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6章
目覚めCercis chinensis
しおりを挟む「深山記念病院まで、急いでください」
純正はタクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げる。
先ほどエレベーターの中でかかってきた電話は、茉莉花の意識が戻ったという連絡だった。
花名には申し訳ないと思いながらも、医師として、患者のもとに駆け付けることを選んでしまった。
この選択は間違いではないはずなのに、純正は迷いを拭い去れないでいた。
ひとり残してきた花名を思うと胸が苦しくなるのだ。
今、もし人として優先すべきは誰かと問われれば花名だと即答するだろう。
今までの自分なら仕事と答えたはずなのに。
「俺も人の子か……」
医師という仕事より、優先したい存在が出来た。
こんな感情を持つことなんてないと思っていた。これは嬉しい誤算だ。
純正は自称気味に笑った。
それからスマホを取り出して着信履歴から病院に電話をかける。
「もしもし、結城です。茉莉……いや、瀬能さんの様子は?」
『意識が戻られたのを確認してから十分ほどたちますが、バイタルは異常ありません』
看護師の返答に純正は胸をなでおろす。
「そうか。それで、深山先生はもう到着しているのか?」
『それが、深山先生にも連絡をしているんですが、つながらなくて……結城先生、早く病院に来てください』
耳を疑った。こんな時に晴紀はなにをしているのか。
「わかってる。急いで向かうからそれまでは当直の先生に対応してもらってくれないか」
『承知しました』
通話を終えると今度は晴紀に電話をかける。
願うなら自分よりも早く茉莉花のもとに駆け付けて欲しかった。
けれど、いくら呼び出しても晴紀は電話に出ない。
(俺からの電話だから、出ないつもりか……)
純正は終話のボタンに触れると、スマホを上着のポケットにしまった。
病院に到着すると、純正は茉莉花の病室へと急ぐ。
エレベータの扉でさえも開くのがとてつもなく遅く感じた。
ナースステーションを通りすぎ、病室へと足を踏み入れると医師と看護師が数名でベッドを取り囲んでいる。
「遅くなりました!」
「ああ、結城先生! 早かったですね」
当直の医師はホッとしたように純正に視線を向けた。
「先生、対応ありがとうございます。後は僕が代わります」
労いの言葉を掛け、純正はベッドサイドに進み入った。
「茉莉花」
大きな声で呼びかけると、茉莉花はゆっくりと瞼を持ち上げる。
「う……ん、な……に?」
若干かすれてはいるが懐かしい、茉莉花の声だった。
「わかるな、茉莉花」
純正は茉莉花の手を握り力を込める。するとぎこちなく顔をしかめた。
「いた……い」
「ああ、悪い。強く握りすぎたな。でも、よかった。目が醒めて……よかったな」
いいながら泣いてしまいそうだった。
もしかしたら茉莉花は一生このままかもしれないと心のどこかで思っていたから。
「……とりあえず一晩様子を見よう。俺がここにいるから、みんなは下がってくれていいよ」
「分かりました先生。必要があれば呼んでください」
集まっていたスタッフたちは、それぞれの仕事に戻っていく。
「ありがとう、みんな」
病室に誰もいなくなると、純正は椅子をベッドの脇まで持ってきて座った。
茉莉花はうっすらと目を開けて純正を見た。
「ん? どうした」
「……先生? 私はどうしてここにいるんですか?」
事故後の記憶がないのは当然だ。意識不明の状態で搬送されてきたのだから。
「そうだな……なんていうか、だいぶ長い間寝っていたんだよ」
純正が言うと、茉莉花は納得したように頷く。
「……そう、ですか。それで体がうまく動かないんですね」
「今はそうでも、リハビリをしたら必ず動くようになるからな。焦らずにやって行こう」
「あの先生? リハビリ……が必要な状態なんですか、私の体」
茉莉花は表情を曇らせる。かわいそうだが事実は伝えなければならない。
「まず、精査してからにはなるけど、リハビリはしないといけないかな」
「分かりました。先生の指示に従います」
続く茉莉花との会話の中で、純正はある疑念を抱いた。茉莉花は純正をずっと先生と呼んでいる。
「なあ、茉莉花? 俺のことわかる?」
「……先生ですよね、白衣……着てるし」
(逆行性健忘か?……)
脳へのダメージが大きかったので記憶障害がおこることは想定していた。
とはいえ、この事実は思った以上にショックだった。
それよりも茉莉花のこれからのことを考えると胸が痛んだ。
「あのぉ、違ってました?」
「いえ、そうですよ。僕は医者です。ああでも、あなたの主治医ではないですが」
純正は茉莉花に合わせるように話し方をかえた。
今ここで自分との関係を説明しても彼女を混乱させるだけだろう。
「そうなんですね」
いいながら茉莉花はゆっくりと目を瞑った。
「……先生。私、少し休んでいいですか。なんだかとても疲れてしまって……」
「もちろんですよ、休んでください」
純正は生体監視モニターに映し出される波形をしばらく見つめる。
見る限りでは異常は見られない。
だが彼女がまた目覚める保障はあるだろうか。
目覚めない可能性もある。もう二度と。
「それなのに、こんな時にあいつはなにをしているんだよ」
純正は病室を出て晴紀へ電話をかける。
何度かしつこく鳴らすと不機嫌そうな声で晴紀が電話に出た。
『なんだよ』
電話の向こう側はやけに騒がしかった。大勢の話し声が聞こえる。甘えた声で晴紀を呼ぶ声がした。
(何してるんだよ……)
純正には晴紀が今、何をしているのか想像がついてしまった。怒りを抑え、用件を伝える。
「晴紀! すぐ病院へ来い!!」
『無理だよ、俺今飲み会中なんだから。急患?なら対応しておいてくれる?』
「そうじゃない。茉莉花が……目を醒ました」
突然、ブツリと電話が切られた。
純正は真っ黒になったスマホの画面を見つめる。
これはどういう意味だろう。
「……来る、ってことでいいんだよな」
もしそうでなかったら、晴紀の人間性を疑う。
いや、あいつは元からそんな奴だったじゃないか。だがこんな時くらい、人としての誠意を示してくれよ。
純正は病室へ戻り、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
茉莉花は静かな寝息を立てている。
「人の気も知らないで、のんきなもんだな」
純正は彼女の鼻を軽く摘まんだ。すると迷惑そうに顔をしかめた。
これは今までとは明らかに違う反応に思わず笑みがこぼれる。
これは茉莉花の意識が戻った証拠でもある。
ようやく暗く長いトンネルを抜けることができたといえるだろう。
少しして突然ドアが開いたかと思うと大きな足音を立てて晴紀が病室へ入ってきた。
真っ赤な顔で肩で息をしている。
「茉莉花‼︎」
来たか。純正は安堵した。
「遅かったな」
「うるせえよ。それより、茉莉花は!?」
晴紀は純正を押しのけて茉莉花の顔を覗き込み声をかける。
「茉莉花、俺だ。茉莉花……? おい、純正。本当に意識が戻ったのか?」
「嘘なんて吐くかよ。寝てるだけだ! さっきまで会話もできていたんだ。……ただ、俺のことは分からないようだったけど……」
するとすぐ状況を理解したのか晴紀は悔しそうに下唇を噛んだ。
「逆行性健忘か……」
「だろうな」
「おいおい。よく冷静でいられるな? すぐMRIと脳波をやろう。純正、放射線科と生理検査に電話しろ! それと神経内科にコンサルト」
焦る晴紀に純正は冷静に返す。
「気持ちはわかるが明日にしたらどうだ? 準夜帯で無理やりオーダーするほどの緊急性はないだろう。神経内科も迷惑だ」
夜間帯は技師の人数も限られている。
しかも、脳波は時間のかかる検査だ。MRIだって同様に。
それにわざわざ茉莉花を動かして負担をかけるべきではないと思った。
「それより今は、茉莉花のそばにいてやれ」
「俺が……か?」
急に表情を曇らせた晴紀に純正は畳みかけるように言う。
「他に誰がいる? お前は茉莉花の婚約者だろう?」
「そうだけど、俺のことも覚えていなかったらどうする? もしそうならどうしたらいいか分からないよ」
「分からない? 甘えたこと言わないでくれ。それくらいのことは自分で考えろ」
記憶が戻らなくても、茉莉花であることは変わりない。だったら彼女への愛も変わらないはずだろう。
もし記憶が戻ったら。その時はあの日のことをちゃんと謝って、許してもらえるまで謝って、それでも愛していると心の底から伝えたらいい。
そんなことも考えられないのなら、人を愛する資格はない。
「じゃあ、俺は帰るからな」
純正は晴紀に背を向け病室のドアへと歩いていく。
「純正」
ふいに呼ばれ、足を止めた。
「……サンキューな」
振り返りはしなかった。軽く右手を上げ、「ああ、」とだけ言って病室を出た。
晴紀が礼を言うなんて奇跡だと思った。茉莉花が目覚めたことと同じくらいの。
それから純正はナースステーションへ顔を出した。
「おつかれさま」
看護師に声をかけると心配そうな顔で尋ねてくる。
「結城先生! 能瀬先生は?」
「今は寝ている。大丈夫そうだよ」
よかった、と看護師は安堵の表情を浮かべた。彼女達も日々、茉莉花の回復を祈ってくれていた仲間だ。
「さっき深山先生が来てくれたから代わってもらった。僕はもう帰るよ」
「分かりました。おつかれさまです」
急いで一階へ下り病院の外へ出た。
そしてすぐさま花名に電話をかける。
スマホを耳に押し当てて、タクシーが拾える通りまで走った。
程なくしてタクシーは捕まえることができたが、いくら鳴らしても花名は電話に出ない。
「お客さん、どちらへ向かいましょうか?」
ハッとして前を見るとミラー越しの運転手はいぶかしげな顔で純正を見ていた。
「すみません、本町3丁目までお願いします」
花名のアパートの住所を告げる。
彼女はもう帰宅しているはずだ。電話に出ないということは風呂にでも入っているのだろうか。
いや、デートの途中で帰ってしまったことを怒っているかもしれない。
それならばなおさら、日付が変わる前に直接会って詫びなければいけない。
アパートの少し手前で降り、コンビニに寄った。
食べ物で機嫌を取るつもりはないが、なにか花名の好きそうなものを手土産にできればと思いプリンと紅茶を買った。
けれど、いくらインターフォンを鳴らしても花名は出てこなかった。
*
「どうぞ」
出された来客用のスリッパに足を入れ、樹の後をついていく。
玄関だけで花名のアパートと同じくらいの広さがあり驚いていたのに、廊下にはいくつものドアがあった。
いったい何部屋あるというのだろう。
ベイエリアにある築浅のタワーマンション。樹はここでひとり暮らしをしているらしい。
リビングへ入るといたるところにグリーンが置かれ、天井からエアプランツがつるされていた。
ひと際目を引いたのはテーブルの上におかれたミモザをベースにしたアレンジメント。
黒と茶を基調にした男らしいインテリアにポップなミモザの黄色が絶妙にマッチしている。
「本当に素敵なお部屋ですね。樹さんのイメージにピッタリです」
「花屋の息子らしい部屋ってこと?」
いいながら樹は花名をじっと見つめた。
「それをいうなら、今日のそのワンピースは小石川さんらしくないね? 普段と全然違うし、意外」
「そ、そうですか? これは彼が買ってくれたんですけど……」
純正は似合うと言ってくれた。でも本当は大人っぽいデザインなので自分には着こなせていないのではないかと思っていた。
樹に図星を突かれてすぐにでも着替えたい衝動に駆られる。
けれど、ワンピースを買ってもらった時に着ていた服は店から配送してもらうように依頼してしまった。
あれを持ってくればよかったと後悔する。
「……へえ、そうなんだ。あの先生はそういうのが好みなんだね。まあ、座ってよ」
花名をソファーに座らせると、鼻歌交じりでワインセラーを眺め、そこからボトルを二本取り出した。
「どっちにする?」
「え?」
「普段どんなの飲んでるの? どこ産のワインが好き?」
ボトルを目の前のテーブルに置かれ、花名は戸惑ってしまった。
普段アルコールはほとんど飲まない。だからワインの好みを問われても答えることができないのだ。
「あ……ワインはよくわからなくて。樹さんのお勧めの方で……」
「そっか。じゃあナチュラルワインにしようか」
ナチュラルワインがどんなものかもわからないまま花名は頷く。
「はい。じゃあ、それでお願いします」
「うん、少し待ってて」
樹はキッチンへ行き、冷蔵庫を開けてつまみになるものをいくつか手に取る。
盛り付けが終わるとワイングラスと皿を手にリビングへ戻ってきた。
「適当に持ってきたけど小石川さん、嫌いなものある? ダメなら遠慮なく言ってね」
大きな白い皿の上にはチーズとオリーブにキャビア。あんずのコンポート。クラッカーが並べてある。
まるで店で出てくるような盛り付け。やはり樹のセンスは流石だ。花名はひとり感心する。
「ありません。お気遣い、ありがとうございます」
「じゃ、取りあえず飲もうか。これも好きにつまんでね」
樹は慣れた手つきでワインを開けると花名のグラスからワインを注いだ。
「どうそ」
「いただきます」
ワインはとてもおいしかった。
赤ワインは渋くて重いイメージだったがこれはさらさらとした口当たりで癖もなく飲みやすい。
「どう?」
「おいしいです。樹さんていつもこんなにおいしいワインを飲んでいるんですか?」
しかも冷蔵庫にキャビアやオリーブなんかが入ってるのだから普段からよく飲んでいるのだろう。
「まあ、ワインはよく飲むかな。でもとっておきのワインを開けるのはこんな時だけだよ?」
「こんな時って?」
「特別な人と飲む時。だって、」
樹に見つめられ、花名の胸の鼓動は高鳴った。
「小石川さんは僕の大事なアシスタントだからね」
にこりと微笑まれ、気まずさに視線を逸らした。
「そ、そうですよね」
告白されるかもしれないと一瞬でも考えた自分が恥ずかしい。
純正という存在がありながら樹にまで好いてもらいたいだなんてどうかしている。
「部下としてとても大事にしていただいてありがとうございます。いつも大変な時に助けてもらって感謝してもしきれません」
思い返せばいつもそうだった。
樹は気付かないくらい自然に救いの手を差し伸べてくれる。
樹を好きになれば幸せだったのかもしれないと考えてしまいそうになる。
そっと彼を見ると目が合った。
「ねえ。鳴ってない? 小石川さんのスマホ」
「え?」
そう言われてバッグの中を見るとスマホが震えながら光っている。
取り出して見てみると純正からの着信だった。
「出ないの? あの先生からでしょ」
「……そうです。けど……」
電話に出たら確かめずにはいられない。
自分以外に大切な存在がいるのかどうかということを。
けれど問いただしたい気持ちよりも、真実を知ることの怖さが勝ってしまった。
そうこうしているうちに画面が真っ暗になった。
着信が切れたのではなく、落とした衝撃で故障したのだろう。
その証拠に、スマホに触れても画面は黒いままだ。
「どうしよう……出られなかった。スマホも壊れちゃったみたいです。何やってるんだろう、私……」
うっかりスマホを落としたり、いろいろ思い悩んでもたもたしているからこうなった。
花名は自分を責めずにはいられない。
「ねえ、君はなんにも悪くないんだから自分を責めなくていいよ。このタイミングでスマホが壊れたのは何か意味があるんだと思おう」
「……私は悪くない、ですか」
悪いことはすべて自分のせい。
そんな風に考えていつも自責の念に駆られていた。
辛かった。だから、樹の言葉に救われた気がした。
「……なんでしょう、樹さんにいわれると本当にそうなんだろうなって思っちゃいます」
「いやいや、僕じゃなくて神様がそういってる」
いいながら樹はいたずらっぽく笑った。花名もつられて笑顔になる。
「よかった。やっと笑った。さっきからずっと泣きそうな顔してたからさ……飲もうか! こういう時は美味しいお酒に酔うのもありだよ」
樹は花名のグラスに並々とワインを注いだ。
飲みなれないワインを沢山飲んだせいだろうか。
花名はソファーでうとうとと寝てしまった。
目を醒ますとベッドの上にいた。
遮光カーテンが引かれているので部屋は暗いままだが隙間から白い光が漏れていてもう昼なのだと分かった。
「どうしよう、仕事!」
慌てて上半身を起こしてみるが、樹の姿はない。
「あ、服……」
下着とスリップドレスは着ていたが、純正が買ってくれたワンピースは脱がされていた。
花名はベッドから抜け出すと部屋のドアを開けた。廊下に出てリビングへ向かう。
こんな格好で樹に会うのは気が引けるが仕方がない。
「樹さん?」
リビングのドアを開けたが樹はいなかった。
申し訳ないと思いながらも他の部屋をのぞいてみた。けれど、どの部屋にもいないようだった。
連絡をしたくてもスマホは壊れてしまった。こんな格好では外には出られない。
仕事は遅刻になるが樹が事情を知っているのは幸いだった。
どうすることもできずに困り果てていると玄関のドアが開く音がした。
「おはよう。小石川さん」
「樹さん! あ。すみません、こんな格好で……」
胸元を隠すように腕をクロスさせた。けれど樹はまるで気にする様子もない。
「大丈夫だよ。昨日の夜見ちゃったし。朝ごはん食べる?」
樹の手にはコーヒーショップの紙袋が握られている。
「あの、私のワンピースはどこですか?」
「ああ、あれ? 君には似合わないと思って捨てたよ」
花名は耳を疑った。
いくら樹でも許可を得ずに私物を捨てるなんて許せない。
「どうしてそんなことしたんですか? 酷いです!」
花名は樹を睨んだ。
すると樹は「ごめん」と頭を下げる。
「あの男の事、思い出すと辛いかなって思ったんだよ。君のためにしたんだけど、いけなかった?」
君のために、と言われてしまうと樹を責めることができなくなってしまった。
「……そう、だったんですか……大きな声を出してごめんなさい」
「ううん、いいんだよ。服はあとで買ってあげる。スマホも買わないとね。取りあえずリビングへいこう、ほら」
「……はい」
樹に促され花名はリビングへ足を向けた。
ダイニングテーブルに座ると、樹は袋から中身を取り出した。
「カフェ・ラテとシナモンロール。好きでしょ?」
店の近くのコーヒーショップで花名がよく食べていたものだ。樹はそれを覚えてたのだろう。
さらに水とバナナを持ってきてくれる。だが花名は手を伸ばさない。
「食べられる? 二日酔いとかしてない?」
樹は心配そうに花名の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。それより、仕事はどうすればいいですか?もう始業時間過ぎてますけど……」
「今日は有休取ればいいじゃない。たくさん余ってるでしょ?」
「でも……」
有給はもしもの時のために取っておきたかった。
母親の病状は回復傾向にあるとはいえ、いつ看病が必要になるとも限らないのだから。
「真面目だな、小石川さんは。仕事したいなら僕のパソコン貸してあげる。取りあえず朝ごはん食べない?コーヒー冷めちゃうよ」
「はい、樹さんがそういうならいただきます」
せっかく樹が買ってくれた朝食だ。無駄にするのも忍びない。
空腹は感じていなかったが、カフェラテとシナモンロールを口にする。
「……どう? 美味しい?」
花名がはいと答えると樹は満足そうな笑を浮かべる。彼女の本音が違っていると思わずに。
朝食を食べ終えた頃、樹のスマホが鳴った。会話の内容から仕事の電話だろうと花名は思った。
案の定、樹は椅子から立ち上がると「少し出てくる」といい、リビングを出ていく。
花名は慌てて追いかけた。
「あの、樹さん。私は?」
「ごめん。仕事なんだ。急いでいかないと……適当にくつろいでいてくれていいから」
樹は玄関で車のキーを掴むと出ていってしまった。
「……そんな」
ひとり置き去りにされた花名はリビングへ戻った。ソファーに置かれたままになっているバッグからスマホを取り出す。
さすがに一晩連絡がつかないままでは純正も心配するだろう。せめて着信だけでも残しておきたかった。
「お願い、ついて!」
祈るようにボタンを押した。
けれど、電源が入る様子はない。あきらめて固定電話を探すが見つからなかった。
インターフォンの下にセキュリティー用の連絡ボタンはあるがこれを押したら騒ぎになるだろう。
「……樹さん、早く帰ってきてくれないかな」
窓から外を覗く。
遠くにレインボーブリッジが見えた。
あとは空と高層ビル。地面ははるか下にあり、自分がまるで世間から取り残されてしまったように感じる。
言いようのない不安に襲われた花名は気を紛らわそうとテレビをつけた。
丁度正午になるところだった。陽気な司会者が番組名を告げ、賑やかな音楽が流れた。
都内の人気スポットや最新ファッションの話など、次々と紹介されていく。目まぐるしく変わる内容になにも考えずに見ていられた。
ふと気付けば夕方のニュースに番組が切り替わっていた。
「いつになったら帰ってくるんだろう」
樹が多忙なのは理解している。
毎日朝早くから夜遅くまで一生懸命働いている姿を間近で見ているからこそ、自分の都合で彼の邪魔をすることはためらわれた。
樹が帰宅したのは夜の八時を過ぎた頃だった。
「遅くなってごめんね。打ち合わせが長引いちゃってさ」
疲れた様子の樹は着ていたジャケットを脱いだ。花名は反射的に受け取る。
「そうだったんですね、お疲れ様でした」
「そうなんだ。だから小石川さんの服、買いに行けなかった。本当にごめんね」
花名はがっくりと肩を落とす。服がなければ帰ることができない。
本当は今すぐにでも買いに行って欲しかった。しかし、樹の顔には疲労の色が浮かんでいる。
「……仕方ないですよね。いいんです、明日でも……」
「ありがとう。理解してくれて。でも、そのままでいるのはさすがに可哀そうだから僕の服、貸そうか」
「いいんですか? お借りしたいです。それと、シャワーも使わせてもらいたいんですけど……」
昨晩は風呂に入れなかった。化粧も落とせていない。もうほとんど取れてしまっているが、だからこそ余計に気持ちが悪かった。
Tシャツとハーフパンツ、タオルを出してもらい花名は風呂場へ向かう。
下着を脱いで熱いシャワーを浴びた。シャンプーはとてもいい香りがする。みると有名なオーガニックコスメブランドのものだ。
「樹さんらしい」
純正はあまりこういうものにこだわりはない。すべてにおいてシンプルだ。
でも樹は仕事柄か暮らしぶりもとてもおしゃれで洗練されている。
植物がたくさん置いてあるリビングも花名が理想としている生活そのものだ。参考にしたい部分がたくさんある。
風呂から上がると髪を乾かし、樹に借りた服を着た。
下着はさんざん悩んで洗濯機に入れた。スース―して落ち着かないが何日も同じ下着をつけるよりはましだろう。
「お風呂、ありがとうございました。洗濯機も借りてます」
「ああ、うん。服のサイズ……やっぱり大きいよね」
「あ、はい。でも、平気です」
ダボダボのおかげでバストトップが浮かずに済んでいる。ハーフパンツはウエストの紐をきつく絞れば落ちてくることはなかった。
「ならよかった。じゃあ、夕ご飯食べよう」
「作ってくださったんですか?」
「そう。買い物に行けなかったから有り合わせだけど」
テーブルにはトマトパスタとアクアパッツァが並べられていた。有り合わせには到底見えない。
「ワインは白にしようかな。小石川さんも飲むでしょ?」
「私は……」
「遠慮しないでいいんだよ。はい、座って」
いわれるまま席に着いた。
料理はとても美味しくて、ワインにもよく合った。酒も進み樹は機嫌よく仕事の話をしている。
「それでね、新しい企画が……」
「あの、樹さん。私は今日、仕事に行かなくてよかったんでしょうか?」
新しい企画を決める会議があったならなおさら仕事に出たかった。それなのに樹は困ったように眉を寄せた。
「だからいいって言ったでしょ? ほんと真面目だね、小石川さんは。今日は有給で処理しておいたから大丈夫だよ」
「……分かりました。でも明日は出勤したいです。なので今夜、家に帰えろうと思います」
「ああ、ごめん。飲んじゃったから送っていけないな。明日にしたら?」
もちろん送ってもらうつもりはなかった。
とにかくこれ以上樹の家にいるわけにはいかない。迷惑がかかるし、第一男性の家に何日も泊まるなんていいはずがない。
「大丈夫です、タクシーで帰ります」
「その格好でタクシーに乗るの? 下着付けてないんでしょ?」
「それは、そうですけど。乾燥が終わったら、それから……」
テーブルに置いた手に突然樹の手が重ねられた。花名は驚いて手を引っ込める。と同時に肘がワイングラスにあたり床に落下した。「あ。どうしよう、ごめんなさい!」
椅子から立ち上がり、床にしゃがんだ。
欠片を拾おうと手を伸ばすと背後から樹の手が伸びてくる。
まるで抱きしめるような体制に花名は身を固くした。
「触らないで、僕が片づけるから。小石川さんが怪我でもしたら大変だからね。これ以上傷ついてほしくないんだ」
耳元で樹の声が響いて、背中には鼓動が伝わってくる。
「樹さん……あの、近いです。離れてください」
「どうして? あんな得体のしれない医者よりも僕の方が小石川さんのことを大切に思ってるのに。君も気付いてたよね?僕の気持ち」
「……それは」
樹の気持ちには以前から気付いていた。でも確信が持てなかったのも事実だ。
「僕なら君を大切に育てて美しく咲かせることができる。ここで一緒に暮らそう。絶対に後悔はさせないから、うんと言ってくれないか。お願いだ……」
「ごめんなさい、樹さん。樹さんは素敵な人だと思います。いつも私のことを気にかけてくださって感謝しています。でも……」
晴紀と樹から聞いた純正の話はまだ真実と決まったわけではない。
確かめることは怖いけれど、なにもせずに嫌いになれる程純正への気持ちは浅くはない。
「私はまだ、純正さんのことが好きなんです」
「……なんだよそれ。認めない。絶対に認めないからな!」
温厚な樹から発せられたとは思えないくらい、怒りに震えた声だった。
腹の底から吐き出された黒い感情に足をすくわれて、花名は床にしゃがみ込んでしまった。
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〈あらすじ〉
加藤優紀は、現在、25歳の書店員。
東京の中心部ながら、昭和味たっぷりの裏町に位置する「高木書店」という名の本屋を、祖母とふたりで切り盛りしている。
彼女が高木書店で働きはじめたのは、3年ほど前から。
短大卒業後、不動産会社で営業事務をしていたが、同期の、親会社の重役令嬢からいじめに近い嫌がらせを受け、逃げるように会社を辞めた過去があった。
そのことは優紀の心に小さいながらも深い傷をつけた。
人付き合いを恐れるようになった優紀は、それ以来、つぶれかけの本屋で人の目につかない質素な生活に安んじていた。
一方、高木書店の目と鼻の先に、優紀の兄の幼なじみで、大企業の社長令息にしてカリスマ美容師の香坂玲伊が〈リインカネーション〉という総合ビューティーサロンを経営していた。
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夜の帝王の一途な愛
ラヴ KAZU
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