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一章

認識の違い

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「あれからどう?何かあった?」

 堀江に噂を否定しておくと言われてから一週間が経った頃、花耶は麻友と一緒に社員食堂で昼食をとっていた。最近は忙しくて殆ど時間が合わなかったため、共に過ごすのは久しぶりだった。

「今のところ何もないかな。堀江さんの話を聞いて、何人かは実際どうなのって聞いてきた人はいたけど」
「そっか。堀江さんのお陰で、噂はデマだって広がってるかな」

 あれから堀江は花耶の噂は嘘で、二人は付き合っていない事、花耶は伊東とは仕事の話しかした事がない事などを周りに話してくれたらしい。ベテランで元営業、社内でも顔の広い堀江の話はあっという間に広がり、例の噂はほぼ解消されつつあった。
 花耶の元に実際どうなのかと聞いてくる者もいたが、彼らに花耶は堀江に言ったのと同じことを伝えた。聞いてきた者はおおむねデマだった事に納得していた。花耶と伊東が仕事以外の話をしているのを見た者がいなかったのも大きかっただろう。

「で、あの人は?」

 そう聞かれて、花耶は微妙な気分になった。あの人とは奥野の事だ。会社で大っぴらに名前を出せないためそう呼んでいるが、それが何だか特別なような気がして落ち着かないのだ。誰に聞かれるかわからないのでそれが正しいと理解はしているのだが。

「今のところ何もないよ」

 実際、これまでに奥野から噂に関して何かを言われた事はなかった。週末も一緒に過ごしたが、共にいる時間が少ないためゆっくり話す時間などないし、自分から火種になるそうな話を振るのはかえって危険な気がしていた。
当然、仕事でも今まで通りで変わったところはない。それが有難いような気もするし、逆に怖い気もするのだが…

「どういうつもりなんだろう…」
「単に忙しくてそこに気を回している余裕がないんじゃない?噂が事実無根だって事は、多分熊谷さんを通じてあの人にも伝わっていると思うし。社内の噂もほぼ収まったっぽいから、もう気にしていないかもね」

 麻友の見解も同じだったことに花耶は少しほっとした。恋愛経験がないため、こういう時自分の考えに自信が持てないのだ。

「でも、誰がこんな噂流したんだろう…」
「それねぇ…はっきりはしないんだけど、話を辿ると篠田さんとか橋本さんから聞いたって人が多いんだよね。あの二人が、伊東さんが話していたんだけど…って感じで話してたって。あの二人が勝手に捏造したのか、伊東さんが本当に言ったのかがわからないんだけど…」

 篠田と橋本の名前が出た事に、花耶は眉根を寄せた。橋本は篠田と同期で仲がいいが、何かと花耶を目の敵にしてくる。花耶は特に何かをしたわけではないのだが、どういう訳かあの二人は花耶を事ある毎に貶めようとしてきた。伊東が自分に好意があるとは思えないので、そうなるとこの噂はあの二人が広めた可能性が高い。どういう理由でこんな事をするのか、皆目見当もつかないため、花耶は不快に感じながらも不思議で仕方なかった。

「何であの二人、一々こういう事してくるのかなぁ…私、何かしたわけでもないのに…」

 本気でそう思う花耶に麻友は、あの二人の仕事ぶりに原因があると言った。高卒の花耶を下げて自分を上げていたのだが、最近、花耶よりも仕事が出来ない事が周りにも伝わり、隠せなくなっているのだと。
篠田は先日、花耶がやる予定だったデータ処理を土井と二人でやったが、時間内に終われずに残業になったらしい。しかも出来上がったものにはミスが複数あり、結局堀江と長山が修正する羽目になったと言う。この件で二人は大いに仕事の評価を下げたようだった。花耶にしてみれば自業自得でしかないのだが。

「ま、今回はその腹いせじゃないかな。そんなことしても余計に自分を下げるだけなんだけどね」

 まったくもって逆恨みでしかないのだが、される側からすればいい迷惑でしかない。彼女らは早く結婚して退職したいと公言しているので、早く誰か彼女たちを引き取ってくれないかと花耶は思った。

「それで?体調はどうなの?」

 急に話が変わって一瞬、え?と思ったが、それが自分の事だとわかり、花耶は麻友の気遣いを嬉しく感じた。

「まぁ、この前よりは楽かな。ここ数日は仕事も減らして貰ったお陰で、早めに帰れるようになったし」

 プロジェクトが佳境に入ってからは、花耶も忙しくて連日残業が続いた。経理課でも決算期などは残業があったが、今程遅くなることはなかった。慣れない業務が続いたことや緊張続きで余裕がなかったのもあるだろう。前回麻友と話をした後、顔色が悪いと堀江たちからも指摘が上がり、無理をし過ぎだというので業務を少し減らしてもらったのだ。

 もっとも、花耶の疲れの原因は仕事だけではない。このプロジェクトのリーダーこそが花耶の一番の敵だとも言えた。週末の夜限定とはいえ、散々花耶を愛でて意識が途切れるまで貪欲に求めるため、花耶が休む間がなかったのだ。
 花耶の顔色の悪さを指摘された後、奥野は花耶に、自分としては手加減をしていたのだが…と弁明したが、そもそも体力差があり過ぎるためその手加減が全く意味をなしてなかった。
 奥野がトーンを下げたのを幸いに、花耶は先週末、金曜日の夜は奥野のマンションで過ごすが、土曜日には家に帰って休むと宣言して実行した。奥野は渋々ながらそれを認めたため、花耶は久しぶりにゆっくりと身体を休めたのだ。

 一時的な関係だと思ったから我慢してきたが、こうも体調に影響があると早く解放されたいと思ってしまう。気が付けばもう三か月近くこの関係は続いているし、そろそろ終わってもいいのではないかと思うのだが…

「そろそろ飽きてくれないかなぁ…」
「は?」

 花耶の独り言に、麻友が信じられないものを見るような目で花耶を見つめていて、花耶の方が戸惑った。

「飽きてって…それは…ないんじゃ…ない?」
「え?何で?」
「何でって…あの人が手放す日が来るとは思えないんだけど…」
「ええ?」
「いや、花耶こそどうしてそう思うわけ?話を聞いている限り、あり得ないよ?」

 麻友にそう言われて、花耶は訳が分からなかった。それではまるで本気だと言っている様ではないか…

「二人でいる時の様子を見てないから何とも言えないけど…話を聞いている限り、飽きるどころか逆方向に向かっていると思うよ。そもそも何で花耶はいつもそっちに話が向かうの?その方が不思議なんだけど…」
「ええ?だ、だって、釣り合ってないんだよ?あんなにモテるし、凄く優しいし。いくらでも相手選び放題じゃない」
「それはそうだけど…花耶こそ、色々買って貰って尽くされて、部屋の鍵まで渡されてるのに、どうして一時的な関係だなんて思うのよ?」
「それは…別れた時に後腐れないがないよう、に?」
「そこまで大事にしてますって態度とっといて捨てたら、後腐れ悪いどころか確実に恨み買うと思うけど?」
「それは…でも…」
「百歩譲ってあの人が仮に遊びだったとして。そんな恨み買うような真似すると思う?修羅場になれば、あの人の評判だって落ちるよ?」
「…」

 そこまで言われると、花耶は麻友の言っている事も一理あるような気がしてきた。確かに甲斐甲斐しく世話を焼いていたのに急に態度を変えて捨てたりしたら、恨まれる可能性は高いだろう。花耶ももし今、鍵を返せ、仕事以外で二度と話しかけるなと言われたら戸惑うような気がする。最初から一時的な関係だと思っていた花耶でもそう思うのだから、そうでなかった場合、どれくらいのショックだろうか。

「でも…」

 それでも、やっぱり花耶は奥野本気だとは思えなかった。

「花耶が信じられない気持ちはわかるよ?最初が最初だし、確かに花耶の言うとおりだと思う。私が花耶の立場だったとしてもそう思うだろうし。でも、あの人が花耶を大切にしているのも本当だよね?」
「…う、たぶ、ん…」
「一度、ちゃんと話してみたら?」
「話?」
「そう。あの人の気持ちとか、そういうのちゃんと聞いたことある?」
「…それは…」
「花耶も、自分の気持ち、伝えた事ないでしょ?」
「…」

 改めて麻友に聞かれた花耶は、これまでの事を思い返してみた。二人の会話は基本的に奥野が話をして花耶がそれを聞いている形で、花耶は聞かれない限り自分の意見は言わなかった。奥野は何かと甘ったるい言葉を言ってはいるが、花耶はそれを世辞だと思って聞き流している。
花耶の方から自分の気持ちを言った事は…ない様に思う。困るとは何度も言ったが、それを奥野がまともに受け止めているとは言い難い。大抵は照れか遠慮と受け取っているだろう。

「一度ちゃんと話をした方がいいよ。お互いに誤解があるかもしれないし。もしあの人が十年経っても飽きなかったら?それまでずっと続けるの?」
「…十年…」
「それに…もし子供でも出来たら?好きじゃない相手の子を産むの?一人で育てる覚悟は?父親の事、子供に何て言うの?」
「…」

 麻友の言葉に花耶は、暫く動けなかった。今まで妊娠の可能性を考えていなかったわけではない。むしろ逆で、その事がとても心配で不安だったのだ。奥野は避妊をしていると言っていたが、最初の一回目は花耶もさすがにわかるが、二度目三度目は半ば意識が飛んでいて、しているのかどうかわからなかった。元々花耶は生理不順なのもあり、この関係が来てからは生理が一日でも送れると気が気ではなく、来た時には泣きたくなるほどホッとしていたのだ。
 万が一子供が出来たら…と考えなかったわけではないが、具体的な事は怖くて考えられなかった。しかも、今月は既に一週間遅れている。こみ上げる恐怖心が身体の奥から冷え冷えと広がっていくのを感じて、花耶はその後の麻友との会話もあまり覚えていなかった。。

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