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第一章 大学生とバーテンダー
034 婚約の証
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先ほどとは違う女性が新しいお茶を持ってきてくれた。お礼を言うが、特に返事もなくさっさと部屋を出ていってしまった。俺のフランス語が通じなかったのではなく、きっと俺自身に問題があったからだ。
「おお、スイーツだ。フランスってスイーツ大国だよな。日本に輸入してきたものもいっぱいあるぞ」
「日本で言うおやつの時間は午前中にはない。十六時に食べる習慣はある」
「十五時じゃないんだな」
片手で簡単につまめるクッキーが並ぶ。朝食を食べた後でも、手が進んでしまう。
「ルイは食べないのか?」
「食べても味が分からんからな」
「………………え?」
「私は、味覚が失われている」
「どういうこと? なんで?」
「医師が言うには、ストレスが主な原因だと言われた。いろいろあったからな」
住めば都と言っても、窓がないと言っても過言ではない部屋や、いじめ、自由のない生活、運命と縛りつけられた現在とこれからの生涯。多分まだ二十代で、壮絶すぎる人生だ。
言われてみれば今までのルイの行動には違和感を感じるときがあった。けれどそれは文化や性格は十人十色で、ルイの生活スタイルも合わさったものだと納得していた。
何かこう、胸の辺りが締めつけられて、手で胸元を押さえた。
「味覚障害ってこと?」
「ああ。特に甘味と酸味が感じにくい」
「バーテンダーの仕事してて、大丈夫なのか?」
「大丈夫とは言い難いな。たった一滴や一ミリ単位の撹拌で味は変わると徹底的に叩き込まれた。色や手に感じる温度なども感覚を研ぎ澄まし、カクテルを作っている。他は?」
「焼き肉を食べるときも、何もつけないで食べたり水を好んで飲んでたりしたからさ。池袋にある冷蔵庫にも水ばっかりだし。俺がお茶を入れたりすると、複雑そうな目になるときがあったから」
「味が分からないものをわざわざ作ってもらうのは、申し訳がないだろう。だがたった一つだけ、私に希望の光が差したときがあった。なんだか分かるか?」
俺に委ねるのは、俺も関わっている出来事だからだ。
池袋でのやりとりや、ここに来てからのルイの台詞を一語一句思い出しながら頭を捻る。
「もしかして……どくだみ茶?」
「正解。長続きはしないが、味覚が戻るんだ。成分のおかげか、……目に見えない何かのおかげか分からないがな」
「素直に愛情って言えよ。やだなあ、もう」
「……嫌か…………」
「違う! 嬉しいってことだよ」
日本語は奥が深い、とルイは漏らした。
「ここへの来客は、お前が初めてだった。私は……嬉しい」
ため息混じりの声で、ルイは呟く。
「俺だって嬉しいよ。追い出される可能性だってあったんだから。無事に会えて良かった」
「私の家族の話もしたんだ。お前のおばあ様についても詳しく聞きたい」
「俺の家族の話は黙ってるのって、フェアじゃないよなあ。俺のばあちゃんさ、亡くなったって話はしたけど、病気や老衰じゃないんだよ」
ひと呼吸置くつもりが、ひどく長い時間に感じられた。何度か盗み見るも、急かしたり何か口を挟むわけでもない。ルイは待っていてくれた。
「俺のばあちゃん……殺されたんだよ」
「犯人は捕まったのか?」
「いや、まだ。ってか驚かないんだな」
「知っていたからな」
「え? 誰から聞いたんだ?」
「東北で造り酒屋をしている花岡といえば、それほど多くはないだろう。新聞にもニュースにもなっていれば、すぐに調べはつく」
「……ネット社会なのに、そこまで頭が回らなかった。その通り。俺が小学生の頃の話だよ。ばあちゃん子だった俺は、学校から帰るといつも真っ先にばあちゃん家に行ってたんだ。一緒におやつ食べたり、ばあちゃんと話せるのが楽しくてさ。運命の日、家に近づくたびにつんとする臭いがして、道端に咲く花に赤い点がついてて。庭に生えていたどくだみの花は真っ赤に染まっていた。点々と続く線に呼ばれて、開きっぱなしの窓から中に入ったら、居間と廊下を跨いでばあちゃんが血だらけで倒れてたんだ。恐ろしかった。怖かった。何が怖いって、冷静にばあちゃんを見ていた自分に恐怖を感じたんだ」
顔色を変えもせず、ルイは冷静に耳を傾けている。そんなルイだからこそ、聞いてもらいたい真実があった。
携帯端末で撮った写真を見せた。
「家族も警察も知らない秘密」
「カードか?」
「全く見覚えのないカード。これがばあちゃんの背中に落ちてたんだ。警察が来る前、俺は鞄にこれを隠した。きっと犯人に繋がる何かだと思う」
「小学生だったお前に聞くのは酷だが、心当たりは?」
「全くない。俺が知らないことも前提においても、人に恨まれる人ではなかったから。ばあちゃんの側は笑顔しかなかった」
温くなった紅茶を嚥下すると、血の気が上る頭がいくらかクールダウンした。クッキーから香る強めのバターの香りだけで紅茶が進む。
「知っていることをすべて話してくれ。……辛いだろうが、おばあ様の状況もだ」
「分かった」
ルイはふたつのカップにティーポットを傾けた。絶対に美味しい。目に見えないものが入っているから。
「外に助けを求めるように廊下側に上半身が出ていて、背中にさっき見せたカードが一枚。揺さぶっても少しの反応を見せてくれなかった。固定電話から警察と救急車に来てほしいと電話。電話を切った後、頭が真っ白だった俺は背中のカードを鞄に隠す。あれ? カードが先だったかな。ちょっと曖昧だ」
大きく息を吸って、すべて吐ききった。そしてまた吸う。
「背中が血だらけで、多分背中をいっぱい刺されたんだなと思った。そのときはどこが致命傷なのか考えられなくて、寂しくないようにばあちゃんの側でずっと待った。田舎だし、噂はすぐに広まって実家の家族もやってきた。姉さんは俺を抱きしめて実家に戻った。マスコミが勝手に写真を撮ってたけど、俺を撮られないように守ってくれた。しばらくして警察官が実家にやってきて、俺は事情聴取を受けた。話した内容は今の通り。ただし、」
「カードを除いて、か」
「ああ。その日は妙な興奮でなかなか寝つけなかった。警察官が次の日も来て、俺は姉ちゃんに部屋にいるように言われた。でもこっそり隙間を開けて聞いてたんだ。ばあちゃんは背中を刺されたことによる出血死。死因の説明をしてた。金銭には手をつけられておらず、強盗の可能性は低い。交友関係を根ほり葉ほり聞いてきた。父さんは当たり障りのないことしか言ってなかったけど。答えられなくて当然なんだ。父さんは俺ほどばあちゃん家に行ってなかったし、俺以上に知らなかったと思う」
ルイも紅茶を飲む。味を感じているのか分からないが、波立つ水面をじっと見ている。
「ばあちゃんが死んだ現実を受け止めてようやく涙を流せたのは、火葬が終わって骨になったときだった。その頃には姉ちゃんは涙はもう見せなくなっていて、俺とは対照的だった」
「母親はすでにいなかったのか?」
「もう父さんとは別れてた。顔も覚えてないよ。小さいときは似てるって言われたことはあるけど」
母については、いずれ話そう。祖母の話は覚悟はあっても、母親の話をする覚悟はない。
端末に映るカードを見た。
蝶にまとわりつく蛇、そして哀れむように見つめる天使。何を暗示したものなのか、大人になった今でも謎は解けない。
「葬式も終わって遺骨も手元から消えてしまった。警察から犯人の手掛かりすら掴めていないって言われて、それは今も変わっていない。ようやく涙が止まった後に、なんでカードを隠したのかって考えたんだ。俺は……復讐したかったのかもしれない。子供だった俺でも一目見て殺されたって分かったんだ。叫ぶわけでもなく、悲しむより先に復讐心が芽生えて、俺という人間はこういう奴なんだって、どこか人生の諦めに似たものが沸いてきた。俺が生きてこられたのは、復讐と……ルイに出会えたからなんだよ」
こういうときだけじっと見つめてくるものだから、逸らすのは俺だった。
「ルイは進む先に淡く優しい火を灯してくれて、風化しそうになる復讐心が消さずに導いてくれる存在。同時に楽になれる生き方も教えてくれた。人と笑ったり一緒にご飯食べたり、当たり前の幸せをくれる人。なんで……こんなに好きなんだろうなあ」
「好きなのは充分伝わっている。フランスまで追いかけてくるほどには好かれていたのだと確信がある」
「まあね。だからルイは黙って俺と婚約交わせばいい。出よう、一緒に。今度は俺がルイを導くよ。出た後のことは、何も考えてないけど」
「お前らしい。では出た後のことは、私に任せておけ」
ハイタッチを交わした手がじんじんする。嫌な痛みではない。相手がいないと味わえない痛み。
ルイはまたもや電話をかけると、最初は普段のルイと変わらない話し方だったのに、誰かと変わったのか緊張の含む話し方になった。緊張する相手は想像がつくし、多分ルイの『世界一苦手な人』だ。
今度は数人のメイドがノックをして入ってきた。お茶の代わりに並べられる豪勢な夕食は、ルイも珍しいと漏らしたくらいだ。フランスは朝食と夕食は質素に食べるらしく、一番豪華なのは昼食だと聞いた。
翌日は先に起きていたルイは、後で迎えが来るとだけ言い、シャワー室に入っていく。交代でシャワーを浴びるとルイはすでに準備を終えていた。
「なんでスーツ? 俺持ってきてないけど……」
「気にするな、朝食後は外に出る」
「お、出られるんだな」
「外の空気は久しぶりだ。出た後は用件を済まし、寄るところがある」
「どこに行くんだ?」
聞いてもルイは教えてくれなかった。口元が微かに笑っているので、期待して待とう。
荷物をまとめてソファーで寛いでいると、例のサングラスの男性たちがやってきた。俺の荷物を持つと、先に車に積んでおくとさっさと持っていってしまった。
残った男性たちとエレベーターで降り、来た道を戻っていく。その間、誰も一言も話さなかった。
「ここから先は私と志樹だけで」
「かしこまりました」
「え?」
「一度会っているのだろう? 緊張は捨てればいい」
「お、おう」
違う、そうではないのだ。
俺の高鳴りなど露知らず、ルイは仕事人の顔になった。バーテンダーの顔とも違う、命大事に戦い抜く侍みたいな顔だ。でも俺からしたら部下の命を重んじる将軍みたいな人で、侍の俺が守ってやらないと。ルイより前に出ようとするが、腕を引かれてしまった。こういうところだよ、ルイ。だから俺は心配になるんだ。
ルイが扉を叩くと、中からフランス語で返事がした。数日前と同じようにソファーに腰掛け、書類に目を通していた。
ディミトリ氏は初めはフランス語だったが、ルイの背後の俺を見るなり日本語に切り替えた。
「大まかな内容は電話で話しましたが、志樹と婚約を結びました。ベルナデットとの婚約は破棄して頂きたく存じます」
「昨日、あちらからも了承を頂いた。それでいいのだな」
俺に向けられ、深く頷いた。
「ふたりには引き続きベルナデットを捜し出してもらう。以上」
「え? それだけ?」
思わず口にしてしまっても、ディミトリ氏は少しも表情を変えなかった。
「話は以上だと言ったはずだ。指輪は?」
「受け取りました」
ルイは箱を出し、ふたを開けた。宝石やアンティークの価値に疎くても、綺麗な指輪だと思う。
「女性の指に合わせている指輪ですので、彼の指には合いません」
「ならば、こちらで直しておこう」
「いえ、私も仕事がございますし、彼は学生です。一刻も早く日本へ旅立つつもりです。指輪は日本で直して頂きます」
有無を言わせず、ルイはふたをそっと閉じた。
「どうかお元気で」
「ああ」
「行こう、志樹」
にやけそうになってしまい俯くと、表情筋を固くしていたルイに肘で小突かれてしまった。
扉を閉めるときに振り向いても、ディミトリ氏はもう俺たちを見ていなかった。
「おお、スイーツだ。フランスってスイーツ大国だよな。日本に輸入してきたものもいっぱいあるぞ」
「日本で言うおやつの時間は午前中にはない。十六時に食べる習慣はある」
「十五時じゃないんだな」
片手で簡単につまめるクッキーが並ぶ。朝食を食べた後でも、手が進んでしまう。
「ルイは食べないのか?」
「食べても味が分からんからな」
「………………え?」
「私は、味覚が失われている」
「どういうこと? なんで?」
「医師が言うには、ストレスが主な原因だと言われた。いろいろあったからな」
住めば都と言っても、窓がないと言っても過言ではない部屋や、いじめ、自由のない生活、運命と縛りつけられた現在とこれからの生涯。多分まだ二十代で、壮絶すぎる人生だ。
言われてみれば今までのルイの行動には違和感を感じるときがあった。けれどそれは文化や性格は十人十色で、ルイの生活スタイルも合わさったものだと納得していた。
何かこう、胸の辺りが締めつけられて、手で胸元を押さえた。
「味覚障害ってこと?」
「ああ。特に甘味と酸味が感じにくい」
「バーテンダーの仕事してて、大丈夫なのか?」
「大丈夫とは言い難いな。たった一滴や一ミリ単位の撹拌で味は変わると徹底的に叩き込まれた。色や手に感じる温度なども感覚を研ぎ澄まし、カクテルを作っている。他は?」
「焼き肉を食べるときも、何もつけないで食べたり水を好んで飲んでたりしたからさ。池袋にある冷蔵庫にも水ばっかりだし。俺がお茶を入れたりすると、複雑そうな目になるときがあったから」
「味が分からないものをわざわざ作ってもらうのは、申し訳がないだろう。だがたった一つだけ、私に希望の光が差したときがあった。なんだか分かるか?」
俺に委ねるのは、俺も関わっている出来事だからだ。
池袋でのやりとりや、ここに来てからのルイの台詞を一語一句思い出しながら頭を捻る。
「もしかして……どくだみ茶?」
「正解。長続きはしないが、味覚が戻るんだ。成分のおかげか、……目に見えない何かのおかげか分からないがな」
「素直に愛情って言えよ。やだなあ、もう」
「……嫌か…………」
「違う! 嬉しいってことだよ」
日本語は奥が深い、とルイは漏らした。
「ここへの来客は、お前が初めてだった。私は……嬉しい」
ため息混じりの声で、ルイは呟く。
「俺だって嬉しいよ。追い出される可能性だってあったんだから。無事に会えて良かった」
「私の家族の話もしたんだ。お前のおばあ様についても詳しく聞きたい」
「俺の家族の話は黙ってるのって、フェアじゃないよなあ。俺のばあちゃんさ、亡くなったって話はしたけど、病気や老衰じゃないんだよ」
ひと呼吸置くつもりが、ひどく長い時間に感じられた。何度か盗み見るも、急かしたり何か口を挟むわけでもない。ルイは待っていてくれた。
「俺のばあちゃん……殺されたんだよ」
「犯人は捕まったのか?」
「いや、まだ。ってか驚かないんだな」
「知っていたからな」
「え? 誰から聞いたんだ?」
「東北で造り酒屋をしている花岡といえば、それほど多くはないだろう。新聞にもニュースにもなっていれば、すぐに調べはつく」
「……ネット社会なのに、そこまで頭が回らなかった。その通り。俺が小学生の頃の話だよ。ばあちゃん子だった俺は、学校から帰るといつも真っ先にばあちゃん家に行ってたんだ。一緒におやつ食べたり、ばあちゃんと話せるのが楽しくてさ。運命の日、家に近づくたびにつんとする臭いがして、道端に咲く花に赤い点がついてて。庭に生えていたどくだみの花は真っ赤に染まっていた。点々と続く線に呼ばれて、開きっぱなしの窓から中に入ったら、居間と廊下を跨いでばあちゃんが血だらけで倒れてたんだ。恐ろしかった。怖かった。何が怖いって、冷静にばあちゃんを見ていた自分に恐怖を感じたんだ」
顔色を変えもせず、ルイは冷静に耳を傾けている。そんなルイだからこそ、聞いてもらいたい真実があった。
携帯端末で撮った写真を見せた。
「家族も警察も知らない秘密」
「カードか?」
「全く見覚えのないカード。これがばあちゃんの背中に落ちてたんだ。警察が来る前、俺は鞄にこれを隠した。きっと犯人に繋がる何かだと思う」
「小学生だったお前に聞くのは酷だが、心当たりは?」
「全くない。俺が知らないことも前提においても、人に恨まれる人ではなかったから。ばあちゃんの側は笑顔しかなかった」
温くなった紅茶を嚥下すると、血の気が上る頭がいくらかクールダウンした。クッキーから香る強めのバターの香りだけで紅茶が進む。
「知っていることをすべて話してくれ。……辛いだろうが、おばあ様の状況もだ」
「分かった」
ルイはふたつのカップにティーポットを傾けた。絶対に美味しい。目に見えないものが入っているから。
「外に助けを求めるように廊下側に上半身が出ていて、背中にさっき見せたカードが一枚。揺さぶっても少しの反応を見せてくれなかった。固定電話から警察と救急車に来てほしいと電話。電話を切った後、頭が真っ白だった俺は背中のカードを鞄に隠す。あれ? カードが先だったかな。ちょっと曖昧だ」
大きく息を吸って、すべて吐ききった。そしてまた吸う。
「背中が血だらけで、多分背中をいっぱい刺されたんだなと思った。そのときはどこが致命傷なのか考えられなくて、寂しくないようにばあちゃんの側でずっと待った。田舎だし、噂はすぐに広まって実家の家族もやってきた。姉さんは俺を抱きしめて実家に戻った。マスコミが勝手に写真を撮ってたけど、俺を撮られないように守ってくれた。しばらくして警察官が実家にやってきて、俺は事情聴取を受けた。話した内容は今の通り。ただし、」
「カードを除いて、か」
「ああ。その日は妙な興奮でなかなか寝つけなかった。警察官が次の日も来て、俺は姉ちゃんに部屋にいるように言われた。でもこっそり隙間を開けて聞いてたんだ。ばあちゃんは背中を刺されたことによる出血死。死因の説明をしてた。金銭には手をつけられておらず、強盗の可能性は低い。交友関係を根ほり葉ほり聞いてきた。父さんは当たり障りのないことしか言ってなかったけど。答えられなくて当然なんだ。父さんは俺ほどばあちゃん家に行ってなかったし、俺以上に知らなかったと思う」
ルイも紅茶を飲む。味を感じているのか分からないが、波立つ水面をじっと見ている。
「ばあちゃんが死んだ現実を受け止めてようやく涙を流せたのは、火葬が終わって骨になったときだった。その頃には姉ちゃんは涙はもう見せなくなっていて、俺とは対照的だった」
「母親はすでにいなかったのか?」
「もう父さんとは別れてた。顔も覚えてないよ。小さいときは似てるって言われたことはあるけど」
母については、いずれ話そう。祖母の話は覚悟はあっても、母親の話をする覚悟はない。
端末に映るカードを見た。
蝶にまとわりつく蛇、そして哀れむように見つめる天使。何を暗示したものなのか、大人になった今でも謎は解けない。
「葬式も終わって遺骨も手元から消えてしまった。警察から犯人の手掛かりすら掴めていないって言われて、それは今も変わっていない。ようやく涙が止まった後に、なんでカードを隠したのかって考えたんだ。俺は……復讐したかったのかもしれない。子供だった俺でも一目見て殺されたって分かったんだ。叫ぶわけでもなく、悲しむより先に復讐心が芽生えて、俺という人間はこういう奴なんだって、どこか人生の諦めに似たものが沸いてきた。俺が生きてこられたのは、復讐と……ルイに出会えたからなんだよ」
こういうときだけじっと見つめてくるものだから、逸らすのは俺だった。
「ルイは進む先に淡く優しい火を灯してくれて、風化しそうになる復讐心が消さずに導いてくれる存在。同時に楽になれる生き方も教えてくれた。人と笑ったり一緒にご飯食べたり、当たり前の幸せをくれる人。なんで……こんなに好きなんだろうなあ」
「好きなのは充分伝わっている。フランスまで追いかけてくるほどには好かれていたのだと確信がある」
「まあね。だからルイは黙って俺と婚約交わせばいい。出よう、一緒に。今度は俺がルイを導くよ。出た後のことは、何も考えてないけど」
「お前らしい。では出た後のことは、私に任せておけ」
ハイタッチを交わした手がじんじんする。嫌な痛みではない。相手がいないと味わえない痛み。
ルイはまたもや電話をかけると、最初は普段のルイと変わらない話し方だったのに、誰かと変わったのか緊張の含む話し方になった。緊張する相手は想像がつくし、多分ルイの『世界一苦手な人』だ。
今度は数人のメイドがノックをして入ってきた。お茶の代わりに並べられる豪勢な夕食は、ルイも珍しいと漏らしたくらいだ。フランスは朝食と夕食は質素に食べるらしく、一番豪華なのは昼食だと聞いた。
翌日は先に起きていたルイは、後で迎えが来るとだけ言い、シャワー室に入っていく。交代でシャワーを浴びるとルイはすでに準備を終えていた。
「なんでスーツ? 俺持ってきてないけど……」
「気にするな、朝食後は外に出る」
「お、出られるんだな」
「外の空気は久しぶりだ。出た後は用件を済まし、寄るところがある」
「どこに行くんだ?」
聞いてもルイは教えてくれなかった。口元が微かに笑っているので、期待して待とう。
荷物をまとめてソファーで寛いでいると、例のサングラスの男性たちがやってきた。俺の荷物を持つと、先に車に積んでおくとさっさと持っていってしまった。
残った男性たちとエレベーターで降り、来た道を戻っていく。その間、誰も一言も話さなかった。
「ここから先は私と志樹だけで」
「かしこまりました」
「え?」
「一度会っているのだろう? 緊張は捨てればいい」
「お、おう」
違う、そうではないのだ。
俺の高鳴りなど露知らず、ルイは仕事人の顔になった。バーテンダーの顔とも違う、命大事に戦い抜く侍みたいな顔だ。でも俺からしたら部下の命を重んじる将軍みたいな人で、侍の俺が守ってやらないと。ルイより前に出ようとするが、腕を引かれてしまった。こういうところだよ、ルイ。だから俺は心配になるんだ。
ルイが扉を叩くと、中からフランス語で返事がした。数日前と同じようにソファーに腰掛け、書類に目を通していた。
ディミトリ氏は初めはフランス語だったが、ルイの背後の俺を見るなり日本語に切り替えた。
「大まかな内容は電話で話しましたが、志樹と婚約を結びました。ベルナデットとの婚約は破棄して頂きたく存じます」
「昨日、あちらからも了承を頂いた。それでいいのだな」
俺に向けられ、深く頷いた。
「ふたりには引き続きベルナデットを捜し出してもらう。以上」
「え? それだけ?」
思わず口にしてしまっても、ディミトリ氏は少しも表情を変えなかった。
「話は以上だと言ったはずだ。指輪は?」
「受け取りました」
ルイは箱を出し、ふたを開けた。宝石やアンティークの価値に疎くても、綺麗な指輪だと思う。
「女性の指に合わせている指輪ですので、彼の指には合いません」
「ならば、こちらで直しておこう」
「いえ、私も仕事がございますし、彼は学生です。一刻も早く日本へ旅立つつもりです。指輪は日本で直して頂きます」
有無を言わせず、ルイはふたをそっと閉じた。
「どうかお元気で」
「ああ」
「行こう、志樹」
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