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第一章 日常
04 六月
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「さあ、諸君! ついに六月となった! 我々は一年だろうが、勝たねばならない」
黒板には大きな文字で、体育祭と書かれている。今時、新任教師でもあんな風にでかでかと書く人は見たことがない。
「勝ったところで何かもらえるわけじゃねえし」
拓郎が呟くと、教壇にいる委員長は鋭い目を向ける。
「一生懸命やるという概念は、君にはないのか?」
「あるに決まってんだろ。人から与えられてやる気を出すのは苦手なんだよ。体育祭みたいにな」
口を開こうとする委員長の前に、副委員長がすかさず間に入る。
「ほらあ、どうせやんなきゃいけないんだから、さっさと決めようよ」
玉入れ、綱引き、千メートル走、百メートル走、部活対抗リレー、借り物競争、二人三脚。メインは千メートル走で、きっと一番盛り上がる競技。この中で一つは出ないといけない。絶望レベルの種目の中で、神が差し出したのは玉入れだ。これしかない。
先着順なら絶対に一番だったのに、委員長は「人数が多いのでくじ引きにします」と残酷なことを言う。
多分厳選なるくじの結果、俺は漏れた。面倒くさそうにしていた拓郎も同じ結果だった。第二候補の綱引きも残念な結果となった。
「借り物……」
「仁神君、出てみたら?」
「運動できないんだけど……」
跳び箱ですら、クラスメイトがいる中で無様な姿を晒している。
「距離なんてたった五十メートルよ。いけるわ」
「俺の運動能力、舐めてるでしょ?」
「大丈夫。借り物は運なのよ」
丸め込まれた俺は、結局借り物競争に出る羽目になった。残りは千メートル走と二人三脚だ。リレーは体育の成績順であっさりと決まり、二人三脚はリレー以上に人気がなく、これもくじ引きとなった。
万が一、俺が選ばれたらどうしようと、リレーを走る直前の心臓を植えられた気分だ。あのまま激しく動き続けたら、俺は死んでしまうかもしれないと、どうでもいいことを考えていた小学生時代。結果、派手に転んで笑い者になった。泣くのをこらえて走りきり、手を差し伸べてくれたのは、言わずとも俺のヒーローだ。
順番が回ってきてくじを取ると、木の棒の先には赤い印。副委員長と顔を合わせ、いたたまれない気持ちになる。
「……………………」
「……………………」
「………………がんばれ」
「ごめん、うちのクラス勝てないよ」
相手は誰だ。それが問題だ。
「佐狐君もじゃん」
「うそ、夫婦揃って?」
佐狐の手元は、俺が引いたものと同じ棒を握っている。口を強く結び、いかにも機嫌が悪いです最悪ですと言いたげに俺を見下ろした。
一部からは夫婦だとはやし立て、否定の言葉も出てこなかった。走馬灯のように嫌がらせの数々が浮かんでは消え、黒板の二人三脚の文字に頭を振った。
「じゃあ、二人三脚は仁神君と佐狐君で決まりね」
夫婦だの結婚式には呼んでくれだの、好き勝手な発言は、心が外に捨てられたようだ。
クラスのために練習はしないといけない。これ以上恥をかきたくない。幸春さんにも見られるだろうし、ちょっとは良いところを見せたい。けれど、どこで? 学校内となると今のようにからかいの目で見られるし、稲荷島は論外だ。誰かに変わってもらうこともできない。拓郎から逃げているようで、プライドが許さなかった。
「バージンロードを歩くと思えばいいじゃん」
「誰と歩くかは、俺が決めることだから」
自分が思うよりも低めの声が出て、俺が一番驚いた。同じクラスに幸春さんがいないのが唯一の救いだった。
フェリーを降りると、待ち構えていたのは数匹のキツネたちだ。稲荷島ではキツネがそこら中にいて、いつでもどこでも会うことができる。奈良公園では鹿、稲荷島ではキツネ。対抗意識を持つ住人もいるくらいで、観光客のお目当てでもある。
「どうしたの? おやつは今日ないよ?」
まずは撫でろと、四本の足を上に向けた。お腹やあごを撫でると気持ち良さそうに体をひねる。犬と猫が合わさったような生き物だ。
「もう行くよ? 一緒に来る?」
キツネは起き上がると、俺より先に行ってしまった。先に行っては待ち、どこかに案内しているようだった。
鞄を家に預け、キツネについていく。一匹だったキツネは二匹に増え、もう一匹は足下に絡みついて歩きにくい。幸せな悩みだ。
キツネの案内で着いたのは、島で一番大きな神社だ。古くて大きな建物が境内に並ぶが、手入れのおかげかそれほど古さは感じない。儀式はここで行われる。俺の姿にキツネたちは顔を上げるが、興味がなさそうにまた寝始めた。
「もっと奥に行くの?」
境内を奥に進んでいくと、誰かの足音が聞こえた。歩いているというより、強く地面を蹴っている音。木の陰から覗くと、ジャージ姿の拓郎だった。何度も地面を蹴り、短距離を全力で走っている。
しばらく呆然と眺めていると、拓郎はタオルを取って木の根元に座った。
「黙って見てんじゃねえよ」
「ここで練習してんの?」
「…………悪いかよ」
「悪いなんて言ってないじゃん。意外だって思っただけ。体育祭はあんなに嫌がってたのに」
「来い」
こうしてまともに会話を交わしたのはいつぶりだろう。記憶がない。
隣に座ると、拓郎は鞄から赤い紐を出し、俺の右足と拓郎の左足を結んだ。
「練習するの? ここで?」
「誰にも見られたくないんだろ」
「まあ……そうでしょ」
見ているのはキツネだけだ。何が始まるんだと、寝ていた子たちも起き始める。
拓郎の手が俺の肩に触れる。運動していたせいか体温が高い。大きくてごつごつしていて、まさに男の人の手だ。
「よーい、スタート」
「わっ、ちょっと」
一歩を踏み出す直前、俺は派手に前に倒れた。拓郎は強い踏ん張りでどうにか転ばずに済んだが、交差する紐が痛い。
「本っ当にどうしようもねえな。立てよ、もう一回」
二度三度とやってみて、分かったことがある。拓郎は俺に合わせない。なら、俺が合わせればいい。
「拓郎の出したいスピードに合わせるようにするから、歩幅は俺に合わせてよ。上背違うんだし」
佐狐家の人はみんな背が高い。血筋としか思えない。
二桁目の正直が生きるときがきた。スピードと歩幅が合致すれば、それなりの二人三脚が出来上がる。回した背中の肉を掴みすぎたせいか、隣からはとめどなく文句が連なるが、男の勲章だと思えばいいとつっぱねた。いつも俺ばかり言われっぱなしだから、たまにはいいだろう。
夕日が沈む頃、神社を出ると、キツネたちもぞろぞろと後をついてくる。いくらべったりついて来ても、家の中までは入ろうとしないので、節度をわきまえている生き物だ。
「遅かったじゃない。拓郎君と一緒だったの?」
「…………まあ、たまたま」
「仲良くやんなさいね」
げんなりしながら自室に戻り、空気の入れ替えをしようとカーテンを開けた。
「…………春兄」
「遅かったね」
「うん、体育祭の練習してた」
「わざわざ?」
「くじ引きで、出たくない競技に出ることになって」
事情を説明すると、幸春さんは目がまん丸になり、おかしそうに笑う。
「拓郎と二人三脚かあ。あいつ合わせようとしないだろ?」
「しないしない。だから歩幅だけ合わせてって言った。そしたらなんとか形にはなれたよ」
「当日が楽しみだね」
「俺は楽しくないけど、春兄の走るとこはみたい。スマホで写真撮ってもいい?」
「楽しいかなあ、それ」
彼はにかんでいる。嫌ではないと思いたい。
「俺もたくさん湊を撮ろう」
「えーっ、また転んでる写真?」
「あれはたまたま撮れただけだよ。シャッターチャンスで転ぶからね」
「活躍するから、もっとかっこいいところ撮ってほしい」
「分かった分かった」
下で母がご飯だと呼んでいる。名残惜しくて離れられないでいると「うちもご飯だよ」と、幸春さんが先に手を振ってくれた。僕も振り返し、カーテンを閉めた。
テーブルに並ぶハンバーグは、豆腐と鯖のハンバーグらしい。今日も父の帰りは遅い。母と二人で手を合わせ、さっそくハンバーグを割った。
「体育祭は何に出るの?」
「なんで知ってるの?」
「知らないはずがないでしょう? こんな小さな村だとすぐに噂は広まるんだから」
当然と言えば当然だけれど、あまり触れてほしくない話題だ。
「二人三脚と……借り物」
「二人三脚は誰と?」
「………………拓郎」
「まあ、それで練習してきたのね。二人でやるって言ったの?」
「それは絶対にない。たまたまだよ」
「ふふ……そうなのね」
母は楽しそうだ。母が笑うと嬉しいが、話題が話題なだけになんとも複雑。
「お願いがあるんだけど、魚釣ってきてくれないかしら」
「魚? 明日の分?」
「そうなの。卵も切らしてしまって、明日の朝に食べるおかずがないのよ」
「いいよ。食べたら行ってくるよ」
明日は和食に決定だ。
都会だと、夜に子供だけで外を歩くと変質者が出るらしい。村でも暗くなったら出て歩くなと教えられるが、村の誰かは常にうろうろしているので、安心感はある。
夕食の後は一度部屋に戻って上着を羽織った。顔が見たいな、なんて乙女チックなことを思い、カーテンをめくってみた。
「………………びっくりした」
「やあ、奇遇。ご飯は食べた?」
「うん、魚のハンバーグだった」
「いいね。うちも魚だよ」
偶然であっても、こういう偶然は何度あってもいい。
幸春さんは窓に肩肘をつき、ジュースを飲んでいた。
「どこかに行くの?」
「母さんに魚釣ってこいって言われた」
「俺もついていっていい?」
「え」
「明日は学校休みだし」
神様、ありがとう。きっと日頃の行いが良いおかげだ。品行方正で真面目に生きてきて本当に良かった。
玄関で待っていると、なぜか幸春さんもバケツと釣り竿を持って出てきた。
「湊の付き合いで行ってくるって伝えたら、俺もなぜか頼まれたよ。飲みながら釣りしようか」
「やった」
バケツの中には、炭酸飲料のペットボトルが入っている。
「それ、ふたつあるけど拓郎の分だったりする?」
「する。ストロベリーキャンディーを湊から奪い取ったから、お返し」
「わー、うれしいっ」
キャンディーがソーダ水になって戻ってきた。ひと仕事を終えて手に入れてくれたジュースだ。きっと普段よりも美味しく感じるはず。
「ふたりっきりになるの、五月のゴールデンウィークぶりだね」
いつもよりも低く、囁くような声は、緊張感を高めるのに充分だった。
「うん……そうだね。春兄が忙しいから、なかなかこういう機会ないよ」
「遊んでいるだけじゃ駄目な年齢になってきたってことだね。勉強もあるし、学校での生活もあるし」
そっと繋がれる手は、どんな意味が込められているのだろう。
友愛、家族、信頼、恋。四つ目の、最後だといい。こういうときに限ってキツネは近寄ってこないし、村人にも会わない。汗ばむ手に震えが起こり、何気ない幸せがずっと続いてほしいと願った。
黒板には大きな文字で、体育祭と書かれている。今時、新任教師でもあんな風にでかでかと書く人は見たことがない。
「勝ったところで何かもらえるわけじゃねえし」
拓郎が呟くと、教壇にいる委員長は鋭い目を向ける。
「一生懸命やるという概念は、君にはないのか?」
「あるに決まってんだろ。人から与えられてやる気を出すのは苦手なんだよ。体育祭みたいにな」
口を開こうとする委員長の前に、副委員長がすかさず間に入る。
「ほらあ、どうせやんなきゃいけないんだから、さっさと決めようよ」
玉入れ、綱引き、千メートル走、百メートル走、部活対抗リレー、借り物競争、二人三脚。メインは千メートル走で、きっと一番盛り上がる競技。この中で一つは出ないといけない。絶望レベルの種目の中で、神が差し出したのは玉入れだ。これしかない。
先着順なら絶対に一番だったのに、委員長は「人数が多いのでくじ引きにします」と残酷なことを言う。
多分厳選なるくじの結果、俺は漏れた。面倒くさそうにしていた拓郎も同じ結果だった。第二候補の綱引きも残念な結果となった。
「借り物……」
「仁神君、出てみたら?」
「運動できないんだけど……」
跳び箱ですら、クラスメイトがいる中で無様な姿を晒している。
「距離なんてたった五十メートルよ。いけるわ」
「俺の運動能力、舐めてるでしょ?」
「大丈夫。借り物は運なのよ」
丸め込まれた俺は、結局借り物競争に出る羽目になった。残りは千メートル走と二人三脚だ。リレーは体育の成績順であっさりと決まり、二人三脚はリレー以上に人気がなく、これもくじ引きとなった。
万が一、俺が選ばれたらどうしようと、リレーを走る直前の心臓を植えられた気分だ。あのまま激しく動き続けたら、俺は死んでしまうかもしれないと、どうでもいいことを考えていた小学生時代。結果、派手に転んで笑い者になった。泣くのをこらえて走りきり、手を差し伸べてくれたのは、言わずとも俺のヒーローだ。
順番が回ってきてくじを取ると、木の棒の先には赤い印。副委員長と顔を合わせ、いたたまれない気持ちになる。
「……………………」
「……………………」
「………………がんばれ」
「ごめん、うちのクラス勝てないよ」
相手は誰だ。それが問題だ。
「佐狐君もじゃん」
「うそ、夫婦揃って?」
佐狐の手元は、俺が引いたものと同じ棒を握っている。口を強く結び、いかにも機嫌が悪いです最悪ですと言いたげに俺を見下ろした。
一部からは夫婦だとはやし立て、否定の言葉も出てこなかった。走馬灯のように嫌がらせの数々が浮かんでは消え、黒板の二人三脚の文字に頭を振った。
「じゃあ、二人三脚は仁神君と佐狐君で決まりね」
夫婦だの結婚式には呼んでくれだの、好き勝手な発言は、心が外に捨てられたようだ。
クラスのために練習はしないといけない。これ以上恥をかきたくない。幸春さんにも見られるだろうし、ちょっとは良いところを見せたい。けれど、どこで? 学校内となると今のようにからかいの目で見られるし、稲荷島は論外だ。誰かに変わってもらうこともできない。拓郎から逃げているようで、プライドが許さなかった。
「バージンロードを歩くと思えばいいじゃん」
「誰と歩くかは、俺が決めることだから」
自分が思うよりも低めの声が出て、俺が一番驚いた。同じクラスに幸春さんがいないのが唯一の救いだった。
フェリーを降りると、待ち構えていたのは数匹のキツネたちだ。稲荷島ではキツネがそこら中にいて、いつでもどこでも会うことができる。奈良公園では鹿、稲荷島ではキツネ。対抗意識を持つ住人もいるくらいで、観光客のお目当てでもある。
「どうしたの? おやつは今日ないよ?」
まずは撫でろと、四本の足を上に向けた。お腹やあごを撫でると気持ち良さそうに体をひねる。犬と猫が合わさったような生き物だ。
「もう行くよ? 一緒に来る?」
キツネは起き上がると、俺より先に行ってしまった。先に行っては待ち、どこかに案内しているようだった。
鞄を家に預け、キツネについていく。一匹だったキツネは二匹に増え、もう一匹は足下に絡みついて歩きにくい。幸せな悩みだ。
キツネの案内で着いたのは、島で一番大きな神社だ。古くて大きな建物が境内に並ぶが、手入れのおかげかそれほど古さは感じない。儀式はここで行われる。俺の姿にキツネたちは顔を上げるが、興味がなさそうにまた寝始めた。
「もっと奥に行くの?」
境内を奥に進んでいくと、誰かの足音が聞こえた。歩いているというより、強く地面を蹴っている音。木の陰から覗くと、ジャージ姿の拓郎だった。何度も地面を蹴り、短距離を全力で走っている。
しばらく呆然と眺めていると、拓郎はタオルを取って木の根元に座った。
「黙って見てんじゃねえよ」
「ここで練習してんの?」
「…………悪いかよ」
「悪いなんて言ってないじゃん。意外だって思っただけ。体育祭はあんなに嫌がってたのに」
「来い」
こうしてまともに会話を交わしたのはいつぶりだろう。記憶がない。
隣に座ると、拓郎は鞄から赤い紐を出し、俺の右足と拓郎の左足を結んだ。
「練習するの? ここで?」
「誰にも見られたくないんだろ」
「まあ……そうでしょ」
見ているのはキツネだけだ。何が始まるんだと、寝ていた子たちも起き始める。
拓郎の手が俺の肩に触れる。運動していたせいか体温が高い。大きくてごつごつしていて、まさに男の人の手だ。
「よーい、スタート」
「わっ、ちょっと」
一歩を踏み出す直前、俺は派手に前に倒れた。拓郎は強い踏ん張りでどうにか転ばずに済んだが、交差する紐が痛い。
「本っ当にどうしようもねえな。立てよ、もう一回」
二度三度とやってみて、分かったことがある。拓郎は俺に合わせない。なら、俺が合わせればいい。
「拓郎の出したいスピードに合わせるようにするから、歩幅は俺に合わせてよ。上背違うんだし」
佐狐家の人はみんな背が高い。血筋としか思えない。
二桁目の正直が生きるときがきた。スピードと歩幅が合致すれば、それなりの二人三脚が出来上がる。回した背中の肉を掴みすぎたせいか、隣からはとめどなく文句が連なるが、男の勲章だと思えばいいとつっぱねた。いつも俺ばかり言われっぱなしだから、たまにはいいだろう。
夕日が沈む頃、神社を出ると、キツネたちもぞろぞろと後をついてくる。いくらべったりついて来ても、家の中までは入ろうとしないので、節度をわきまえている生き物だ。
「遅かったじゃない。拓郎君と一緒だったの?」
「…………まあ、たまたま」
「仲良くやんなさいね」
げんなりしながら自室に戻り、空気の入れ替えをしようとカーテンを開けた。
「…………春兄」
「遅かったね」
「うん、体育祭の練習してた」
「わざわざ?」
「くじ引きで、出たくない競技に出ることになって」
事情を説明すると、幸春さんは目がまん丸になり、おかしそうに笑う。
「拓郎と二人三脚かあ。あいつ合わせようとしないだろ?」
「しないしない。だから歩幅だけ合わせてって言った。そしたらなんとか形にはなれたよ」
「当日が楽しみだね」
「俺は楽しくないけど、春兄の走るとこはみたい。スマホで写真撮ってもいい?」
「楽しいかなあ、それ」
彼はにかんでいる。嫌ではないと思いたい。
「俺もたくさん湊を撮ろう」
「えーっ、また転んでる写真?」
「あれはたまたま撮れただけだよ。シャッターチャンスで転ぶからね」
「活躍するから、もっとかっこいいところ撮ってほしい」
「分かった分かった」
下で母がご飯だと呼んでいる。名残惜しくて離れられないでいると「うちもご飯だよ」と、幸春さんが先に手を振ってくれた。僕も振り返し、カーテンを閉めた。
テーブルに並ぶハンバーグは、豆腐と鯖のハンバーグらしい。今日も父の帰りは遅い。母と二人で手を合わせ、さっそくハンバーグを割った。
「体育祭は何に出るの?」
「なんで知ってるの?」
「知らないはずがないでしょう? こんな小さな村だとすぐに噂は広まるんだから」
当然と言えば当然だけれど、あまり触れてほしくない話題だ。
「二人三脚と……借り物」
「二人三脚は誰と?」
「………………拓郎」
「まあ、それで練習してきたのね。二人でやるって言ったの?」
「それは絶対にない。たまたまだよ」
「ふふ……そうなのね」
母は楽しそうだ。母が笑うと嬉しいが、話題が話題なだけになんとも複雑。
「お願いがあるんだけど、魚釣ってきてくれないかしら」
「魚? 明日の分?」
「そうなの。卵も切らしてしまって、明日の朝に食べるおかずがないのよ」
「いいよ。食べたら行ってくるよ」
明日は和食に決定だ。
都会だと、夜に子供だけで外を歩くと変質者が出るらしい。村でも暗くなったら出て歩くなと教えられるが、村の誰かは常にうろうろしているので、安心感はある。
夕食の後は一度部屋に戻って上着を羽織った。顔が見たいな、なんて乙女チックなことを思い、カーテンをめくってみた。
「………………びっくりした」
「やあ、奇遇。ご飯は食べた?」
「うん、魚のハンバーグだった」
「いいね。うちも魚だよ」
偶然であっても、こういう偶然は何度あってもいい。
幸春さんは窓に肩肘をつき、ジュースを飲んでいた。
「どこかに行くの?」
「母さんに魚釣ってこいって言われた」
「俺もついていっていい?」
「え」
「明日は学校休みだし」
神様、ありがとう。きっと日頃の行いが良いおかげだ。品行方正で真面目に生きてきて本当に良かった。
玄関で待っていると、なぜか幸春さんもバケツと釣り竿を持って出てきた。
「湊の付き合いで行ってくるって伝えたら、俺もなぜか頼まれたよ。飲みながら釣りしようか」
「やった」
バケツの中には、炭酸飲料のペットボトルが入っている。
「それ、ふたつあるけど拓郎の分だったりする?」
「する。ストロベリーキャンディーを湊から奪い取ったから、お返し」
「わー、うれしいっ」
キャンディーがソーダ水になって戻ってきた。ひと仕事を終えて手に入れてくれたジュースだ。きっと普段よりも美味しく感じるはず。
「ふたりっきりになるの、五月のゴールデンウィークぶりだね」
いつもよりも低く、囁くような声は、緊張感を高めるのに充分だった。
「うん……そうだね。春兄が忙しいから、なかなかこういう機会ないよ」
「遊んでいるだけじゃ駄目な年齢になってきたってことだね。勉強もあるし、学校での生活もあるし」
そっと繋がれる手は、どんな意味が込められているのだろう。
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