霊救師ルカ

不来方しい

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11-悠の過去

062 重なる熱

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 普段から目立つ行動はしないが、仮にも義理の父親となる人物がやってきた日以来、気持ち目立つ行動は控えていた。
 まだ一週間ほどであるが、何の音沙汰もなく日々が過ぎていく。授業を受け、復習をし、図書館で借りた本を読む。学生としては理想的な毎日を送っている。変化があったことといえば、ルカから日常を綴るメッセージが届いたことだ。
──北海道にいます。勉強ははかどっていますか?
 要約すると、無事でいるか、である。
──いつも通り過ごしています。お気をつけて。
 メッセージを送信すると、悠は読みかけの本に視線を落とした。
 バイトがない日は、こうして学校の図書館で本を読みゆっくりと時間を送る。流れに身を任せ、紙を捲るのは電子書籍とは違う良さがある。悠は本の匂いが好きだった。
「景森さん、落としましたよ」
 斜め後ろから名前を呼ばれ、悠は顔を上げた。上げてしまった。
「景森さんのではありませんか?」
 二度、男は名前を呼んだ。悠は振り返るが、サラリーマン風の、まったく見覚えない男性がペンを持つ手を広げている。
「景森さんのではないのですか?」
 これで三度目。背中からぞわりと虫が這うような感覚が、頭の先までなだれ込む。脳の危険察知システムが直ちに動き出した。
「何のことですか?」
「あれ?ここに落ちてたんですけど。景森さんのではないみたいですね」
 悠はショルダーバックを肩に下げ、読みかけの本を棚に戻した。
 長い廊下を歩いて一度振り返ると、男は図書室から覗いている。悠は手を後ろに回した。得体の知れないものを見たときのようにぞわりと鳥肌が立ち、悠は正門まで駆け抜けた。ついてくる気配はない。
 電車に乗り、ひとまず池袋駅に向かった。着いた後、悠はどうしようか必死に頭を働かせた。頭の回転が早いルカならどのような判断を下すか。今はルカは北海道だ。今日中には戻らない。ならばと、悠は足を止めずに歩き出した。向かう先は自分の家ではない、SHIRAYUKIのあるビル五階だ。
 細い路地はさすがに人通りもなくなるが、その分誰かが追いかけてくればすぐに判る。幸いにも誰も背後から誰かが来る様子はない。
 ルカの靴もなく、心にぽっかりと穴が開いた。気分を落ち着かせるため、悠はほうじ茶を入れた。悠自ら茶葉専門店で買い付けたもので、ついでに冷蔵庫に入っていた高級感漂うトリュフも出したが、食べていいのか判らない。五つあるうち、二つが無くなっていた。
 送るのはメッセージではない。スマホを耳に当てた。
『もしもし?』
「ルカさん」
 込み上げる声を抑え、平常心を保とうと深く息を吐いた。
『どうしました?』
「冷蔵庫のチョコですが、食べてもいいですか?」
『チョコ……ああ、トリュフですね?お気に召したのならまた購入します。召し上がれ』
「ありがとうございます」
『ところで、どうしましたか?声がとても緊張しています』
 電話越しではあったが、まだ湯気が立っているほうじ茶を飲み、喉を潤した。
「ルカさんすみません、写真撮られました」
『誰にですか?』
「順に説明します。バイトがないので、放課後は学校の図書館で本を読んでたんです。僕のことを景森さん、と声をかけてきた男性がいました」
『その方はお知り合いですか?』
「顔を見たこともありません。ペンを差し出し、また景森さんのものですかと聞いてきました。そのペンが問題なんです。型はH-008で、数年前に発売された機種のペン型のカメラです」
『なるほど』
「四回ほど名前を呼ばれました。僕は返事をせず、そのまま外に飛び出してきました」
『今は五階ですね』
「はい。ほうじ茶とトリュフで落ち着いてます。鍵も掛けましたし、追いかけてくる気配は無かったです」
『お相手の顔は覚えていますか?』
「後ろ手に何枚か写真を撮りました。僕も似たカメラを持ってるんで。これからチェックします」
『その前に、お怪我はありませんか?』
「大丈夫です。ちょっと怖かったけど。ルカさんはお仕事大丈夫ですか?どこにいます?何か変な声聞こえたんですが」
 電話からルカの声だけではなく、動物の鳴き声のようなものが届いた。
『牧場です』
「ぼ、牧場……?」
『ええ、霊救師としての仕事も依頼されました。こちらは早急に片付け、すぐにそちらへ参ります。少し不穏な空気になっておりますので』
 牛の鳴き声の他に、女性がルカを呼ぶ声が聞こえる。電話の主は誰だと騒ぐ女性に、悠は何となく察した。
「お忙しいなら写真の解析をして、ルカさんのスマホに送りますね」
『頼みます』
「こちらこそ、ご迷惑をおかけします」
『迷惑というのは、あなたに付きまとう男のことを言うのです。ではまた後ほど。それと食料はありますので、部屋から出ないように』
 ルカの声を聞き、晴れ渡ったとは言い難いが、煙霧状態からはだいぶ視界が開けた。
 悠はお茶をごくりと喉を鳴らして飲み、今度は温めのお茶を入れ、パソコンを起動させた。
 写真はそれほどのぼやけはない。素人でも解析出来そうなレベルで、作業を終わらせた。三枚のうち、一枚は使い物にならなかった。はっきり顔の写っている二枚をルカに送り、悠もパソコンと携帯端末の両方に保存する。
 時間が過ぎ去り、ルカが戻るのを待つしかない。気分を変えようと、まずはキッチンの掃除だと立ち上がった。

 差し込む光に声を唸らせ、眩しさで悠は目が覚めた。しばらく呆然としていたが、見覚えのないベッドで寝ていること、それに寝間着ではない。昨日大学から帰った格好そのままだ。カーディガンだけは畳まれて横の棚に置かれている。畳み方は悠のやり方ではない。
 リビングからは紅茶の香りがし、悠はバタバタとドアを開けた。
「ルカさんっ」
「おはようございます。そしてお待たせしました」
 朝の挨拶を交わし、まずルカはシャワールームが先だと促した。
「大変申し訳ないのですが、昨日の夜からほとんど食べ物を口にしていないのです」
「シャワーの後、何か作りますね」
「できれば、お腹に溜まりそうなものを」
「把握です」
 シャワーで汗を流した後、悠はリビングに行くとルカはソファーでうたた寝をしていた。家にも戻らず、急いで帰ってきたのだろう。キャリーバックはそのままになっている。
「ルカさんって、お家どこなんだろ……」
 ルカは悠の家を知っているが、悠は知らない。薄手の毛布をかけてやり、今度こそキッチンへ立った。
 冷蔵庫には箱が堂々と真ん中に入っている。白を基調とした箱に、山の絵が描かれていて、北海道の定番土産だ。そしてバターサンド。
 一度土産をしまい、冷凍していた食パンを取り出す。そしてソーセージとキャベツ、玉ねぎもある。
 キャベツと玉ねぎを細かく切り、フライパンで炒める。ついでにソーセージも一緒に入れた。
 トースターで焼きあがった食パンを半分に切り、側面に切り込みを入れる。野菜とソーセージを詰め、ケチャップをかければ食パンホットドッグの完成だ。
 コーンスープも準備していると、ルカが起床した。
「食事は後にします?」
「いえ……お腹が空いて眠れないのです。話したいのは山々ですが、後で少し仮眠を取っていいですか?」
「仮眠はダメです。しっかり寝て下さい」
 かなりのボリュームだったが、難なくルカの胃へ収められていく。普段はよく褒めるルカだが、噛み締めるように美味しい、と一言漏らし、その後は無言で食べ進めていった。
 まだ足りなそうだったため、悠は二つのうち一つをルカにすすめた。少し迷い、はにかみながらルカは受け取った。
「本当にご飯食べてなかったんですか?」
「夕食を勧められたのですが、お断りしました」
「どうしてです?」
「牧場の娘さんが、私の飲み物に何やら混ぜるのを目撃してしまいまして。緊急の仕事が入ったと、丁重にお断りしました」
「それ警察案件ですよ」
「ですが実際に被害に合っていません。早い帰宅を望んでいましたし、放っておきました」
「モテるのって辛いんですね……」
「ジンギスカンも好きですが、私は悠の作ったホットドッグの方が好きです」
「これくらいならいくらでも作りますよ」
 ルカは小さな欠伸をし、恥ずかしそうに笑みを零した。
「片付けは僕がやりますので、ルカさんはまず寝て下さい」
「すみません、あなたの話を伺いたいのですが、しっかり体調を整えてから始めたいのです」
「はい、大丈夫です」
「ではお休みなさい。玄関から出ないように」
 霊救師として動く可能性もある。体調が悪化したままだと、動くに動けない。欠伸を噛み締めたルカは頭を下げ、ブォーナノッテと呟いた。

 しっかり身なりを整えたルカは紅茶を飲みながら、パソコンに映る男をじっと見た。
「あなたが送ってくれた写真も拝見しましたが、見覚えのない男性です」
 男だけではなく、風景なども細かくチェックし、ルカは首を振った。
「悠も見覚えがないのですね?」
「はい。大体『景森さん』なんて四回も僕を呼ぶなんて怪しすぎます」
「恐らくですが、あなたが景森悠なのを確認したかったのだと思います。暫定ではあるが確定ではない、といったところでしょうか」
「教授ではないのは確定していいと思います。盗撮をする理由がないので」
「何にせよ辿れば話は早いです」
 ルカは瞬きも忘れるほど、画像に注目し始めた。悠は彼の邪魔にならないように空になったカップをキッチンに持っていき、新しく紅茶を注いだ。
 ルカは手帳にイタリア語で何やらまとめている。
「正体は探偵でしょうか」
「にしてはお粗末すぎるところもありますが。小山春子さんについてはご存知のようです」
 ルカはぱたりと手帳を閉じた。
「僕はどう動けば良いのでしょう」
「悠、お時間はありますか?」
「もちろんです」
「ならば、ひとつです。出向きましょう」
 一寸の迷いも見せない端麗な男は、怒りに満ちた瞳を宙に寄せた。



 枝垂しだれた枝が水面につくかつかないかの瀬戸際で、ゆらゆらと揺れている。風が吹くたび心地良い水音を鳴らし、池の鯉が集まり出した。餌をもらえると思っているのだろう。
「はい、はい……多分、そうです。顔が似てたんで、はい」
 男は背後にいる人にようやく気づいた。三人の影が池まで伸び、影が被る水面は色濃く映し出されている。
「あなたは……?」
 見知らぬ外国人が、冷たい視線で佇んでいる。その横には、数時間前に会った大学生が横に張り付いていた。男は驚愕し、ベンチから転げ落ちそうになった。
「ど、どうしてここが……」
「探偵ですので判ります」
 ルカは面倒くさそうに、大事な説明をばっさりと切り捨てた。
「大学へ無断で侵入の他、盗撮まで行うとは頂けませんね」
 盗撮をしたのはお互い様だが、ルカは一切触れるつもりはない。
「ちょっと待ってくれ、事情がある。俺はこういう者なんだ」
 懐から名刺を取り出すと、ルカに渡した。
「テレビ局……?」
「ほら、よくあるだろ?生き別れの子供と連絡を取り合って、感動の再会!みたいなやつ」
「その番組の方が、盗撮とどのような関係が?」
「その子が景森悠なのか確かめてほしいって頼まれたんだよ」
「誰に?」
「えーと……それは言えない」
「警察に通報しましょう」
「把握です」
 スマホをタップすると、男は慌てて頭を振った。
「母親を名乗る人だ!」
「今まで隠し撮りをした写真などもテレビで使うつもりだったのですか?」
「それは……はい」
「警察ではなく、弁護士に相談ですね」
「把握です」
「ちょっと待って!こっちも仕事でやってんだ!」
「仕事を理由に盗撮を合法化しようと?クレイジーだ」
「ちょっとでも撮らせてくれないかな?顔はモザイクかけるからさあ。テレビに映るチャンスだよ?」
「ひとまずこれからどうしましょう」
「連絡先は存じ上げております。聞くしかないでしょうね。あなたはアパートか五階で待機」
「僕も行きます」
「許しません。あなたの身に起こったことを考えると、危険が伴います」
「……なぜ、僕が受けた仕打ちを知っている口ぶりなんですか?」
「………………」
 ルカは答えず、口を噤んだまま視線を逸らした。
「出逢った日……ですか?」
「ええ……背後の霊が、あなたを助けようと渦巻いていました。あれだけ霊に好かれ、助けられている人は珍しい。とても興味を持ちました」
「何も言わずに、知らないふりをして見守っていてくれたんですね。尚更一緒に行きます。これで全てが終わるわけじゃないけど、少しは過去と蹴りをつけたい。今がそのときなんだと思います」
「俺の話聞いてる?」
「どちらにせよ、あなたには然るべき対応を致します。盗撮の件は許し難い」
 ルカは男に向かい合い、名刺を人差し指と中指の間でかざすとポケットに入れた。断固の姿勢を向けるルカに、男はがっくりと膝をついた。

 緊張からか、悠は足下の感覚がはっきりとしなかった。胸が締めつけられるような痛みと浅い呼吸を繰り返したせいか、視界までぼやけて見えた。
「落ち着いて、深呼吸」
「はい」
「人間には三大欲求というものがありますが、それ以前に必要なことがあります。まずは酸素を取り込まないと、人は生きられません。今のあなたはそれが出来ていない。目が虚ろです」
 手が落ち着かなくなり、渇いてもいないがペットボトルの水を飲んだ。喉を通り、冷感が胃に到達し気分がいくらか落ち着いてくる。
 遠くで、子供の声がした。次第に近づいてくる声に、悠は目を向ける。年齢は重ねたが、悠が子供の頃に比べると若々しさを取り戻した女性が、子供に手を引かれるまま公園の中までやってきた。
「お兄ちゃん!」
 少女は悠の前までくると、いっぱいに見上げて太陽のような笑顔を見せた。無垢な笑顔は悠の心を締め付け、
 邪心が湧き上がった。嫌な感情ばかりが押し寄せ、やってはいけないことまでしてしまうと、拳を作るしかなかった。差し出された手を取ることが出来ず、悠は目の前が真っ暗になった。
「るか……るかね?」
「……お久しぶりですね、春子さん」
 ルカは驚いた表情を見せるが、何に驚いたのかは判らない。るかと呼ばれた悠に対してか、悠が憎しみを隠そうともしない声色だったためか。
「大きくなったわ……随分」
「………………」
「フロリーディアさんからるかが見つかったって聞いて驚いたのよ」
「………………」
「えーと……困ったわ……」
 フロリーディア。その名を呼ばれた瞬間、悠は視界が真っ赤に染まっていく。
「小山様、ご用件であれば、私が伺いましょう」
 振り上げそうになった手を押し留められたのは、ルカの言葉があったからだ。
「悠は、花蓮さんと一緒にいてもらえますか?」
 花蓮は満面の笑みを見せ、悠の手を握った。鋭い牙が向きそうになるが、堪えて頷いた。
 二人が砂場へ向かったのを見送り、ルカはベンチに座るよう促した。
「久しぶりの息子さんをご覧になり、いかがですか?」
「そうねえ……背も伸びたし、もう成人を迎えているのよね?」
「……そのようですね」
「あの子は大学生なの?」
「ご本人の許可を取っておりませんので、お話しするわけには」
 春子は渋い顔を見せるが、すぐに元通りになった。
「小山様、あなたはテレビ局へ依頼をなさいましたね?」
「そんなことまで調べがついてるの?」
「ええ」
「確かにそうです。どうしてもあの子に会いたくて。夢にまで出てくるんです」
「こうして会うことができました。どうか、テレビ局への依頼は小山様から取り消して頂けますか?」
「そうします」
 砂場では、花蓮が一人で山を作って遊んでいる。悠は手伝いもせず、無表情のまま花蓮を見下ろしていた。
「何を話したらいいのか。いざ会ってみると困りますね」
「それは息子さんもだと思います。前回お会いしたときに、あなたは息子さんに謝りたいと仰いましたが」
「……その話なんですが、謝るのは私ではなく、あの子なんです」
「…………は?」
 依頼主相手に、雰囲気とはかけ離れた声が出た。
「フロリーディアさんは田舎の出ですか?」
「いえ」
「見るからに華やかで、田舎の苦労はご存じないでしょう?酷いところです。村八分……って日本語は」
「存じ上げております」
「村八分状態でした。あの子がひとりで笑ったり、後ろに誰もいないのにブランコで押してもらったって言うし。それを回りの子供が聞き、大人に伝わり、私たち家族までもが指を差されるようになりました。それでもあの子は笑うのを止めなかった」
「区別が付かなかったのでしょう」
「そういうものですか?母のツネはあの子にばかり目をかけ、私は気持ちが離れていきました。どうして他の子と同じに生きられないのか、憎悪が募るばかりです」
「仮に、それが息子さんがあなたへ謝罪しなければならない理由だとしましょう」
 怒りを静めるために大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。喉や腹部が怒りに震え、振動する。
「真冬に野生動物の餌になれと全裸のまま山へ放置したり、同じトイレやシャワールームを使いたくないと小学生になってもオムツを履かせたり、あなた方が行った行為に関しましてはいかがお思いですか?」
「あの子が喋ったの?」
「まさか。息子さんの背後にいた霊に聞きました」
 本当はふたりが出会ったとき、ルカには景森ツネの霊が見えていた。ツネはルカに孫を助けてほしいと危険信号を送り続けていた。生々しい悪夢のような出来事に心を痛め、悠の身に起こった出来事を聞いていたが、悠には伝えていない。
「どうしたらいいのかしら」
 春子は首を傾げ、まるで判っていない様子で宙を仰いだ。その仕草は少し悠に似ていた。
「あなたはどうします?」
「私ならば二度と会いません」
「二度と会わない?血の繋がりがあっても?」
「血の繋がりとは恐ろしいものです。切りたくても切れない何かが存在します。私の大切な人も、そう話していました。小山様はご自身のためではなく、息子さんの為に会わない道を選ぶべきです」
「私の仕打ちを謝罪して、あの子は許してくれるかしら?」
 あの子を差す少年は、少女にお兄ちゃんと呼ばれても動かない。拳を作り、荒波の一切ない水面の状態で怒りを発している。
「私が息子さんの立場なら、許しません」
「やっぱりそうよね……あの子も私に謝らないでしょうし。どうしたら解決するのかしら」
「数年間の過ちをたった数分で解決など出来ません」
「それじゃあ八方塞がりじゃない」
 春子は憤りを感じ、語尾を強めた。
「どうか、息子さんの幸せを願って下さい。過去のことには触れずに、一言でいいのです。幸せになってと、伝えて下さい」

 黄色のワンピースをまとった少女は、頭にもお揃いの向日葵の飾りを付け、純粋な笑みを悠へ向けた。
「お兄ちゃん、お山作りたい。お兄ちゃんも来て」
 砂場へ足を踏み込むと、子供の頃に感じた懐かしい記憶が戻ってくる。ざくざくと踏むと、スニーカーに砂がかかり、中へ砂が入ってきた。
「すぐね、お兄ちゃんだってわかった。だっておともだちが教えてくれたから!」
「そう」
「あんまりお外であそばないの。絵をかいたり本をよんだりしてるの」
「良かったね」
 感情の見えない声で、淡々と繰り返した。花蓮は小綺麗な格好にも関わらず、手を砂に突っ込み山を作っている。
 少し離れたところでルカはベンチに腰掛け、隣に春子が座っている。羨望の眼差しを向けても、あえてなのか気づかないのか、ルカは視線を悠に向けなかった。
「かれんね、へんな子って言われるの」
「どうして?」
「だれもいないのに、だれかとしゃべってるから」
「少なくとも、僕よりは幸せだよ。ママとパパに囲まれて、お金もあって不自由なく暮らしてるんだから。なぜ僕があんな目にあって、君は……」
 吐き捨てるような言い方に、瞼に力を入れ押し留めた。これ以上は言ってはいけないと自制しても、溢れる感情の流れは止まらない。
「じゃあさ、かれんとおうち交換する?」
「おうち?」
「うん。かれんの家にお兄ちゃんが住んで、お兄ちゃんの家にかれんが住むの。おしごとも、かれんがしてあげる!」
 花蓮はただ笑い、砂まみれの手で悠の腕に触れた。オレンジ色の光はふたりの影を遠くまで伸ばすが、心までは照らしてくれなかった。
「そういうことか……」
「どうしたの?」
「家は交換しない。するわけがない。仕事も……あそこは僕の幸せが詰まってるから。誰にも渡さないし、譲る気もない」
 花蓮に伝えたかったわけではない。悠の決意表明だ。
 ちょうどそのとき、ルカたちが立ち上がり、悠の元へやってきた。ブランドの靴は砂場へは踏み込まず、ぎりぎりの木枠手前で足を止めている。
「るか、えーと……、元気そうで良かったわ」
 呆然としたまま、悠は無意識に憎しみを込めた目で春子を睨んだ。
「どうか、これからの人生は、その……上手くいってほしい」
 たどたどしく春子が口にしても、悠にはかける言葉がない。
「お兄ちゃん、またあそべる?」
 花蓮は不安そうに呟いた。
「君とは、二度と会えないし、会わない」
「どうして?とおくにいくの?」
「……そうだね。そう取ってもらって構わない」
「お兄ちゃんがほしかったのに」
 意味が判っていないのか、花蓮は小首を傾げた。
「元気でね、るか。幸せになってね」
 春子が礼をしても、悠は冷徹な目を向け続けた。花蓮は手を振るが、公園を出ても返すことはせず、小さくなっていく背中を無愛想なまま見送った。
 小さな子供たちが砂場で遊びたそうに見ていて、悠は自分がどこにいるのか気がついた。砂場のど真ん中だ。慌てて木枠の外に出ようとすると、拳に熱が重なった。
「あなたも、るかと呼ばれていたのですね」
 ルカは慈しみを込めた目で、悠の右手を握った。
「僕の中にはルカさんがいます」
「そういえば、そうですね」
 大きく息を吸い、吐いた。ぼんやりと見上げる先は、若葉の隙間から太陽が微かに見え、風が吹くたび揺らめくと、菱形の太陽が隙間をうめた。
「悠という名前は、女性に多い名前です」
「ええ」
「昔は何も感じませんでしたが、誇り高い名前だと今改めて思いました」
「おおらかで優しいという意味を持つ漢字ですね」
「知ってるんですか?」
「数年前に調べました」
 悠と出会って調べたのだと、遠回しの言葉は悠に届いた。
「僕、妹を見ても何も可愛いと思いませんでした。むしろ愛情を注がれて育った彼女に、憎しみすら沸きました。嫌な感情だと判っていても、抑えきれなかった」
「充分抑えたではありませんか。手を上げずに必死に耐えたあなたは素晴らしい。自分をもっと褒めて下さい」
「本当に嫌な奴ですよ、僕。何の罪もなく事情を把握してない子なのに。でも気づかされたこともあります。お家を交換するかと聞かれたとき、頭がおかしくなりそうでした。また居場所を奪われるのかって」
「……そうですか」
 ルカが微笑んだのが引き金となり、悠の目からはぼたぼたと涙が流れ落ちた。頬を通り首を伝い、布地に吸い込まれて彩度が低くなる。
「タクシーに乗りましょう」
「そういう、気分じゃ、ないです……」
「ならば、お散歩でもいかがですか?」
「このまま?」
「はい。本日は天気も良く、気温もお散歩にはちょうど良いようです」
 ルカはぶんぶんと握った拳を振ってみせた。
「このまましばらく歩きましょうか」
 左手にハンカチを握らせて、ルカは手を引いたまま歩き出した。
「公園とかで、一人で遊んでて、よくおばあちゃんが迎えに来てくれました。それを思い出しました」
 悠は手を握られたまま振り返した。
「いっつもひとりで、おばあちゃんが迎えに来てくれるのを待って、家族がいるって実感したんです」
「それも幸せの形ですね」
「今思うと、そう感じます」
 反対側の歩行者道では、学校帰りの女子高生が向こうから歩いてきた。アイスを片手に談笑しているが、成人男性ふたりの姿に呆然と立ち尽くした。
「アイス食べたい。ミルクの味が濃いアイス」
「先ほどの女性方は駅前で購入されたのでしょうか。行ってみましょう。私はピスタチオ味がいい」
 血の繋がりがある人間でも幸せを願えないのは、そのときではなかったからか、子供だからか、それともこの先ずっと同じ感情が渦巻いているからか。
 悠は昔の思い出に浸っていた。息子を外に出したがらない母親であったため、悠の髪は伸びに伸びてしまい、散髪していたのは春子だった。渋々だったのかもしれないが、少なくともこのときの悠は蝋燭の灯火のような暖かさが胸に宿っていた。
 悠がどんなに手を振っても包んだ手は離れず、調子に乗ってブランコのように振ると、手を強く握られ、腕を通り全身に熱が巡回した。
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