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果実 派遣先の先輩を好きになりたくない
果実 第26話(最終話)
携帯が鳴っていた。今は出られない。私は携帯を見ずに枕の下に埋めた。麻生はるかは人間を休業中です。
携帯から自由になった手が、さみしがっている。私は大きめのクッションを引き寄せて抱きしめる。落ち着くためにつけたミルクティの香りが私を包む。
「…………」
さっきからずっと涙がこぼれっぱなしで、もう拭く気にもなれない。
会社に行って、普通に仕事する自信はなかった。明日は風邪でお休みだ。会っても普通にいられないだろう。
苦しくて、胸が張り裂けそうで、喉がやけつく。
中途半端は私だ。
彼女が言ったセリフが、頭の中で響いていた。
――大好きだったのに。大好きだったはずなのに、ぜんぜん、できない。隆史に、できない。優しくできない。
あの日、酔っ払った児嶋さんは、泣きながらこぼした。
私は、彼氏とうまくいっていなくてチャンスだとか、可能性があるならとか、自分のことばかり考えた。
私だって、児嶋さんのことをこういうふうに好きじゃなければ、もっと優しくできた。
まるで、目の前の果実をそのまま齧るみたいにして、彼女を欲しがって、傷つけて、そして、私のものにならないことを責めた。私の思うようにならないのに目の前に居続ける、彼女の弱さを。
こんなに苦しいなら、仕方なかった。
彼女は自分を守りたかっただけだ。
死に瀕した植物が自然に水を欲しがるように、果実が誘いながら実るように。
一瞬でも私を求めてくれた。悪意があってしたわけじゃない。必死に生きていただけだ。
彼女は、隆史さんへの気持ちを聞けば、素直すぎるぐらいに素直に話した。酒が入っていたときは滅茶苦茶なように感じたが、あの「優しくできない」は本心だろう。いつ会ったか聞けば、おとといと答えた。そういえば、別れるとは言っていたが、彼女の口からはっきりと「別れた」とは聞いていなかった。そこまでしれっとうそをつくタイプでもなかった。誤解させようとしていた意地の悪さは感じた。でも、そんなもの、私の計算高さに比べれば、かわいいものだっただろう。いつだって、私の感情を受け入れた上で、それに反する自分の気持ちも最大限伝えようとする人ではなかったか。
そんな彼女に、私は、自分の気持ちや状況を言うことをためらわせ、強引に気持ちを押し付けた。
私の目が、彼女の笑顔を見たがって空洞になる。同じ空気を呼吸したがって、みぞおちがジンジンと痺れる、ブラックホールかなにかになってしまったみたいに、身体中が彼女に会いたがって、餓えている。
声をまぢかでもう一度聞きたい。肌が空気ごしにでも体温を感じたがっている。
ああ、好きだ。
心とか、気持ちとか、そんなほんわかとしたものではなくて、魂が叫んでいる。いつもは自分の魂の存在なんて気付くこともないのに。
なにも言葉を発していないのに、私の魂が、言葉よりもずっとリアルな言葉を叫んでいる。
苦しいからと言って彼女を憎んだのに。
愛しているだなんて、長年連れ添った夫婦がはじめて使っていいような言葉だ。会ったばかりの人間に対してそんな言葉を使ったら、逆に軽いと思われる。でも、それは魂の使う言葉だった。出会ってから長いとか短いとか、そんなことが関係なくなるぐらい、強烈なもの。無理やり言葉に変換したら、そういう言葉にしかならない。
私は、彼女に、伝えていない。
友達でもいいとか、そんなことばかり口にして、ごまかして、シラフの彼女にきちんと好きだと言ってない。
もう、言おう。次に会ったときに。
もうおしまいだから。ちゃんと言って、伝えて終わりにしよう。
好きになってごめんなさい。
友達ではいられません。でも好きです。
好きです。ものすごく好きです。あなたの弱いところも、けっこうずるっこくて、しかもそれを私が気付いていないと思ってるところも。そういうとこ、わかってて好きなのに、隠そうとしているところがいじらしくすら感じる。
笑顔が好きです。生命力に溢れたあの不思議な笑顔が。自分の気持ちを直視できないあなたの敏感な感受性が好きです。あなたが生きているのを見るのが、本当に好きです。
誰かと付き合われるのは無理なんです、でも、好きなだけなら、我慢するから。隆史さんのことを好きなあなたが大好きです。好きな人がいるままでもいいです、付き合ってください。
そうだ。言おう。一度ぐらいは、ダメもとで、付き合ってくれって。
――――だめなら、幸せになってください。
寂しくなったら、私の頭をカチ割って、どれだけ私の中にあなたがいるのか、もう、ちょっと、見てもらえませんかね。
携帯が鳴っている。手に持ってはいたが、通話ボタンを押す勇気がでない。でももう決めていた。
たぶん、言ったら泣く。ぜったい泣く。っていうか泣いてる。声も出ないかもしれない。
児嶋未来の名前が目の前で震えていた。
なんだ、三回もかけてきて。また辛くなったのか。飲んだのか。隆史さんと会って、酔ったのか。
私はのろのろとボタンを押した。
「…………」
不自然な、詰まるみたいな呼吸が聞こえる。
「まだ隆史さんといますか」
「いないよ」
彼女の声が、彼女が、電話をとおして、私とつながっていた。
「別れた」
ズキッと心臓が抉られるみたいに痛んだ。そういう意味での「別れた」に、ちゃんと聞こえた。嘘じゃないと、確信した。彼女の口から「別れた」とちゃんと言葉にして言われるのは初めてだった。その響きが痛くて、声がだせない。
今、私にはその言葉のもつ意味が受け止めきれないほどに痛かった。
三年。三年間、付き合って、私よりもずっと長い時間をすごして、……。
別れてくれと言ったとき、それがこんなに、ここまで重いものだと思っていなかった。実感していなかった。自分が辛い、そればっかりで。
私は目を閉じて背中を丸めた、喉がぎゅうっと締め付けられていた。嗚咽しそうで、まぶたに力を入れていないと落ち着けなかった。
震えるみたいに、彼女の息の音が、私の耳を揺らしていた。
寒い中、一人の家に帰れなくて、うろうろしている。そんな小さな子供のような姿が、目に浮かんだ。
「今、外ですか」
泣いてるでしょう。
そう言いたいのに、その言葉はいえない。泣いているのは私だ。どの言葉だったら私は泣かずに言えるんだろう。
「うち、来ますか?」
「行く」
彼女は即答した。
うん。おいで。
三回も電話してきて。
おいで。もう責めないから。うちにおいで。もう抱きしめるから。児嶋さんが望むなら。
あとで苦しくてもいい。もう別れるんだ。最後の我慢だ、こんなときくらい一緒にいるよ。
ただ、……ただの表現として、聞いてほしい。
……付き合って。
「おかえり」
そういってドアをあけたとき、目の前にいた児嶋さんは、髪の毛をぐしゃぐしゃにして息を切らせていた。そして、目が合ったとたん、狂ったみたいに私に抱きついてきた。勢いに押されて私は床に尻餅をついた。
「はるか、付き合って」
自分が言ったのかと思った。
彼女をみつめた。言葉にだして、私が? 今、言ったのか?
夢なのか。
隆史さんと別れたから、すぐ、私と付き合うことに決めた? 一時的なもの? また、よくわからないことを……。
もう、いいや。
児嶋さんの瞳が真剣で、笑えてしまいそうなぐらいに必死すぎて。考える必要ないんだという気になった。
付き合って。
言われてはじめて、本当にそこまで真剣に考えていてくれたこと、わかったから。
どれだけ彼女が悪魔に見えていたというんだろう。隆史さんにやさしくできないと泣いた児嶋さんが、どうして私のことを全く悩まないなんて思えたんだろう。あれだけ焦れた私に、「わからない」という気持ちをそのまま、なんの飾り気もなしに伝えた不器用さを、どうして悪意のある目でしか見られなかったんだろう。
私が沙耶を思いきることができなかったよりも、はるかに短い時間で、どうして隆史さんを忘れて自分から切れなんて言えただろう? そんなの、できなくて当たり前だ。できないから、できると言わなかったんだ。わからないからわからない、と言ったんだ。
別れると言った児嶋さんの一時の真実まで、どうして嘘だなんて決めつけたんだろう。児嶋さんの感情の揺れにこそ、惹かれたのではなかったか。
児嶋さんの声は苦しいぐらいに甘酸っぱい。
抱きしめた瞬間の体温にくらくらする。皮膚が児嶋さんに触れたとたんに、私のなかの空白が埋まるような充足を得る。ことばよりも正直なからだが、勝手に存在をかき抱こうと動く。
ああ、かわいい。好きだ。好きだ。好きだ。
夢でもいい。もう、怖くてもいい。きっと本当に付き合い始めたとしても、私はくるしいんだ。
彼女は、私に抑えきれないほどのなまの感情を与える、生命の果実だ。
――ぶどうよ、実れ。
~完~
携帯から自由になった手が、さみしがっている。私は大きめのクッションを引き寄せて抱きしめる。落ち着くためにつけたミルクティの香りが私を包む。
「…………」
さっきからずっと涙がこぼれっぱなしで、もう拭く気にもなれない。
会社に行って、普通に仕事する自信はなかった。明日は風邪でお休みだ。会っても普通にいられないだろう。
苦しくて、胸が張り裂けそうで、喉がやけつく。
中途半端は私だ。
彼女が言ったセリフが、頭の中で響いていた。
――大好きだったのに。大好きだったはずなのに、ぜんぜん、できない。隆史に、できない。優しくできない。
あの日、酔っ払った児嶋さんは、泣きながらこぼした。
私は、彼氏とうまくいっていなくてチャンスだとか、可能性があるならとか、自分のことばかり考えた。
私だって、児嶋さんのことをこういうふうに好きじゃなければ、もっと優しくできた。
まるで、目の前の果実をそのまま齧るみたいにして、彼女を欲しがって、傷つけて、そして、私のものにならないことを責めた。私の思うようにならないのに目の前に居続ける、彼女の弱さを。
こんなに苦しいなら、仕方なかった。
彼女は自分を守りたかっただけだ。
死に瀕した植物が自然に水を欲しがるように、果実が誘いながら実るように。
一瞬でも私を求めてくれた。悪意があってしたわけじゃない。必死に生きていただけだ。
彼女は、隆史さんへの気持ちを聞けば、素直すぎるぐらいに素直に話した。酒が入っていたときは滅茶苦茶なように感じたが、あの「優しくできない」は本心だろう。いつ会ったか聞けば、おとといと答えた。そういえば、別れるとは言っていたが、彼女の口からはっきりと「別れた」とは聞いていなかった。そこまでしれっとうそをつくタイプでもなかった。誤解させようとしていた意地の悪さは感じた。でも、そんなもの、私の計算高さに比べれば、かわいいものだっただろう。いつだって、私の感情を受け入れた上で、それに反する自分の気持ちも最大限伝えようとする人ではなかったか。
そんな彼女に、私は、自分の気持ちや状況を言うことをためらわせ、強引に気持ちを押し付けた。
私の目が、彼女の笑顔を見たがって空洞になる。同じ空気を呼吸したがって、みぞおちがジンジンと痺れる、ブラックホールかなにかになってしまったみたいに、身体中が彼女に会いたがって、餓えている。
声をまぢかでもう一度聞きたい。肌が空気ごしにでも体温を感じたがっている。
ああ、好きだ。
心とか、気持ちとか、そんなほんわかとしたものではなくて、魂が叫んでいる。いつもは自分の魂の存在なんて気付くこともないのに。
なにも言葉を発していないのに、私の魂が、言葉よりもずっとリアルな言葉を叫んでいる。
苦しいからと言って彼女を憎んだのに。
愛しているだなんて、長年連れ添った夫婦がはじめて使っていいような言葉だ。会ったばかりの人間に対してそんな言葉を使ったら、逆に軽いと思われる。でも、それは魂の使う言葉だった。出会ってから長いとか短いとか、そんなことが関係なくなるぐらい、強烈なもの。無理やり言葉に変換したら、そういう言葉にしかならない。
私は、彼女に、伝えていない。
友達でもいいとか、そんなことばかり口にして、ごまかして、シラフの彼女にきちんと好きだと言ってない。
もう、言おう。次に会ったときに。
もうおしまいだから。ちゃんと言って、伝えて終わりにしよう。
好きになってごめんなさい。
友達ではいられません。でも好きです。
好きです。ものすごく好きです。あなたの弱いところも、けっこうずるっこくて、しかもそれを私が気付いていないと思ってるところも。そういうとこ、わかってて好きなのに、隠そうとしているところがいじらしくすら感じる。
笑顔が好きです。生命力に溢れたあの不思議な笑顔が。自分の気持ちを直視できないあなたの敏感な感受性が好きです。あなたが生きているのを見るのが、本当に好きです。
誰かと付き合われるのは無理なんです、でも、好きなだけなら、我慢するから。隆史さんのことを好きなあなたが大好きです。好きな人がいるままでもいいです、付き合ってください。
そうだ。言おう。一度ぐらいは、ダメもとで、付き合ってくれって。
――――だめなら、幸せになってください。
寂しくなったら、私の頭をカチ割って、どれだけ私の中にあなたがいるのか、もう、ちょっと、見てもらえませんかね。
携帯が鳴っている。手に持ってはいたが、通話ボタンを押す勇気がでない。でももう決めていた。
たぶん、言ったら泣く。ぜったい泣く。っていうか泣いてる。声も出ないかもしれない。
児嶋未来の名前が目の前で震えていた。
なんだ、三回もかけてきて。また辛くなったのか。飲んだのか。隆史さんと会って、酔ったのか。
私はのろのろとボタンを押した。
「…………」
不自然な、詰まるみたいな呼吸が聞こえる。
「まだ隆史さんといますか」
「いないよ」
彼女の声が、彼女が、電話をとおして、私とつながっていた。
「別れた」
ズキッと心臓が抉られるみたいに痛んだ。そういう意味での「別れた」に、ちゃんと聞こえた。嘘じゃないと、確信した。彼女の口から「別れた」とちゃんと言葉にして言われるのは初めてだった。その響きが痛くて、声がだせない。
今、私にはその言葉のもつ意味が受け止めきれないほどに痛かった。
三年。三年間、付き合って、私よりもずっと長い時間をすごして、……。
別れてくれと言ったとき、それがこんなに、ここまで重いものだと思っていなかった。実感していなかった。自分が辛い、そればっかりで。
私は目を閉じて背中を丸めた、喉がぎゅうっと締め付けられていた。嗚咽しそうで、まぶたに力を入れていないと落ち着けなかった。
震えるみたいに、彼女の息の音が、私の耳を揺らしていた。
寒い中、一人の家に帰れなくて、うろうろしている。そんな小さな子供のような姿が、目に浮かんだ。
「今、外ですか」
泣いてるでしょう。
そう言いたいのに、その言葉はいえない。泣いているのは私だ。どの言葉だったら私は泣かずに言えるんだろう。
「うち、来ますか?」
「行く」
彼女は即答した。
うん。おいで。
三回も電話してきて。
おいで。もう責めないから。うちにおいで。もう抱きしめるから。児嶋さんが望むなら。
あとで苦しくてもいい。もう別れるんだ。最後の我慢だ、こんなときくらい一緒にいるよ。
ただ、……ただの表現として、聞いてほしい。
……付き合って。
「おかえり」
そういってドアをあけたとき、目の前にいた児嶋さんは、髪の毛をぐしゃぐしゃにして息を切らせていた。そして、目が合ったとたん、狂ったみたいに私に抱きついてきた。勢いに押されて私は床に尻餅をついた。
「はるか、付き合って」
自分が言ったのかと思った。
彼女をみつめた。言葉にだして、私が? 今、言ったのか?
夢なのか。
隆史さんと別れたから、すぐ、私と付き合うことに決めた? 一時的なもの? また、よくわからないことを……。
もう、いいや。
児嶋さんの瞳が真剣で、笑えてしまいそうなぐらいに必死すぎて。考える必要ないんだという気になった。
付き合って。
言われてはじめて、本当にそこまで真剣に考えていてくれたこと、わかったから。
どれだけ彼女が悪魔に見えていたというんだろう。隆史さんにやさしくできないと泣いた児嶋さんが、どうして私のことを全く悩まないなんて思えたんだろう。あれだけ焦れた私に、「わからない」という気持ちをそのまま、なんの飾り気もなしに伝えた不器用さを、どうして悪意のある目でしか見られなかったんだろう。
私が沙耶を思いきることができなかったよりも、はるかに短い時間で、どうして隆史さんを忘れて自分から切れなんて言えただろう? そんなの、できなくて当たり前だ。できないから、できると言わなかったんだ。わからないからわからない、と言ったんだ。
別れると言った児嶋さんの一時の真実まで、どうして嘘だなんて決めつけたんだろう。児嶋さんの感情の揺れにこそ、惹かれたのではなかったか。
児嶋さんの声は苦しいぐらいに甘酸っぱい。
抱きしめた瞬間の体温にくらくらする。皮膚が児嶋さんに触れたとたんに、私のなかの空白が埋まるような充足を得る。ことばよりも正直なからだが、勝手に存在をかき抱こうと動く。
ああ、かわいい。好きだ。好きだ。好きだ。
夢でもいい。もう、怖くてもいい。きっと本当に付き合い始めたとしても、私はくるしいんだ。
彼女は、私に抑えきれないほどのなまの感情を与える、生命の果実だ。
――ぶどうよ、実れ。
~完~
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