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第二章 フィアンセとバーテンダー
039 新しい第一歩
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改めて部屋を見回すと、探検のしがいのある部屋だった。窓には白い紙が細い木に張られ、おそらくカーテン代わりになるものだ。確か『しょうじ』という。ピッグの形をした陶器は何に使うものだろうか。中には空間がある。
ユーリはトレーを持って再び現れた。小皿と独特の形をしたティーカップをそれぞれ置く。
薄い桃色の何かが葉でくるまれている。スプーンもフォークも用意されていない。
「湯呑み茶碗はまだ持ち合わせていないのです。緑茶はやはり日本の茶碗で飲むのが一番ですからね」
「味なんてカップ一つで変わるとは思えない」
「しっかりとその言葉を焼き付けなさい。後悔しますよ」
「俺が間違っていると言いたいのか?」
「私はあなたよりも長く生きている分、人生経験も豊富です。誰かに教えられて学ぶことも大切ですが、いろんな風景を眺め感じ、世の中の条理や不条理を吸収することも同じくらい必要です。食べなさい」
ユーリは笑い、黙って私を見ている。勝手に心を透かして内面を出そうとする心意気を感じる。私は苦手だ。
「……甘い」
菓子は何を食べても同じだ。けれど独特の風味がある。フランスにはないスイーツで、多分これは小さな島国が生んだもの。
「日本のスイーツは、形も味も美しい」
「味が美しい……?」
「いずれ分かるときがきます。焦ることはありません。食事もいろんなものを食べて、たくさんの色を目に入れなさい」
「食事は楽しいと思ったことはない」
「家族とは取らないのですか?」
「おばあ様が亡くなってから独りだ。おばあ様とも……いつも一緒だったわけではないから」
ユーリは葉を剥いて食べ始めた。
「食べ方はそれぞれです。剥いても剥かなくても、どちらでも構いません」
「最初に教えてくれたって……」
「なぜ聞かなかったのです?」
「聞けば教えてくれたのか? そうは見えなかった。俺とあなたはそこまでの仲ではない」
「本当になま……利発な子供ですね。十歳くらいですか?」
「十一歳だ」
生意気だと言いたいのだろう。はっきり言ってもらっても構わないのに、なぜ祖母と同じ顔をするのか。懐かしくて泣きそうになって、顔を伏せた。食べかけのスイーツはあとひと口大なのに、喉を通らない。
「ところで、どうして私のところへ来たのですか?」
「おばあ様の遺品に、俺宛の手紙が入っていた。中身はここの住所とユーリ・ドヌヴェーヌという名前が書いてあった」
「よくぞ一人で……ご家族の方が心配しているでしょう」
「平気。スマホが管理されてるから、どうせボディガードたちが追ってここまで来る。俺に自由はない」
「まだ十歳で随分と人生を諦めているのですね」
「十一だっ」
「あなたととても似ている子供を知っています。どうせ何をやってもできないと決めつけ、うじうじしている幼稚な子供は、どこへ行っても何もできない。もう少し視野を広げていろんな世界があると知るべきです。来なさい」
食べかけの菓子を置いて、さっさと部屋を出ていくユーリを追った。
追いかけても追いつけなかった。俺が遅いんじゃない。大人の歩幅とたった十一年しか生きていない俺では進みが違う。
「そこに座りなさい」
俺をカウンターに座わらせ、ユーリはカウンターの中に立った。
祖母もリキュールのコレクターだったが、置いてある数が違う。
瓶やグラスを並べていくが、余計な音を立てず綺麗な手つきだ。
「コリンズグラスといいます」
円筒状のグラスに黄色の液体が注がれていく。
「いかがですか?」
「宝石が生きているみたいだ」
「いろんな方にカクテルを振る舞ってきましたが、楽しい感想を頂いたのは初めてです。レモン果汁と水、砂糖で作り、ノンアルコールのカクテルで、レモネードといいます。どうぞ」
恐る恐る手に取ってグラスを傾けると、優しい甘みが広がる。レモネードは何度か飲んだことはあるが、甘さしか感じなかった。これは酸味もちょうどいいし、どんどん喉を通っていく。
「表情で理解しました。子供らしい顔です。大人のような振る舞いをする必要なんてないのです。カクテルも同じ。アルコールが入っていないからといって、カクテルではないとこだわる必要もない。こだわるバーテンダーもいますが、まあ人それぞれ価値観ですね」
「バーテンダーだったんだな……素人みたいなまねごとの手つきではなかった」
「素人の手つきは見たことがあるのですか?」
「リーゼロッテが作っていた。いつも……楽しそうに……」
初対面なのに初対面ではないような、変な感覚のせいで身体に震えが起こった。震えの次にやってくるのは、目の奥の痛みだった。
視界が暗くなったのは、頭から大きめのタオルをかけられたからだ。祖母がいなくなって、初めて泣けた。泣くことも許されなくて、怖い兄がいつも俺を見張っていた。名前とお酒を作るのが上手い人しか知らないのに、そんな彼の前で泣いていいのだろうか。
氷のぶつかる音がして顔を上げると、祖母も持っていた道具が並べられていた。
「オレンジジュースとレモンジュースとパイナップルジュースです。そしてこちらはカクテルグラス。名前の通り、カクテルといえばこのグラスをイメージする方が多いのではないかと思います。こちらはシェイカー」
氷と三種類のジュースをシェイカーに入れて振る。カクテルグラスに注がれる色は、レモンとオレンジの中間の色だった。
「今は辛くても、毒蛇がいる道でも、進んでいけばなるようになるものです。たくさんの可能性があるあなたに送るカクテルです」
カクテルの名前を聞いても、ユーリは教えてくれなかった。涙が口に入り、何の味かはっきりせずにもったいない。でも美味しいのだと思う。少し酸味が利いていた。
飲み終わる頃にはボディガードの者たちからうるさく電話が来て、出ずにはいられなかった。ユーリが手を差し出すものだから、俺はスマホを彼に渡してしまった。歓迎します、の声に冗談であってほしいと願ったが、遠慮の言葉を知らない彼らは堂々と入り込んでくる。
大人の話と思えるのは、俺がまだまだ子供だからだ。自分の意思なんて理解してもらえると思っていないが、一応自分の足でここに来たとは口にする。攫われたわけでも、催眠状態でもない。
「暗示にかかっていなければ、一緒にご帰宅できますね?」
「できるさ。帰るよ」
「またおいで」
火力強めの爆弾を残してくれたユーリだが、またおいでは二度とないと俺は知っている。でも……そのような言葉を口にしてくれたのは彼と祖母のみで、俺はうれしかった。
中学生になろうとした時期だ。鍵のかかった扉が開くと、珍しく兄の姿があった。
「本日からユーリの元で暮らしてもらう」
「…………え」
「夕方までに準備をしておくように」
納得のいかないと言いたげに、業務連絡だけを残してディミトリは消えた。どんな風が吹けば毒蛇の道がカボチャの馬車が通る道に変わるのだろう。こんな暗い部屋よりずっとまともだし、俺は早急に支度をした。
迎えはユーリ直々に来てくれて、ビズで再会を祝った。
「その顔は何も説明を受けていない、なぜ一緒に暮らすことになったんだという顔ですね? 私にはお見通しです」
「分かっているなら説明してほしい」
荷物をトランクルームに入れ、助手席に乗った。
「リーゼロッテにはお世話になったと話しましたが、実はあなたのお母様とも知り合いなのですよ。朗らかで明るい方ですね」
「……………………」
「しばらく会っていないと嘆いていましたよ。全然会いに来てくれないと」
「……部屋から出られないんだ」
「ですがあなたは出られた。良かったですねえ。人生は何が起こるか分かりません」
「簡単に俺を出すとは思えない。何を条件に出したんだ?」
「ルイの母親にお灸をすえてもらいました。ドルヴィエ家の弱点を発見したので、これからもいろんな面で使っていきたいと思います」
「……母がなんでそんなことを」
「親の心、子知らずですね。大人になれば分かるときがくるんじゃないんですか」
「女王気取りのあの人が?」
「マリーだっていろいろあるんですよ」
母のマリアンヌとは気が合わない。家族だとか関係なく、性格が合致せずにうまく話がかみ合わないのだ。パンが食べたいと言えばマドレーヌを出され、水が飲みたいといえば紅茶を出される。そんなタイプの人。
「さあ、着きましたよ。ようこそ、我が家へ」
車は裏口に止まり、俺はスーツケースを車から出した。
裏口も少しアルコールの香りがし、部屋全体に染み渡っている。はっきりと何の匂いから分からないが、多分ワイン。
ユーリが二階に上っていくので、俺も後を追った。部屋の一番奥の前で止まり、ドアを開ける。
「……………………」
まず目に入ってきたのは、美しいオレンジ色の光だった。窓から差す光は何かに遮られず、個室全体を照らしている。
「きれい……」
「西日が差す部屋なので、午後は暑いですよ」
「こんなに美しい部屋は初めてだ……」
「部屋にあるものは勝手に使って構いません。当然、そこの本棚にあるものも」
カクテルの本やバカロレアの問題集、フランス語以外の物語もある。
「夕食を作っていますので、後で呼びにきます」
階段を下りる足跡が聞こえたとき、俺はスーツケースの鍵を開けた。夕日の感動を感じながら、開いた未来を信じてみたくなった。
二時間ほど経つと、玄関の扉が開く音がする。ユーリが帰ってきた。
ユーリはケーキの箱を持っていて、見せびらかすように持ち上げた。
「二人だけでホームパーティーでも開こうと思いまして。それとも、ご家族の方を招待しますか?」
「冗談は止めてくれ」
「ユーモアは大事ですよ。二人で開きましょう」
ユーリは机に置いた学校のノートを手に取ると、パラパラとめくった。
「……これはあなたが一人で書いたものですか?」
「ああ」
「飛び級はしました?」
「していない」
「なぜです?」
フランスの教育制度では飛び級が存在する。私は一度も上がったことはなかった。
「これは高校生で解く問題です。あなたはまだ中学生にもなっていないはずですよね」
「俺が学校のレベルに合わせている。テストもわざと間違えれば、それなりの結果になるから」
「まったく理解不能です」
「俺の将来は墓守しか道がない。それに継ぐのは兄で、俺は二番煎じなだけ。兄に何かあったときのための替え玉みたいなものだ。反抗的な態度のせいで、あんな住まいに押し入れられているし、どうせ勉強したところでやりたいことはない。夢なんか持っていたって……」
「ストップ。変わってきているでしょう? ドルヴィエ家から解放されて……」
ユーリは少し怒ったように口調を強めた。
「その件に関しては感謝……しています。部屋から出られたし。一時的であっても……俺は……」
「自分の人生を捨てるような人間は何も変えられない。まずは死ぬほど勉学に励みなさい。そしてバカロレアを取る。これに限る」
「取ったところで……将来は……」
「ルイに必要なものは、勉強よりプライドということがよく分かりました。私と共に過ごすにあたって、自負心をあなたに植えましょう。興味があるなら、カクテルについて教えて差し上げられます。勉強以外で得意な分野を作れば、多少は自信に繋がるかもしれませんね」
「勉強より、カクテルの本を読む方が好きだ。本当は、祖母にお酒を注いであげたかった。瓶には絶対に触らせてもらえなかったし、夢はもう叶わない」
また泣きそうになってしまい、歯を食いしばってこらえた。ユーリの前で、二度も泣きたくなんてない。
「たくさんの夢を持つ権利は誰にでもあります。理屈を述べても、今のあなたには伝わらないでしょうがね」
何を言われても、都合のいいその場しのぎの文句だ。その日に食べたケーキも、今いち味が分からなかった。、
ユーリはトレーを持って再び現れた。小皿と独特の形をしたティーカップをそれぞれ置く。
薄い桃色の何かが葉でくるまれている。スプーンもフォークも用意されていない。
「湯呑み茶碗はまだ持ち合わせていないのです。緑茶はやはり日本の茶碗で飲むのが一番ですからね」
「味なんてカップ一つで変わるとは思えない」
「しっかりとその言葉を焼き付けなさい。後悔しますよ」
「俺が間違っていると言いたいのか?」
「私はあなたよりも長く生きている分、人生経験も豊富です。誰かに教えられて学ぶことも大切ですが、いろんな風景を眺め感じ、世の中の条理や不条理を吸収することも同じくらい必要です。食べなさい」
ユーリは笑い、黙って私を見ている。勝手に心を透かして内面を出そうとする心意気を感じる。私は苦手だ。
「……甘い」
菓子は何を食べても同じだ。けれど独特の風味がある。フランスにはないスイーツで、多分これは小さな島国が生んだもの。
「日本のスイーツは、形も味も美しい」
「味が美しい……?」
「いずれ分かるときがきます。焦ることはありません。食事もいろんなものを食べて、たくさんの色を目に入れなさい」
「食事は楽しいと思ったことはない」
「家族とは取らないのですか?」
「おばあ様が亡くなってから独りだ。おばあ様とも……いつも一緒だったわけではないから」
ユーリは葉を剥いて食べ始めた。
「食べ方はそれぞれです。剥いても剥かなくても、どちらでも構いません」
「最初に教えてくれたって……」
「なぜ聞かなかったのです?」
「聞けば教えてくれたのか? そうは見えなかった。俺とあなたはそこまでの仲ではない」
「本当になま……利発な子供ですね。十歳くらいですか?」
「十一歳だ」
生意気だと言いたいのだろう。はっきり言ってもらっても構わないのに、なぜ祖母と同じ顔をするのか。懐かしくて泣きそうになって、顔を伏せた。食べかけのスイーツはあとひと口大なのに、喉を通らない。
「ところで、どうして私のところへ来たのですか?」
「おばあ様の遺品に、俺宛の手紙が入っていた。中身はここの住所とユーリ・ドヌヴェーヌという名前が書いてあった」
「よくぞ一人で……ご家族の方が心配しているでしょう」
「平気。スマホが管理されてるから、どうせボディガードたちが追ってここまで来る。俺に自由はない」
「まだ十歳で随分と人生を諦めているのですね」
「十一だっ」
「あなたととても似ている子供を知っています。どうせ何をやってもできないと決めつけ、うじうじしている幼稚な子供は、どこへ行っても何もできない。もう少し視野を広げていろんな世界があると知るべきです。来なさい」
食べかけの菓子を置いて、さっさと部屋を出ていくユーリを追った。
追いかけても追いつけなかった。俺が遅いんじゃない。大人の歩幅とたった十一年しか生きていない俺では進みが違う。
「そこに座りなさい」
俺をカウンターに座わらせ、ユーリはカウンターの中に立った。
祖母もリキュールのコレクターだったが、置いてある数が違う。
瓶やグラスを並べていくが、余計な音を立てず綺麗な手つきだ。
「コリンズグラスといいます」
円筒状のグラスに黄色の液体が注がれていく。
「いかがですか?」
「宝石が生きているみたいだ」
「いろんな方にカクテルを振る舞ってきましたが、楽しい感想を頂いたのは初めてです。レモン果汁と水、砂糖で作り、ノンアルコールのカクテルで、レモネードといいます。どうぞ」
恐る恐る手に取ってグラスを傾けると、優しい甘みが広がる。レモネードは何度か飲んだことはあるが、甘さしか感じなかった。これは酸味もちょうどいいし、どんどん喉を通っていく。
「表情で理解しました。子供らしい顔です。大人のような振る舞いをする必要なんてないのです。カクテルも同じ。アルコールが入っていないからといって、カクテルではないとこだわる必要もない。こだわるバーテンダーもいますが、まあ人それぞれ価値観ですね」
「バーテンダーだったんだな……素人みたいなまねごとの手つきではなかった」
「素人の手つきは見たことがあるのですか?」
「リーゼロッテが作っていた。いつも……楽しそうに……」
初対面なのに初対面ではないような、変な感覚のせいで身体に震えが起こった。震えの次にやってくるのは、目の奥の痛みだった。
視界が暗くなったのは、頭から大きめのタオルをかけられたからだ。祖母がいなくなって、初めて泣けた。泣くことも許されなくて、怖い兄がいつも俺を見張っていた。名前とお酒を作るのが上手い人しか知らないのに、そんな彼の前で泣いていいのだろうか。
氷のぶつかる音がして顔を上げると、祖母も持っていた道具が並べられていた。
「オレンジジュースとレモンジュースとパイナップルジュースです。そしてこちらはカクテルグラス。名前の通り、カクテルといえばこのグラスをイメージする方が多いのではないかと思います。こちらはシェイカー」
氷と三種類のジュースをシェイカーに入れて振る。カクテルグラスに注がれる色は、レモンとオレンジの中間の色だった。
「今は辛くても、毒蛇がいる道でも、進んでいけばなるようになるものです。たくさんの可能性があるあなたに送るカクテルです」
カクテルの名前を聞いても、ユーリは教えてくれなかった。涙が口に入り、何の味かはっきりせずにもったいない。でも美味しいのだと思う。少し酸味が利いていた。
飲み終わる頃にはボディガードの者たちからうるさく電話が来て、出ずにはいられなかった。ユーリが手を差し出すものだから、俺はスマホを彼に渡してしまった。歓迎します、の声に冗談であってほしいと願ったが、遠慮の言葉を知らない彼らは堂々と入り込んでくる。
大人の話と思えるのは、俺がまだまだ子供だからだ。自分の意思なんて理解してもらえると思っていないが、一応自分の足でここに来たとは口にする。攫われたわけでも、催眠状態でもない。
「暗示にかかっていなければ、一緒にご帰宅できますね?」
「できるさ。帰るよ」
「またおいで」
火力強めの爆弾を残してくれたユーリだが、またおいでは二度とないと俺は知っている。でも……そのような言葉を口にしてくれたのは彼と祖母のみで、俺はうれしかった。
中学生になろうとした時期だ。鍵のかかった扉が開くと、珍しく兄の姿があった。
「本日からユーリの元で暮らしてもらう」
「…………え」
「夕方までに準備をしておくように」
納得のいかないと言いたげに、業務連絡だけを残してディミトリは消えた。どんな風が吹けば毒蛇の道がカボチャの馬車が通る道に変わるのだろう。こんな暗い部屋よりずっとまともだし、俺は早急に支度をした。
迎えはユーリ直々に来てくれて、ビズで再会を祝った。
「その顔は何も説明を受けていない、なぜ一緒に暮らすことになったんだという顔ですね? 私にはお見通しです」
「分かっているなら説明してほしい」
荷物をトランクルームに入れ、助手席に乗った。
「リーゼロッテにはお世話になったと話しましたが、実はあなたのお母様とも知り合いなのですよ。朗らかで明るい方ですね」
「……………………」
「しばらく会っていないと嘆いていましたよ。全然会いに来てくれないと」
「……部屋から出られないんだ」
「ですがあなたは出られた。良かったですねえ。人生は何が起こるか分かりません」
「簡単に俺を出すとは思えない。何を条件に出したんだ?」
「ルイの母親にお灸をすえてもらいました。ドルヴィエ家の弱点を発見したので、これからもいろんな面で使っていきたいと思います」
「……母がなんでそんなことを」
「親の心、子知らずですね。大人になれば分かるときがくるんじゃないんですか」
「女王気取りのあの人が?」
「マリーだっていろいろあるんですよ」
母のマリアンヌとは気が合わない。家族だとか関係なく、性格が合致せずにうまく話がかみ合わないのだ。パンが食べたいと言えばマドレーヌを出され、水が飲みたいといえば紅茶を出される。そんなタイプの人。
「さあ、着きましたよ。ようこそ、我が家へ」
車は裏口に止まり、俺はスーツケースを車から出した。
裏口も少しアルコールの香りがし、部屋全体に染み渡っている。はっきりと何の匂いから分からないが、多分ワイン。
ユーリが二階に上っていくので、俺も後を追った。部屋の一番奥の前で止まり、ドアを開ける。
「……………………」
まず目に入ってきたのは、美しいオレンジ色の光だった。窓から差す光は何かに遮られず、個室全体を照らしている。
「きれい……」
「西日が差す部屋なので、午後は暑いですよ」
「こんなに美しい部屋は初めてだ……」
「部屋にあるものは勝手に使って構いません。当然、そこの本棚にあるものも」
カクテルの本やバカロレアの問題集、フランス語以外の物語もある。
「夕食を作っていますので、後で呼びにきます」
階段を下りる足跡が聞こえたとき、俺はスーツケースの鍵を開けた。夕日の感動を感じながら、開いた未来を信じてみたくなった。
二時間ほど経つと、玄関の扉が開く音がする。ユーリが帰ってきた。
ユーリはケーキの箱を持っていて、見せびらかすように持ち上げた。
「二人だけでホームパーティーでも開こうと思いまして。それとも、ご家族の方を招待しますか?」
「冗談は止めてくれ」
「ユーモアは大事ですよ。二人で開きましょう」
ユーリは机に置いた学校のノートを手に取ると、パラパラとめくった。
「……これはあなたが一人で書いたものですか?」
「ああ」
「飛び級はしました?」
「していない」
「なぜです?」
フランスの教育制度では飛び級が存在する。私は一度も上がったことはなかった。
「これは高校生で解く問題です。あなたはまだ中学生にもなっていないはずですよね」
「俺が学校のレベルに合わせている。テストもわざと間違えれば、それなりの結果になるから」
「まったく理解不能です」
「俺の将来は墓守しか道がない。それに継ぐのは兄で、俺は二番煎じなだけ。兄に何かあったときのための替え玉みたいなものだ。反抗的な態度のせいで、あんな住まいに押し入れられているし、どうせ勉強したところでやりたいことはない。夢なんか持っていたって……」
「ストップ。変わってきているでしょう? ドルヴィエ家から解放されて……」
ユーリは少し怒ったように口調を強めた。
「その件に関しては感謝……しています。部屋から出られたし。一時的であっても……俺は……」
「自分の人生を捨てるような人間は何も変えられない。まずは死ぬほど勉学に励みなさい。そしてバカロレアを取る。これに限る」
「取ったところで……将来は……」
「ルイに必要なものは、勉強よりプライドということがよく分かりました。私と共に過ごすにあたって、自負心をあなたに植えましょう。興味があるなら、カクテルについて教えて差し上げられます。勉強以外で得意な分野を作れば、多少は自信に繋がるかもしれませんね」
「勉強より、カクテルの本を読む方が好きだ。本当は、祖母にお酒を注いであげたかった。瓶には絶対に触らせてもらえなかったし、夢はもう叶わない」
また泣きそうになってしまい、歯を食いしばってこらえた。ユーリの前で、二度も泣きたくなんてない。
「たくさんの夢を持つ権利は誰にでもあります。理屈を述べても、今のあなたには伝わらないでしょうがね」
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