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7-冬支度
038 ジビエ
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038 ジビエ
──悠、助けて下さい。
そうメッセージが届いたのは講義が終了した十五時過ぎだった。
──助けて下さい、ジビエです。
立て続けに三度目のメッセージもすぐに届いた。
──冷凍ジビエです。
「ルカさん……ジビエってなに?」
悠は困惑したまま、ぽつりと呟いた。
アンティークショップ・SHIRAYUKIのドアを開けて奥の部屋に行くと、ルカが腕を組みながら佇んでいた。テーブルの上に置かれていたのは、発砲スチロールだ。
「どうしたんです?これ」
「前に仕事で出張したときに、とある女性を助けたのですが」
「へえ!ルカさんらしいです」
「大したことではございませんが、えらく感激をされまして。感謝の気持ちだと仰り、一つは丁重にお断りをしたのですが、もう一つは断り切れず、ジビエを送って下さるのです」
「何があったんです?」
田舎町に骨董品の鑑定のため、出張に訪れたときの話だ。深碧色をした木々が生い茂り、透明感のある川では魚が泳ぎ、自然に溢れた村だった。
魚釣りに出かけた女性が帰ってこないと連絡が入り、たまたま仕事で居合わせたルカも捜索のため、森の中へ足を踏み入れた。すぐに発見できたのだが、女性は足を滑らせ地面に横たわり、身体半分が川辺で流されそうな状態での発見だった。
その場で人工呼吸を何度か行い、息は吹き返したのだが立って歩けるほど回復はしていない。ルカはおぶったまま、足場の悪い道を戻ったのだ。
「素敵な話です……」
「人工呼吸をして、助けたのです」
「はい」
「人工呼吸です」
「はい」
「………………」
「ん?」
「もういいです。別に口をつけたわけではありませんから」
「はい、口をつけなくても息は吹き込めますし」
ルカは話題を変えようと、咳払いをした。
「女性は元気になったのですが、村の方はぜひお礼がしたいと数日間足止めを食らったのです。妙な雰囲気になりました」
「妙な雰囲気?」
「私が一部屋借りて布団で休んでいると、廊下から物音がするのです。女性は白い襦袢を身につけただけの格好で、襖を開けました」
ルカの顔色が青ざめているように見えた。
「悍ましい」
「それは……うわあ」
「理解しましたね?村ぐるみで、私とその女性を閨に一晩同衾させようとしたのです」
悍ましい、と二度目の呟きだ。
「村の方々は嫁をもらうのになぜそんなに拒むのだと言い張りました。日本にそのような風習があるとは存じ上げませんでした」
「いや、僕のところも田舎ですけど、そんなの聞いたことないですよ」
「とにかく手厚い歓迎は断固としてお断りしたのです。それならばと、村で食べられているジビエをぜひ送らせてくれと、そちらは断り切れなかったのです」
「そうだ、そもそもジビエってなんですか?謎のメッセージでしたよ」
ルカは発砲スチロールの蓋を開けた。真空パックをされた塊が数袋入っている。
「これ……お肉?」
「正解です。鹿肉です」
ジビエとは、フランス語で食用として狩猟された獣肉のことだ。フランスでは野ウサギや鹿、鳥などがよく食べられている。
「そういえば、ノアさんのところで野ウサギのお肉をごちそうになりました。塩を振って、パンに挟んで頂きましたがすごく美味しかったです」
「懐かしい。日本ではあまり主流ではありませんからね」
「それで、助けて下さいってどういう意味なんですか?」
「……悠、私はあなたに車の運転ができないと弱点を漏らしました」
「弱点かどうか分からないですけど」
「実は……壊滅的なのです。料理の腕前が」
沈黙が流れ、ルカは小さく嘆息を吐いた。
「これがもう一つの弱点なのです」
「はあ……それも弱点と言えるかどうか」
「幻滅しましたか?」
「まさか。ちょっと意外でしたけど」
ルカはほっとし、微笑を浮かべた。
巨大な肉の塊は、到底一人で食べるのも料理をするのも至難の業だ。
「これを僕に下ごしらえをしてほしいってことですよね?」
「下ごしらえ……で済めばいいのですが」
「食べたい料理はありますか?」
「カレーです」
「カレーは美味しそうですね。鹿肉と合いそう。あとは?」
「お任せします。まずはカレーです。私はカレーがいい」
料理をしようにも、SHIRAYUKIには簡易キッチンしか備わっていない。小さな冷蔵庫には、ジビエは入りきらないね。冷凍はされているが、時間が経てば冬とはいえ傷んでしまうだろう。
ルカは発砲スチロールを持つと、ついてくるように促した。エレベーターに乗り、向かう先はビルの五階。え、という悠の独り言に笑い、ルカは部屋の鍵を開けた。初めて悠が降りる階だった。
「すごい……なにここ」
「秘密基地です」
まるでマンションの一室だ。キッチンやリビングも備わり、簡易ではない、最新の大きな冷蔵庫もある。この大きさならば、ジビエもしっかり入るだろう。
「疲労が溜まったとき、帰宅せずにここで一晩明かすこともあるのです。仮の宿、といったところでしょうか」
「すごいと素敵しか言葉が出てこないです」
「アンティークのものはほとんど置いてはいません。ネットで購入した家具ばかりですが、使い勝手は悪くないですよ」
「SHIRAYUKIと違って洋風という感じですね。僕、こういうデザインも好きだなあ」
「それは良かった。実は師匠に、アルバイトとして長いのだから合い鍵を作ったらどうかと言われていたのです。仕事が多忙でなかなか作りに行けませんが、悠の分も作って頂きましょう」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん。使用するのは私と師匠、悠の三人です」
使わない分のジビエは冷凍庫にしまい、まずは一番大きな肉の塊を処理することにした。一口サイズに切り、タッパーに入れ電子レンジで肉を解凍する。溶かしている間に、薄切りや厚切りなど、いろんな形に切り分けてパックに保存する。
本日食べる分は、ヨーグルトを上からかけ、肉の臭みを取り除きながら柔らかくする。米を洗い炊飯器にセットし、他の野菜を細かく切った。悠は時間節約のために、カレーに使う野菜はあまり大きく切らない。
柔らかくなった鹿肉を炒め、野菜も鍋に入れた。水を入れ、煮立ったら最後にカレー粉を足しながら煮込んでいく。
冷蔵庫にはアボカド、ブロッコリー、トマトなどが入っていた。一口大に切り分けると適当に盛り付け、テーブルに並べる。ご飯が炊き上がり、カレーも皿によそった。
「どうでしょう?鹿肉は初めて料理したんですが」
「魔法でも使ったかのようです」
「生臭いと思ったんですが、草食動物だけあって全然臭みはないんですよね。一応、ヨーグルトで柔らかくしましたが。あとは血抜き作業をする方の腕次第みたいです。残りのお肉も下ごしらえしてますから、いつでも食べられます。フライパンに並べて焼くだけです」
「その作業すらままならないのですよ」
「なら、明日も作りましょう。端っこのお肉は干し肉にすれば、ちょっとしたおやつになります」
「ジャーキーはチーズやワインと良く合います。悠の成人のお祝いもまだしていませんから、近いうちに飲みましょう」
米の一粒も残さず平らげたルカは、今度はゼリーが食べたいと声を漏らした。悠はふとあることに気づく。
冷蔵庫にあるたくさんの野菜、カレー粉、米。なのにルカは料理ができないと言う。まるで今日、悠がカレーを作りに来るのを予測したように材料が揃っていた。ソファーでテーブルを拭いているルカは、上機嫌で喜色満面だ。
悠は深く考えるのは止めようと、デザートのゼリーを皿に盛った。
──悠、助けて下さい。
そうメッセージが届いたのは講義が終了した十五時過ぎだった。
──助けて下さい、ジビエです。
立て続けに三度目のメッセージもすぐに届いた。
──冷凍ジビエです。
「ルカさん……ジビエってなに?」
悠は困惑したまま、ぽつりと呟いた。
アンティークショップ・SHIRAYUKIのドアを開けて奥の部屋に行くと、ルカが腕を組みながら佇んでいた。テーブルの上に置かれていたのは、発砲スチロールだ。
「どうしたんです?これ」
「前に仕事で出張したときに、とある女性を助けたのですが」
「へえ!ルカさんらしいです」
「大したことではございませんが、えらく感激をされまして。感謝の気持ちだと仰り、一つは丁重にお断りをしたのですが、もう一つは断り切れず、ジビエを送って下さるのです」
「何があったんです?」
田舎町に骨董品の鑑定のため、出張に訪れたときの話だ。深碧色をした木々が生い茂り、透明感のある川では魚が泳ぎ、自然に溢れた村だった。
魚釣りに出かけた女性が帰ってこないと連絡が入り、たまたま仕事で居合わせたルカも捜索のため、森の中へ足を踏み入れた。すぐに発見できたのだが、女性は足を滑らせ地面に横たわり、身体半分が川辺で流されそうな状態での発見だった。
その場で人工呼吸を何度か行い、息は吹き返したのだが立って歩けるほど回復はしていない。ルカはおぶったまま、足場の悪い道を戻ったのだ。
「素敵な話です……」
「人工呼吸をして、助けたのです」
「はい」
「人工呼吸です」
「はい」
「………………」
「ん?」
「もういいです。別に口をつけたわけではありませんから」
「はい、口をつけなくても息は吹き込めますし」
ルカは話題を変えようと、咳払いをした。
「女性は元気になったのですが、村の方はぜひお礼がしたいと数日間足止めを食らったのです。妙な雰囲気になりました」
「妙な雰囲気?」
「私が一部屋借りて布団で休んでいると、廊下から物音がするのです。女性は白い襦袢を身につけただけの格好で、襖を開けました」
ルカの顔色が青ざめているように見えた。
「悍ましい」
「それは……うわあ」
「理解しましたね?村ぐるみで、私とその女性を閨に一晩同衾させようとしたのです」
悍ましい、と二度目の呟きだ。
「村の方々は嫁をもらうのになぜそんなに拒むのだと言い張りました。日本にそのような風習があるとは存じ上げませんでした」
「いや、僕のところも田舎ですけど、そんなの聞いたことないですよ」
「とにかく手厚い歓迎は断固としてお断りしたのです。それならばと、村で食べられているジビエをぜひ送らせてくれと、そちらは断り切れなかったのです」
「そうだ、そもそもジビエってなんですか?謎のメッセージでしたよ」
ルカは発砲スチロールの蓋を開けた。真空パックをされた塊が数袋入っている。
「これ……お肉?」
「正解です。鹿肉です」
ジビエとは、フランス語で食用として狩猟された獣肉のことだ。フランスでは野ウサギや鹿、鳥などがよく食べられている。
「そういえば、ノアさんのところで野ウサギのお肉をごちそうになりました。塩を振って、パンに挟んで頂きましたがすごく美味しかったです」
「懐かしい。日本ではあまり主流ではありませんからね」
「それで、助けて下さいってどういう意味なんですか?」
「……悠、私はあなたに車の運転ができないと弱点を漏らしました」
「弱点かどうか分からないですけど」
「実は……壊滅的なのです。料理の腕前が」
沈黙が流れ、ルカは小さく嘆息を吐いた。
「これがもう一つの弱点なのです」
「はあ……それも弱点と言えるかどうか」
「幻滅しましたか?」
「まさか。ちょっと意外でしたけど」
ルカはほっとし、微笑を浮かべた。
巨大な肉の塊は、到底一人で食べるのも料理をするのも至難の業だ。
「これを僕に下ごしらえをしてほしいってことですよね?」
「下ごしらえ……で済めばいいのですが」
「食べたい料理はありますか?」
「カレーです」
「カレーは美味しそうですね。鹿肉と合いそう。あとは?」
「お任せします。まずはカレーです。私はカレーがいい」
料理をしようにも、SHIRAYUKIには簡易キッチンしか備わっていない。小さな冷蔵庫には、ジビエは入りきらないね。冷凍はされているが、時間が経てば冬とはいえ傷んでしまうだろう。
ルカは発砲スチロールを持つと、ついてくるように促した。エレベーターに乗り、向かう先はビルの五階。え、という悠の独り言に笑い、ルカは部屋の鍵を開けた。初めて悠が降りる階だった。
「すごい……なにここ」
「秘密基地です」
まるでマンションの一室だ。キッチンやリビングも備わり、簡易ではない、最新の大きな冷蔵庫もある。この大きさならば、ジビエもしっかり入るだろう。
「疲労が溜まったとき、帰宅せずにここで一晩明かすこともあるのです。仮の宿、といったところでしょうか」
「すごいと素敵しか言葉が出てこないです」
「アンティークのものはほとんど置いてはいません。ネットで購入した家具ばかりですが、使い勝手は悪くないですよ」
「SHIRAYUKIと違って洋風という感じですね。僕、こういうデザインも好きだなあ」
「それは良かった。実は師匠に、アルバイトとして長いのだから合い鍵を作ったらどうかと言われていたのです。仕事が多忙でなかなか作りに行けませんが、悠の分も作って頂きましょう」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん。使用するのは私と師匠、悠の三人です」
使わない分のジビエは冷凍庫にしまい、まずは一番大きな肉の塊を処理することにした。一口サイズに切り、タッパーに入れ電子レンジで肉を解凍する。溶かしている間に、薄切りや厚切りなど、いろんな形に切り分けてパックに保存する。
本日食べる分は、ヨーグルトを上からかけ、肉の臭みを取り除きながら柔らかくする。米を洗い炊飯器にセットし、他の野菜を細かく切った。悠は時間節約のために、カレーに使う野菜はあまり大きく切らない。
柔らかくなった鹿肉を炒め、野菜も鍋に入れた。水を入れ、煮立ったら最後にカレー粉を足しながら煮込んでいく。
冷蔵庫にはアボカド、ブロッコリー、トマトなどが入っていた。一口大に切り分けると適当に盛り付け、テーブルに並べる。ご飯が炊き上がり、カレーも皿によそった。
「どうでしょう?鹿肉は初めて料理したんですが」
「魔法でも使ったかのようです」
「生臭いと思ったんですが、草食動物だけあって全然臭みはないんですよね。一応、ヨーグルトで柔らかくしましたが。あとは血抜き作業をする方の腕次第みたいです。残りのお肉も下ごしらえしてますから、いつでも食べられます。フライパンに並べて焼くだけです」
「その作業すらままならないのですよ」
「なら、明日も作りましょう。端っこのお肉は干し肉にすれば、ちょっとしたおやつになります」
「ジャーキーはチーズやワインと良く合います。悠の成人のお祝いもまだしていませんから、近いうちに飲みましょう」
米の一粒も残さず平らげたルカは、今度はゼリーが食べたいと声を漏らした。悠はふとあることに気づく。
冷蔵庫にあるたくさんの野菜、カレー粉、米。なのにルカは料理ができないと言う。まるで今日、悠がカレーを作りに来るのを予測したように材料が揃っていた。ソファーでテーブルを拭いているルカは、上機嫌で喜色満面だ。
悠は深く考えるのは止めようと、デザートのゼリーを皿に盛った。
応援ありがとうございます!
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