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第一章 学生時代

019 優しい家族

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 アーサーさんと別れを告げて玄関に入ると、心配そうな顔をした聡子が抱きついてきた。
 僕も手を背中に回す。祖母が泣きそうな顔をしている。それを見て、僕も目が霞んでくる。二人にそんな顔をさせるつもりではなかったのに。
「さ、ご飯食べよか」
「うん。カレーの匂いがするね」
「聡子の手作りだよ」
「え? ええ?」
「聞いて驚け。カボチャ入りだよ」
 ふふん、と聡子は鼻を鳴らす。良い方向に向いているといい。
 お菓子作りのプロでも、料理とはまた別だとテレビに出ていたパティシエが語っていたことがある。
 カボチャ入りのはずがほぼ溶けてなくなっているカレーをいただいた。
 風呂に入って部屋に戻ると、聡子が居座っていた。
「仮にも男の部屋に入ってくる?」
「男と見てないからセーフ」
 生まれたときからの仲だ。正直、僕も女性として見ていない。
「おいで。髪乾かしてあげる」
 しばらく切っていないせいで、肩甲骨の辺りまで伸びている。
 聡子は僕の髪を取り、ドライヤーのスイッチを入れた。
「誰に似たんだかサラサラだわ。羨ましい」
「こればっかりは母親に感謝してるよ」
「確かに叔母さんの髪似てる。警察に会って、いろいろ思い出したわ」
「やっぱり来たんだ」
「少し前だけど、叔父さんに似た人を吉祥寺駅で見たんだよね。体型もけっこう変わってたし、でも歩き方の癖というか、……変わってなかった」
「あ、それかも。十年以上会ってないのに、なんでか父親の面影を感じたんだ」
「癖はそうそう変わるもんじゃないからね」
 歩くときに前屈みになる姿勢は、多分今も変わっていない。やはり池袋であった男性は、父と見るべきだ。
「しばらく泊まるし、学校も一緒に行こう」
「うん。聡子はさ、犯罪者の子供と一緒にいて恥ずかしいとかない?」
「はあ? 何言ってんの?」
 ドライヤーで頭を叩かれた。
「親は子供を選べないけど、子供も親を選べないんだよ。アンタには関係のない話でしょうが」
「う、うん……」
「堂々と学校とバイトに行ってればいいんだ」
 二度目のドライヤーが頭を直撃する。痛みは聡子の愛情だ。
「バイトはどう?」
「店長にもいろいろ迷惑かけちゃって……優しすぎて胸が痛い。締めつけられる」
「恋?」
「……………………」
「えっうそ」
「どうだろ……確かに近いものがあるような、ないような。そもそも、恋ってなんだろう」
 生まれてこの方、彼女も彼氏もできたことがない。人目を避けて通ってきた僕には、アーサーさんは眩しすぎる存在だ。家族以外で、初めて僕を認めてくれた人と言っても過言ではない。
 彼の中ではただのアルバイトであっても、僕には大きすぎる。膨らんだ感情に、名前はつけられない。

 いつもと変わらない大学の様子に安堵するが、すぐに打ち砕かれた。
「…………なんで、」
 二人の警察官が、大学内にいる。私服だったが、アルバイト先に来た警察官と同じだったのですぐに分かった。
 一緒にいるのは早見秋人君だった。
 いけないと思いつつも好奇心には勝てず、つい聞き耳を立ててしまう。
「君、仲良いんじゃないの? 男で髪を長くしてる人だよ。知ってるでしょ?」
 拳を作り、耐えた。前ほど耐久性がついたようで、不思議と乗り越えられるようになっていた。
「だから知らねーって。つーか俺の大学に入ってくんなよ。帰れ帰れ」
「こっちも仕事なんだよ」
「今どき髪の長い奴なんか山ほどいるだろうが。ほれ、あいつとか」
 早見君の指差す先は僕ではなく、乱雑にひとまとめにし、ギターを担いで歩く男性だ。
「今どき珍しくもねえの。じゃ、講義あるんで」
 早見君は手短に言うと、大学の中へ入った。
 警察官は何か話すとメモを取り、彼とは反対方向へ歩いていった。
 聞き回るほど、大きな事件に発展しているのか。それとも僕が匿っているとでも思っているのか。
 すれ違う人々が、みな警察官に見えてくる。
 そんな中でも、バラバラだったものが一つに繋がっていった。
 勘違いでなければ、早見君は僕を庇っていた。彼なりの何か考えごあってのことだろうが、単純な僕は少しだけ優しい風が吹いたように思う。
 講義を終えて学食に行くと、珍しく一人の早見君がいた。最近彼は一人でいることを好む。悪そうな人たちとはつるんではいない。
 立ち往生していると、食べ終わった早見君が立ち上がった。
 僕に気づいて目を見開くが、すぐに素知らぬ顔をして通り過ぎる。
 入れ違いに、彼の座っていた席に腰を下ろした。同時に、携帯端末が震える。
──いろいろ気をつけろよ。
 早見君からメッセージが届いた。抽象的すぎるが、今ならよく分かる。彼は心配してくれていると。恐れていないで、まだまだ前に進める気がする。

 違和感は偶然が重なったものではなく、間違いなく必然が絡んだものだ。
 警察官から事情を聞かれてから三日が過ぎた。家に帰ると、いつもいるはずの祖母がいなかった。玄関には靴がない。
「おばあちゃん?」
 夕食は途中で、まな板の上には切ったネギがそのままになっている。一応、トイレや部屋を確認してみるが、やはりいない。
 祖母は携帯電話を持っていない。連絡の取りようもない。何か嫌な予感がした。きっと、警察官から父の話を聞かされたからだ。
 念のため聡子に連絡を入れてみるが、既読にならなかった。多分、彼女はまだ講義中だ。
 焦りからか立ち止まることも座ることもできず、ただ廊下と居間をうろうろするだけだ。まったく無意味。冷静になれ。
「買い物、呼び出し、迎え……」
 夕食を作っている最中、足りないものを思い出してスーパーに出かけたパターン。しっくりこない。祖母は食材がなくてもあれこれ工夫を加えて作れる人だ。一つや二つなくたってどうにでもなる。
 呼び出し。これは誰に? 友人はそれなりにいて、お茶をしたりもしている。けれど夕食の準備を放り出して、お茶しに行くわけない。
 最後は僕か聡子の迎えだ。大雨が降ったとき、よく学校に傘を届けてくれた。けれど今は快晴だし、昔と違ってアルバイトもしている僕だから傘くらい買える。
 となると、何もない。そう、何もないのだ。
 もう一度端末を見るが、聡子からは何もなかった。
 僕は家を飛び出し、行きそうな場所を手当たり次第に探した。
 コンビニ、スーパー、散歩コースの井の頭公園をぐるっと。入れ違いだと思い一度家に帰ったが、もぬけの殻だった。
「警察、そうだ。警察に……」
 最初からこうすればよかったと、後悔した。
 駅前の交番に行き、警察官に事情をすべて説明した。
「連絡は取れないの?」
「スマホは持ってないんです」
「会話はしっかりできる方?」
「できます」
 義務的な質問に焦りながら答えていく。
 冷静な彼らとの温度差に、焦燥感は募るばかりだった。
「心当たりはない?」
「ありません」
「他に家族はいる?」
「…………あ」
 もしかしたら、と大きな背中が頭をよぎる。
「父かもしれない」
「お父さん?」
 ここ数日の出来事を考えると、一番可能性としては高い。
 夕食の準備をそっちのけで出ていった理由も頷ける。
「こちらで確認してみるから、スマホは出られるようにして、君は家に帰って。戸締まりはしっかりと。おばあちゃんが帰ってくるかもしれないから」
 警察官はどこかに電話をかけている。どうやら事件に繋がるかもと、とらえてくれたようだ。
 そう、父だ。なぜすっぽりと消えていたのか。何よりも可能性としては充分あるのに。
 絶望感で満たされる中、交番を後にした。慣れた道でも、まったく違うもののように見えた。
「お困りですか?」
 ふと顔を上げると、金色の髪が目に映った。
 腕を組み、長い足を邪魔そうにだらけている姿は、僕には神の遣いに見えた。
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