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果実 派遣先の先輩を好きになりたくない

果実 第14話

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 ……まだ児嶋さんの身体はびくびくと跳ねていた、小さく何か言っている。急にいとおしさが込み上げて、彼女を抱きしめた。
 ――ごめんね。
 抱きしめて、肩に何度もキスをした。
 児嶋さんは蕩けた表情で目をうるませていた。半開きの唇がかすかに震えた息を吐く。
 言い訳するわけではないが、彼女が冷めてしまってなにも感じないようなら、私のほうでも冷めて、やめていたと思う。妙な向きに同じ動作を繰り返す腕が、自分の身体を支えていた首や肩が、限界を訴えていた。児嶋さんを押さえつけるのには殆ど体重を使っていたが、膝が痛かった。
 その痛みは、時々私に理性を取り戻させる。児嶋さんが泣き出すとき、何度か、やめようと思った。でもそんなときの彼女は、今にも達しそうな目をしていた。逆にやめるのも無粋が気がして続けた部分がある。
 児嶋さんがもがくのは、限界の時だけだった。いくらでも逃げられそうなときに、彼女は逃げようとしなかった。私を蹴り飛ばすことだって、できたはずなのに。
 彼女ははぁはぁとまだ荒く息を切らせて、喘ぎすぎて咳こんでいた。
 身体を離しても、彼女は逃げない。立てないのかもしれない。私はキッチンへ行き、大きめのグラスに水を注いで飲み、もう一杯なみなみと注いで、持っていった。
 身体を起こして、口元に差し出した。
「児嶋さん」
「おかしいよ……おかしいよ、強引すぎる、麻生さん」
「おかしいですよ? わかってます。そんなこと」
 口元にさしつける。
 彼女は素直に杯を受け取って、咳き込みながら飲んだ。唇が濡れて光っていた。
「ごめんなさい……」
 飲み終わると、グラスを取り上げて吸い寄せられるように唇をかさねた。
「ん、……」
 唇を離した合間に見つめると、トロンとした表情で私をぼんやりと見つめている。可愛い。
 そのまま押し倒して身体中に口付けた。力をいれていくんじゃなく、だんだんと優しく。ずいぶん時間がたっていた。
 もう、彼女の敏感すぎる場所に指で触れることはしなかった。下手に力を入れたら多分痛いだろう。手の平を当てるだけで、彼女は息を漏らしていた。
「気持ち良いですか?」
 児嶋さんは、とろんとした目をしていた。
 本当に、もう逃げようとしなかった。というか、ぐったりしはじめていた。
 ――ごめんね。
「児嶋さん……児嶋さん」
 彼女の髪を梳き、頬ずりし、口付け、全身を撫でた。指先を口に含み、舐めた。それだけのことで、彼女はまた眉根をよせて身体を跳ねさせた。
 児嶋さんに触れていることも私を興奮させたが、それ以上に、嬉しかったことがある。彼女は、なんというか、初めから。私の、つい感情の入ってしまった行動に感じていた。私の指の動きにだけではなくて、呼びかけや、何気なくしたくてしてしまった頬へのキスで、感じてしまっていた。そのことが、どんないやらしいことで感じてもらったよりももっと嬉しくて、触れれば触れるほど、私はなんだか彼女が私の存在そのものを感じてくれているような気になった。  



「私も開き直ったんだから児嶋さんも開き直りましょう」
 そう言ったとき、私はぶつけ続けている自分の感情の濃さをセーブしようとして、明るく言ったのだった。ぜんぜん開き直れてなんていないのに。
 おちゃらけて、強引に迫って、そして気にしていないかのように彼女に接したかった。軽くて気障な男のように。いいかげんな年頃の娘のように。振られても、振られても、重大に受け取らずに纏わりつく子犬のように。明日から友達として普通にいけるところまで、ノリで強引に持って行きたかった。でも、それで済むと思ってやっていたわけじゃない。
 避けるなら避ければいい。嫌って。
 いちかばちかの賭けの中で、あの時、一瞬、そんな弱気で卑怯で自分本位な考えが胸をかすめたのを覚えている。
 彼女に触れたい、犯したい、泣かせたい、そんな感情があることを、私は彼女に出会った初期のころから、うっすらと自覚していた。
 怖いと感じていた。だんだんおかしくなってくる自分が。児嶋さんとこのまま一緒にいることが。
 同性を好きになること自体はおかしいとは思わない。だってこんな、児嶋さんみたいな人が近くにいたら仕方がない……。笑顔が見たい、そばにいたい、そんな感情を知ることができたのは、たぶん私が児嶋さんにもらった最大の恩恵だ。
 同性が好きだからではなくて、私が勝手に持ってしまう感情のこの強さを、自分でもコントロールの利かない、児嶋さんに向かっていく気持ちの強さや濃さや暗さを、私はこのところずっと、おかしい、どうしよう、と感じていて。
 私がしたことは最低のことだ。彼女が避けるのは、当然のことだった。
 触れているうちに、私は児嶋さんが受け入れてくれたかのような錯覚に陥ってしまっていた。うるんだような、夢見るような目が、弱すぎる、抵抗ともいえないような抵抗の合間に見えて、なぜか「本当には嫌がっていない」と感じてしまっていた。
 じっさい、事後、彼女は「明日から普通に接する自信がない」と言った。思ったよりも毒のない、むしろ弱気な台詞で拒否されたことに驚いた。「自信がない」、それは、できれば普通に接したい、という意味にも取れる言い方だった。
 自分が泣くと思っていなかった。もっと毒のある言葉を投げつけられることも想定していた。それなのに。
 あれ……。
 へらへらと、私も開き直ったんだから児嶋さんも開き直りましょう、と言ってみた自分を、消してしまいたくなった。
 開いていたと思っていた扉を、ぴしゃり、と目の前で閉じられて、指を挟まれたように、自然に涙が出てきた。


 児嶋さんにしたことを、死ぬほど後悔するようになったのは、彼女に嫌われたからではなかった。
 児嶋さんが言葉を発してくれなくなったときはまだ気づかなかった。目を合わせてくれなかったときにも。苦しい、寂しい、そんな感情に、いつも私は慣れっこだ。自分のせいで、ここまで相手に嫌われたことはなかったような気がする。
 入力済みの児嶋さんのシートを受け取って、目を疑った。彼女のシートは、ぐちゃぐちゃだった。
「児嶋さん、これ……」
 声をかけようと振り向いたとたん、児嶋さんの首筋が固くなって、唇がきゅっと閉じられるのを見て、私はそのまま話しかけるのをやめてしまった。
 電話番号の欄に名前が入っている。佐藤と斉藤の入力ミス、西暦がなぜかすべて来年で入力されている。
 3倍に膨れ上がったミスを、言葉で指摘する勇気はなかった。私は黙々と赤を入れた。
 児嶋さんは正面きって私を責めない。むしろ、目も合わせようとはしない。目が合いそうになると、彼女が無表情を決め込もうとして、そのまま羞恥にやられたみたいに、視線すら動かさなくなってしまう。
 児嶋さんの皮膚が、私が近づくたびに固まるとき。指が触れた瞬間に顔を火照らせて、児嶋さんの目が泳ぐとき。そのまま目をそらされるとき。彼女のうつむいた後ろ姿を見るとき。そんな羞恥にいたたまれなくなっている児嶋さんを、さらに弄りたいと、感じてしまうとき。私のみぞおちがじくじくと痛んだ。
 エレベーターで二人きりになってしまったとき、児嶋さんは隅に逃げるでもなく、どうしていいかわからないみたいに立っていた。後姿からでも、児嶋さんが私を完全に意識し、緊張し、怖がっていることがわかった。
 ふたりの間に流れる空気、いや、流れなくなってしまった空気が、ふたりともを窒息させそうになっていた。この距離は近すぎた。
 私は会社をやめるべきなのかもしれない。児嶋さんは、もう私の顔なんか見たくもないだろうか。だけど、勝手に近づいて、したい放題体に触れ、勝手に辞める。そんなこと……。
 児嶋さんの顔から完全に笑顔が抜け落ちてしまっているのに気付いて、愕然とした。
 何をしてしまったんだろう。
 いっそ嫌われたい? なんて自分勝手な動機だっただろう。どうして、うまくいくかもしれないと思ったんだろう。児嶋さんが抵抗らしい抵抗もしていないように感じたのは、怖がっていたせいじゃなかったのか。
「ただの笑顔」に自分がどんなに救われていたか、その笑顔なしでは世界が崩れてしまうぐらいに依存していたか、そもそも、その笑顔に惚れたというのに。
 もう怖がらなくていいですから、何もしませんから、もうああいうことは起こりません。ごめんなさいでは済まない。でも、それなら、なんと言ったらいいのだろう?
 話さなければいけない。
 きちんと。
 怖くない場所で。喫茶店で。もしくは、手紙で……。そう思うのに足が動かない。話しかけようとするたびに、私の両足が震えていた。
 声をかけることすらできない。と、いうか、声が、出ない……。
 むしろもう、話しかけるべきでもないのか。
 眠ると、夢の中に、私と自然に話して笑っていた児嶋さんの目の光がいつまでも浮かんで見えていた。




 ある日、会社の入り口で、「気持ちがあるなら何回でも来るはずです」と私が言ったあの男が、車を横付けにして待っていた。
 児嶋さんは隆史さんの顔を見ると、二、三言、何か話して、そのまま車に乗り込んだ。
 固い横顔だった。
 ――もう会わないつもりだから。私、ぐるぐるする、隆史といると……。
 耳鳴りのように児嶋さんの言葉が頭を駆け巡った。
 いや。私がどうにかできることじゃない。っていうか、私にできるのは、児嶋さんに近づかないことだけだ。これ以上追いかけたら、本当にストーカーだ。
 返事がないのに二回電話をかけてしまった。これ以上電話をかけたら、怯えるだろうか。
 児嶋さんがかけなおすことがあるとしたら、相当つらいときだ。いままでどおり、児嶋さんはいくらだって私を無視できる。どうせ嫌われてるんだろう、心配してるからよかったら連絡ください、これだけのメッセージを残せなくて何だ。電話しろ、はるか! でも……それは、ストーカーか?
 家に帰って、三回目の電話をかけた。
 今頃、私の着信履歴をみて、携帯を投げ出したくなっているだろうか、帰り途中だろうか。それともまだ隆史さんと一緒なのか。よりを戻して、今頃どっちかの部屋にいるんだろうか。決裂して今頃ひとりでいるのかもしれない。
 あれだけひどいことをしておいて、着信だけでも残しておいたほうがいい、この状況でそんなふうに考えるのは、都合のいい妄想もいいところだ。
 でも、これ以上児嶋さんがどうしているのかわからないでいたら、何回でも児嶋さんに迷惑電話をかけてしまいそうだった。私は家を飛び出した。
 以前思わずつけてしまった児嶋さんのアパートの前で、熱い缶の紅茶を買った。隆史さんの車がそこに止まり、児嶋さんが出てきた。
 すばやく、隆史さんの表情、児嶋さんの表情、空気をチェック。服……乱れてない。
 ――だめだ。私。おかしい。完全におかしい。
 彼女が自分の部屋に入っていくまで、私はそこにいた。
 その晩、家に帰ってベッドに入っても、一睡もできなかった。
 ――ストーカーだ、私は。  
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