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二章

新年の凶報

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「どうやら…母親が俺と久美の…結婚祝いのパーティーを計画しているらしい」
「…え…」

 年が明けた日の昼過ぎ、花耶は奥野の発した一言に息を飲んだ。目の前で苦々しい表情を浮かべる恋人は今、何と言ったのだろう…好きな人と迎えた新しい年に胸を弾ませていた花耶は、一気に冷水を浴びた気分に落とされて表情をこわばらせた。いや、冷水などと言う表現では生ぬるいだろう…冬の北極の海に突き落とされた気分だった。
 数日前から、奥野のスマホには時々電話やメッセージが届いていたが、それらは実家絡みだったのか…奥野は電話がかかってくると別室に移動していたため、花耶はその内容について何も知らなかったし、尋ねようとも思わなかった。いくら恋人同士でも線引きは必要だと思ったからだ。花耶は今の言葉が冗談であって欲しいと願いながら、次の言葉を求めて奥野を見上げた。

「祖母と…妹から連絡があったんだ。祖母からは久美と結婚するのかと…妹からも、三日に久美との結婚祝いのパーティーをすると母が言っていると…」
「……」

 先日、この部屋に突然手料理を振舞おうとやってきた母親と久美は、花耶が作った料理の前に目的を遂げる事なく帰った。ただその際に、正月は一度でいいから実家に顔を出す様にと、しつこいくらいに念を押していったのだ。花耶も一緒でいいからと言って。その為、三日の昼から二人で奥野の実家に行く予定をしていたのだ。
 渋々ながらも認めてくれたのかと思っていただけに、急な態度の変わりように花耶は戸惑った。あれだけきっぱりと否定されれば諦めるだろうと思っていたが、どうやら甘かったらしい。奥野も忌々しいという表情を隠しもせず、あの人は…と吐き捨てるように呟くのが花耶の耳にも届いた。珍しく奥野が本気で怒りを露にしていた。

「全く…あれだけ言っても理解出来ないなんて…パーティーって事は多分、母方の親戚を呼んで、そこで俺と久美が結婚するとでも言う気なんだろう」
「そんな…」
「花耶も一緒にと言ったのは…花耶の目の前で結婚発表すれば、諦めると思ったからだろうな…」
「……」

 奥野の話に花耶は青ざめた。自分も一緒にと言っていたから受け入れてくれたのだと思っていたが、そんな気は微塵もなかったらしい。それどころか、呼びつけて久美との結婚を発表し、花耶を排除しようとしていたのだ。余りにも身勝手なやり方に、花耶は怒りよりも母親の執着心に恐怖を感じた。久美も一緒だから行動が大胆になっているのだろうか…

 一方、自分には親がおらず、こういう時に自分のために抗議してくれる存在がいない事を初めて心もとなく感じた。両親が健在だったら、奥野の母親もここまで理不尽な事はしなかったのではないか…これまでも親がいない事で軽く見られる事はあったし、今後最も影響が出るのは結婚する時だろうと思っていたが、それが現実になった事実は花耶の心を暗がりに落とした。

「そんな事で俺が久美と結婚すると思われてるとは…随分甘く見られたもんだ…」

 奥野は再び大きくため息をついたが、同じ思いを共有している事は今の花耶の救いにはならなかった。奥野も実親の願いであれば無下に出来ないのではないか…親との関係が希薄だった自分と違い、奥野は母親に大切にされていたし、子供の頃は母を助けたいと思っていたと言う。何と言おうとも血の繋がりは強い。花耶ですら、母や祖母に愛情を感じた事はなかったが、それでも世話をしなければと思っていたのだ。
 花耶は、その厳つい見かけによらず、奥野がとても愛情深い事を知っていた。そんな奥野なら母親に泣きつかれたら無下には出来ないだろう…更に父親や弟妹に頼まれてしまえば、突っぱね切れないのではないか…

「ああ、花耶は何も心配しなくていい。俺が愛しているのは花耶だけだ」
「でも…」
「大丈夫だ。いくら周りが騒いでも、俺は久美と結婚する気なんか欠片もない。花耶さえいてくれれば…俺はそれでいいんだ」

 奥野は優しく花耶を抱きしめると、戸惑いを拭えない花耶の背を落ち着かせるようにゆっくりと撫でた。花耶は沸き上がる不安を振り払うように奥野の背に手をまわした。この人は自分のものと安心していたところでの今回の騒動に、例えようもない心細さに息が苦しく感じるほどだった。こうしている間にも噂を事実にするよう、母親と久美は動いているのだろうか…そう思うと今まで感じた事のない焦りを感じた。

「でも…実家で結婚する話になってるなら…」
「祖母や妹には、久美との結婚は絶対にないと言っておいた」
「……」
「母は時々突拍子もない事をするからな。さっさと手を打ちたいが…」
「ど、どうやって…」

 ここまで母親が勝手に話を進めているとなると、それを止める方法など花耶には見当もつかなかった。話をしたところで聞く耳を持つとも思えないし、泣き落としや親戚揃って結婚を迫る可能性もありそうに思えた。自分には母親を止める手立てがないだけに、焦りと不安は話をすればするほど大きく膨らんでいった。

「正直言って…集まりの場で言っても…あまり効果はないかもしれん…」
「そんな…」

 奥野の言葉に、花耶は絶望的な気持ちになった。その場で結婚しないと言っても聞き入れてもらえないとなれば、もうどうする事も出来ないのではないか…

「でも…手がないわけじゃない……」

 そう言った奥野はそのまま自分の思考に入っていったため、花耶は出かけていた言葉を飲み込んだ。奥野は今、この事態をどうするのかを考えているのだろう。対抗策が何も浮かばなかった花耶は、奥野の身体に抱き付いたまま次の言葉を待った。伝わってくる温もりと規則的な鼓動が心を慰めてくれるような気がした。

「…そう、だな…これなら…」

 この声を合図に花耶は奥野を見上げた。その表情に先ほどの苦々しさはなく、悪戯を思いついた子供のようなものにも見えた。

「ど、うするんですか…?」
「先手必勝だ。というわけで、花耶、悪いが明日一緒に来てくれ」
「明日?どこにですか?」

 にっこりと、でもどこか黒い何かを滲ませた笑顔で急に一緒に来てくれと言われた花耶は、突然の事に面食らった。

「行くのは父方の実家だ。予定より一日早いが、これであの人を止められるだろう」
「父方?」
「ああ、うちは毎年二日は父方の実家に集まるのが恒例なんだ」
「でも…急にお邪魔して…大丈夫…なんですか?」
「ん?あぁ、もちろん連絡はするけど、祖父母はいつでも俺の味方だから大丈夫だ。俺の予想が当たっていれば、多分大丈夫だ…それ以外でも、出来る限りの手は打つから心配しなくていい」

 急に生き生きし始めた奥野に、花耶は何かいい手が思いついたのだという事は理解したが、それがどこまであの母親に利くのだろうかと正直不安が残った。これまでの母親の言動は、奥野の予想をはるかに超えていたからだ。もっとも、花耶よりはずっと理解していると思うので、花耶は奥野に任せるしかないのだけれど…

「どうするんですか?」
「そうだな…まぁ…」

 奥野にしては歯切れの悪い物言いに、花耶は奥野が何も言わずに事を進めるつもりなのだと知った。それは多分、花耶に余計な心配をかけないためなのだろうが、それは逆に花耶に別の不安をもたらした。傷つけないように守ってくれるのは嬉しいが、それは対等に扱われていない事とイコールでもあるからだ。もちろん、仕事を含め多くの事で奥野は花耶よりも優れているのは間違いないし、年齢異を差し引いてもそれは変わらないように思う。それを否定する気はなかったが、いつも守られているばかりの自分が不甲斐なく感じてしまうのだ。

「教えて…もらえませんか?」

 自分などがこんな事を言うのは烏滸がましいだろうかと思いながらも、花耶は思い切って尋ねてみた。何も知らされないのでは、奥野の想定外の状況になった時、自分が足を引っ張ってしまうのではないかと思ったからだ。

「だが…」
「…何もわからない方が…不安です…」

 それは花耶の正直な気持ちだった。何もわからない方が怖いのだ。逆を言えば、ある程度の事が分かっていれば、そして奥野がどうしたいのかがわかっていれば、想定外の事が起きた時でも自分が間違える確率は減る気がした。

「私たち…ずっと話し合いが足りてなかったですよね?それって、こういう時も…じゃないですか?」

 それは最初から二人の間にあった問題の根の部分だった。花耶も奥野も、多分こうだろうと勝手に決めつけて、そのせいで随分遠回りしてきたのだ。やり直す事にした時、二度とそうならないよう今度からはちゃんと話し合おうと約束したではないか。そしてそれを実行するのは今なのだと思う。何も出来ないかもしれないが、せめて足手まといにはなりたくなかった。

「わかった。その方が安心するなら」

 奥野は暫くの間、真剣な、でもどこか探るような表情で花耶をじっと見ていたが、その内ふっと笑みを浮かべると共に雰囲気を和らげた。そんな奥野の表情に、花耶は自分がまた一歩奥野に近づけた気がした。奥野と自分ではまだまだいろんな意味で釣り合っていないだろうが、一歩、いや半歩でも近づきたいのだ。

「まだ、どうするかはっきり決まっていないんだが…」
「それでもいいです。教えてください」

 困ったような笑みを浮かべて自身を見下ろす恋人に、花耶は自分でも驚くほど前向きに答えていた。守られているよりも、一緒に考えて立ち向かった方が不安が減るのだと、花耶はこの時初めて知った。これまで危険だと感じる事を避けて生きてきた花耶にとっては、新鮮で少し怖い世界に見えたが、奥野が一緒だと思うと何とかなりそうな気がした。



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