夕凪に浮かぶ孤島の儀式

不来方しい

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第一章 日常

03 五月

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 携帯端末に連絡が来たのが午前中で、俺は布団を足で蹴った。
──今日、空いてる?
 ほとんど光らないスマホは、好きな人からのメッセージにより、太陽よりも輝いて見える。
──ひまだよ。どうしたの?
──髪切りに行かない?
 肩までつきそうな髪は途中で捻り、癖っ毛のようになっている。
──行く。行きたい。髪伸びすぎだって指摘された。
──うちの高校は男子生徒は短くしなきゃいけないからね。昼食食べたら出かけよう。家にひとり?
──うん。
──うち来る?冷や麦だけど。
──いいの?
──おいで。母さんもひとりなら呼べってさ。
 父も母も仕事でいない。社会人にゴールデンウィークは関係ない。母は普段、畑の仕事をしている。
 鞄を掴んで家を出ると、玄関には拓郎が野菜を洗っていた。気まずい。
「何か用かよ」
「……春兄にご飯食べようって呼ばれて」
 しまったと思っても後の祭りだ。ゴールデンウィークなのだから、拓郎だっているに決まっている。目先の幸春さんにつられてしまった。
 どうしようと立ち止まっていると、中から幸春さんが現れて手招きをする。
「よく来たね。おいで、拓郎も。ご飯だよ」
 正月ぶりに上がらせてもらうと、幸春さんの母はキッチンで四人分の食事を作っている。冷や麦の上に鯖が乗っていて、トマトやアスパラガスも添えられている。
「こんにちは。すっごく美味しそう」
「褒めてくれるの湊君だけよ。うちの男兄弟たちは何にも言わないんだもの」
「俺もお母さんにはあんまり言わないよ」
 幸春さんに目がそっくりのお母さんだ。垂れ目な人は優しそうに見える。
 幸春さんはお母さんの隣、俺は拓郎の隣に座る。
「いつもは春兄の隣に座るって言ってたのに、いいの?」
 お母さんの発言は、心臓が痛くなる。ぐっさりと言葉の凶器で抉ってくる。
「い、いいの! あれは子供の頃の話だし」
「残念」
「何が残念なのっ」
「最近の湊は大人になったからなあ。前みたいに春兄、春兄って言ってこなくなったし」
 二人してからかってくるので、大きな鯖にかぶりついた。塩がしっかり利いていて、ほくほくしている。
「午後は髪切りに行くんでしょ? ついでに拓郎も行ってきなさいよ」
 驚愕しすぎて、箸が止まった。まさかお母さんを目の前にして、拓郎は苦手なんです、プライベートの付き合いはできる限りしたくないんですとは言えない。
 横を見ると、にやにや笑いながら俺を見ている。
「拓郎、宿題は?」
 少し怒ったような低い声で、幸春さんは口にする。
「は? 宿題?」
「山ほど出たんだろ」
「兄貴だって出てるだろうが」
「俺はとっくに終わってる。湊は?」
「ゴールデンウィークが始まる前に終わらせてる」
 幸春さんはちょっと誇らしげだ。俺もうれしい。
「拓郎は留守番だな。それがいい」
「なんで兄貴が勝手に決めるんだよ!」
「拓郎は遊びに行くなら明日以降ね」
 母の一言に、拓郎は息をつまらせた。佐狐家の人間関係、圧倒的力の差を知る。この家では母が強い。うちとおんなじ。
「湊君は部活やらないの?」
「運動は苦手だし」
 運動会での大失態は、佐狐家全員に知れ渡っている。
「水泳部は? 泳ぐのは好きでしょう?」
「それはあくまで趣味の範囲内だよ。競うとか、全然できない」
 食べている途中でお母さんが急に立ち上がり、ぬか漬けを忘れていたと慌ただしく切ってくれた。これも俺にとっては馴染みのある味で、とても好きだ。
 結局、拓郎は留守番になり、ふたりで街に行くことになった。
 いつもは制服で乗るフェリーも、今日は私服で雰囲気が違う。
「どのくらい髪切る?」
「ばっさりいきたいけど、分かんない。春兄は?」
「都会のイケメンみたいな感じで」
「充分だよ」
 口に出すつもりなんてなかったのに、心の声が漏れたと気づいた。それは幸春さんがえ、と吐息のような声を出したからだ。
「そう思ってくれてたんだ?」
「や、あの、ちが……わないけど」
「ありがと」
 笑顔を独り占めできたので、よしとしよう。照れたのか反対側を向いて、俺を見てくれない。斜め下からも見る幸春さんは、めちゃくちゃかっこよかった。
 フェリーを降りるときも手を差し出してくれたが、ずっと繋いでいたかったのに手を離されてしまった。でも当然かもしれない。本州の人たちは、男同士で手を繋ぐのは見慣れていない。男同士の結婚だって受け入れていないのに。
「どこに向かってるの?」
「ついてからのお楽しみ」
 バスで数十分揺られ、海の見えていた景色は段々と空に伸びるビルだらけの場所に到着した。辺りは人、人、人。途切れることのない長蛇の車やトラック、鼻につく埃とガスの臭い。
「…………どこ?」
「新宿。来たことないだろ?」
「ここが新宿? 暑いし海の香りがしない……。すごいところだね。テレビの中の世界みたい」
「ビルばっかりだね。実は俺も圧倒されてる。都会の美容院って行ってみたかったんだ」
 人の波に飲まれないように、幸春さんは手を取ってくれた。
 これだけ人が多いと注目は浴びないと思っていたのに、すれ違う女性は手元を見て俺か幸春さんを見る。俺が女性だったら、絶対に見ないはず。それも当の本人にとっては、差別にも見えた。
 俺の歩幅に合わせたスピードでも五分くらい歩き、ビルの中に入った。エレベーターの三階に上がると、美容院の香りが鼻に届く。どきどきするような、大人の香りだ。嫌いじゃないけれど、緊張する匂い。大好きな本屋に行くと緊張するが、感覚が似ている。なぜ心臓の鐘が鳴るのだろう。
「いらっしゃいませ」
 モヒカン頭の男性に出迎えられた。もし幸春さんがあんな頭にされたらどうしようと、いらない不安に駆られる。
「どんな髪型がよろしいですか?」
「えー、どうしよう。春兄、どれがいい?」
 都会の美容院では、冊子を見せられる。地元だといつも勝手に切られる。悪いようにはならないので、俺もいつもほったらかしだ。
「もしかして、お兄さんですか?」
「え……そう見えますか?」
「雰囲気が似てますね」
 あんなに穏やかに笑うだろうか。そんなこと、言われたのは初めてだ。
 素直に嬉しいと思ったのに、幸春さんは口を噤んだまま鏡を見ている。
 髪を切ってもらっている間、モヒカンのお兄さんはあれやこれやと質問を繰り返す。まだ高校生だと言うと、かなり驚かれた。中学生に見えただろうか。幸春さんは大人っぽいから、大学生に見えてもおかしくない。
 さっぱりとした髪型は、とてもよくお似合いだと言ってもらえた。たとえ彼らの給料分の褒め言葉だとしても幸せな気分になる。
「うわあ、いいっ……!」
 がつんとくるかっこよさだ。甘くて美味しいチョコレートケーキを食べたというより、初めてチョコミントを食べたときの感覚。
「似合う?」
「うん、俺好きだよ」
「……………………」
 今日の幸春さんは百面相だ。笑ったり驚いたり、いろんな幸春さんを見られて得した気分。髪を切ってもさわやかで優しい顔つきは変わらず、普段使わないワックスで遊んでいる俺の髪の毛を指で絡め、似合うと言ってくれた。幸春さんの顔にもうれしい、と書いてある。
「ちょっと付き合ってほしいんだけど、いい?」
 付き合ってほしいなんて、そんなこと気軽に言わないでほしい。俺にしてみたら、人生の岐路に立たされた気分だ。二択であれば一秒の間もなく頷く。俺の気も知らないで、うかつな発言すぎる。
「どこに行くの?」
「湊が絶対気に入るところ」
 今日は彼の引っ張るままについて行くことにした。
「場所が分からない遠足気分って感じ」
「え、遠足? 本気で?」
「林間学校?」
「そっちかあ」
「……修学旅行?」
「そっちにいくかあ」
「京都に行くの楽しみ!」
「楽しかったよ。お土産買ってきてね」
 俺たちの高校の修学旅行は定番の京都・奈良で、一年前は幸春さんにお土産話をたくさんもらった。お守りはこっそり財布の中に忍ばせている。一年で効果が切れるらしいが、俺にはご加護が永遠に続いていくと思う。
 大きな通りで、女性たちが列を作っていた。俺たちと変わらないくらいの年代で、幸春さんは一番後ろに並ぶ。
「ここ何のお店?」
「湊が好きなものがたくさん並んでいる場所」
「……チョコ?」
「それもあるんじゃないかな」
「まさかケーキ?」
「うん。食べ放題」
「すごい。夢の国だね」
 エレベーターで上がり、途中で止まるもののほとんど降りる人はいなかった。オレンジ色に光ったボタンでほぼ全員が降り、再び列を作る。
「男の人って少ないね」
「だろうねえ。好んで食べ放題なんて来ないだろうし。湊の姉さんも好きそうだね」
「姉さんはもう都会色に染まってるから、きっといっぱい食べてると思うよ。大学の学食で出るカップケーキが美味しいとか言ってたし」
 あれが美味しそう、最初はチョコレートがいいと話していると、前に並ぶ大学生くらいの女性がこちらを見て笑っている。
「…………へんかな」
「可愛いよ」
 へん、というのは、男ふたりで並ぶことを指したのに。
 髪型ととったのか、幸春さんはまた俺の髪を指に絡め、遊び始めた。癖なんだろうと、したいようにさせていた。好きな人からの可愛いはちょっと嬉しいし。
 女性たちはこの世の終わりを見たのか、ものすごい形相で幸春さんを凝視している。どこかで見たことのある顔だと思ったら、十センチ近くの大きさのGを見たときの姉の顔だ。燃えると言っているけれど、それほど炎上案件なのか、男同士でいちゃつくのは。
「湊、大変だよ。スイーツの食べ放題は先に重いものを食べるより、ゼリー系からいけって書いてある」
「ほんとに? さくらんぼのゼリーがある! 宝石みたい」
「俺、レモンタルトにしようかな」
「それ重いやつじゃん」
「はは、確かに。甘酸っぱいの好きなんだよね。そういえばさ、初恋って甘酸っぱいっていうけど、具体的にどんな味なのかな」
 さっきの大学生たちはまだ俺たちを気にしている。席の関係上、どうしても目に入ってしまう。気づいていないわけではないだろうに、幸春さんは特に何も言わない。
「日本の曲だと、さくらんぼとかイチゴが初恋の味に例えられるよね。あとレモンも」
「食べる?」
 一口にしては大きい固まりをフォークに刺し、俺に向けた。
 気になる。どうしても気になる。都会に来ても、こんなに見られるとは。口元まで近づけてくる様子に、きっと食べるまで止めてくれないだろう。
「…………初恋の味は、きっとこんな味だと思う」
 美味しい。食べ放題なので取ってくれば何個でも食べられるが、レモンタルトはもういい。お腹はまだいっぱいではないけれど、胸はいっぱいだ。
 幸春さんは何か言いたげに俺を見て、次にアップルパイに取りかかっている。
 肝心のチョコレートケーキは甘みが強く、確かにこれを一番初めに食べていたら、きっと他のケーキは入らなかったと思う。マロンケーキや生クリームたっぷりのロールケーキも食べ、ピスタチオのムースも美味しい。でも一番食べたものは、パスタやからあげだった。
「何が一番美味しかった?」
 最後のデザートだと、幸春さんはプチトマトをつまんでいる。
「……肉かなあ」
「あはは、分かるよ。塩味がほしくなるよね」
 からあげにたっぷりのレモン汁をかけて頬張った。何個目のからあげだろう。甘いものは大好きでも、鼻はバターやクリームの匂いでやられてしまい、結局しょっぱいものがほしくなる。幸春さんも後半からはパスタばかり食べていたので、ケーキ食べ放題が行方不明だ。
 駅内で東京の銘菓を購入し、バスに揺られて高速道路を走る。お腹が膨れているせいか、眠くて幸春さんに寄りかかってしまった。
「いいよ、寝ても」
 もっと小さかった頃は、砂場で遊んで寝入ってしまった俺を、幸春さんは抱っこして家まで運んでくれた。彼は覚えているだろうか。
「昔から湊はどこでも寝る子だったなあ。運んで家まで行ったことを思い出したよ」
「俺も今、考えてた……春兄に運んでもらいたくて、寝ちゃってたのかも……」
「…………そうか。何も考えずに遊べたのも、あの頃だけだったな」
「今は……? 考えなくていいことも考えてるの……?」
「大人になるって、どうしようもないしがらみがまとわりつくんだな。俺たちは、生まれたときからか。湊、寝ていい。着いたらちゃんと起こすから」
「うん…………」
 ふわりと幸春さんの香りがまとい、カスタードクリームと香りも混じっていた。頭の上でリップ音がした気がしたが、眠くてそれどころじゃなくて、重い瞼に逆らえなかった。
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