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変化
君の好きな2
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◇
「朋樹、お母さんもう出かけるね。お昼の準備してないけど大丈夫でしょ?」
高く抜けるような青空の下、僕はリビングの掃き出し窓を開けてコーヒーを飲んでいた。いつもならそろそろ朝は少し冷えるような日もあったはずなのに、今年はいまだに茹だるように暑い日々が続いていて、僕は朝から氷を入れたアイスコーヒーで涼を取っている。
時計は今、ちょうど九時になったと知らせていた。母さんは、父さんに頼まれた買い物をするためにこれから出かけるそうだ。
「うん、自分で作るから心配しないで」
「そうよね、お母さんより朋樹の方が料理上手だものねえ。余計な心配だったわ」
そう言いながら、母さんはカウンターの上においてある全粒粉の丸パンを指差した。それは今朝僕が作ったもので、朝食にはそれとハムエッグに野菜スープを準備して両親に振るまった。
母さんは、料理は作れるけれどもしなくていいならしたくないタイプの人で、こうして僕が趣味として楽しんでいることを「全く理解出来ない」と言っていつも呆れている。
だからと言って僕のすることを否定するのではなく、僕が楽しんでいる姿をいつも側で観察していて、出来たものを分けてあげるととても美味しそうに食べてくれるような人だ。
そして、一日に数回はこういうやり取りをして、その度に母さんはいじけてみせるのだけれど、僕がそれを冷たくあしらうところまでがいつもお決まりのやりとりになっていた。
「うん、そうだね。自分のご飯の面倒を見るくらいなら、負けないよ」
僕がそう言うと、母さんは困ったように笑い始めた。そして、意気揚々と僕にツッコミを入れる準備をしている。返って来る言葉は想像がつく。この人はいつも分かりやすくて、豪快で面白くて、僕にとても優しい。
「ええ……、そこはホラ、そんなことないよとか言ってくれないと。泣いちゃうわよ」
口を尖らせるフリをしながら、バッグを手に取る。こうして、僕が平日の朝からここに一人で取り残されることで寂しくなってしまったり、自分を責めたりしなくて済むようにと、一生懸命明るく振る舞ってくれていた。
「ふふ、分かってるよ。僕母さんの作るご飯好きだから。本当は作ってもらえるとすごく嬉しいよ。でも、自分が家にいない時の僕の食事まで心配してくれなくていいからね。父さんに頼まれて出かけるんでしょ? 気にしないで行ってきてよ」
僕はその言葉に精一杯の笑顔を添えた。僕らはもう一週間くらいこんなやり取りをしている。
「行ってらっしゃい」
悲しそうに僕を見ている母さんの手に、バッグに入れ忘れているスマホを持たせる。そして、その手をきゅっと握った。
「大丈夫だから、ね?」
「朋樹……」
それでもまだその場から動こうとしないので、僕は彼女の背中を押して玄関へと送り出した。
「コーディアル作りたいから、レモンバーム買って来て。それを待ってるから」
僕を一人にしてしまったら何をするか分からないと思っているようで、見張っておこうと思ったのか、母さんはこの一週間家から一歩も出なかった。
でも、こんな生活では母さんも気が滅入ってしまうだろう。僕の問題なんて、そのうち時間が解決するはずだ。その程度のことだと思っている。だから、そんなことのために母さんが倒れてしまったら、僕はその方が嫌だ。
僕から頼み事をすれば、出かける罪悪感が減らせるんじゃないかと思い、僕はフレッシュハーブを売っている店での買い物を選んだ。僕が大好きなレモンバームを買って持ち帰るのだと思えば、帰ってくる時にも気が重くなったりしないだろう。
そうすれば、出かけている間も純粋に楽しんでくれるんじゃないだろうか、そう考えた。
「……駅前の大きなスーパーで買う、フレッシュなレモンバームよね?」
「そう。煮出すからフレッシュな方がいいんだ。あのお店なら、父さんの買い物の帰りに寄れるでしょ?」
「分かった。じゃあ、行ってくるね」
そう言って笑った母さんの笑顔は、たった一週間で酷く老け込んでしまった。その疲れた顔に、胸がずきんと痛む。僕は自宅謹慎になって一週間目の朝を迎えていた。学校から正式な処分の決定に関しての連絡は、まだ来ていない。謹慎になった理由は、山井優に対する暴力行為だった。
山井優は隣のクラスの生徒だ。三年の春に転校してきた彼は、女子生徒の制服を着ていて、見た目もほぼ女性に見える。親しくなった生徒は、彼を「ユウちゃん」と呼ぶ。
ただ、別に本人は自分を女性だと思っているわけではないらしく、その制服はいわゆる女装なのだと言っていた。
学校も彼を男子学生として受け入れているらしく、制服は性別関係なくどれを着ても構わない学校なので、ただ彼が好んでスカートを履いているだけだと言われた。
学校としては何の問題もなく過ごせると踏んでいたらしいのだけれど、そういう生徒は彼しかいないのでやっぱり悪目立ちしているらしい。数名の生徒からいじめられているという話だけは、噂で聞いたことがあった。つまり、僕らはいじめられている子から暴力を振るわれたという事らしい。
あの時、僕が蹴ったカバンがガラスを割ったことで、先生たちが廊下へ飛び出して来た。それを利用したあの子は、教頭に暴力を振るわれたと訴えたのだ。そもそもいじめに遭っていた子がいじめられたと訴えたなら、先生はすぐに信じてしまうだろう。僕は一方的に悪者にされてしまった。そして、処分の決定まで自宅謹慎をするようにと言い渡された。
もちろん和葉は必死に弁明してくれた。
僕が蹴ったのはカバンだけだということ、そうしたのはそれまでに彼女が僕に暴力を振るっていたからだということ、和葉の身を案じての行動だったということを訴えてくれた。
でも、その直前にセクハラ騒動があったことで先生たちへの心象が悪く、和葉は僕を恋仲にあるから庇っているだけだと判断されてしまったらしい。彼の言葉は、聞き入れてもらえなかった。
「和葉、大丈夫かなあ……」
僕は暴力で謹慎になったため、大学の推薦も取り消されることになった。それは謹慎の話の延長上でされたため、僕がそれをいい渡された時には隣に和葉もいた。
まだ学内での選考期間だったため、幸い大学側には何も知られていない。僕としては、勉強して一般入試を受ければいいだろうと思ったくらいのことであって、そのこと自体は全く気になってはいなかった。
でも、和葉はそうはいかなかったようだ。
彼は、僕が彼を守るために彼女のカバンを蹴った事を知っている。きっと、自分の足が以前のように走れたなら、こんなことにはならなかっただろうと思っているに違いない。少しでも頭に衝撃を受けてしまうとどうなるか分からない和葉を庇って、僕が過剰に反応したということにも気がついているはずだ。
『僕がいなければ朋樹が謹慎になることは無かった、朋樹の受験に悪影響を与えることも無かった』
と言って塞ぎ込んでしまったそうだ。僕はそれを玲奈に教えてもらった。
僕らは謹慎期間に会うことも連絡を取り合う事も禁止されている。だから、それを聞いても慰めに行く事が出来ない。もどかしく思いながらも、代わりに様子を見て来てくれている玲奈と翔也、それに薫が間を取り持ってくれることに甘えるしか無かった。
「さて、勉強しよっかな」
和葉の意識が無かった一ヶ月の間に、僕は理不尽に黙って耐えることに慣れてしまった。僕らはどっちも悪くない。ただ、運が悪かっただけだ。そう思って、今出来ることへと意識を合わせる。
実際そうすることで余計な感情の揺れを減らす事が出来るんだから、僕にとっていい事しかない。何も出来る事がないことを思って苦しみ続けるのは、もうたくさんだ。
「戻った時に、和葉が安心出来るようにしておかないとね」
このまま処分が開ければ、すぐに中間テストが始まるはずだ。推薦を受けないのなら、受けるテストは全て志望校の合格ラインを超えていきたい。そのためには、毎日確実に成果を残していきたいと思っている。
カップを片付けるためにシンクへと向かう。洗い物の無いキレイに片付いたシンクで、急いでカップを洗った。手を拭くために屈んでふと作業台の方を見ると、僕がよく使うガラス瓶が保管してある中に、レモンバームをオイルにつける時に使っていた瓶があった。
それを見て思い出してしまう。和葉がレモンバームを好きになるきっかけになったのは、僕が作ったリップバームがきっかけだった。
「これをあげたのって、もう半年くらい前かな……」
その頃の僕らは何の不安も抱かず幸せで、ただお互いがそばにいるだけで十分に事足りるような生活をしていた。僕も和葉も、なんの疑いもなくずっとそのままでいられると思っていた。
それが、和葉が事故に遭ってからそれが全て変わってしまった。その原因は僕にあると言っても過言じゃない。
「和葉だけが悪いんじゃないよ。僕が遅れなければ和葉は事故に遭わなかったんだ。だから、僕が悪いんだよ」
だから彼を守ってあげたい。その思いの何がいけなかったんだろうか。それが今でも分からない。
暴力がいけないというのなら、彼女はなぜ何も罰を受けていないんだろうか。それもよく分からなかった。あんなに重たいカバンで殴られたら、和葉はどうなっていたか分からない。だから反撃した、それだけだった。
その後彼女を痛めつけようなどとは思わなかったし、そんなことは今だって興味がわかない。
それなのに、僕は危険人物なのだろうか。好きだった人が自分の思い通りにならないからといって、その苛立ちを解消するために暴力を振るう人の方がよほど問題があると思う僕はおかしいのかな。
うちには、こうやって和葉を思い出してしまうものがたくさんある。いくら強がっていても、結局こうやって彼につながるものを見つけてしまうと、もやもやとした心の中を晴らしたい衝動に駆られた。
胸がじわりと痛くなる。その小さな痛みは胸の中で大きくなり、迫り上がって溢れていった。
「……会いたい」
空になってキレイに洗浄された瓶を手に取る。まだほんのりとレモンバームの香りが残っていた。
僕が和葉にこの香りを選んだのは、爽やかな香りの中に甘さを感じることが出来るからだ。そして、その香りが長く感じられる、それが僕にとっての和葉への想いに似ていると思ったからだ。
付き合いがどれほど長くなろうとも、どれほど苦難があろうとも、僕は和葉を好きでいられる。それはいつまでも色褪せず、いつまでも甘いものであることが出来る。その思いを知っていて欲しい、ずっと忘れないで欲しい。
「でも、僕自身が和葉の思ってるような人じゃなくなってるとしたら……」
いくら僕が変わらない想いを抱いていたとしても、僕自身が嫌われてしまっては意味がない。一度はその危機を二人で乗り越えたけれど、見た目や雰囲気の話だけではなく、僕が男らしくなったという事実を目の当たりにしたことが、どう彼の想いに影響を与えたのかが分からない。
「会いたい、でも、会うのが怖い……」
レモンバームの香りに包まれながら、僕は一人で涙を流す。どうすることも出来ない事に、ただ耐えなくてはならない日々はまだ続いているようだ。
そこに追い討ちのようなメッセージが届いた。
『ねえ、和葉がユウちゃんと付き合い始めたって噂、本当なの?』
そこには、僕らを襲った山井優の隣で、楽しそうに笑っている和葉の姿が映っていた。
「朋樹、お母さんもう出かけるね。お昼の準備してないけど大丈夫でしょ?」
高く抜けるような青空の下、僕はリビングの掃き出し窓を開けてコーヒーを飲んでいた。いつもならそろそろ朝は少し冷えるような日もあったはずなのに、今年はいまだに茹だるように暑い日々が続いていて、僕は朝から氷を入れたアイスコーヒーで涼を取っている。
時計は今、ちょうど九時になったと知らせていた。母さんは、父さんに頼まれた買い物をするためにこれから出かけるそうだ。
「うん、自分で作るから心配しないで」
「そうよね、お母さんより朋樹の方が料理上手だものねえ。余計な心配だったわ」
そう言いながら、母さんはカウンターの上においてある全粒粉の丸パンを指差した。それは今朝僕が作ったもので、朝食にはそれとハムエッグに野菜スープを準備して両親に振るまった。
母さんは、料理は作れるけれどもしなくていいならしたくないタイプの人で、こうして僕が趣味として楽しんでいることを「全く理解出来ない」と言っていつも呆れている。
だからと言って僕のすることを否定するのではなく、僕が楽しんでいる姿をいつも側で観察していて、出来たものを分けてあげるととても美味しそうに食べてくれるような人だ。
そして、一日に数回はこういうやり取りをして、その度に母さんはいじけてみせるのだけれど、僕がそれを冷たくあしらうところまでがいつもお決まりのやりとりになっていた。
「うん、そうだね。自分のご飯の面倒を見るくらいなら、負けないよ」
僕がそう言うと、母さんは困ったように笑い始めた。そして、意気揚々と僕にツッコミを入れる準備をしている。返って来る言葉は想像がつく。この人はいつも分かりやすくて、豪快で面白くて、僕にとても優しい。
「ええ……、そこはホラ、そんなことないよとか言ってくれないと。泣いちゃうわよ」
口を尖らせるフリをしながら、バッグを手に取る。こうして、僕が平日の朝からここに一人で取り残されることで寂しくなってしまったり、自分を責めたりしなくて済むようにと、一生懸命明るく振る舞ってくれていた。
「ふふ、分かってるよ。僕母さんの作るご飯好きだから。本当は作ってもらえるとすごく嬉しいよ。でも、自分が家にいない時の僕の食事まで心配してくれなくていいからね。父さんに頼まれて出かけるんでしょ? 気にしないで行ってきてよ」
僕はその言葉に精一杯の笑顔を添えた。僕らはもう一週間くらいこんなやり取りをしている。
「行ってらっしゃい」
悲しそうに僕を見ている母さんの手に、バッグに入れ忘れているスマホを持たせる。そして、その手をきゅっと握った。
「大丈夫だから、ね?」
「朋樹……」
それでもまだその場から動こうとしないので、僕は彼女の背中を押して玄関へと送り出した。
「コーディアル作りたいから、レモンバーム買って来て。それを待ってるから」
僕を一人にしてしまったら何をするか分からないと思っているようで、見張っておこうと思ったのか、母さんはこの一週間家から一歩も出なかった。
でも、こんな生活では母さんも気が滅入ってしまうだろう。僕の問題なんて、そのうち時間が解決するはずだ。その程度のことだと思っている。だから、そんなことのために母さんが倒れてしまったら、僕はその方が嫌だ。
僕から頼み事をすれば、出かける罪悪感が減らせるんじゃないかと思い、僕はフレッシュハーブを売っている店での買い物を選んだ。僕が大好きなレモンバームを買って持ち帰るのだと思えば、帰ってくる時にも気が重くなったりしないだろう。
そうすれば、出かけている間も純粋に楽しんでくれるんじゃないだろうか、そう考えた。
「……駅前の大きなスーパーで買う、フレッシュなレモンバームよね?」
「そう。煮出すからフレッシュな方がいいんだ。あのお店なら、父さんの買い物の帰りに寄れるでしょ?」
「分かった。じゃあ、行ってくるね」
そう言って笑った母さんの笑顔は、たった一週間で酷く老け込んでしまった。その疲れた顔に、胸がずきんと痛む。僕は自宅謹慎になって一週間目の朝を迎えていた。学校から正式な処分の決定に関しての連絡は、まだ来ていない。謹慎になった理由は、山井優に対する暴力行為だった。
山井優は隣のクラスの生徒だ。三年の春に転校してきた彼は、女子生徒の制服を着ていて、見た目もほぼ女性に見える。親しくなった生徒は、彼を「ユウちゃん」と呼ぶ。
ただ、別に本人は自分を女性だと思っているわけではないらしく、その制服はいわゆる女装なのだと言っていた。
学校も彼を男子学生として受け入れているらしく、制服は性別関係なくどれを着ても構わない学校なので、ただ彼が好んでスカートを履いているだけだと言われた。
学校としては何の問題もなく過ごせると踏んでいたらしいのだけれど、そういう生徒は彼しかいないのでやっぱり悪目立ちしているらしい。数名の生徒からいじめられているという話だけは、噂で聞いたことがあった。つまり、僕らはいじめられている子から暴力を振るわれたという事らしい。
あの時、僕が蹴ったカバンがガラスを割ったことで、先生たちが廊下へ飛び出して来た。それを利用したあの子は、教頭に暴力を振るわれたと訴えたのだ。そもそもいじめに遭っていた子がいじめられたと訴えたなら、先生はすぐに信じてしまうだろう。僕は一方的に悪者にされてしまった。そして、処分の決定まで自宅謹慎をするようにと言い渡された。
もちろん和葉は必死に弁明してくれた。
僕が蹴ったのはカバンだけだということ、そうしたのはそれまでに彼女が僕に暴力を振るっていたからだということ、和葉の身を案じての行動だったということを訴えてくれた。
でも、その直前にセクハラ騒動があったことで先生たちへの心象が悪く、和葉は僕を恋仲にあるから庇っているだけだと判断されてしまったらしい。彼の言葉は、聞き入れてもらえなかった。
「和葉、大丈夫かなあ……」
僕は暴力で謹慎になったため、大学の推薦も取り消されることになった。それは謹慎の話の延長上でされたため、僕がそれをいい渡された時には隣に和葉もいた。
まだ学内での選考期間だったため、幸い大学側には何も知られていない。僕としては、勉強して一般入試を受ければいいだろうと思ったくらいのことであって、そのこと自体は全く気になってはいなかった。
でも、和葉はそうはいかなかったようだ。
彼は、僕が彼を守るために彼女のカバンを蹴った事を知っている。きっと、自分の足が以前のように走れたなら、こんなことにはならなかっただろうと思っているに違いない。少しでも頭に衝撃を受けてしまうとどうなるか分からない和葉を庇って、僕が過剰に反応したということにも気がついているはずだ。
『僕がいなければ朋樹が謹慎になることは無かった、朋樹の受験に悪影響を与えることも無かった』
と言って塞ぎ込んでしまったそうだ。僕はそれを玲奈に教えてもらった。
僕らは謹慎期間に会うことも連絡を取り合う事も禁止されている。だから、それを聞いても慰めに行く事が出来ない。もどかしく思いながらも、代わりに様子を見て来てくれている玲奈と翔也、それに薫が間を取り持ってくれることに甘えるしか無かった。
「さて、勉強しよっかな」
和葉の意識が無かった一ヶ月の間に、僕は理不尽に黙って耐えることに慣れてしまった。僕らはどっちも悪くない。ただ、運が悪かっただけだ。そう思って、今出来ることへと意識を合わせる。
実際そうすることで余計な感情の揺れを減らす事が出来るんだから、僕にとっていい事しかない。何も出来る事がないことを思って苦しみ続けるのは、もうたくさんだ。
「戻った時に、和葉が安心出来るようにしておかないとね」
このまま処分が開ければ、すぐに中間テストが始まるはずだ。推薦を受けないのなら、受けるテストは全て志望校の合格ラインを超えていきたい。そのためには、毎日確実に成果を残していきたいと思っている。
カップを片付けるためにシンクへと向かう。洗い物の無いキレイに片付いたシンクで、急いでカップを洗った。手を拭くために屈んでふと作業台の方を見ると、僕がよく使うガラス瓶が保管してある中に、レモンバームをオイルにつける時に使っていた瓶があった。
それを見て思い出してしまう。和葉がレモンバームを好きになるきっかけになったのは、僕が作ったリップバームがきっかけだった。
「これをあげたのって、もう半年くらい前かな……」
その頃の僕らは何の不安も抱かず幸せで、ただお互いがそばにいるだけで十分に事足りるような生活をしていた。僕も和葉も、なんの疑いもなくずっとそのままでいられると思っていた。
それが、和葉が事故に遭ってからそれが全て変わってしまった。その原因は僕にあると言っても過言じゃない。
「和葉だけが悪いんじゃないよ。僕が遅れなければ和葉は事故に遭わなかったんだ。だから、僕が悪いんだよ」
だから彼を守ってあげたい。その思いの何がいけなかったんだろうか。それが今でも分からない。
暴力がいけないというのなら、彼女はなぜ何も罰を受けていないんだろうか。それもよく分からなかった。あんなに重たいカバンで殴られたら、和葉はどうなっていたか分からない。だから反撃した、それだけだった。
その後彼女を痛めつけようなどとは思わなかったし、そんなことは今だって興味がわかない。
それなのに、僕は危険人物なのだろうか。好きだった人が自分の思い通りにならないからといって、その苛立ちを解消するために暴力を振るう人の方がよほど問題があると思う僕はおかしいのかな。
うちには、こうやって和葉を思い出してしまうものがたくさんある。いくら強がっていても、結局こうやって彼につながるものを見つけてしまうと、もやもやとした心の中を晴らしたい衝動に駆られた。
胸がじわりと痛くなる。その小さな痛みは胸の中で大きくなり、迫り上がって溢れていった。
「……会いたい」
空になってキレイに洗浄された瓶を手に取る。まだほんのりとレモンバームの香りが残っていた。
僕が和葉にこの香りを選んだのは、爽やかな香りの中に甘さを感じることが出来るからだ。そして、その香りが長く感じられる、それが僕にとっての和葉への想いに似ていると思ったからだ。
付き合いがどれほど長くなろうとも、どれほど苦難があろうとも、僕は和葉を好きでいられる。それはいつまでも色褪せず、いつまでも甘いものであることが出来る。その思いを知っていて欲しい、ずっと忘れないで欲しい。
「でも、僕自身が和葉の思ってるような人じゃなくなってるとしたら……」
いくら僕が変わらない想いを抱いていたとしても、僕自身が嫌われてしまっては意味がない。一度はその危機を二人で乗り越えたけれど、見た目や雰囲気の話だけではなく、僕が男らしくなったという事実を目の当たりにしたことが、どう彼の想いに影響を与えたのかが分からない。
「会いたい、でも、会うのが怖い……」
レモンバームの香りに包まれながら、僕は一人で涙を流す。どうすることも出来ない事に、ただ耐えなくてはならない日々はまだ続いているようだ。
そこに追い討ちのようなメッセージが届いた。
『ねえ、和葉がユウちゃんと付き合い始めたって噂、本当なの?』
そこには、僕らを襲った山井優の隣で、楽しそうに笑っている和葉の姿が映っていた。
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