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二章

想いの重さ

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「結婚…ですか?」

 いきなり結婚の単語が出て、花耶は面食らった。まだ付き合うかどうかと言う段階なのに結婚と言う単語が出てくるとは思わなかったからだ。花耶はまだ二十三歳だし、奥野にしても三十を過ぎているとはいえ、結婚するのに遅い歳でもない。

「うん、結婚。三原ちゃんは、まだそこまで考えてないでしょ?」
「…それは…さすがに…」
「ね。でも、奥野は多分結婚も考えてると思うよ。いや、あいつの事だから、三原ちゃんが今すぐ婚姻届け出したいって言ったらすぐにでも出しに行くと思う」
「…いくらなんでも…それは…」
「いやいや、断定はできないけど、八割…いや、九割はやると思うよ」
「…そうでしょうか…」

 さすがに花耶は同意し難かった。実際のところ、お互いの事をそんなに知っているわけではない。花耶は奥野に自分の事をあまり話していないし、花耶も奥野の事はよく知らない。今まで興味がなかったので聞かなかったと言うのもあるが、自分の気持ちを自覚してからは自分が奥野の事を殆ど知らなかった事に驚いたくらいなのだ。そんな状態で結婚と言われても…と言うのが正直な気持ちだった。

「覚悟ってのは、結婚も考えられるか?って事でいいと思うよ。まぁ、今すぐってわけじゃないだろうけど」
「結婚…」
「まぁ、あいつの様子からして、付き合う=婚約くらいのつもりで返事した方がいいと思うよ。さすがにそれは無理って言うなら、お互いのためにもやめた方がいいだろうね」

 ようやく答えが見えてきたが、それは花耶の想定を超えていた。どうしていつも奥野は自分の想定を大きく超えるのだろう…今まで頭にかすりもしなかった結婚と言う単語が急に現実味を帯びてきて、花耶の戸惑いはより大きくなったように感じられた。
 一方で花耶は、熊谷が考えすぎなのではないかという思いも持っていた。だが、その考えは翌日には覆される事になったのだが。



「あ~うん、それは熊谷さんの言うとおりだと思うわ」

 翌日、花耶は麻友とランチで昨日の熊谷との事を話したのだが、開口一番に麻友は熊谷の意見に同意して花耶を驚かせた。

「どうしてそう思えるの?まだ付き合ってもいないのに…」

 お弁当の卵焼きを突きながら、花耶はあっさり熊谷の意見を肯定する麻友にその意味を問いただした。どうして麻友までそう思えるのか、端から見たらそう見えるのかが知りたかったのもある。

「だって、あいつ花耶の事しか見てないじゃない」
「そ、そうかなぁ…」
「それに気づいてないの、多分花耶だけだと思うよ」

 どうして気が付かないのかなぁ…そっちの方が不思議なんだけど…とまで麻友に言われてしまい、花耶は自分はそんなに鈍いのだろうかと不安になった。恋愛経験がないのもあるが、他人に興味がなくて相手の気持ちを察するのが苦手なので、それが影響しているのだろうか…

「普通に付き合う…って言うのは…」
「あ~それはないんじゃない?最初が最初だし、相手があいつだからねぇ…」
「そんな…」
「まぁ、周りがどうこう言う話じゃないからね。要は花耶がオーケーならあいつがどんなにクズでもろくでなしでもいいって事」
「クズ…って…」
「やってることはそれに近いでしょ?でも、花耶がそれでもいい、好きだって思えるならいいって事だよ。色恋沙汰って理論的でもなきゃ道徳的でもないから。グダグダ考えるよりも、好きだから一緒にいたいって思うならそれが答え。花耶はどうしたいの?一緒にいたい?結婚は?あいつが他の人と付き合ったり結婚しても平気?」
「…え…?」

 他の人と…言われて花耶の心がざわついた。奥野が自分以外の人と付き合うとか結婚すると言われただけで、言いようもない喪失感に襲われた。それは先日お寺で感じたものによく似ていて、言いようの焦りは二度と思い出したくない感覚だった。

「ま、あいつに花耶は勿体ないけどさ。他の人にとられたくないって思うなら自分から手を伸ばさなきゃ。今の状態だと、あいつから手を伸ばしてくることはないと思うよ」

 麻友にそう言われた花耶だったが、その直後に空いていた隣のテーブルに人が座った事で、この話はここで打ち切りになった。社内公認といえども、何でも話せるわけもないのだ。

 それからの花耶は、今すぐにでも奥野と話がしたい衝動を感じながら過ごしていた。他の人の手を奥野が取るなんて考えたくもなかった。あの優しくて大きな手が他の人に…と思うと、たまらなく嫌だと思ったのだ。ダラダラと返事をしなかった割には、花耶は奥野の気持ちが自分から離れないだろうと高を括っていた事を自覚して、全く仕事に身が入らなかった。



 金曜日の終業時間が近くなると、花耶はそわそわと落ち着かない気分になった。平日は奥野の帰りが遅いため、話をするのは難しいが、今日だったら奥野と話が出来ないだろうかと思っていた。覚悟が出来たかと言われればまだだが、奥野の手を誰かにとられるとの恐怖が勝っていた。
 終業時間を迎えると、花耶は麻友の誘いを断ってさっさと駅に向かった。事情を知る麻友は何か言いたげにしていたが、花耶が決めた事なら仕方ないねと言ってそれ以上は何も言わなかった。駅まで来て、花耶はホッと小さく息を吐いた。駅までくれば会社の人と会う確率も減るし、駅ならぼ~ッと立っていても待ち合わせだと思われるからだ。

 駅に着いた花耶は、改札から少し離れた人の少ない場所までくると、バックに入れてあったスマホを取り出した。メッセージアプリを開き、お目当ての人物の名前を見つけた花耶は、メッセージを送ろうと文章を考えた。
 「お疲れ様です」までは書いたが、その後の文面が思うように浮かばずに花耶は迷った。いざメッセージを送るとなると、なんて書いていいのかわからなくなったのだ。会って話がしたいと書けばいいだけなのだが、いざ送ろうとすると、既に予定が入っているとか、実は残業だと言われるかもしれない。そういう場合も話を続けるにはどう書いたらいいだろう…などと考えていると、段々何が言いたいのかわからない文章になってきた。さすがにこれはマズイと消したのだが、その途中で送信ボタンに触れてしまったらしく、中途半端な文章で送信済みになってしまった。

「お疲れ様です。今日、お忙し、間下さい」

 送った文書を見て花耶が凍り付いていると、直ぐに既読と表示されてしまい、花耶は寒いにもかかわらず嫌な汗が出るのを背中に感じた。何をやっているのだ、自分は…と思うが、見られてしまった以上、送信取り消しも出来ない。慌てて正しい文章を打ち込んでいる間に、着信があって花耶の手が固まった。
 発信者の名前は、たった今メッセージを書き込んでいる相手だった。どうしよう…まだ心の準備が出来ていないのに話なんて…と思うが、出ないわけにもいかなかった。周りの人が着信音に反応して花耶の方を見ているのが目に入り、花耶は慌てて通話ボタンを押した。

「も…もしもし…」
「花耶か?どうかしたか?」
「…え…っあ、あのっ…」

 急に話をする事にも戸惑っていたのに、奥野の声が今までと変わりがない事に、かえって花耶は動揺した。てっきり固い声色で対応されると思っていたからだ。優しい声を久しぶりに聞いたような気がして、それだけで胸がいっぱいになった。やっぱり他の人となんて考えられなかった。

「あ、あの…」
「ああ、悪い。今取引先なんだ。まだ一時間はかかると思うから…」
「あの…待っていても、いいですか…」
「…」

 今までなら、直ぐに終わらせると言って帰ってきただろう奥野だが、直ぐに返事がなかった事で、もしかしたら迷惑なのだろうかと花耶は急に不安になった。確かに先週は熱を出して迷惑をかけたし、奥野が言っている事の半分もわからなくて、まともな受け答えも出来なかったから、呆れたのかもしれない。珍しく出てきた勇気が急にしぼんでいくのを感じて、花耶はスマホを持つ手が震えるのを感じた。

「…あ、あの、すみませんでした」

 ほんの十秒ほどの沈黙だったが、耐え切れなくなった花耶は通話を終わらせる言葉を告げた。思えば覚悟も決まっていないのに連絡をするなんて、ルール違反もいいところだ。ただ、優しい手を失いたくないとの想いだけだった自分の狡さを感じて、花耶は急速に自己嫌悪に陥った。
 耐え切れずに奥野の返事も聞かずに終了ボタンを押した花耶は、奥野とコンタクトを取った事を強く後悔した。こんな事なら連絡などしなければよかったと思う。しかも相手はまだ仕取引先にいて、向こうの都合などお構いなしだったのだ。こんな勝手な自分を奥野はどう思っただろうと思うと、消えてしまいたい気持ちだった。

 はぁ…と魂まで吐き出したい気分で着いたため息を一つつくと、花耶はこれ以上ここにいたくなくて家に帰る事にしたが、スマホのメッセージアプリの着信音に動きを止めた。見たいような、見たくないような気分で暫く迷ったが、これで諦めがつくなら…とスマホを手にした。スマホの画面には、たった今話をした人物の名があって、花耶は恐る恐る画面を開いた。
 そこには簡潔に、八時までには帰れると思う。それでよければ自分の部屋で待っていて欲しいと書かれていた。呆れられていなかった事に跳ねたくなるほど喜ぶ自分がいる一方で、奥野に言われた覚悟の文字を思い出して怖気づく自分がいた。暫くの間、花耶はその画面から目を離す事が出来なかった。


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