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5章
理想の恋人 Tulip
しおりを挟む「そうか。じゃあ、もうあの店には立たないのか」
その日の夜、花名は純正に異動になったことを話した。理由を聞かれなかったのはこれ幸いとひそかに胸をなでおろす。
「はい。だからもう、純正さんとお店で会うことはなくなってしまいました」
「寂しいけど、でもこうして毎日会えるわけだし、俺としては問題ないけどね」
純正はそう言って、花名を背中から抱きしめる。
風呂上がりの純正からはせっけんのいい香りがした。さらに彼の体温が心地よくて、疲れた体が癒えるような気がする。ずっとこのままでいたいけれど、ほんの少し迷惑だ。
「あの、純正さん」
「なに?」
「料理の途中ですし、この状態では……」
「ああ、ごめん。邪魔かもしれないけど、もう少しこのままでいていい?」
甘えるような口調でそう言われると、離れてくださいとも言えない。それに花名も本音では純正のそばにいたかった。
「じゃあ、少しだけですよ」
「うん、少しだけ」
いいながら純正は花名の首筋に唇を押し付ける。
「ひやっ、やめてください。くすぐったい」
「敏感だね、かわいい」
くすくすと笑いながら今度は耳元に息を吹きかけてくる。
「やっ」
純正のいたずらに見事に反応してしまう、そんな自分が恥ずかしくてたまらない。
「……もう、本当にやめてください!」
花名が口調を強めると、純正はしぶしぶ手を放す。
「ごめんごめん、もう邪魔しない。だから何か手伝わせて。皿を出したりとか、あるだろ」
その気持ちはありがたい。しかし、甘えるわけにはいかない。
「結構です。純正さんはテレビでも見ていてください」
リビングを指さすが、純正はキッチンから動こうとしない。
「でもさ、花名にだけさせられないよ」
「なに言ってるんですか。これは私の仕事ですよ」
「そうだけど、俺たち付きあってるんだよな」
「ですけど、これは母の治療費に代わりとしてさせてもらっているので、私にやらせてください」
これは自分への戒めでもあった。純正の彼女として大いに甘えることは容易だろう。しかし、それだけはしたくなかった。
「そうか。そういうなら任せるよ。でも、あまり無理はしないこと。これだけは約束して?」
「はい、わかりました」
花名が大きくうなずくと、純正は「仕事してくる」と言ってリビングのソファーでノートパソコンを開いた。
夕食を済ませ、片づけを終えると二十二時には純正のマンションを出る。
送っていくよと言われたけれど、大丈夫だからと言って断った。
花名は自宅アパートとは反対方向の電車に乗り、佐倉園芸の本社ビルへと向かう。
今日、樹に付いて管轄する店舗をすべて回った。立地によって、客層が全く異なり店舗の雰囲気や扱う商品が全然違っていた。
入社したての頃はあまり感じなかったその違いが、経験を積んだ今ならとてもよく分かった。
いつも社内報に載る有名店はとてもにぎわっていたし、売り上げの悪い店舗は、明らかな問題を抱えていたりそうでなかったりと改善していくのもなかなか難しそうだと感じた。
とにかく今日見た店の情報をまとめて明日から少しでも樹の役に立ちたかったのだ。
裏口に回り、防災センターで社員証を見せる。花名がどうしてもと懇願すると、警備員はしぶしぶ中へと入れてくれた。
「初日だからって定時で返してもらったのに勝手に会社に戻ってきたりして、あとで怒られたりするのかしら」
社内にはちらほら明かりがついていて、数名の社員がいたことにほっとした。花名は資料室から樹の担当するエリアの店舗一覧を持ってくると、昼間に貸与されたノートパソコンを開いた。
樹が担当しているのは、駅の構内にある小さな店を含めると、二十店舗。店長がいる大型店よりも、花名がいたような小さな店舗の方がより管理が難しい――というのは、この立場になってはじめて気づいたことだった。
今の自分にできることといえばなんだろうと考えた時に、たいそうなことができるはずもなく、それぞれの店のことを知ることから始めようと考えたのだ。
とにかく、樹の足手まといにだけはなりたくなかったし、ほんの少しでも役に立ちたかった。
花名は時計を見た。終電までは約二時間だ。
「さてと、頑張るぞ」
花名は資料をめくりながら店の特色と、ここ数年の売り上げや今年の目標などを表にまとめていく。
慣れないパソコン作業は思った以上に時間がかかってしまった。気が付けば予定していたに時間が過ぎようとしている。
「帰らなきゃ……終わらなかった残りは明日早めに出社してやることにしよう」
花名はファイルを保存してパソコンを閉じて会社を出た。家に着くととてつもない疲労感に襲われて、ベッドに倒れ込むとそのまま眠ってしまった。
翌朝、スマホのアラームが容赦なく花名をたたき起こす。
「もう朝?」
まだ眠っていたかった。けれど、早朝出勤することは自分で決めたことだ。重い体を起こすと、シャワーを浴びて身支度を整える。
「行かなきゃ」
本社勤務になって、通勤時間は三十分ほど伸びてしまった。約一時間の通勤はこういう朝にはキツイ。
小走りで駅に向かい電車に飛び乗ると、思った以上に混んでいて座ることはできなかった。履きなれていないパンプスのせいでもうすでに足が痛む。
「まだ六時なのに、いつもこうなのかしら」
吊革につかまって独り言ちる。
ようやく座ることができたのは、降りる駅の三つ手前だった。
座席に座ると横揺れが心地よく、十分に満たない時間をついうとうととしていたが、あっという間に会社の最寄り駅に付き、花名は慌てて飛び降りた。
オフィスに到着し、デスクでパソコンを開く。資料をめくりながら昨日終わらなかった店のまとめ資料を作り始めた。
「おはよう、小石川さん。ずいぶん早いんだね」
「樹さん。おはようございます」
樹はにこりと微笑むと、花名の隣に座った。
「樹さんこそ、いつもこんな時間に出社されているんですか?」
時刻は七時半。出社している社員もちらほらいるが、樹のような立場の人間の出社時は遅いものだと思っていた。
「うん、そうだよ。生花市場は四時頃から開くから、配送のトラブルがあれば対応しなくちゃならないし、欠勤の連絡があれば人の配置も考えなきゃいけない」
「それを全部樹さんが?」
花名は驚いた。確かに自分になにかあった時、すぐにフォローしてくれていたけれどこれを毎日こなすのは並大抵のことではない。
「全部ではないよ。僕がいなくてもそれぞれの部門がきちんと動いてくれるから問題はないんだけど、把握しておきたい性分なんでね」
「樹さんらしいですね」
彼は経営者の息子としての役目を十二分にになっていると言えるだろう。
「小石川さんもね。今日は早朝出勤で、昨日も残業してたんでしょ?」
「どうしてそれを?」
「自宅でパソコンを開いたら、小石川さんがログインしていたからさ」
「そんなことがわかっちゃうんですか?」
意図せず残業していたことを知られてしまうなんて、なんだかバツが悪い。
「ごめん、説明してなかったね。うちの会社が使用しているグループウエアは設定しないとログイン状態が表示されるんだ」
樹はグループウエアの使い方について花名に説明をすると、役員ミーティングのため会議室へと行ってしまった。
花名は作業を再開する。始業時間までにはまとめられそうだ。資料をめくりながら慣れないキーボードを必死にたたいた。
「頑張ってますね」
コトリとコーヒーのカップが置かれて花名は顔をあげた。てっきり樹が戻ってきたのだと思っていたけれど、そこにいたのは全くの別人だった。
色素の薄い茶色の髪は、肩につくくらいの長さで、下がった切れ長の目はとてもやさしそうだ。華奢でダボっとした服装をしているので女性と見間違えてしまいそうだが、明らかに男性だ。
「……あの?」
不安そうな目でその人を見る。すると彼はゆっくりと口を開いた。
「驚かせてごめんね。佐倉桂です。はじめまして」
「桂、さん。……は、はじめまして! 小石川花名です」
慌てて椅子から立ち上がると、花名は勢い良く頭を下げる。名前は聞いていたけれど、樹の兄である桂と顔を合わせるのはこれが初めてだった。桂は会社の行事には一切顔を出すこともなく、本当は存在しないのではないかとまで言われていた。
「顔、あげてください」
穏やかで優しい声だった。花名はゆっくりと顔をあげる。
「作業の邪魔だったかな」
申し訳なさそうな顔をする桂に花名は首を振って否定した。
「いえ、とんでもありません」
「ならよかった。どうぞ座って」
「はい、失礼します」
遠慮がちに腰を下ろすと、桂はこう続けた。
「樹は少し強引なところがあるから、あなたも大変でしょう」
確かに突然樹の補佐にと言われた時には驚いたが、もともとは自分の蒔いた種だったし、仕事を無くすよりはましだ。
「いえ、樹さんにはとてもよくしていただいてます」
「そうですか。樹が無理やり異動なんてさせたから、心配で声をかけたんだけど……もし、店舗の販売業務に戻りたいというならいつでも相談にいらしてください。あ、コーヒー飲んでくださいね」
「ありがとうございます」
「じゃあ」といって桂はオフィスを出ていってしまった。別の階にある総務部にでも戻ったのだろうか。
(そう言えば、昨日辞令を受け取った時は桂さんはいたのかしら。さすがにスーツ姿の社員の中に私服姿の人がいれば気づくはずだけど……)
「どうかした、小石川さん」
花名が振り返るとそこに、樹がいた。
「あ、樹さん。ミーティング終わったんですね」
「うん、終わったよ」
「お疲れさまです」と笑顔を向けるがなんだか浮かない顔をする。
「……そういえばここに、桂きてなかった?」
樹にそう聞かれて正直に答えるべきか花名は迷った。もし来たと答えれば、話の内容も問いただされたりはしないだろうか。二人はライバル関係で、お互いを牽制し合っていると聞く。
「いえ……」
思わず嘘をついた。心がちくりと痛んだが、樹がホッとしたような顔をしたのでこれでよかったのだと思うことにした。
「そう。ならいいんだ。小石川さんの作業が終わったら、今日はスクールの方を案内するよ。焦らなくていいから、ゆっくりやってね」
樹は隣に座るとパソコンを開く。
側にいられると、なんとなく落ち着かない。そう思いながらも花名は一生懸命に作業を進めた。
「終わりました。樹さん」
緊張のせいか、慣れない作業だからか、気づけば始業時刻を大幅に過ぎてしまっていた。
「遅くなって申し訳ありません」
「全然、大丈夫だよ。じゃあ、行こうか。そのまま外回りにいくから荷物も持ってね」
「はい」
歩きだした樹を花名は追いかける。
午前中は樹が講師を務めるスクールに行き関係者に挨拶をした。
それから社用車で店舗を回り、新規出店する予定だというショッピングモールを訪れた。
本来は本社の営業部門の仕事だが、樹は会社の顔だ。
担当者は快く出迎え、手厚く二人をもてなした。
出店予定のブースを見せてもらい、このまま帰社するものだと花名は思っていたが、担当者から思わぬ提案があった。
「もしよろしければこの後に会食の席を設けさせてください」
「ありがとうございます」
樹は二つ返事で了承したが花名は困惑していた。
会食ということは、夜遅くなってしまうだろう。
そうなれば母の見舞いにも行けないかもしれないし、純正の夕ご飯を作るのだって間に合わない。
「小石川さんもぜひご一緒に」
「私もですか?」
「ええ、もちろんです」
配置換えになり二日目にして樹の顔に泥を塗るわけにはいかないだろう。これは仕事だ。
とにかく早くお開きになることを願うしかない。
「ありがとうございます」
にこりと笑って頭を下げた。
*
会食が終わると花名は樹に乗せてもらったタクシーで純正のマンションへと向かった。
(遅くなっちゃったけど連絡もできなかったし、純正さん怒ってるだろうな)
花名は車窓から流れる街の光を見つめながら心の中で呟く。
合間を見て純正に会食で遅くなると連絡するつもりだったが、スマホの充電が切れてしまっていた。
普段は夜に充電器に繋いで一日持つのだけれど、昨日は深夜に帰宅してそのまま寝てしまったから充電していなかったのだ。
時計は二十二時を指している。
(とにかく急がなきゃ)
花名はタクシーを降りるとマンションのエントランスに駆け込んだ。
エレベーターが上昇するのもやけに長く感じた。純正の部屋のあるフロアーに着き急ぎ足で玄関のドアを開ける。
すると目の前には純正の姿があった。
「純正さん、ごめんなさい」
怒鳴られるかもしれないと思い身を竦ませた。
しかし純正は裸足で玄関のタイルに降りて花名を抱きしめる。
「花名、無事でよかった」
「純正さん。あの……怒って、ないんですか?」
てっきり叱られるとばかり思っていた。だから今、こうして抱きしめられている状況が余計に理解できない。
「怒るわけないだろう。心配したよ。連絡もつかないし、病院にも電話したら見舞いにも来てないって言われて……」
「ごめんなさい。そんなに心配をかけてしまったなんて思いもしませんでした。実は今日……」
急な会食の予定が入ってしまったこと、スマホも充電が切れてしまい連絡が出来なかったことを丁寧に説明した。
すると純正はホッとした様に長く息を吐いた。
「そうだったのか。事故にでも巻き込まれたのかと考えたら、生きた心地がしなかったよ」
その声が今にも泣き出しそうに聴こえて、花名は純正の背中を抱きしめるように手をまわした。
「本当にごめんなさい純正さん。ご飯も作れなかったし、迷惑かけてばかりですね。少し遅いですが、簡単なものでよければすぐに作りますから」
「飯はいいって、それより本当に無事だったかどうか確認させてくれないか」
純正は抱きしめた手を緩めると花名を見つめ、そのまま唇を合わせる。
いつもより長く密着していた唇が離れると、純正はこう切り出した。
「今日はもう遅いし泊まったらいい。いや、今日だけじゃなく……ここに住まないか、花名」
突然そんな提案をされて驚いた花名は純正を見上げた。
「ここに住む?」
「ああ、そうだよ。ここに住めば契約のためにわざわざ通わなくてもよくなるし、一緒にいられる時間も増える。嫌か?」
「いやではないですけど……」
あの時言ってくれたではないか。ゆっくりと距離を縮めていこう。普通の恋人同士のように、デートを重ねることから始めようと。
そんな純正の言葉に花名は安心できたし、より好きになれると思った。だからいきなり同棲しようと言われても、戸惑いしかなかった。
「私たち、お付き合いを始めたばかりですし、一緒に住むのはまだ、早いと思います」
純正の気を悪くしないようにと、言葉を選ぶ。
「……了解。花名がそういうなら無理強いはしないよ」
ほんの少しだけ残念そうな表情を見せはしたが、無理強いするようなことはしなかった。花名はホッと胸をなでおろす。
「分かっていただけて、よかったです」
「そりゃそうだよ。花名のことは大事にしたいと思ってるんだからな。で、今夜はどうする?」
そう聞かれて花名は迷った。このまま一緒にいたい気持ちはあるし、同棲するのも今夜このマンションに泊まるのも断る――というのは純正の面子をつぶすことにならないかと考える。
しかし、今日はとても疲れており、さらに明日の朝のことを考えるとこのまま帰りたい気持ちが勝ってしまった。
「泊っていきたい気持ちはあるんですが、今夜は帰ります」
「ごめんなさい」と頭を下げた。すると純正はふぅと息を吐いて、花名の髪をくしゃくしゃになでた。
「……そうかー、わかったよ。疲れてるもんな花名も。じゃあ、送ってくよ。それくらいいいだろ?」
「ありがとうございます」
「じゃあ、行こうか」
純正は玄関に置いてある車のキーを手に取った。
エレベーターで地下の駐車場に降り、停めてある車に乗り込むと純正はエンジンをかけた。
「家まで案内してくれる?」
「ええと、普段車で移動しないので、道がよくわからなくて……」
花名は申し訳なさそうに俯いた。
都内に住んで長いというのに移動するのは電車かバスがほとんどで、どの道を通ればいいのかなんて全く分からない。
「お役に立てなくてごめんなさい」
「大丈夫だよ、住所は?」
純正はナビに花名のアパートの住所を入力した。
「なるほど、三十分で着くのか。着いたら起こすから、寝ていいよ」
純正はそう言って、カーステレオの音量を下げる。
「純正さんに運転させておいて、私だけ眠れません」
確かに今にも眠ってしないそうなほど疲れていたけれど、助手席で眠ってしまえるほど図太くはない。
「そういうと思ったよ。じゃあ、急いで帰ろうな」
純正は優しく目を細めると車を発進させる。
急いでとは言ったけれど、運転はとても丁寧だった。
あの日と同じだと花名は思った。
この車に乗ったのは二度目。はじめはあの雨の日。
道端で倒れた花名を純正はこの車に乗せ自宅に連れ帰って介抱した。
あの出来事がなかったら、今こうして隣にいることもなかったかもしれない。
「純正さん」
「ん?」
「いつもありがとうございます」
「いやいや、こちらこそありがとう。仕事が落ち着くまではあまり無理して家に来なくてもいいからな」
「それはいけません」
花名は首を横に振った。
「私が純正さんの身の回りのお世話をさせていただいているのは、母の治療費の代わりなんですから」
むしろ、今の自分の働きでは足りないくらいだと思っている。
「そういうと思った。……そのことでひとつ相談があるんだ」
「なんでしょう?」
「知っての通り、君のお母様にはあの薬がとてもよく効いて、とてもいい治療効果が出ているよね。だから俺はこの治療は必要な人全員に受けてもらいたいと考えてる」
「私もそう思います」
純正の言葉に花名は強くうなずいた。
けれど、金額から言って誰もが受けられる治療ではないはずだ。花名は表情を曇らせた。
「でも、受けたくても受けられない人の方が多いと思います……」
「今はね。でもこの薬が日本で承認されれば、こんな高額な治療費はかからなくなる」
「本当に? 承認されるのにはどうすればいいんですか?」
「この治療を論文にまとめたいと思っているんだ。君のお母さんの経過もデータとして使いたい。もちろん、個人は特定されない。実は、雅恵さんには許可をもらってるんだ。花名はどう?いいかな?」
そう聞かれて花名は少し戸惑った。正直難しいことは何もわからない。だが、純正の言ことに間違いはないだろう。
「……はい。もちろんです」
「そうか、ありがとう」
満足そうな純正を見て、花名もうれしくなった。たくさんの患者さんの命が救われる未来に、ほんの少しだけ関われたような気がして。
車はやがて花名のアパートの前に到着した。
「送っていただいてありがとうございました」
シートベルトを外し、ドアに手をかけようとすると運転席から伸びてきた手が花名の肩を掴んだ。
「純正さん?」
「……俺が花名の部屋の泊まるのもダメかな?」
「えっ? 私の部屋にですか」
「ごめん、なんでもない。なんだか俺、すごく余裕ないな」
そう言ってうなだれる純正のこの姿はきっと自分しか見ることができないだろう。
そう思うと、どれだけ愛されているのかが伝わった気がして、心がとても満たされて気持ちになった。
「狭い部屋でよければ」
「いいのか?」
「はい。もちろんです」
花名がそう答えると、純正は「ありがとう」と言ってほほ笑んだ。
車をコインパーキングに停め、純正をアパートへと招き入れる。
築35年の木造二階建てのこの部屋に誰かを連れてきたのは初めてだ。
「本当に狭い部屋でごめんなさい」
こんなことになるなら自分が純正のマンションに泊まればよかったとほんの少しだけ後悔する。
「確かに小さいけどコンパクトでいいね。毎日忙しいのにとてもきれいにしてるんだ」
「ないもないだけです」
最低限の家具と、店で売れ残ってしまった多肉植物の鉢をいくつか置いてあるだけだ。
「そんなことないさ。花名がどんな暮らしをしているのか興味があったから今日来れてよかった。お母様もここに住んでいるの?」
「いえ。母が元気だったときはもう少し広いアパートに住んでいたんですが、引っ越したんです」
雅恵の病状が進み長らく入院するようになった時、家賃の負担も考慮して住み替えたのだった。
「いま、お茶入れますね。夜遅いので、ハーブティーでいいですか?」
「うん、ありがとう」
玄関わきのキッチンに置いてあるケトルを手に取ると、お湯を沸かし始める。
ティーポットにカモミールのティーパックを二つ入れてティーカップをテーブルに並べた。
純正は床に座ってハーバリウムの小瓶をじっと見つめていた。
「これ綺麗だね。なんていうんだっけ?」
「ハーバリウムです」
加工した花を詰めた瓶に特殊なオイルを流して作るもので、贈答品としても人気だ。
「ああそうだ。そんな名前だったね。店の商品? これなら見舞い用でもいいね」
「いえ、商品にするつもりで作った試作品です。でも、本社に異動になったので……」
「……でもいつか、また販売の仕事に戻ることもあるんだろ?」
「おそらくは」
花名はあいまいな笑みを浮かべた。もし、店舗に戻れても病院前の店には配属されないだろう。
「戻ってほしいな。俺は花名が作る花束が好きだったからさ」
「……ありがとうございます。あ、お湯が沸いたみたい」
花名は立ち上がり純正に背を向けた。
今回の異動の原因を作ったのは花名自身だ。
顔を合わせたくないからといって純正を悪者にした。さらには樹を巻き込み、また彼にも迷惑をかけた。
それを思うと彼の”店に戻ってほしい”という気持ちを受け止める資格はないと思った。
「熱っ!」
考え事をしていたせいで、ケトルに触れてしまった。慌てて指を引っ込める。
「大丈夫か、花名!」
驚いた純正は立ち上がり花名のもとへと駆け寄った。
「平気です。少し触れただけなので、何ともありません」
「本当に? 見せてごらん」
おずおずと手を差し出すと、純正は、まるで繊細な何かを扱うように花名の手をくまなく調べる。
「念のため冷やした方がいいな。ここ、赤くなってるだろう」
いいながら水道の蛇口をひねり、花名の手を水に当てた。
「少しこのままでいるように。お湯は俺がやるよ」
「ありがとうございます」
純正はケトルを手にとると、テーブルの上に置いたティーポットにお湯を注いだ。
「もう大丈夫だろう」
純正にそう言われて、花名は水道の蛇口を留めた。
しばらく水にさらしていた指先はとても冷えてしまったけれど、先ほどまであった赤身は引いている。
純正の指示は的確で、恋人が医者であることにあらためて感謝の気持ちが高まった。
「純正さんがいてくれて助かりました!」
「大げさだな、花名は。でも、頼りにしてもらえるのはうれしいよ。さてと、お茶を飲んで休もうか」
「そうですね」
ハーブティーを飲み終え軽くシャワーを浴びると、自宅でシャワーを済ませてきたという純正と一緒にベッドに入った。
「純正さん、そっちせまくないですか?」
想像していた通りシングルベッドはかなり窮屈だ。
「まあ、そうだな。仰向けで並んで寝るのは無理があるけど、こうすれば大丈夫だよ」
純正は横を向いた状態で花名を背中から抱きしめるとぴたりと寄り添った。
「ほらね。これで布団からはみ出したりしないよ」
「そ、そうですね」
いいアイディアだと思ったが、純正の鼓動が背中でわかるほど密着しているこの状態では緊張して眠れないかもしれない。
そう思っていたのだけれど、純正の体温と呼吸の音が心地よくて、
いつしか花名は深い眠りに落ちていった。
翌朝目覚めると、純正はすでに起きて身支度を整えていた。
「おはよう花名。よく眠れた?」
花名が目を醒ましたことに気付いた純正は、ベッドの端に腰かけて花名の髪をなでる。
「おはようございます。はい、ぐっすりと」
「それはよかった。俺はもう行くね。一度家に帰らないといけないし」
「ごめんなさい私、朝食の用意もできなくて」
「いいんだよ、一晩一緒にいられただけで十分だ。こんどはゆっくりとデートしよう。次の休みはいつ?」
純正に尋ねられ、「土日です」と答えた。今週末は本社勤務になって、初めての休日だ。
「それじゃあ、土曜日の午後から開けておいて。じゃあ、いってきます」
純正は花名に軽くキスをして立ち上がる。花名はベッドから起き上がると、彼のあとを追いかけた。
「純正さん、いってらっしゃい。また今夜」
「うん、また」
玄関先まで純正を見送ると出勤の準備を始めた。
カーテンを開けるとあいにくの曇り空だったが、気持ちはとても晴れやかだ。
(きっと純正さんのおかげね)
質の良い睡眠と、週末のお楽しみ。それだけで仕事を頑張ろうと思えるのだから自分も案外単純な人間なのだと花名は思った。
土曜日。花名は午後一番に雅恵の病室に顔を出した。
「お母さん、調子はどう?」
「あら、花ちゃんいらっしゃい。おかげさまでとてもいいわ。薬がとてもよく効いているんですって」
純正からきていた通り、雅恵の顔色はとてもよく一時よりも頬がふっくらとしているように思える。
「そう。よかったね、お母さん。結城先生のおかげだね」
「ええ、結城先生にはとても感謝してるわ。それはそうと花ちゃん、仕事、どうしてるの?」
「仕事?」
いきなり仕事の話を持ち出され、花名はどきりとした。それと同時になぜ自分が店にいないことを知っているのだろうという疑問がわく。
「どうして?」
「どうしてって、何かあったの?」
「ううん、なにもないわよ。実は、本社に異動になったの。急なことで話してなかったね、ごめんなさい」
「異動になったのね、ああよかった。クビにでもなったんじゃないかと思って、心配しちゃったわ。深山先生にも教えてあげないといけないわね。あなたが店にいないって心配されてたの」
「深山先生が!?」
雅恵の口からその名前が出たことに驚きつつも納得した。
晴紀は花名が休むようになった後、花屋に来ていたのだ。
純正との一件以来、彼からのメールをすべて削除していた。もちろん、晴紀はなにも悪くない。
アドバイス通りに実践したのは自分だ。
だからといって約束通りにお茶をする気持ちにはとてもなれなかった。
「ねえ、お母さん。深山先生はよく顔を出してくださるの?」
「ええ、そうよ。結城先生よりもよくしてくれるわ」
「そんなはずない!」
つい、大きな声になってしまい花名はあわてて口元を手で押さえた。
雅恵も花名の声に驚いた様子で目を見開いている。
「どうしたの、花ちゃん」
「……ごめんなさいお母さん。結城先生は主治医なのよ、だからあまりそういうこと言わない方がいいと思うの。先生だっていい気持ちはしないから」
「そうね。気を付けるわ」
しゅんとした雅恵を見て、花名は自分の言葉を反省した。
けれど、どんなに雅恵が晴紀を気に入っても、雅恵の治療とその費用の負担をしているのは純正なのだ。
「また来週からお薬の治療が始まるのよね?」
「そうね」
「あ、そうだこれ」
花名はバッグから小さな包みを出した。
「なあに?」
「ハーバリウムっていうの。治療の関係で、生花は飾れないでしょ、だから」
そうアドバイスをくれたのは純正だった。これならお母様の病室に置いてもいいねと言ってくれた。
「まあ、花ちゃんが作ったの?」
「そうよ。お母さんが元気になりますようにって、願いを込めたの」
雅恵の好きな桜の花をふんだんに使い、底には星の砂を敷き詰めた。
テーブルの上に置くと、日の光を取り込んでさらに輝きを増す。
「すごくきれいね。ありがとうね、花ちゃん。本当にありがとう」
雅恵の笑顔を見て花名はホッと胸をなでおろす。
「じゃあ、また来るわね」
「ええ、また」
花名は笑顔で手を振ると病室を出た。
静かにドアを閉め、腕時計で時間を確かめる。
「ああでもまだ二十分もある」
純正との待ち合わせは病院の入り口に十五時。
午前中は外来診療があり、そのあと病棟の仕事をしてから上がると言っていた。ナースステーションを覗いてみたが、純正の姿はなかった。
(もしかしたらもう仕事を終えたのかもしれないわ)
花名は踵を返してエレベーターに向かう。
降りる方のボタンを押し、到着したエレベーターに乗り込むと扉が閉まるぎりぎりで誰かが滑り込んでくる。花名は目を疑った。
乗り込んできたのが晴紀だったからだ。
メールを無視していた手前、気まずくて顔があげられない。
気付かないでほしいと祈っては見たけれど、あいにく乗っているのは二人だけ。叶うはずもなかった。
「やあ、どうも。お母さんのお見舞い?」
「はい」
「優しいんだね。でも僕には冷たいよね。メールの返事、どうしてくれないの?」
「……ごめんなさい」
「謝らなくてもいいんだよ。僕に魅力がないってことだもんね」
晴紀の言葉に花名は首を横に振って否定した。
「そんなことありません」
「そんなことあるよ。純正みたいに“悪い男”の方がモテるってことだもんな、ほんと怖い世の中だよ」
「……悪い男? それってどういう意味ですか?」
晴紀の言葉に引っかかりを覚えて聞き返してみたが、晴紀は「そんな事僕の口からは言えないよ」といいながらわざとらしく口もとを手で覆って答えるつもりはないようだ。
ほどなくしてエレベーターは一階に到着した。
扉が開くと大勢の人が待っていて、これ以上晴紀を問い詰めることはできない。
「では失礼」
晴紀はそういうとスタッフオンリーと書かれた扉の奥へと行ってしまった。
(いったい何が言いたかったの?)
花名はもやもやとした気持ちを胸に抱えて待ち合わせ場所へと向う。
入口の自動ドアを出ると、すぐそこにスーツ姿の純正を見つけた。
「花名!」
微笑みながら手を振る純正の姿を見た瞬間、晴紀の言葉などどうでもいいと思えた。
おそらくくだらない嫉妬から純正のことを貶めたかったのだろう。そう思えば合点がいく。
(だってこんな素敵な人が悪い男のはずがないじゃない)
花名は心の中でそうつぶやいて純正のもとへと駆け寄った。
「お待たせしてすみません」
「ぜんぜん。今来たところ。さあ、行こうか」
二人でタクシーに乗り込むと、純正は運転手へ行き先を告げた。
「水族館ですか?」
「ああそうだ。だめか?」
少し不安増な顔で純正は聞いた。
「いえ、なんだかデートみたいだなと思って」
花名がそういうと、純正はクスリと笑って指で花名のおでこをツンと押した。
「おい、これは正真正銘のデートだろ? 俺と花名の初デート。約束したろ?」
「覚えてたんですね?」
「当たり前だよ。ちゃんとスーツも着てきたし」
「気づいてました。すごくかっこいいです」
「そう言ってくれるのは花名だけだ。今朝、同僚たちに変な目で見られたし、だからこの格好はこれっきりだぞ」
そう言って照れる純正をみて、とても花名は満ち足りた気持ちになれた。
純正との初めてのデート。
水族館に到着すると、花名は緊張しながら薄暗い館内を巡った。
スーツ姿の純正は少し周りとは浮いていたけれど、ずっと見ていたいと思うほどとてもカッコよかった。現に、すれ違う女性の視線が純正を追っている。
「どうした?ぼんやりしてたら危ないぞ」
「ほら」そう言って純正は手を差し出す。
「えと……」
その手を握っていいものか、花名が戸惑っていると純正は半ば強引に手をつないでくる。
「あの、でも」
「恥ずかしい? 大丈夫だよ。暗いし、誰も見てないから。それとも、俺と手をつなぐの嫌?」
「いやじゃないです。でも……」
「でも?」
「ううん、なんでもないです。純正さんの手、温かいですね」
たくさんの人の命を救っているこの手をひとり占めできるなんて、なんだか少し恐縮してしまう。けれど、いまだけは存分に甘えてしまおう。
水族館を出ると、近くのホテルにあるラウンジでお茶を飲んだ。
「このあと、上のレストランでディナーの予約をしているんだ」
「そうなんですか? それならもう少しおしゃれをしてくればよかったです」
スーツを着ている純正は、そのままで問題ないだろう。でも自分は……。
ファストファッションブランドのワンピースと普段使いのパンプス。高級感はまるでない。
「このままで十分かわいいよ。でももし、花名が気になるなら着替える?」
「着替えですか?」
「そう。まだ予約の時間まですこしあるし、行こう」
純正は花名の手を取ると立ち上がった。
一度ホテルを出て、タクシーに乗りファッションブランドの路面店の前で降りる。
「ここですか?」
花名は思わずしり込みした。誰もが知る有名ブランドで、小さな小物でさえも数万円はする店だ。
「そうだよ、入ろう」
純正は花名の背中をそっと押す。
「ごめんなさい。私、今日は持ち合わせがなくて」
今日だけじゃなく、今後もこの店で買い物をすることはないだろう。
「そこは気にしないで。初デートの記念に俺からプレゼントするよ」
「そんなプレゼントなんていただけません」
「いいから」
半ば強引に店の中に連れて行かれ、女性店員に勧められるままフィッティングをする。
やわらかな生地でできた黒のワンピースはとても着心地がいい。おそるおそる鏡を見ると、普段と違う自分がいた。
「いかがですか?」
「はい、一応着れました」
「まあ。とてもお似合いですよ。お客様は肌がとても白くていらっしゃるので、黒がとてもよく映えます。靴はこちらを合わせましょうか。今年の新作です」
そう言って差し出されたハイヒールに足を差し入れる。すると自然と背筋がしゃんと伸びた。
「素敵です。さあ、お連れ様にも見ていただきましょうね」
花名がフッティングルームからでると純正は満足そうに眼を細めた。
「いいね。似合うよ。花名も気に入っただろう?」
「はい」
「じゃあこれにしよう。バッグも好きなのを選んで」
そう言われてもちろん花名は拒んだが、結局純正に勧められるまま服からバック小物に至るまで購入することになってしまった。
「花名。とてもよく似合ってる。だからあまり深く考えずに受け取ってもらえたら俺もうれしい」
純正の言葉に花名はハッとした。素直に感謝の気持ちを伝えた方が、きっといい。
「はい。ありがとうございます、純正さん」
「どういたしまして。さあ、いこうか」
ホテルに戻り、最上階にあるレストランへと向かった。
通りすがりの女性の視線が純正に注がれ、次にまるで値踏みするような視線を自分に向けているのの気付く。けれど、買ってもらったワンピースのおかげか純正の隣に立つ自信ができた。彼の腕にそっと手をかける。
きっと今までの自分だったらこんな風にふるまえなかっただろう。
少しづつでいい、”恋人“としてのふるまいが自然にできるようになれたら――そう花名は思った。
エレベーターを降りると天井の高い開放的な空間が広がっていた。
ピアノの生演奏と様々な国の言葉が聞こえ、独特の雰囲気を醸し出している。花名ひとりではきっと足を踏み入れることすらできないだろう。
案内された席からは都心の夜景が一望することができた。
純正と向かい合い、シャンパンで乾杯する。美味しい料理に舌鼓を打ち、あっという間に時間は過ぎていった。
「すごくおいしかったですね、お料理」
「うん、そうだね。さあ、行こうか」
店を出てエレベーターに乗り込むと、まるで待っていたかのように純正の携帯電話が鳴りだした。
「ごめん、病院からだ。でてもいい?」
「もちろんです」
「はい。結城です……え、本当に? わかったすぐに向かいます」
電話を切った純正は申し訳なさそうな顔をして花名に頭を下げた。
「ごめん、花名。病院に戻らないといけなくなった。いいかな?」
ダメだなどという権利は自分にはない。それに、純正は仕事柄急に呼び出されることがあることくらい理解している。だから花名は笑顔で「早くいってあげて下さい」といった。
「ありがとう、花名。本当はもっと一緒にいたかった」
「いいんですよ、お仕事ですもん。私は大丈夫ですよ」
エレベーターの扉が開くと純正は花名の額にそっとキスをして駆け出した。
「……家に帰らなきゃ」
急に一人になって、どこか置き去りにされた気持ちがわいた。言葉とは裏腹な自分の気持ちの変化に戸惑わずにはいられない。
「ここからだと、何線に乗ればいいんだろう……調べないと分からないわ」
ロビーのソファーに腰を下ろしてスマホを取り出す。そんな花名の肩を、誰かが叩いた。
「小石川さん」
聞きなれた声に振りかえると、そこにいたのは樹だった。
「樹さん!」
樹は上質なスーツに身を包み、ホテルの名前が入った紙袋を持っている。それを見て花名はピンときた。
「結婚式ですか?」
「そうだよ、取引先関係の人のね。それより、さっき一緒にいた人って、深山記念病院の医者だよね」
険しい表情でそう聞かれ、花名は困惑しながらも答える。
「そうです。純正さんの事、ご存じなんですか?」
「純正さんね。君とはどういう関係? エレベータの中でキスしていたように見えたけど」
職場の、しかも上司に恋人と一緒にいるところを見られてしまったなんて。
恥ずかしさに顔から火が出そうだったが、いまさら誤魔化しても仕方がないだろうと純正との関係を正直に伝えた。
「実は、お付き合いさせていただいてるんです」
「お付き合い? ちょっと待って小石川さん、僕の勘違いでなければ店でトラブった客ってあの人だよね」
樹には純正のことは一切伝えていない。それなのになぜ、こんなことを言うのだろう。
「あの人は、その……」
「答えたくないなら答えなくてもいいよ。言っとくけどあの医者、ほかに女がいるよ」
「――え? どういうことですか」
趣味の悪い冗談だろう。そう思い聞き返す。けれど、樹の口からは真実としか思えない事柄が語られていく。
「ジャスミンの花束。たまたま僕が依頼されて病院まで届けに行ったんだ。……送り先は女性だったよ。看護師さんたちが言ってたんだ。“茉莉花先生は結城先生にすごく大事にされててうらやましい”って」
「うそ」
ゴトッと手にしていたスマホが床に落下した。それと同時に涙があふれて花名の視界をにじませる。
「でもあの花束は、入院している知人に贈っているものだっていってたのに」
花名でさえ、恋人へのプレゼントではないかと疑っていた。けれど純正は違うと言ったのだ。
「なんとだって言えるさ。看護師さんたちは送り先の人のことを“茉莉花先生”って言ってたから、同僚の医者だろう」
「……茉莉花」
その名前に聞き覚えがあった。つい先ほど、病院からの電話を切ったあと純正は、まるで無意識につぶやくような声でそう言ってた。
「もしかしたらその女性に呼び出されたんじゃない?」
「いえ、病院からだって言っていました」
純正の言葉を信じたかった。それなのに樹は花名の心を揺さぶった。
「だから、そういうのはなんとでも言えるんだって。僕なら大切な恋人をひとりでこんなところに置き去りにしていかない。いくら緊急事態で呼び出されたとしてもだよ。ちゃんとタクシーに乗せて、君が家まで帰れるようにする。きっとあの人にとって、その女性がよほど大事なんだろうね」
樹の言葉は最もだった。
もし、純正が帰りのタクシー乗せてくれていたら置いてきぼりにされたような虚しさは味わうことはなかっただろう。
しかしあの時の純正はそんなことすら気が回らないほど慌てていた。
そう、何かがおかしかったのだ。
まるで冷静さを欠いていて、いつもの純正ではなかった。目の前にいる花名のことよりも、”茉莉花”のことの方が大切なのだ。
でも、本当にそれが真実なのだろうか。
「純正さんに確かめます」
花名はスマホを拾い上げる。画面には無数のひびが入ってしまっていた。
「うそ、どうしよう」
何度か電源ボタンを押してみるとどうにか起動させることができた。
通話履歴を開き、純正の名前をタップする。けれどいくら呼び出しても純正が電話に出ることはなかった。
「どうして、どうしてでてくれないの?」
「悪い男……」
ああそうだ。深山晴紀も同じことを言っていた。花名はようやくあの言葉の意味を理解できた気がした。
「小石川さん、行こうか。送るよ」
樹は花名にそう声をかけ、立ち上がらせる。エントランスを出て、ロータリーに停まっているタクシーに乗り込んだ。
「家、どこだっけ? それともうちに来る?ひとりでいるよりもいいと思うよ」
こんな時に上司である樹を頼るのは間違っている。
けれど、このまま一人で週末を過ごすことはできそうにない。
花名は静かに頷いた。それを見て樹は運転手に行き先を告げた。
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