『病弱な幼馴染を優先してください』と言った妻が消えた翌日、夫は領地の会計書類が全て白紙になっていることに気づいた

歩人

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第1話: 『病弱な幼馴染を優先してください』と言った妻が消えた翌日、夫は領地の会計書類が全て白紙になっていることに気づいた

 帳簿の数字が、ぴたりと合った。

 鉱山の採掘量、精錬にかかる人件費、王都への輸送経路ごとの費用比較——ベルクハイム辺境伯領の第三四半期予算案は、一銭の狂いもなく収まっている。

 私——ルチア・フォン・ヴァイスベルクは、インクで汚れた指先を見つめて小さく息をついた。

 この指の染みは、五年間ずっと変わらない。変わったのは、この指を見る人の目だけだ。

 窓の外には、北方の遅い春が広がっていた。雪解け水が石畳を濡らし、庭の隅に白い小花が咲き始めている。質素な館、飾り気のない執務室。グレンヴァルト侯爵家の豪奢《ごうしゃ》とは比べるべくもない。

 けれど——数字が合う。

 それだけで、ここは私の居場所だった。

「ルチア」

 執務室の扉が開き、ヴァルター・フォン・ベルクハイム辺境伯が入ってきた。黒髪の大柄な男が、手に封書を持っている。

 封蝋《ふうろう》の紋章を見て、すぐにわかった。獅子と剣——グレンヴァルト侯爵家の紋だ。

「グレンヴァルト侯爵から書状が来た。……戻ってくれ、と」

 私は帳簿から目を上げなかった。予算案の最終行に小さな丸をつけて、羽根ペンを置く。

「お断りの返書は必要ですか?」

「どうする」

「不要です。数字で返事は済ませてありますから」

 ヴァルターは少しだけ口元を緩めた。笑い方を知らない人の、精一杯の微笑みだった。

「あの男は馬鹿だな」

「ええ。でも——数字は嘘をつきません。あの方の言葉とは違って」

 封書を受け取らずに、私は新しい帳簿を開いた。鉱山の設備投資計画。こちらの方が、よほど大切な数字だ。

 三ヶ月前——私はグレンヴァルト侯爵家を去った。

 五年間の結婚生活に、微笑みひとつだけを残して。



 エミル・フォン・グレンヴァルトに嫁いだ日、私は十九歳だった。

 子爵家の三女。持参金は少なく、容姿は「地味」と評される程度。社交界の花にはなれない。ただひとつ、数字に強いという取り柄があった。

 父は言った。「お前の頭脳は、どんな持参金にも勝る」と。

 グレンヴァルト侯爵領は王都近郊の豊かな領地だ。交易の要衝《ようしょう》で税収も多い。それだけに——会計処理は、王国でも指折りの複雑さを誇っていた。

「前の管理官が辞めてな。帳簿のことはお前に任せていいか?」

 結婚して三日目のエミルの言葉だった。金髪碧眼の美丈夫で、社交界では華やかな存在。笑うと少年のように見える人だった——あの頃は。

「はい。お任せください」

 あの時の私は、頼られることが嬉しかった。

 最初の四半期で、私は地獄を見た。

 交易税は品目ごとに税率が異なる。絹織物に一割二分、鉄鉱に八分、穀物に五分。さらに季節ごとの補正係数がかかり、王国が定めた算式に従って上納金を計算しなければならない。

 それだけではない。各商家の申告を突き合わせ、不正がないか検証し、前期との差異を分析し、王都の書式に変換する。全部で三百二十七項目。一つでも間違えれば、監査の対象になる。

 三日三晩かかった。蝋燭《ろうそく》を何本替えたか覚えていない。指先はインクで黒く染まり、目はかすみ、それでも最後の一項目まで計算を終わらせた。

 できあがった報告書を提出した朝、私は執務室の椅子で眠り込んでいた。

「ああ、できたのか。ご苦労」

 エミルは報告書を一瞥《いちべつ》もしなかった。三十七枚の報告書を机の端に寄せて、外套《がいとう》に手を伸ばす。

「今日はアリーチェの具合が悪いんだ。薬を届けに行ってくる」

「……行ってらっしゃいませ」

 幼馴染のアリーチェ・メルツァー。男爵令嬢で、生まれつき体が弱い。銀髪で色白、儚《はかな》げな美貌の持ち主だ。エミルは結婚前から——いいえ、幼少の頃からずっと彼女の世話を焼いていた。

 私は微笑んで見送った。あの頃はまだ、本物の微笑みだった。

 二年目の夏、社交シーズンが来た。帳簿よりも神経を使う仕事だった。

 グレンヴァルト侯爵家の大夜会には各国の商人や外交官が集まる。席順ひとつで外交問題になりかねない。

 ヴィッテンバッハ伯爵とクロイツ子爵は三年前の領地境界問題で犬猿《けんえん》の仲だ。同じテーブルに着かせれば退席騒ぎになる。かといって片方を末席に置けば侮辱になる。

 さらに、北方の穀物商ハイゼンベルク家は南方のワイン商ブルクナー家と販路で競合している。同席させれば商談が壊れるが、引き離しすぎると「意図的に排除された」と疑われる。

 私は二日かけて席順を組んだ。六十名の来賓の人間関係を頭に入れ、メニューはクロイツ子爵夫人の甲殻類の忌避を考慮し、ハイゼンベルク家が売り込みたい新品種の小麦を前菜に採用して話題の種を蒔いた。

「エミル様、夜会の座席表でございます。ご確認いただけますか」

「ああ——適当にやっておいてくれ。俺はアリーチェの薬を取りに行かなければならない」

「……かしこまりました」

 適当。

 対立する二家を引き離し、三件の商談が成立する導線を引き、六十名の食事の好みと禁忌を把握して組んだ席順を——適当。

 夜会は成功した。商談が三件まとまり、交易収入は前年比一割増。ハイゼンベルク家の新品種小麦は話題を呼び、グレンヴァルト侯爵領は「先見の明がある」と評された。

 エミルは社交界で「やり手の侯爵」と称えられた。

 席順を組んだのが誰かなど、誰も聞かなかった。

 夜会の途中、アリーチェが少し顔色を悪くした。

「エミル様……少し、疲れてしまって……」

「大丈夫か? 無理をするな。——ルチア、アリーチェを休憩室に」

「かしこまりました」

 私がアリーチェの腕を取って廊下に出ると、彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。

「いつもすみません、ルチア様。エミル様がいつもお世話になっています」

「いいえ。どうぞお気になさらず」

「ルチア様は本当にお丈夫なのですね。私、こんな体で……エミル様にいつもご迷惑をおかけして」

 その言葉に悪意はなかった。本当に、一片の悪意もなかった。

 ただ——「丈夫なルチア」と「病弱な自分」を並べたとき、労《いたわ》られるべきはどちらかを、アリーチェは疑ったことがないのだ。私が夜会の準備に何日かけたかも、この席順にどれだけの計算が入っているかも、知らない。知る必要がないと思っている。

 私は微笑んだ。「ええ、私は丈夫ですから」

 あの頃はまだ、その言葉に棘《とげ》を込めていなかった。

「エミル様、次の四半期報告の件ですが——」

「後にしてくれ。アリーチェが少し疲れているんだ。送っていく」

「……かしこまりました」

 使用人五十名の管理は、もうひとつの領地経営だった。

 配置、給与計算、休暇の調整。病気の侍女がいれば代わりを手配し、新人の教育係を決め、急な欠員には自ら穴を埋めた。

 ある冬の朝、料理長が突然倒れた。

「奥様! 料理長が——朝食の準備が半分も……!」

「落ち着いて。厨房に残っている食材を全部教えて。献立は私が組みます」

「で、でも奥様が厨房に——」

「前掛けを貸してちょうだい」

 六十人分の朝食を三時間で仕上げた。パンの仕込みは間に合わなかったから、前日の残りを温め直してスープで補った。侍女のマルタが泣きそうな顔で手伝ってくれた。

「奥様……ありがとうございます。私たちだけでは……」

「いいのよ。こういう時はお互い様」

 食堂に紅茶を運んだ時、エミルは何も気づかなかった。いつもと同じ味、いつもと同じ時間。彼にとっては「当たり前」の朝食だった。

「ルチア、今日は早めにアリーチェのところへ行く。昼は向こうで済ませるから、俺の分はいらない」

「かしこまりました。——エミル様」

「何だ」

「……いいえ。何でもございません」

 聞きたかったことがある。今朝の紅茶は、いつもと味が違いませんでしたか、と。料理長が倒れて、私が厨房に立ったことに、お気づきですか、と。

 聞かなかった。答えはわかっていたから。

「アリーチェは体が弱いんだ。お前とは違う」

 その言葉を、私は数えていた。数字を数えるのは得意だから。

 十回目は、結婚して三ヶ月目。アリーチェの看病でエミルが三日帰らなかった夜。五十回目は、二年目の冬。私が高熱を出した日に、エミルはアリーチェの見舞いに行った。

「お前は丈夫だろう? 少し休めば治る」

 その通りだった。翌朝には熱が下がり、四半期報告の締切に間に合わせた。丈夫だった。丈夫であることが、私の罪だった。

 百回目は——結婚五周年の翌日だった。

 エミルは記念日を忘れていた。代わりにアリーチェに新しいドレスを贈った。淡い桃色の、華奢《きゃしゃ》な体に似合う可愛らしいものだった。

「アリーチェには友人が少ないんだ。俺くらいしか気にかけてやれる人間がいない」

「そうですか」

 私のことは——誰が気にかけてくれるのだろう。

 その夜、自室で離縁の申請書を書いた。

 数字を書くより、ずっと簡単だった。

 ただし——離縁の準備自体は、ずっと前から進めていた。

 ヴァイスラント王国では、貴族の離縁に教会と王家の承認が必要だ。正当な理由がなければ申請すら受理されない。

 私は三年目の冬から、少しずつ記録を取り始めていた。エミルが私に向けた言葉の日時と内容。結婚記念日の不在記録。高熱の日に看病を拒否された経緯。すべてを帳簿のように正確に、日付と事実だけを記した。

 四年目の秋、王都の教会に足を運んだ。エミルがアリーチェの見舞いに三日留守にした週だった。

 司祭は私の記録に目を通し、長い沈黙の後、言った。

「夫側による配偶者の人格否定——に該当します。申請は受理できるでしょう」

 王家の承認は、もう少し手間がかかった。だが侯爵家の離縁となれば影響が大きい。王都の書記官に打診し、根回しに半年かけた。四半期報告の締切を利用して王都を訪れるたびに、一歩ずつ話を進めた。

 五年目の記念日の夜——百回目の「お前とは違う」を聞いた夜——すべての準備は整っていた。

「……離縁だと?」

 翌朝、申請書を見たエミルの顔から血の気が引いた。

「何が不満なんだ。金か? 地位か? 侯爵夫人の座が不満だとでも——」

「不満はございません」

 私は微笑んだ。五年間かけて完成させた、一分の隙もない微笑みだった。

「ただ、あなたのお言葉が正しかったと気づいただけです」

「俺の言葉? 何の話だ」

「『アリーチェは体が弱いんだ、お前とは違う』——百回おっしゃいましたね。正確に百回です」

 エミルの唇が引きつった。

「数えて——いたのか」

「ええ。数字を数えるのは得意ですから」

 沈黙が落ちた。エミルの碧い目が泳ぐ。何か言おうとして、言葉を探して、見つからない。

「ですから、丈夫な私はここにいる必要がございません。どうぞ幼馴染様をお大事に」

「待て。お前がいなくなったら——帳簿は誰が——」

「帳簿ですか?」

 私は首を傾げた。

「あなたが『適当にやっておいてくれ』とおっしゃった、あの帳簿のことでしょうか」

「それは——」

「大丈夫ですよ。足し算と引き算ですから」

 足し算と引き算。

 三百二十七項目の税務計算と、五十名の給与管理と、六十名の外交を左右する席順設計が——「足し算と引き算」で済むかどうか。

 エミルはすぐに知ることになる。

「ルチア、考え直せ。俺は——俺はお前のことを——」

「エミル様」

 私は静かに遮った。

「教会と王家の承認は、すでに得ております。三年前から準備しておりましたので」

 エミルの目が見開かれた。三年前——つまり結婚二年目から、私が離縁を視野に入れていたという事実。

「五年分の『お前に任せておけば安心だ』を、今さら別の言葉に替えないでくださいませ」

 エミルは黙った。

 私は荷物をまとめた。持参金と私物、そして五年分の帳簿の控え。

 侯爵家の門を出る時、振り返らなかった。

 翌朝のことは、後から聞いた。

 エミルが執務室に入り、帳簿を開いたという。数字は並んでいた。だが、何の数字なのかわからない。どの項目がどの税目に対応し、どの算式で計算されているのか——五年間、一度も確認しなかった人間に、読めるはずがなかった。

 彼にとって、あの帳簿は白紙と同じだっただろう。



 ベルクハイム辺境伯領。

 北方の辺境。冷たい風が吹き、館は質素で、グレンヴァルト侯爵家の華やかさとは別世界だった。

 縁を繋いでくれたのは、王都の財務局だった。四半期報告を毎期提出するうち、担当の書記官と顔見知りになっていた。グレンヴァルト侯爵領の報告書が「王国で最も正確だ」と局内で評判だったらしい。

 離縁が成立した翌日、書記官から一通の手紙が届いた。

『ベルクハイム辺境伯領が有能な財務官を探しています。帳簿が数年分未整理で困っているとのこと。あなたの腕なら、きっと力になれるでしょう』

 私は翌週には北方行きの馬車に乗っていた。

 馬車を降りた時、出迎えたのはヴァルター本人だった。執事でも侍女でもなく、領主自らが門に立っている。

「ルチア・フォン・ヴァイスベルクか」

「はい。本日より財務顧問としてお世話になります」

「知っている。——中に入れ。風が冷たい」

 愛想のない人だった。だが、門まで迎えに来てくれる人でもあった。

 執務室の机に積まれた帳簿を見た瞬間——胸が高鳴った。

「これは……」

 数年分が未整理だった。前任の財務官の筆跡は三年前で途切れ、以降は誰かが適当に数字を埋めた形跡がある。

 いや、「適当」ですらない。支出の合計が収入を超えているのに、帳簿上は黒字になっている。経費の項目には実在しない取引先の名前が並び、領収書と帳簿の金額が一致しない箇所が散見される。

 横領だった。

 三日間、帳簿と領収書を突き合わせた。食事を忘れ、眠ることも忘れて。

 あの頃と同じ——いいえ、違う。あの頃は「任されている」と信じて働いた。今は、自分の意志で数字に向き合っている。

 二日目の夜、ヴァルターが執務室を覗いた。

「まだやっているのか」

「もう少しです。あと三十七件の突合せが残っています」

「……体は大丈夫か」

 一瞬、手が止まった。

 体は大丈夫かと聞かれたのは、いつぶりだろう。

「はい。私は丈夫ですから」

 口から出た言葉に、自分で苦笑した。あの言葉はもう、私を傷つけない。

「ベルクハイム閣下」

 着任四日目の朝、ヴァルターの前に報告書を広げた。

「過去三年間で、約二千フローリンの使途不明金があります。前任の財務官による横領です」

「証拠は」

「すべて揃えました。帳簿の突合せ結果と、不自然な出金の一覧を添付しております。架空の取引先が三件。領収書の偽造が十二件。総額は二千百四十三フローリンです」

 ヴァルターは報告書を一枚一枚、丁寧に読んだ。五分、十分——最後のページまで目を通す。エミルが一度もしなかったことを、この人は当たり前のようにする。

「……よくやった」

「恐れ入ります」

「いや」

 ヴァルターは深緑の瞳で私を見た。

「信用できる。数字が合う人間は、信用できる」

 たった一言だった。

 けれど私は、五年間で一度も聞けなかった言葉を、着任四日目で聞いた。

 辺境伯領には鉱山がある。鉄と銅の鉱脈は豊富だが、財政難で投資ができず、採掘は細々としか行われていなかった。

 横領で失われた二千フローリンを取り戻すだけでは足りない。この領地には、根本的な収入増が必要だった。

 一ヶ月かけて採掘計画を立案した。鉱脈の埋蔵量から逆算した採掘量の予測、精錬所の新設費用、坑夫の雇用計画、王都と近隣領地への販路開拓。すべてを数字に落とし込んだ。

「この計画を実行すれば、二年で税収は倍増します」

「根拠は」

「こちらに。鉱脈の推定埋蔵量と、近隣三領への販売試算です。最も保守的に見積もっても、一年半で初期投資を回収できます」

「リスクは」

「鉱脈が予測より浅い場合と、輸送路の積雪による遅延です。それぞれの対応策も記載しました」

 ヴァルターは計画書を読み終えると、顔を上げた。

「やってくれ」

 短い三文字に、「お前の判断を信じる」という意味が詰まっていた。

 ある夜のことだ。

 遅くまで帳簿に向かっていた私の執務室に、足音が聞こえた。

 ヴァルターだった。手にティーカップを二つ持っている。大きな手に、小さなカップが不釣り合いだ。

「……紅茶は、俺が淹れる。お前は座っていろ」

 差し出された紅茶は、正直に言えば濃すぎた。茶葉の量を間違えたのだろう。色が深すぎるし、渋みも強い。武骨な指がカップを持つ姿は、剣を握る方がよほど似合う。

 でも——温かかった。

 五年間、私が毎朝淹れた紅茶を、エミルは一度も「おいしい」と言わなかった。当たり前のように飲み、当たり前のように席を立ち、アリーチェの元へ行った。

 ヴァルターは紅茶を淹れることすらまともにできない。

 でも、淹れようとしてくれた。

「……おいしいです」

「嘘をつくな。濃いだろう」

「ほんの少しだけ」

「……次は気をつける」

 次がある。

 この人は「次」をくれる人だ。

「ベルクハイム閣下——」

「ヴァルターでいい」

「……ヴァルター様」

「『様』はいらん」

「では……ヴァルターさん」

「……まあいい」

 不器用な人だ。でも、温かい人だ。

 エミルは「お前に任せる」と言って去った。

 ヴァルターは「俺が淹れる。お前は座っていろ」と言って来てくれた。

 たったそれだけの違いが——五年分の重さを持っていた。



 侯爵領の崩壊は、ベルクハイム辺境伯領にも伝わってきた。

 王都の社交界は噂が早い。そして、他人の失敗ほど速く広まるものはない。

 私が去って一週間後。四半期税務報告の締切が来た。

 エミルが自力で書いた報告書は、王都の財務局から即日突き返されたそうだ。

 計算の誤りが三十七か所。書式の不備が十二か所。提出期限を四日超過。上納金の算出に使う補正係数を知らなかったらしく、穀物税が実際の三倍の金額で計上されていた。

 財務局の担当官が残した所見が、社交界で笑い話になった。

「小学生の習字の方がまだ体裁が整っている」

 皮肉なことに、その担当官こそ私の報告書を「王国で最も正確だ」と評していた人物だった。同じ領地から届いた報告書の落差に、さぞ驚いただろう。

 エミルは慌てたのだろう。アリーチェに帳簿を見せたらしい。

「エミル様……ごめんなさい。この数字が何を意味しているのか、私にはわからなくて……」

「いいんだ。お前は体が弱いんだから、無理をするな」

 アリーチェは優しい人だ。でも、複雑な税制を理解する訓練は受けていない。そもそも体が弱く、夜通しの帳簿作業には耐えられない。

 ——「アリーチェは体が弱いんだ。お前とは違う」

 ええ、その通りです、エミル様。だから私がやっていたのですよ。

 二ヶ月目。秋の社交シーズンが始まった。

 エミルは夜会の準備をアリーチェに任せた。彼女は精一杯やったのだろう。優しい心遣いで招待状を書き、美しい花を選び、席順を考えた。

 だが——人間関係の地雷原を知らなかった。

 ヴィッテンバッハ伯爵とクロイツ子爵が向かい合わせに座らされた。私が三年間、一度も同じテーブルにしなかった二人だ。

 開始三十分で口論が始まった。クロイツ子爵が食器を叩いて退席し、ヴィッテンバッハ伯爵は「グレンヴァルト侯爵家は礼儀を知らぬ」と公言。以後の交易を全面停止した。

 領地の交易収入は、一夜にして二割減った。

「ルチア様がいらしたら、こんなことには……」

「ええ。奥様は席順に二日かけていらしたのに」

「料理長が倒れた時だって、奥様が全部仕切ってくださった」

 使用人たちの囁《ささや》きが、社交界の噂として私の耳にも届いた。

 アリーチェは夜会の途中で体調を崩し、退席した。エミルはその夜、紅茶を自分で淹れようとして——茶葉の場所すら知らないことに気づいたという。

 三ヶ月目。

 連続二期の税務報告不備により、王都から監査官が派遣された。

 爵位審議——侯爵としての資格を問う審査にかけられる可能性が出てきた。代々続く名門グレンヴァルト侯爵家が、「帳簿もまともにつけられない」という理由で降格されれば、王国中の笑いものだろう。

 そして——ヴァルターが持ってきた、あの手紙。

 エミルの筆跡は乱れていた。かつての尊大さは影もなく、震える文字が紙の上に縋《すが》りついている。

『頼む、ルチア。お前にしかできないんだ。報酬はいくらでも出す。条件も好きにしていい。アリーチェも心配している。俺が間違っていたのかもしれない。だから——戻ってきてくれ。このままでは侯爵家が——』

 報酬。条件。

 五年間の報酬は、「お前に任せておけば安心だ」の一言と、百回の「お前とは違う」だった。条件は、紅茶を淹れても「おいしい」と言われないことと、結婚記念日を忘れられることだった。

 『俺が間違っていたのかもしれない』——かもしれない。

 五年間、一度も振り返らなかった人が、追い詰められてようやく「かもしれない」。

 「間違っていた」ではなく、「間違っていたのかもしれない」。

 認めることと、謝ることは違う。エミルは結局——最後まで「かもしれない」の人だった。

 私は便箋を折り畳んだ。

 引き出しから五年分の帳簿の控えを取り出した。

 すべて私の筆跡で、一銭の狂いもない。二十期分の四半期税務報告の原案、社交シーズンの席順記録、使用人の給与台帳。私がグレンヴァルト侯爵領をどれだけ支えてきたかの、完全な記録だ。

 それを——小さな木箱に詰めた。手紙を一枚だけ添えて。

『エミル様

 これが最後のご奉仕でございます。お使いになりたければどうぞ。過去の書式と計算方法は、すべてこの控えに記録されております。

 ただし——私の名前は、どこにも書いてございません。

 署名欄はいつもあなたのお名前でしたから。五年間、ずっと。

 どうぞご自分のお力で、お続けくださいませ。

 ルチア・フォン・ヴァイスベルク』

 帳簿の控えは、たしかに完璧だ。

 だがそれは「答え」であって「解き方」ではない。

 数字の意味を理解できない人間にとっては——やはり白紙と変わらないだろう。



 ベルクハイム辺境伯領の庭に、白い小花が咲き揃っていた。

 北方の遅い春。王都の華やかな庭園とは比べるべくもないが、雪の間から顔を出す花は、どんな温室の薔薇より力強い。

 ヴァルターが紅茶を持ってきた。相変わらず少し濃い。でも、前よりずっと飲みやすくなっている。

「聞きたいことがある」

「はい」

「ここは——居心地がいいか」

 不器用な人だ。聞きたいことを真っ直ぐに聞けない人。

 でも、紅茶を淹れてくれる人。帳簿を最後まで読んでくれる人。「次は気をつける」と言ってくれる人。「体は大丈夫か」と聞いてくれる人。

「ええ。数字が合う場所は、居心地が良いです」

「……そうか」

 ヴァルターは紅茶を一口飲んでから、少し考えて、言った。

「ここがお前の居場所だ。——俺は、数字が合う人間を手放さない」

 ああ。

 この人は「手放さない」と言ってくれるのだ。

 「任せる」ではなく。「適当にやっておけ」でもなく。

 手放さない、と。

 頬を、何かが伝った。

 泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。帳簿の前ではない場所で涙を流すのは——五年ぶりではなく、初めてだった。

 五年間、一度も泣かなかった。泣く暇がなかった。泣く理由を数える暇すらなかった。

 これは悲しみの涙ではない。悔しさの涙でもない。

 五年分の帳簿がようやく閉じられた——そんな安堵だった。

「……ありがとうございます」

「泣くな」

「すみません。でも——ようやく、数字が合いました」

「数字?」

「はい。……数字が合ったんです。ようやく」

 数字は嘘をつかない。

 人の気持ちも——正しい場所に置けば、ちゃんと合うのだ。

 ヴァルターは何も言わず、私の隣に座った。

 大きな手が、そっと私の手に触れた。インクで汚れた、お互いの指先。

 紅茶はまだ少し濃かったけれど——温かかった。

 翌月の王都官報に、グレンヴァルト侯爵家の処分が掲載された。

 領地経営能力の著しい欠如により、爵位一段階降格。侯爵から伯爵へ。

 ベルクハイム辺境伯領の執務室にも、官報は届いていた。

 私はそのページをめくらなかった。

 数える必要のない数字は、数えない。

 それが私の流儀だ。

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