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第三章 母を追って
052 ターニャの愛
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海辺の散歩の後、アーサーはスイーツが食べたいと唐突に言い、ターニャをとことん振り回した。
「ワタラッパン、キリバット、ジンジャークッキー……」
「キリバットなんて観光客のためにご用意しているのでしょうね。家庭ではお祝いのときしか食べませんから」
ワタラッパンはスリランカ風のプリン、キリバットは米をココナッツミルクで炊いたスイーツだ。
「本当に雲が近くまで来ましたね」
海の向こうにあった雲が、もうすぐそこまで迫っている。
「イギリスではこのようなことは起こるのですか?」
「いきなり変わることもありますが、ほぼ雲っていますから。何週間も太陽を見ないときがあります」
「気が病みませんか?」
「そういうときは、友人に風景の写真を送ってもらいます」
どこの国のものかは、聞かなくても明白だった。
婚約パーティーをぶち壊すように現れた青年は、顔を引きつらせ必死にアーサーを繋ぎとめていた。
「男性が好きだと知りませんでした。最初から性別の壁は越えられなかったわけですね」
「私は男性が好きなわけではありませんよ。初恋の人がたまたま男性だっただけです」
「性別が男性だと知って、ショックは受けなかったんですか?」
「ちっとも」
アーサーは美味しそうにワタラッパンを口に入れる。
「私にとっては微々たるものです。驚きはしましたがそれだけです」
「日本は閉鎖的で、よその国の人間を受け入れないと聞いたことがあります」
「一度遊びに行ったらいいでしょう。あなたが感じたままがすべてだと思います」
「遊びに?」
「ええ。日本と同じく、スリランカも海に囲まれた国です。何か通じるものがあるかもしれません」
アーサーはセイロティー、ターニャはデュールを飲んでいる。
デュールはウッドアップルを使ったジュースで、スリランカではポピュラーな飲み物だ。
「私の初恋は忘れました。そういうものだと思います。覚えている方がいるのは不思議で仕方ないです」
「自覚があるのですが、私はねちっこく、あまり回りの意見に左右されません」
「捜していたのは、私との婚約を破棄するため? それとも、本当に会いたくて捜していた? いえ、ごめんなさい。意地悪で答えにくい質問でした」
「両方です」
「謝った私が馬鹿みたいでした」
あれだけあったスイーツがもうなくなっている。ちらちらとメニュー表を見ているアーサーに差し出すと、彼は迷いなく受け取った。
「お互い嫌でしょう。ろくに会ったこともない人と婚約など」
「私はあなたの生い立ちや家族を知っていましたよ。写真も見せてもらいましたし」
「そうなのですか?」
「今だから言えますが、夢を見せて下さいました。地球上で初恋の人を見つけるなんてほぼ不可能ですし、この人と結婚するのだと回りの大人から聞かされていましたから」
アーサーは追加でカードを注文した。水牛から作られたヨーグルトで、これにキトゥルという蜜をかけて食べる。
「囚われの姫が王子様に救われるって、一度は憧れるものです。まあ私と結婚したら、あなたも囚われの王子になるところでした」
「結婚は憧れるものかもしれませんが、誰かと一緒にいるのが幸せだとは限りませんよ」
「あなたの幸せはなんですか?」
「『誰か』と一緒にいることです」
ことごとく理不尽な男だ。だが適当な話でごまかそうともしない。
「結婚だけが形だとも思っていませんし、こだわる必要もありません。けれど私は、生涯を共にできる方と死ぬまで永遠を過ごしたいです」
「そう……。お願いがあります。私を占ってもらうことはできますか?」
言われると思っていなかったのだろう。スプーンを持つ手が止まった。
「今の私に占えと? 私の都合のいいように占うかもしれませんよ」
「あなたは占い師としてのプライドもある方です。意地でも適当にはできないはず」
「……分かりました。ホロスコープはないので、紙に書いてタロットカードを合わせて占います」
差し出された用紙に名前や生年月日を記入していく。
何が始まるのかと、回りの人たちも遠目に気にし始めた。
アーサーは紙を何度も見てはホロスコープを書いた紙の上を見比べているく。
「半年後です」
「はい」
審判のカードがめくられる。変革を表すカードだ。
「変わっていく時期は半年後です。将来に向かってとにかくもがいて下さい」
「変わるというのは、良い方向ですか?」
「例えばですが、占いでこれからよくなると言われたのに石につまづいて転んでしまった。占いが大はずれだと思うか、ここで悪運を使い果たしたのかと思うのかは、結局は受け取り方の問題でもあります。あえて言うとすれば、占いが指し示しているのは良い方角です」
「つまり、私がもがいて苦しんでも良い方向へ行っているのかつらくて変化を望みたくなかったと思うのかは、私次第ということですね」
「はい。そしてもう一つ」
もう一枚カードを引いた。今度は運命の輪だ。
「あなたが望まないにしても、必ず転機が訪れます。ならば素晴らしい未来が訪れるように、動くべきかと思います。まさかこうなるとは。あなたを差すカードがすべて、未来を変えろと示すものばかりです」
「喜んでいいのでしょうか」
「あなたのお心のままに」
「ついでに、もう一つ聞きたいことが。結婚できますか?」
「三十歳を迎えたときから転機です。その男性とはまだ出会っていません」
目の前の彼ではない、と遠回しの断り方だ。
心に刺さるものがあったが、これでよかったのだと納得もする。
ターニャはそっと涙を流した。なんの涙かははっきりと分からなかった。
残酷なことに、男はハンカチが持ち合わせていないという。他の誰かに渡してしまい、新しいものを買わなければと笑っている。
最後の最後まで縁のない、優しい男だった。好きになるなというのは無理だった。
「ワタラッパン、キリバット、ジンジャークッキー……」
「キリバットなんて観光客のためにご用意しているのでしょうね。家庭ではお祝いのときしか食べませんから」
ワタラッパンはスリランカ風のプリン、キリバットは米をココナッツミルクで炊いたスイーツだ。
「本当に雲が近くまで来ましたね」
海の向こうにあった雲が、もうすぐそこまで迫っている。
「イギリスではこのようなことは起こるのですか?」
「いきなり変わることもありますが、ほぼ雲っていますから。何週間も太陽を見ないときがあります」
「気が病みませんか?」
「そういうときは、友人に風景の写真を送ってもらいます」
どこの国のものかは、聞かなくても明白だった。
婚約パーティーをぶち壊すように現れた青年は、顔を引きつらせ必死にアーサーを繋ぎとめていた。
「男性が好きだと知りませんでした。最初から性別の壁は越えられなかったわけですね」
「私は男性が好きなわけではありませんよ。初恋の人がたまたま男性だっただけです」
「性別が男性だと知って、ショックは受けなかったんですか?」
「ちっとも」
アーサーは美味しそうにワタラッパンを口に入れる。
「私にとっては微々たるものです。驚きはしましたがそれだけです」
「日本は閉鎖的で、よその国の人間を受け入れないと聞いたことがあります」
「一度遊びに行ったらいいでしょう。あなたが感じたままがすべてだと思います」
「遊びに?」
「ええ。日本と同じく、スリランカも海に囲まれた国です。何か通じるものがあるかもしれません」
アーサーはセイロティー、ターニャはデュールを飲んでいる。
デュールはウッドアップルを使ったジュースで、スリランカではポピュラーな飲み物だ。
「私の初恋は忘れました。そういうものだと思います。覚えている方がいるのは不思議で仕方ないです」
「自覚があるのですが、私はねちっこく、あまり回りの意見に左右されません」
「捜していたのは、私との婚約を破棄するため? それとも、本当に会いたくて捜していた? いえ、ごめんなさい。意地悪で答えにくい質問でした」
「両方です」
「謝った私が馬鹿みたいでした」
あれだけあったスイーツがもうなくなっている。ちらちらとメニュー表を見ているアーサーに差し出すと、彼は迷いなく受け取った。
「お互い嫌でしょう。ろくに会ったこともない人と婚約など」
「私はあなたの生い立ちや家族を知っていましたよ。写真も見せてもらいましたし」
「そうなのですか?」
「今だから言えますが、夢を見せて下さいました。地球上で初恋の人を見つけるなんてほぼ不可能ですし、この人と結婚するのだと回りの大人から聞かされていましたから」
アーサーは追加でカードを注文した。水牛から作られたヨーグルトで、これにキトゥルという蜜をかけて食べる。
「囚われの姫が王子様に救われるって、一度は憧れるものです。まあ私と結婚したら、あなたも囚われの王子になるところでした」
「結婚は憧れるものかもしれませんが、誰かと一緒にいるのが幸せだとは限りませんよ」
「あなたの幸せはなんですか?」
「『誰か』と一緒にいることです」
ことごとく理不尽な男だ。だが適当な話でごまかそうともしない。
「結婚だけが形だとも思っていませんし、こだわる必要もありません。けれど私は、生涯を共にできる方と死ぬまで永遠を過ごしたいです」
「そう……。お願いがあります。私を占ってもらうことはできますか?」
言われると思っていなかったのだろう。スプーンを持つ手が止まった。
「今の私に占えと? 私の都合のいいように占うかもしれませんよ」
「あなたは占い師としてのプライドもある方です。意地でも適当にはできないはず」
「……分かりました。ホロスコープはないので、紙に書いてタロットカードを合わせて占います」
差し出された用紙に名前や生年月日を記入していく。
何が始まるのかと、回りの人たちも遠目に気にし始めた。
アーサーは紙を何度も見てはホロスコープを書いた紙の上を見比べているく。
「半年後です」
「はい」
審判のカードがめくられる。変革を表すカードだ。
「変わっていく時期は半年後です。将来に向かってとにかくもがいて下さい」
「変わるというのは、良い方向ですか?」
「例えばですが、占いでこれからよくなると言われたのに石につまづいて転んでしまった。占いが大はずれだと思うか、ここで悪運を使い果たしたのかと思うのかは、結局は受け取り方の問題でもあります。あえて言うとすれば、占いが指し示しているのは良い方角です」
「つまり、私がもがいて苦しんでも良い方向へ行っているのかつらくて変化を望みたくなかったと思うのかは、私次第ということですね」
「はい。そしてもう一つ」
もう一枚カードを引いた。今度は運命の輪だ。
「あなたが望まないにしても、必ず転機が訪れます。ならば素晴らしい未来が訪れるように、動くべきかと思います。まさかこうなるとは。あなたを差すカードがすべて、未来を変えろと示すものばかりです」
「喜んでいいのでしょうか」
「あなたのお心のままに」
「ついでに、もう一つ聞きたいことが。結婚できますか?」
「三十歳を迎えたときから転機です。その男性とはまだ出会っていません」
目の前の彼ではない、と遠回しの断り方だ。
心に刺さるものがあったが、これでよかったのだと納得もする。
ターニャはそっと涙を流した。なんの涙かははっきりと分からなかった。
残酷なことに、男はハンカチが持ち合わせていないという。他の誰かに渡してしまい、新しいものを買わなければと笑っている。
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