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2章
希望 Gerbera
しおりを挟む深山記念病院のセカンドオピニオン外来は毎週木曜日の午後に行われていた。
保健適応外で全て自費扱いとなっている。三十分で二万五千円という金額は花名に取って痛い出費には違いなかった。しかし、母親の病気が治るのならば安いものだ。
花名はその費用をどうにか工面した。
その日、仕事は半有給をもらった。樹の配慮だった。
午前の仕事が終わったその足で、セカンドオピニオン外来の受付窓口までくると、事務員に声を掛ける。
「すみません、三時に予約している小石川です」
「お待ちしておりました小石川様。診療情報提供書とその他の資料をお持ちでしたらこちらでお預かりいたします」
花名はカバンから大きな封筒を取り出すと、受付の事務員に手渡した。事務員は封筒の中意を確かめると、また花名に声を掛ける。
「本日、相談者様ご本人はいらっしゃいますか?」
「いいえ、娘の私だけです」
「それでは相談同意書もご提出いただきたいのですが、ご用意はございますか?」
「はい」
花名は母のサインが入った用紙を事務員に差し出した。
本当は母親には黙っておきたかった。しかし、大津の言った通り、本人の同意がないと受け付けられないと予約の段階で言われてしまった。
そこで仕方なく『別の病院で治療の相談をしてくる』と説明した。母親はすぐには首を縦に振らなかったが、花名が泣いて訴えると渋々同意してくれたのだ。
「確認させていただきました。それでは、待合室までご案内致します」
事務員についていくと、クラシック音楽が流れるホテルのラウンジのような場所に通された。花名の他にも相談者らしい人たちが数いたが、パーテーションで区切られていて顔を合わせないようになってるようだ。
「こちらの番号でお呼びいたしますので、どうぞ、おかけになってお待ちください」
花名は事務員から番号札を受け取ると促されるまま、ソファーに腰を掛けた。
しっとりと体を包み込むような座面はとても座り心地がよかったが、どことなく落ち着かず、もう一度座り直してみる。
三時を少し回った頃、目の前の診察室のドアが開いた。受付とは別の事務員が出てきて「三番でお待ちの方」と言った。
花名は「はい」と言って立ち上がる。
「大変お待たせいたしました。どうぞ、お入りください」
事務員に誘導され、花名は診察室の中に入った。
「失礼します」
深々と頭を下げ、顔を上げた花名は目の前にいる医師を見て思わず「あっ」と声を漏らした。
出来ればこのような場では会いたくはなかった。
「どうも。消化器外科の結城です」
「小石川雅恵の娘の小石川花名と申します」
「どうぞ、おかけください」
毎週顔を合わせているというに、まるで初対面の人間に取るような態度に花名は少々困惑したが、純正はあえてそう言う態度を取ってくれているのだと思うことにした。
純正に取って目の前にいる花名は、あくまでも患者の家族でしかないのだろう。
「失礼します」
花名が腰を落ち着けると、純正はゆっくりと体を正面に向けた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
花名は小さく頭を下げ、そしてまた純正を見た。彼の凛々しい眼差しはもうすでに花名の持参した書類に向けられていた。
軽く伏せた長い睫はその頬に影を落とす。まるでギリシャ彫刻のようだと花名は思った。思わず見とれてしまいそうになって、花名は自分を戒めるように軽く唇をかんだ。
「ご相談内容としては、お母様の治療方針について、でよろしいですね」
「はい。私は母の病気をどうしても治したいんです。けれど、大津先生は難しいとおっしゃいました。先生なら治せますか?」
「現段階では、どちらともないとお答えせざるを得ません。ただ、治療法がないわけではありません」
「治療法があるんですか? ぜひ受けたいです!」
「待ってください。まずは今現在お母様の状態について確認させてください。何事にも順序や決まりというものがあるんですよ」
純正の言い分は正しい。しかし花名は焦っていた。
三十分という限られた時間内に母の生きる可能性についてどうしても聞いておきたかったのだ。
「……大変お恥ずかしい話ですが、金銭的な余裕がなくて相談時間の延長が厳しいんです。無駄な話は極力避けたいんです」
花名が語気を強めて言うと、純正は小さく息を吐いた。
「無駄とは心外ですが……あなたがそうおっしゃるのでしたら、望まれるお話しましょう」
花名の母親の治療に適しているとされている薬剤は実は海外で既に膵臓がんの治療に使用されているが、日本ではまだ承認されていない。
今はまだ治験を行っている段階であるため、日本国内で使えるようになるのは数年先のことになるという。
「待ってください! 先生はさっき、治療法があるとおっしゃいましたよね。数年先ってどういうことですか?」
「どうもこうも、そのままの意味です。日本で発売されるようになるにはまだ数年かかります。これに限ったことじゃないんですよ。どの薬剤も何年も研究を重ねてその効果と安全性を確認してからじゃないと世の中に出回ることはありません」
純正の話しは理解できたが、花名の母親はすぐにでも治療を開始しなければならない状態だ。
「先生は意地悪ですね。希望を与えておいて、数年先だなんてあんまりです。母には時間がないんです。このままでは死んでしまうかもしれないのに」
花名は声を荒らげて純正を責めた。しかし彼は全く動じない。むしろ、言われて当然という顔をする。
「あなたのおっしゃる通りです」
純正の静かな声を聴いて、花名は我に返った。
「すみません。つい、カッとなってしまって……先生を責めるなんて、どうかしてますよね」
申し訳なくて、下げた頭があげられなかった。
「本当にごめんなさい」
「謝罪は結構です。時間を無駄にしたくはないんですよね」
「……はい」
「話を続けていいですか? その未承認薬を使用する方法についてです」
「そんな方法が?」
「あります。個人輸入という方法です」
純正は治療薬の個人輸入について花名に説明を始めた。
薬剤の購入代金はすべて患者負担。そしてこのような薬剤を使用する場合は保険診療が適応されないため、治療費も全額自費になると。
「その薬剤の初回導入時は入院を三日ほどしていただき、投与回数は二回になります。患者さん自らが支払う医療費はおおよそ三百万円です」
「三百万?」
「それを決められたサイクルで三回繰り返します」
「三回もですか?」
「はい。それでも完治するとお約束できませんし、副作用で治療を中断せざるを得ない場合もあります。リスクは非常に高いです。全てを患者様の責任の上行うという誓約書を交わしていただくことを前提にしています」
「……その治療を受けさせてください。母を助けてください! お願いします!」
必死で頭を下げる花名に純正はまるで冷たく突き放す様に言った。
「申し訳ないが、当院での治療は諦めたほうがよろしいのではないでしょうか?」
純正の言葉に、花名は小さく首を傾げる。
「……え? どうしてですか」
「お金、ないんでしょう? この外来にかかる費用を出すのも苦しいあなたに、莫大な治療費を用意できるとは思えません」
「それは、そうなんですが……どうにかします」
そうは言ってみたものの、花名に数百万もの大金を用意できるはずもなく、もちろん借りるあてもない。
それを見透かす様に強い口調で言った。
「どうにか、できるんですか? 私は、そんなふうに大切な人を救おうとして、人生を棒に振った人間を知っている。あなたにはそうなって欲しくない」
花名は唇をかんだ。
今までも、これからも自分の人生は借金にまみれたものになるのだろうと思ったら、泣き出しそうになる。
「だからって、諦めるなんて出来ません! 母の命を救おうとしたことでもし不幸になったとしても、私は後悔しない。ここで諦めたほうが何十倍も後悔すると思います!」
「きれいごとにしか聞こえないな。すべては金を用意できてからの話だ」
そんな言葉が純正の口から出るとは思わなかった。絶望にも似た怒りが込み上げてくる。
「……最低ですね。そんなことを言う人だなんて思いませんでした」
「どうとでも。悪いが医療は慈善事業じゃないんですよ。それだけはご理解ください」
純正は病院名の入った封筒を差し出す。花名はそれを受け取るとそっと中を覗いた。中にはたくさんの書類が入っている。
「なんですか、これ」
「受けたいんですよね、治療。手続きの方法が書いてありますからよく目を通しておいてください。それでは、今日はこれで。そちらの主治医には私から手紙を書いておきます」
「ありがとうございました」
花名は頭をさげて診察室を出た。会計を済ませて病院を出ると、その足で母親の見舞いに行った。バスの中でもらった資料を見た。
「お金、どうしよう」
掴んだはずの希望が指の隙間からこぼれ落ちていくのを感じながら震える拳を握りしめた。
***
「悪役になり切れてないんだよな、純正は」
そう声を掛けられて、純正はハッとして顔を上げた。花名が診察室を出て行き、紹介元への手紙を書くつもりで専用のフォーマットを立ち上げた矢先のことだった。
「金のことなんていちいち言わずに、望んだとおりの治療をしてやればいいだろう」
「……晴紀か。立ち聞きなんて悪趣味だな」
診察室の奥の通路に向かって声を掛けると、白衣を着た男が姿を現した。
深山晴紀は純正と同じ医学部で学んだ。そして彼は深山記念病院の理事長の息子でもある。
「立ち聞き?人聞きの悪いこと言うなよ。たまたまだよ、たまたま。それよりあの子、花屋の子だろ」
ニヤリと笑った晴紀を一瞥し、純正はまたパソコンの画面に視線を戻した。
「だったらなんだ」
「あのこ、みんながかわいいって言ってるの知らねえの?」
晴紀はそう言って、机の上に置いてある花名の母親の紹介状を手に取った。
「やめろ、個人情報だぞ」
「なに言ってんだよ、僕もここの病院の医者なんだから見たっていいんだよ」
取り返そうとする純正の手を振り払って、晴紀は雅恵の病歴が書かれた書類に目を走らせる。
「へえ、膵臓癌ネ。まあ、治療効果は定かじゃないけど例の薬を試してみるのは悪くないんじゃない」
「それはちゃんと説明した」
「でも花屋さんは貧乏だから、諦めるしかないって? かわいそうだね。僕があしながおじさんにでもなってあげようかな。かつて俺の親父がそうしたように、困っている人間に恩を売るのも悪くないでしょ!」
「それで彼女が本当に救われると思うか?」
「それは僕次第かな。かわいいオモチャだからきっと壊れるまで遊んじゃうと思うけどね」
へらへらと笑いながらそんなことを言う晴紀に純正は嫌悪感をあらわにする。鋭い目で晴紀を威嚇すると、さすがの晴紀も笑うのをやめた。
「おお怖。そんなに睨むことないだろう。お前が見放した患者を僕がどうしたって自由だろう」
「誰が見放すなんて言った! 絶対に手を出すな、これは俺の患者だからな」
「はいはい。必死過ぎて怖いよ、純正。それより、当直かわってくんない?」
「……わかった」
「じゃあ、よろしくね」
手にしていた書類をひらりと投げ捨てると、晴紀は純正に背を向ける。
遠ざかる足音を聞きながら、純正は自分の過去を呪った。
かつて、母親を病から助けるために自分は悪魔に魂を売ったのだ。
その当時は神にも思えた心臓血管外科医である深山修司に。
純正の母親は未婚で彼を産んだ。
医師であった彼女は苦労しながらも女手一つで純正を育てた。
勤務医をしながら子供を育てるというのは並大抵の苦労ではなく、純正もまた幼いころから我慢を強いられることが多かった。
けれど、たくさんの人の命を救う母親の背中を見ていつしか自分も彼女のようになりたいと思うようになっていった。
母親の職業柄、一般家庭よりは経済的に余裕のある暮らし。
それでも純正は必死で勉強し、学費免除の特待生として高校、大学まで進学した。
そんな矢先、母親に心臓の病が見つかった。
「拡張型心筋症?」
「そうよ。純正も大学で習ったでしょう」
拡張型心筋症とは、心室の筋肉の収縮が悪くなり心臓が拡張して、心不全や不整脈を生じる予後不良の疾患だ。
原因は遺伝子異常、ウイルス感染、その他の様々な原因が考えられていますがはっきりしていない。比較的安定した状態で経過する場合もあるが、多くは進行性で心不全や不整脈を生じ予後不良と言われている。
「実は少し前から診断はついてたんだけど、仕事が忙しくて治療を受ける暇がなかったのよ」
「悪いの?」
「この際だからハッキリ言うわね。おそらくはもうそんなに長くないと思う」
「……うそ、だろ」
笑顔でそんなことを言う母親に、純正は初めて暴言を吐いた。「ふざけるな、勝手に死ぬなんて馬鹿だ」と。それから純正は必死で治療法を探した。
「心拡大に伴う僧帽弁閉鎖不全を合併する場合、僧帽弁形成や置換術などの適応になり、これらの治療が無効な難治性心不全例では補助循環(LVAS)や心臓移植の適応となる――か」
純正が大学の図書室で医学書を広げていると同じ実習グループの深山晴紀が話しかけた。
「なにしてんの? 純正」
「いや、ちょっと調べもの」
晴紀は純正の横の椅子を引いて座ると、どれどれと言わんばかりに覗き込んだ。
「心蔵疾患? それ、僕の父親が専門なんだよね」
「晴紀の親も医者だったっけ?」
医学部では医者の子供もそう少なくなく、いちいち記憶にとどめておくほど珍しくもなかった。
「うん、そうそう。その筋では結構有名らしいよ」
言いながら晴紀はテーブルに積んであった心臓外科学会の雑誌をペラペラとめくり、とあるページを純正にみせる。そこには大きな見出しに、ひげを蓄えた初老の男性の写真が大きく掲載されていた。
「これこれ、深山修司」
「心臓移植のスペシャリスト? すごいな、晴紀の親父さん」
「まあね~人間的にはクズだけど」
「クズだなんて、そんなこと言うもんじゃないよ」
純正が窘めると、晴紀は「ごめん」といって肩を竦めた。
「でも、本当のことんあんだけどな。そんなやつでもよければ、話し通してやるよ。困ってることがあるんだろ?」
晴紀の申し出に、純正は藁にも縋る思いで頭を下げた。
*
セカンドオピニオン外来に足を運んだその日から、花名は仕事を探し始めた。
大金を手にする方法はいくつか思いついたがどれも現実的ではなく、今の自分にできることはコツコツと働くこと以外なさそうだった。
しかし、花屋とビル清掃の仕事で手一杯の彼女にはこれ以上時間を捻出することが難しく、たとえ休日を他の仕事にあてたとしても、ただのアルバイトが数百万を稼ぎ出すなど到底無理な話だ。
もちろん、高額の時給を出す店にも面接に行った。
しかし、自分の体を売ることはどうしてもできなかった。お金を準備できなければ、せっかくの治療を受けることができない。その現実を直視する時が来たのかもしれない。母親にはどう話そうか、そればかりを考えるようになった。
自分の無力さに打ちひしがれて、泣くことすらできない。
(先生には『お金はどうにかします』だなんていったけど、結局どうにもできなかった。今日こそは、お母さんにちゃんと話そう)
仕事を終えた花名は、いつも通り母親の病院へ向かう。
重い足取りでバスに乗り込み、まるで暗示に掛けるようになんども自分に言い聞かせる。
そもそも限られた人間しか受けられない治療だったし、諦めることは仕方のないことだ――と。
それは同時に母の死を受け入れることに等しく、花名の小さな心は激しく痛んだ。
「お母さんごめんね」と何度も繰り返しながら、張り付けた笑顔で母親の病室のドアをノックする。
「こんばんは。お母さん、来たよ」
「あら、花ちゃんいらっしゃい」
いつもと変わらない母親の顔がそこにあって、花名は涙を止めることが出来なかった。
「花ちゃん、どうしたの?」
急に泣き出した花名を見て、母親はベッドから跳ね起きる。
「ごめんね、お母さん。この間のセカンドオピニオンの話なんだけど、あれね、駄目だったの」
「そうだったの、ありがとう、花ちゃん」
花名の母親は、しゃくりあげながらそう話す彼女の体をそっと抱き寄せて、やさしく頭をなでた。
「ごめんなさい、ごめんなさいお母さん」
「謝らなくていいのよ。私のためにしてくれたんだもの、結果はどうあれそれだけで嬉しいの」
「ほんとに?」
「ほんとに。花ちゃんは優しい子ね。私は恵まれているんだわ。だって今日もね、新しい先生がきてくださって別の治療を進めてくれたの」
「新しい先生?」
「そうなの。大津先生のお知合いとかで、とても素敵な紳士だったわ。それでね、新しい治療のことだけど花ちゃんにも治療の同意書にサインをしてもらわないといけないらしくって、お願い出来るかしら」
「当たり前でしょ!」
花名は母親が床頭台の引き出しから取り出した書類をみて瞬きを忘れた。
(どうしてこれがお母さんのところにあるの?)
花名は手にした書類にもう一度目をやった。見間違いなどではない。
これは花名が純正から渡された日本未承認薬を使用するための同意書と同じものだ。
「これ、受けるの?」
「ええそうよ」
「治療費の話はされた?」
「いいえ。でも、たしか負担は増えないって言ってたかしら」
「負担がない? その先生ってどんな人だった?」
「とても素敵な方だったわよ」
「それじゃわからない」
そう花名に言われて、母親は「そうよね」と肩を竦める。
「ごめんね、花ちゃん。私もよくわからないのよ。だって、先生ってば治療のこと以外は何も話してくれなかったから」
「……そう」
母親の説明では確信を持っことは出来なかったけれど、花名の脳裏にはある人物が浮かんでいた。
「ねえ、お母さん。今日って、大津先生伊いらっしゃるかしら?」
「どうかしらね、いらっしゃると思うけど」
「私、ちょっと行ってくる」
花名はその書類を手に病室を出ると、ナースステーションに向かった。
「すみません、大津先生にお会いしたいんですが……」
花名はナースステーションのカウンター越しに声を掛ける。するとひとりの看護師が作業の手を止めて花名の方に歩み寄った。
「ご家族の方ですか?」
「あ、はい。小石川雅恵の娘です」
「お約束はありますか?」
「約束はしていません。でも、どうしても聞きたいことがあるんです」
花名の言葉に看護師は怪訝そうな表情を見せた。
「先生も暇じゃないんですよ。突然来られても困ります。とにかく今はいませんから後日アポを取ってください」
そう強く言われて、花名は恐縮したように頭を下げた。
「……すみません」
以前対応してくれた看護師は応じてくれたのに、色々な人がいるものだと思いながら母親の病室に戻ろうと踵を返した。
「おかえり、花ちゃん。先生には会えた?」
「ううん、会えなかった。約束がないとダメなんだって。明日お母さんから大津先生に伝えてね、私が会いたいって言ってたって」
「分かったわ」
「それから書くね、この書類。それでもいい?」
「もちろんよ」
花名は書類を母親に返すと、洗濯ものを持ってランドリーに向かった。
そして洗濯を終えると「また明日」と言って病室を後にした。
面会時間の終了を告げるアナウンスを聞きながら、花名はエレベーターのボタンを押した。それからすぐ降りて来たエレベーターに乗り込もうとすると中から大津が下りてくる。
「大津先生!」
大津は花名がいたことに驚いた様子で小さく会釈をする。
「どうも。お母さんの面会ですか?」
「はい。先生にここでお会いできて良かった。私、聞きたいことがあったんです。新しい治療のことなんですが、あれはどういうことですか? それに母は新しい先生が来たって言ってましたけど、どんな先生なんでしょうか?」
矢継ぎ早に質問を飛ばす花名に、大津は少し困った様子で頭を掻く。
「あれ、みたんですね」
「はい。母は乗り気です。でも治療費の事とか、気になることがたくさんあって……」
「そうですか。ちゃんとご説明しますね。ここじゃなんですから、あそこで」
大津はナースステーションの隣にある、カンファレンスルームと書かれた部屋を指さした。
「お忙しいのにすみません」
「少しくらいなら平気ですよ。小石川さんは? お時間大丈夫ですか?」
「私は、はい」
カンファレンスルームのドアを開け電気を付けると、大津は花名を部屋の中に通す。
「どうぞ、座ってください」
「失礼します」
大津と向かい合う様に座る。先に口を開いたのは大津の方だった。
「僕としては、そのまま同意書にサインだけ下さるととても有難かったんですが、そう言うわけにはいきませんよね」
「当然です」
ハハと力なく笑う大津を花名は軽く睨んだ。
「……すみません。こちらにも諸事情がありまして、これから話すことも出来れば聞かなかったことにしていただけるとありがたい」
「内容によります」
「そうですか、いやあ、参ったな」
相当話し難い内容なのか、誰かに口止めされているのか、おそらくその両方なのか。
大津は額に汗を滲ませいた。それを見た花名は大津の言う諸事情を汲んでやりたい気持ちが芽生えないわけではなかった。
しかしだからといって追及の手を休めるわけにはいかない。母親の命がかかっているのだ。花名は仏心を捨てて大津に詰め寄った。
「それで、母の治療のことですが、あれは深山記念で聞いたものと同じですよね?」
「はい、そうです」
「費用が掛からないということですが、そんなことがあるんですか?」
数百万の治療費がゼロになるなんてありえない話だ。
「それは、その、なんと申しますか、“ある人の善意”ということでご理解いただけると僕としてはとても助かります」
「結城先生の善意」
「……はい。あ……」
大津は「しまった」といいながら口元に手をやった。
「やはり、そうだったんですね」
いとも簡単に、と言っては彼が可哀想ではあるが真実を突き止めることができて、花名は満足げに息をひとつ吐いた。
そんな花名を恨めしそうに見て、大津は言う。
「小石川さん、かまをかけるなんて酷いですよ」
「引っかかる先生も先生です」
にこりと笑う花名に、大津は参ったとでもいう様に項垂れた。
「安心してください先生。大津先生からは何も聞かなかったことにしますから。そもそも、こんなことして気付かないわけがないじゃないですか」
「そうですよね! 僕も結城先生にそう言ったんですが、それがどうしたとでもいう様な態度で聞く耳すら持ってくれなくて……」
そう困った様に言いながら、大津はこう付け足した。
「なんていうか、明らかに冷静さを欠いているようで、なんていうかあんな先生初めて見ました。もしかしたら、自分の過去を重ねているのかも知れません」
「結城先生の過去?」
「あ、と。これは、言わなくてもいい話でした。忘れてください」
「分かってます。口外はしません。お忙しいのに、お時間いただいてしまってすみませんでした」
「いえ、こちらこそ。遅くまでどうもすみません。治療のことはなるべく早くご決断下さるとありがたいです」
「そうですね。よく考えてみます」
大津はエレベーターホールまで送ってくれた。消灯時間を迎える院内は不気味なほどの静寂が全てを包み込もうとしている。
「では、お気を付けて」
「はい、失礼します」
扉が閉まると花名は一階のボタンを押した。普段よりもやけに耳に着くモーター音を聞きながら大津の言葉を反芻するように呟いた。
「……自分の過去を重ねている」
花名はあの日の純正を思い返した。彼は花名が何としてでも母親を助けたいと言った時、彼は強く反対した。
――そんなふうに大切な人を救おうとして、人生を棒に振った人間を知っている。
あれは、医者としてではなく、彼自身の言葉ではなかったか。もしかしたら彼も、自分と同じような過去があったのかも知れない。そう考えれば合点がいく。そして彼は、自分の人生を犠牲にして大切な人を救った。
(もしそうだとしたら、私、先生に酷いことを言ってしまった)
純正のことを最低だと罵ったことを思い返し、花名は下唇を噛みしめた。
翌日花名は仕事が終わると直ぐに病院の通用口に立った。
純正に直接会って、母親の治療の話をもう一度したかった。もちろん治療は直ぐにでも受けたいと思っている。しかし、莫大な治療費の負担がないというのはどういうことなのか、それをきちんと確かめてからでなければならない。
職員の仕事が終わる午後五時半を過ぎるとたくさんの人が通用口から出て行った。けれど純正はなかなか現れない。
医者が定時で帰宅するなんてないのだろう。母親の主治医の大津も夜遅くまで病院にいる。
(じゃあ、待つしかないか)
花名は覚悟を決めた。それからどれくらい待っただろう。ふと時計を見ると、十時を過ぎていた。少し前から降り出した雨は、徐々にその雨脚を強めて行く。
「今日は諦めて帰ろうかな」
独り言ちて、カバンの中を探った。
しかし、あるはずの折り畳み傘がない。そこでハッと気づく。
(ああそうか、今日は違うバックを持ってきたんだった)
花名は深くため息を吐く。
病院前から出ているバスはもう終わってしまっている。
だから歩いて駅まで向かうつもりでいたのに、傘がないなんて考えもしなかった。
この時間では病院の売店はしまっているし、近くのコンビニまでは五分ほど歩かなくてはならない。
タクシーを呼ぶことも考えたが、余計なお金は使いたくない。
(……しかたない。歩くしかないか)
花名は雨の中を歩き始めた。大粒の雨はあっという間に花名の全身を濡らし徐々に体温を奪っていく。
身震いをした花名は自分を抱きしめるようにして両腕をさすった。
「どうしよう、すごく寒い」
唇が震えて、歯がカチカチとなる。やがて体ががくがくと大きく震えだし、身動きが取れなったしまった。
花名はその場にしゃがみ込んだ。それでも容赦なく降り注ぐ雨に背中を撃たれつつ考える。このまま死ぬのかも知れない。その時、車が急停止する音が聞えた。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
大きな手が、花名の肩を優しく揺する。大丈夫だと答えたくても、花名の唇は寒さで動かない。
上半身を起こし、やっとのことで顔を上げると、目の前にいたのは純正だった。
「……君」
「……先生、私……寒くて」
そう伝えるのが精一杯だった。純正にあったら話すことがあったのに、今は何も考えられない。
「当然だよ、こんなに濡れて。とにかく温めないと、命にかかわるかもしれない」
純正は花名の体を抱き上げると、自分の車の後部座席に乗せた。エアコンの温度を最大まで上げて、車を発進させた。
*
フロントガラスを叩く雨は、更にその強さを増してきた。
純正はバックミラー越しに花名をみつめた。
低体温症かもしれない。
そう純正は考えていた。多くの人はこの言葉を聞けば冬山をイメージするだろう。
だが、こんな都会の真ん中でも条件さえそろえば起こる可能性はある。この雨のせいで気温はだいぶ下がっていたし、あれだけ雨に濡れたら、一気に体温は奪われてしまう。
「すぐに着くからな」
純正はアクセルを踏み込んだ。
マンションの駐車場に着くと車から降りた純正は小刻みに震える花名の体を抱き上げて自分の部屋へと向かった。
玄関先で彼女の靴だけ脱がせて、そのままバスルームへ入ると服のまま花名の体をお湯のはってある浴槽に入れた。
「早く温まってくれよ」
純正は祈るような口調でそう言った。そして、今日に限ってなぜか思い立って、モバイルから湯張りの予約をしておいて本当によかったと思った。
「なあおい、タオル取ってくるから顔まで沈まないでくれよ」
純正の言葉に花名は微かに頷く。それを確かめると純正は浴室から出て行った。
「バスタオルと、あとは着替えか」
純正はぶつぶつといいながら寝室のクローゼットを開けた。
その中に置いてあるチェストの引き出しの中から小さめのバスローブを取り出して急いで浴室まで戻る。
「戻ったぞ、っておい!」
純正は慌てて浴槽に腕を突っ込むと、浴槽に沈んでいる花名の体を引き上げた。幸い息はある。
「しっかりしろ」
さっきまでの震えは止まっているが、だいぶグッタリとしている。
純正は花名を抱き上げると、寝室のベッドの上に降ろす。
バスタオルで濡れた体を包むが服を着たままだ。このままではまた体が冷えてしまうだろう。
「しかたない。脱がせるぞ!」
純正が投げかけた言葉の意味を理解しているのかいないのか、花名は「うん」と返事をする。
「じゃあ、脱がすからな」
純正はそういって花名のブラウスのボタンを外した。
ブラウスを脱がせると、背中に手を回しブラジャーのホックを指ではじく。すると押さえつけられていた白く柔らかな胸がその存在を主張した。
その頂きから転がり落ちる水滴をタオルで拭いながら、バスローブを羽織らせる。それから純正はデニムに手を掛けた。デニム地は硬く肌に纏わりつき脱がせるのに難儀した。
着替えが終わると毛布で花名の体をくるみ、ヒーターのつまみを強にした。起きたら温かいものを飲ませようとケトルを火にかける。
それから暫くして、ベッドの上の花名がゆっくりと目を開けた。 純正は花名の顔を覗き込む。
紫色だった花名の唇は元の色を取り戻し、頬には赤みがさしている。
もう大丈夫だ。
純正はほっと安どのため息を吐いた。
*
「目が覚めたね。もう寒くない?」
花名は顔を上げて、純正の方をみた。すると彼は心配そうにこちらをみつめていた。
その目は、安心したように細められていく。優しい目だった。
「はい。もう大丈夫です」
いいながらゆっくりと起き上がると、バスローブ姿であることに気付いた。困惑した表情を浮かべる花名に、純正は言った。
「濡れた服は脱がせた」
「……脱がせた。先生がですか?」
「そうだよ。同意は得た」
「じゃあ、みたんですか?」
「みたって、ああ、裸ね。みたけど、だからなに?」
「そんな……」
まだ誰にも見せたことがない自分の体。恥ずかしさで花名は泣きそうになった。
下着まで脱がせる必要があったのかと問いただしてみたくなる。けれど、純正を責めることは出来なかった。
ここまでさせてしまったのは自分のせいだし、彼にしてみれば見たくないものを見せられて、しなくないことまでさせられて迷惑しているだろう。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした! 助けていただいただけでなく、こんなことまでしていただいて、本当に申し訳ございません」
花名は必死に頭を下げた。下げた頭は申し訳なさであげられない。こうするほかにどう詫びたらいいのかと、必死で考える。
そんな花名を見て、純正は、「迷惑だなんて思ってないさ」と言った。通りかかったのが自分でよかったと思っているのだとも言ってくれた。
「だって君、もたもたしていたら死んでいたかもしれないだろう。俺は医師としてできることをした。つまりこうするのは当然の流れで、そんなに恐縮されると逆に困る。だからさ、もういいかげん頭を上げてくれないかな」
そこまで言われてようやく頭を上げる決心がついた。
花名は遠慮がちに純正の方を見る。白衣こそ着ていないが、医師としての顔がそこにあった。花名の憧れている外科医の結城純正の顔だった。花名は安堵した。
彼のしたことの全てが医師としての行為だと考えれば、自分がしてもらったすべてのことをすんなりと受け入れられるような気がした。
「そういってくださって、安心しました。私も助けてくださったのが先生でよかったと思います。感謝してもしきれません」
「俺も安心した。ちゃんと目を覚ましてくれて。このままだったらどうしようって思わないでもなかったからさ」
純正の冗談に花名はぎこちなく笑って、命が助かって本当に良かったと改めて彼に感謝する。
「それであの、私の着ていたものは……」
花名は遠慮がちに聞いた。今が何時かは分からないが、これ以上ここにいるわけにはいかない。着替えて帰らなければと思った。
「ああ、軽く洗って風呂場に干してある」
「お風呂場ですね!」
言いながら立ち上がろうとする花名に純正は言う。
「まだ乾かないさ。何か温かい飲み物でも淹れるから、もう少し休んでいけばいい」
「でも」
「いいから。……で、何飲む? あるのはコーヒーと紅茶くらいしかないけど」
「いいんですか?」
「もちろん」
「では、紅茶をおねがいします」
純正が部屋を出て行くと、花名は自分の体を見下ろした。
改めて確認してみたが、やはりバスローブしか着ていなかった。胸元の左右をしっかりと合わせて紐を結び直す。
落ち着きなく部屋の中を見渡してみると、本棚と机が目に入った。本棚には分厚い専門書がずらりと並び、空いた棚には臓器が輪切りになった数十センチ大の模型が置かれている。
机の上にはデスクトップのパソコンと、ノートパソコンが二台。ここは書斎兼寝室なのだろうか。広さは十畳ほど。床はダークグレーの絨毯が敷かれ、窓には同系色の遮光カーテンが掛かっている。
純正らしい部屋だと花名は思った。きちんと整理整頓されていて無駄がない。自分が思い描く純正のイメージにピッタリだ。
リネン類は清潔で柔軟剤のいい香りがする。忙しいはずなのに、みたところ掃除の行き届いている部屋だ。
純正はここで誰かと暮らしているのだろうか。例えばあの花束を送っている人と。
そこまで考えて花名はハッとした。もしそうだとしたら、自分がここにいていい訳がない。
慌ててベッドから降りると、乱れた布団を軽く整える。床に着いた足は重だるかったが、気にしてなどいられない。
「どうかした?」
その声に振り返ると、ティーポットとカップをのせたトレイを持った純正が、不思議そうに花名を見ていた。
「やっぱり、帰ろうと思って」
「帰る? 急にどうしたって言うんだ」
「だって、私がいたら先生の奥様に嫌な思いをさせてしまうでしょう」
「……妻? 残念だけど、俺は独身だ。この部屋にはひとりで住んでる」
「うそ」
「嘘をついてどうするんだ。信じられないなら他の部屋を見てくるといい。おいで」
純正はそう言って、花名をリビングに案内した。
寝室から出ると、そこは二十畳ほどの空間で、家具は全てミッドセンチュリーで統一されていた。
アイランドタイプのキッチンの前にはテーブルとスツールが二脚。窓際にはサンスベリアの鉢が置かれている。
「廊下を出るとバスルームとトイレ。反対側は八畳の洋室。今は物置にしているが、みてくるといい」
「いえ、もう結構です」
花名は小さく首を振った。これ以上確かめなくても純正の言葉だけで十分だ。
「納得した?」
「はい。……あ、でもジャスミンの人は?」
「あの花は知人に贈っているものだよ。君がここにいても咎めるような女性はいない」
純正は手にしていたトレイをテーブルの上に置くと、花名に声を掛けた。
「じゃあ、そこに座って。今、ブランケットを持って来るから」
「……あ、はい」
花名は促されるまま、黒い革製のソファーに座った。
足をしっかりと閉じていないと、その奥まで見えてしまいそうだ。それにバストトップも、浮いてしまってないか気になる。電源の落とされたテレビ画面に自分を映してみるがよくわからない。
そうこうしているうちに純正はリビングへと戻ってきてしまった。
「これ、使って」
手渡されたブランケットは、カシミヤのようで手触りがいい。花名はそれを胸元まで引き上げるようにして膝に掛けた。
純正はテーポットからカップに紅茶を注ぎはじめた。その途端、ベルガモットが弾けるように香る。
アールグレイだと花名は思った。母親の好きな紅茶の種類だったので、すぐにわかった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
両手でカップを受け取ると、湯気と共に立ち上る香りをかいだ。
「とてもいい香り」
「気に入ってくれてよかった」
純正はホッとした様に微笑む。そんな彼の顔を見つめて花名は言った。
「アールグレイは母が好きなんです。……母は、先生にとても感謝していました」
純正はきれいなその顔をこわばらせる。
しかし次の瞬間にはまるでなんでもなかったかのように花名を真っ直ぐに見た。
「それ、なんの話? ……なんて、誤魔化すには証拠が多すぎたか。そう、君のお母さんに直接会ってあの治療を勧めたのは俺だよ」
そう言って純正は観念したかのように笑った。
笑いながら「名推理だ」と花名を褒めたがちっともうれしくはなかった。花名は怪訝そうな顔で純正を睨む。
「笑ごとじゃありません。どうしてこんなことをしたんですか?」
「どうして、か。それを聞いてどうする? 理由によっては治療を諦めるとでもいうのか」
母の命が助かる方法がこれしかないのだとすれば、何としてでも受けたいに決まっている。花名は首を横に振った。
それを見た純正は諭す様にいう。
「だったら君は、なにも気付かなかったふりをして、そのまま書類にサインをすればいいんだよ」
「でもできません」
「どうして?」
「できないんです。ただ、なにもせずに先生の善意に甘えることが私にはできないんです」
いいながら花名は泣いていた。
自分でもどうしていいのかがわからなかった。
治療は受けたい、でも受けられない。そんな花名に純正は言った。
「それならひとつ提案してもいいかな?」
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