夢の続き

ぽてち

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高見沢東吾の場合

1、前世の夢 ※

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『お願いだから、幸せになって』
 悲しそうに笑いながら、そう彼女は告げた。
 愛する夫の元に戻ろうとする彼女を必死に引き止める。
 それほど愛おしい相手なのに、愛を告げたことはなかった。

 どうしても言えなかった。

 気が狂いそうになるほどの思いを込めて、唇に触れた。
 溜息のように漏らしてしまった言葉に彼女は泣き叫んだ。
『なんでもっと!』
 宝石よりも美しい翡翠色の瞳から真珠のような涙が幾つも零れ落ちる。

 彼女は別れを告げ、振り返ることなく立ち去った。
 暫くして、他の男の子供を産み落とした愛した人は亡くなった。

 再び彼女の後を追って、俺は命を絶った。
 



 ふと意識が浮上する。
 頬は涙で濡れていた。

 またあの夢か。

 溜息をついて起き上がる。
 周りを見渡すと自宅のベッドの上だった。再度溜息が漏れる。今度は安堵の思いが強かった。
 仮眠室でこんな情けない姿を晒したら、どんな噂を立てられるやら。
 額にかかる茶色味を帯びた髪をかき上げる。

 夢なのに酷く生々しい。
 触れた唇も抱き寄せた華奢で柔らかな体も。

 アジメールなどと言う国は歴史の中にも存在しない。
 他人に話せば、唯の妄想の産物と笑い飛ばされてお終いだ。
 だが、あれは自分に起こったこと、前世なのだと心が言っている。

 また溜息をつく。

 こんなに溜息をついていると幸せが逃げそうだなと苦笑する。
 着替えようとベットから離れて、クローゼットの前を横切る。
 姿見に自分の姿が映って、思わずぎくりとする。

 良く見慣れた自分の姿なのにこの夢を見た後は別人のように映る。

 茶色がかった艶のある黒髪。
 日本人にしては彫りの深い端正な顔立ち。
 六歳から始めた剣道は今でも続けているおかげで、大学病院の勤務医というとんでもなくブラックな職場でも倒れることなく、仕事をこなしている身体は長身で夢の中の自分よりは細身だが均整の取れた体つきだ。

 高見沢東吾。
 
 それが今の自分の名前だ。
 旧帝国大学の医学部を卒業して、研修医の期間も終わり、取り敢えず一人前の医師になった。
 美人の彼女もいる。
 実家は幕臣の流れをくむ名家で、代々法曹関係と警察官僚を数多く輩出してきた。

 そういう所は前世と似ているなと苦笑いする。
 東吾の経歴や家のことを知って、嫉妬と羨望の眼差しで見られることには慣れている。

 
 昨日は、指導医の先輩医師が奥さんが産気づいたと言うことで一人で夜勤をこなしていたから、あの夢を見てしまったのだろう。
 看護師長は「五人目だろうに毎回毎回よくもまあ、あそこまで狼狽えられますわね。また、騒いで奥さんに蹴り出されないといいですけどね」
 と笑いながら、行こうかどうか迷う先輩医師を送りだして、フォローに奔走してくれた。

「高見沢先生も何かの時はご遠慮なさらないでくださいね」
 ニッコリと優しいのにどこか凄味のある笑顔で言われた。

「う~ん、予定はありませんが、ありがとうございます」
「では、5時半から514の吉田さんのご家族に病状説明、終わりましたら救命救急の人手が足りないそうですので、そちらにお願いします」
 礼を言うと東吾に先輩の分の仕事を振っていく。

 顔を引きつらせるとまた笑顔で
「その分、普段は存分に働いてくださいね」
「……はい」
 夜勤から帰ると着替えもそこそこにベッドに倒れ込んだ。
 体がべとついて、汗臭かった。せめてシャワーくらい浴びれば良かった。


 着替えをクローゼットから取り出すと風呂場に向かう。
 スマホを確認すると恋人からSNSのメッセージと着信が入っていた。

 一緒に夕食をとる約束をしていた。その確認ともし疲れているなら、また今度……という内容だ。
 
 良く出来た恋人だと思う。
 優しく、気遣いもできる。一部上場企業で働き、職場でも評判がいいらしい。

 今起きたこと、夕食は一緒に出来ることを伝えるとすぐに返信が来る。
 踊るパンダの絵文字に苦笑する。

 風呂にお湯を張っている間に昨日脱いだものも含めて、洗濯機に放り込む。
 東吾の母親は弁護士で家事全般が苦手だ。
 その為か東吾や兄姉たちに徹底的に家事を叩き込まれた。

 但し、家電製品には金に糸目をつけず、今使っている全自動洗濯機も高性能でその隣にはガスを使った乾燥機が並んでいる。
 まあ、入れるだけで済むのはありがたい。

 湯が張り終わった音声が流れて、体を洗うと湯船に浸かる。
 少し温めの湯に浸かって、ゆらゆらと立ち上る湯気を眺めているとたった一度だけ見た男性だった時のあの人の裸身を思い出した。

 はあと溜息をついて、身じろぎする。
 ゆるゆると自身が勃ち上がってくるのが分かる。
 うんざりとして湯船から上がるとボディソープを手に取り乱暴に扱く。
「……ッはぁ」
 手の中に放った白濁に自己嫌悪感が増す。
 
 シャワーで手の中の白濁を流す。
 女性経験は豊富な方だと思う。

 学生時代から女が途切れたことがなかった。
 大抵が女の方から告白してきて、別れを切り出すのも女の方からだった。
 特に執着も無いので、あっさり応じると泣かれ、叩かれたことも数えきれない。

 今の恋人も合コンの数合わせで呼ばれて、知り合い、彼女の方から告白してきた。
 なんとなく前世の妻を思い出させる賢い女だと思った。
 彼女とは馬が合うというか、居心地のいい関係を築けている。

 幸せになってと泣いたあの人の言う通り彼女とならと思っている。
 
 それでも、時折自分を慰める時、沸き立つような情欲を覚えるのはあの人の姿だった。
 細身に見えて、そこいらの男などとは比べ物にならないくらい鍛え上げられた体をしていたのに。
 他の男にはこんな感情を覚えたことはないので、あの人だけだと思いたい。
 
 シャワーを水に切り替えて、頭からかぶる。
 水の冷たさに少し目が覚めた気がした。




 風呂から出るとキッチンからいい匂いがした。
 今日は芙由子さんが来る日だったなと思いだしていた。
 芙由子さんとは週に四日ほど来る近所のお手伝いさんだ。
 母親がほとんど家事ができないので、料理と掃除をしてくれる。
 かなりの料理上手と評判で祖母が頼み込んで食事の支度をお願いしたのが始まりだった。

「あら、東吾さん。もしかして今起きたのですか?」
「ええ、はい。芙由子さん軽く食べたいのですが」
「いいですよ。野菜スープと…鮭と牛蒡の炊き込みご飯を今作ったばかりで、それをおにぎりにしましょうか?」
「ありがとうございます」
 出された野菜スープを飲んでいると祖母の藤子が顔を出した。

「芙由子さん、申し訳ないけれど、お茶を……。おや、東吾、今頃お昼なの?」
「……いえ、気分的には朝食です」
「体を壊さないようにね。そうそう、中渡さんがいらしているんだけど、挨拶なさいな」
「分かりました。珍しいですね」
 藤子は少し苦笑いする。

「結婚のご報告にいらしたのよ」
「え? みんな結婚してなかったですか?」

 中渡とは剣道の道場を開いている祖父の教え子で海上自衛隊の一等海佐だ。
 三人息子がいて全員東吾より年上で、やはり祖父に剣道を習っていた。
 年が近かったので子供の時は良く遊んだものだ。
 全員結婚していて、東吾も結婚式には呼ばれていた。

「中渡さんのよ」
「ええ!」
 中渡の妻は十年前に亡くなっていた。三人の息子の母親らしく、豪快で笑うと両頬に笑窪が浮かぶ女性だった。
 小柄で丸々としていた体が少し痩せたと思ったら、スキルス胃がんで呆気なく亡くなった。
 中渡の落ち込みようは、はたで見ていても切なかった。
 三人の息子たちもだったが、お互いに励まし合って何とか立ち直っていた。
 その様子に他人事ながら、羨ましかった

 自分はあの人のいない世界に耐えられなかった。
 だから、死という最も卑怯は方法で逃げ出した。

「それは、おめでたいですね」
「本当にね、奥様が亡くなってから、だいぶ頭もお寂しくなってしまいましたものね。顔立ちは悪くないのですから無理矢理横から髪を持ってこなくても」
「挨拶に行ってきます」
 そそくさとスープとおにぎりを食べ終えると悪気はないのであろう祖母の暴言を遮って、芙由子がいれたお茶を持って客間に向かった。
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