、ではなく、来てくれるの。違和感のある言葉だ。まるで俺が来るのを見越して待ちわびていたような。
だとしたら、俺はまたあいつを巻き込んでしまった。父も俺も、あいつから何もかも奪っていく。たった一人守れなくて、何が警察官だ。
「行こう」
「ええ」
オーズリーと短めに会話し、服の上から銃に触れた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
追放された味見係、【神の舌】で冷徹皇帝と聖獣の胃袋を掴んで溺愛される
水凪しおん
BL
「無能」と罵られ、故郷の王宮を追放された「味見係」のリオ。
行き場を失った彼を拾ったのは、氷のような美貌を持つ隣国の冷徹皇帝アレスだった。
「聖獣に何か食わせろ」という無理難題に対し、リオが作ったのは素朴な野菜スープ。しかしその料理には、食べた者を癒やす伝説のスキル【神の舌】の力が宿っていた!
聖獣を元気にし、皇帝の凍てついた心をも溶かしていくリオ。
「君は俺の宝だ」
冷酷だと思われていた皇帝からの、不器用で真っ直ぐな溺愛。
これは、捨てられた料理人が温かいご飯で居場所を作り、最高にハッピーになる物語。
後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー
i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆
最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡
バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。
数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる