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7章
愛 Rose
しおりを挟む「もう一週間か……」
純正のつぶやきを小石川雅恵は聞き逃さなかった。
「先生、どうしたんですか? なにか悩みごとでも?」
ここ数日何をするにも気持ちが向かず、ぼんやりとしていることは自分でも自覚していた。
だからと言って患者に気付かれるとはプロ意識に欠けた行動だと反省する。
(なにをやってるんだ、俺は……)
純正は小さく唇を噛んだ。
「あ、ああ。すみません、ご心配なく……なんでもありませんから」
そうですか、と雅恵はホッと息を吐く。
「それならいいんですけどね。結城先生、最近元気がなさそうなので密かに心配していたんですよ」
回診に来るたび元気をなくしていくように見えて気になっていたのだ。
「ありがとうございます。本当に何でもないんですよ。患者さんを心配させるなんて医者失格ですよね。ところで、小石川さん、最近娘さんはお見舞いにいらしてます?」
「娘ですか? いえ、仕事が忙しいのか連絡もよこさないんですよ、まったくもう」
雅恵はやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
「……でもね、先生。あの子の名誉のために言っておきますけど、普段はとってもいい子なんですよ」
遠慮がちに笑う顔が花名に似ていて改めて親子なのだなとほほえましく思う。
「知っています。お母さん思いの優しい娘さんですよね」
(でもお母さん、娘さんは今、行方不明だ……)
ホテルで別れてから連絡がつかなくなった。
アパートにも帰っていないようだ。もちろん、純正のマンションへも姿を見せていない。
花名は仕事をさぼるような人間ではない。
純正に会いにくくなった時でも仕事だからとマンションには来ていた。
そんな彼女が連絡もせず姿を見せなくなることなんてあるはずがない。
気になってホテルに問い合わせたら、別の男性とタクシーの乗ったようだと教えてくれた。
花名は見ず知らずの男についていくような女ではない。
となると、知り合いのはずだ。そう考えて思い浮かぶ男がひとりだけいる。
「小石川さん、娘さんから連絡があったら僕に教えてもらえますか?」
「はい、いいですよ」
「あと少しで治療が終了するので、そのお話を」
雅恵の病室を出ると、急いで医局へ戻った。パソコンを立ち上げて花屋の名前を検索する。
「佐倉園芸、だったよな確か」
店はすぐにヒットした。
「本社は港区。電話番号は……」
純正はメモにペンを走らせる。
「おい純正。なにしてんの?」
晴紀は隣の椅子に座るとパソコンの画面をのぞき込んでくる。
「あ!ここ、あの子の店じゃん。最近店にいないみたいだけど、辞めたの?」
「さあな」
「さあなって、お前ら付き合ってたんじゃないのかよ? もしかして別れたとか……俺、お前のこと悪い男だとかいっちゃったんだよね。ごめんね純正」
晴紀はおおげさに謝ると手を合わせる。
「……んだよ、それ。謝るくらいならどうしてそんなこと言ったんだ」
(行方不明になった原因がお前なら土下座じゃ済まされないからな)
純正は晴紀を睨みつけた。けれど晴紀はお構いなしに話を続ける。
「いやだってさ、お前だけ幸せそうなのが気に入らなかったんだもん。でも俺なりに反省してるんだぜ?」
「そんなこと知るか。どうでもいい」
その調子のよさに純正は怒りを通り越して呆れてしまった。
「……そうだ晴紀。少しでも俺に謝罪する気持ちがあるなら午後の外来代わってくれ。行きたいところがあるんだ」
純正の要望に晴紀はあからさまに嫌な顔をする。
「はぁ? なんで俺なんだよ。午後は茉莉花のリハビリに付き合う約束しちゃったんだけど……まあ、いいか。あいつ、俺が側にいると仕事に行けってうるさいんだ」
「ハハハ。茉莉花らしいな」
もっと言ってやれ、と純正は思う。今の晴紀は茉莉花の言うことならなんでも聞きそうだ。
「気の強さは一生忘れててほしかったんだけどな」
茉莉花はこの一週間で目覚ましい回復を見せていた。肉体的な若さもあるが晴紀の献身的な介護が功を奏している。
茉莉花に必要とされ、晴紀はつねに機嫌がよく仕事の評判も上々だ。
愛に勝るものはない、と言うことだろう。
「というわけで、よろしくな。晴紀」
晴紀の肩を叩き、純正は病棟へ向かった。
夕方には戻ってこなければならないにしても、仕事をなるべく残さないようにしなければならない。
十四時過ぎ。純正は着替えて病院を出るとタクシーに乗り、佐倉園芸の本社へ向かう。
「着きましたよ、お客さん」
花名のことを考えていたら、目的地に着いたことに気付かなかった。
窓の外を見ると外壁にツタを絡ませたスタイリッシュなビルの前でタクシーは停まっている。
「ああ……ありがとうございます」
純正はタクシー料金を支払うと車を降り、本社ビルのエントランスから建物の中に入る。
室内なのに木や草花が植えられていて、まるで植物園のようだ。
その間に無機質な机やいすが並べられている不思議な空間だった。
純正は受付へと向かった。
「すみません。小石川花名さんを呼んでいただけませんか? ここで働いているはずです」
「失礼ですが、お約束は?」
「ありません。私は結城と申します。彼女の知人です」
名刺を差し出すと受付の女性は純正の顔をちらりと見た。
「少々お待ちください」
いいながら内線電話をかける。だいぶ待たされてようやく回答が来たのか、電話が終わると少し申し訳なさそうな顔で答えた。
「小石川は出張中です」
それは本当だろうか。
純正は信じることができなかった。仕事をするような、まして出張に行くような自由があるなら、自分か母親に何かしらの連絡をしてくるだろうから。
「……そうですか。では、彼女の上司を呼んでもらえませんか? 彼は確か、この会社の社長の息子さんだと伺っています」
「あ……の、どちらをお呼びすればよろしいですか?」
「どちらって?」
(息子が二人いるのか……)
「深山記念病院の近くに店があるでしょう? そこによく来ていた男性です」
「……マネージャーでしょうか。佐倉樹……」
確かそんな名前だった気がする。
だが純正にはどうでもよかった。とにかく関係者に会って花名の情報を少しでも集められたらそれでよかった。
「その人をここに呼んでください。お願いします」
すると受付の女性はパソコンの画面を見て「あ」と声を漏らす。
「申し訳ございません。佐倉はただいま社外に出ておりまして……」
花名と一緒に出張へ行っているのかと思ったが違ったようだ。どこかホッとしながらも純正は「戻られますか?」と聞く。
「はい。おそらくは……」
「では、待たせていただいてもよろしいですか?」
せっかくここまで来たのだからそう易々と帰るわけにはいかない。純正はロビーのソファーに腰を下ろした。
どれくらい待っただろうか。
徐々に日が傾いてきて、仕事終わりの社員たちが次々とビルから出ていく。だが佐倉樹はまだ帰社しない。
「申し訳ございません。本日はお引き取りいただけませんでしょうか」
ふと顔をあげると警備員の男性が純正を見下ろしていた。ロビーの明かりはほぼ消され、受付の女性もいなくなっている。
「分かりました。今日は帰ります」
純正は立ち上がり、ビルの外へ出た。
けれど病院へ戻る気持ちにはなれなかった。幸いなことに看護師から電話は入らない。
だったらもう少しここで待ってみようか。このまま帰ってもおそらく仕事は手に着かないだろうから。
二時間ほど過ぎたところで純正の携帯電話が鳴った。病院からだった。
「……わかりました。すぐに戻ります」
ため息をひとつつき通りへ出るとタクシーを拾った。
翌日。仕事がひと段落したところで純正は病院の隣にある佐倉園芸へ向かった。
店のカウンターには女性の店員がひとり。
「あの、すみません」
「はい、いらっしゃいませ」
「お仕事中申し訳ない。小石川さんてご存知ですか?」
純正が尋ねると女性店員は笑顔で「はい」と答える。
「花名ちゃんですよね。もちろん知ってますよ。ああでも、今は本社の方に異動になってしまって……何か御用ですか?」
「いえ、特に用はないんですが……そういえば樹さんは? 最近彼も見かけないなと思って」
花名が本社に異動になってからも純正は何度か店に来ていたが、樹の姿を見かけなくなっていた。
花名が店にいた頃はよく姿を見せていたのに。
「そうですね。マネージャーは最近忙しいみたいでたまにしか店に出ませんから」
「やっぱりそうなんですね、実は僕、彼と約束していたことがあったんですが、名刺なくしちゃって。連絡先って教えてもうことできますか?」
声が上ずったりはしていなかっただろうか。不安に駆られながらも必死で笑顔を作る。
誰かを騙すような嘘をついたのは初めてだった。
もちろん樹から名刺をもらったことなどなく、約束もしていない。
こんなでたらめをすらすらと言えた自分がほんの少し怖くなった。
「もちろん、いいですよ!」
店員はカウンターの引き出しを開け、中から名刺の束を取り出した。
「ここにあったかな、マネージャーの名刺」
店員が樹の名刺を探していると、店のドアが開いた。コツコツと靴音が近づいてくる。もしやと思い振り向くとそこには樹の姿があった。
「どうも、お久しぶりです」
純正が声を掛けると樹はぴたりと足を止め、ぎこちなく笑った。
「ああ、どうも。いらっしゃいませ。ジャスミンのアレンジメントをご注文ですか?」
「いいえ、違います。今日は花名の事で来ました。分かりますよね?」
花名の名前を出した途端、樹視線が泳いだのを純正は見逃さなかった。
やはり、何かあるのか。
「何のことでしょう? 彼女なら出張中ですよ。ああそうだ、今日は鉢植えが10%引きなんですが、いかがですか?」
樹はあくまでも店員と客のスタンスを崩さないつもりだろう。
だからと言って純正も負けるわけにはいかない。
「どこに出張しているんですか? いつ戻ります? 教えてもらえませんか」
「そんなこと、教えられませんよ。個人情報ですから。あなた彼女から連絡が来ないからって必死ですね。別れたいってことじゃないんですか? 察したらどうです?」
「……連絡?ならきてますよ?」
「なに言ってるんですか、そんな訳ないでしょう! 嘘なんてついて恥ずかしくないんですか……」
なぜこの男は花名が“連絡していない”と言い切れるのだろう。
つまりそれは花名が今、誰とも連絡が取れない状況にいるということを知っているからだ。
樹は襤褸を出した。しかし、全く気付いていない。
純正はほくそ笑んだ。
「なに笑ってるんですか、気持ち悪い。買わないならいい加減お引き取りいただけませんか。営業妨害で警察呼びますよ!」
バン、とフラワーキーパーのガラス戸を叩いた。樹の言動に女性の店員は顔を強張らせている。
「警察は困りますね、失礼します」
純正はそそくさと店を後にする。
これ以上刺激しない方がいいと思った。追い詰めて花名に危害を加えられても困る。
「さて、これからどうする……」
探偵を雇えば住まいはすぐわかる。
しかしセキュリティー対策万全のマンションに住んでいた場合、部屋の中まで確認できるのだろうか。
しかも花名が同じマンションにいるとは限らない。
そうなると花名の居場所を特定するに至るまで、時間を要するだろう。
他に何か良い方法はないか。自ら動くしかないかもしれない。
だが、今の純正には自由になる時間が圧倒的に少ない。
(今すぐにでも探しに行きたいのに……さすがにオペまでキャンセルする訳にはいかないだろう)
純正は自分の不甲斐なさを悔やむかのようにキツく唇を噛んだ。
二日後。どうにか時間を確保し純正は佐倉園芸の本社へむかった。
受付の女性はその姿を見るなりあからさまに視線を逸らす。
「こんにちは。先日もお伺いした結城です。小石川さんはまだ出張中ですか?」
「……さようでございます。小石川は長期出張中ですので面会はできません」
まるで用意されたセリフのように女性はいう。指示されているのだろうなと純正は思った。
だからといってここで引き下がるわけにはいかない。
「では、連絡だけでも取っていただけませんか。出張中であれば会社からの電話には出るでしょう? とにかく電話がつながるかだけでも試してもらいたいのですが……」
出張中に会社から掛かってくる電話に出ないなどということはあり得ないはずだ。もし、会議中や作業中ですぐさま応答が出来なくてもどこかのタイミングでかけ直すだろう。
それもできないというのは明らかにおかしい。それを会社側に認識させたかった。
「申し訳ございません。応じられません」
「なぜ? どうしてできないんですか? 納得のいく説明をお願いします!」
すると女性は困ったように視線を泳がせる。
「では、対応できる人をここに呼んでください」
「申し訳ございません」
門前払いの指示でも出されているのか、受付の女性は「申し訳ございません」を繰り返すばかりだ。樹の命令には従わざるを得ないのだろう。
(これ以上彼女を困らせるのも可哀そうか……)
諦めかけた時、突然背後から声がかけられた。
「どうかしましたか?」
純正が振り向くとそこには髪の長い若い男性が立っていた。
「あなたは? ……こちらの社員の方ですか?」
「ええ、一応。ご用件は?」
会話を遮るように受付の女性は男性の名前を呼んだ。
「あの、桂さん」
桂がパッと視線を移すと小さく首を振り、必死で何かを訴えようとしている。
純正はすかさずそれを阻止した。
「すみません、至急小石川花名と連絡を取っていただけませんか?」
桂は純正をじっと見て聞く。
「失礼ですがご関係は?」
当然の反応だろう。純正はジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出す。
「申し遅れました。私は深山記念病院で医師をしております、結城と申します。彼女の恋人です」
桂は名刺をまじまじと見て、それからまた純正に視線を戻す。
「連絡を取りたいということですがみません、それはどういうことですか? 恋人なら直接電話をすれば良いじゃないですか」
「仰る通りです。でもそれが出来ないので困っているんです。取り合えず、お話を聞いていただけませんか?」
桂は納得したように頷く。
「近くのカフェでもいいですか? ここじゃなんなので……」
「ありがとうございます」
純正は桂と一緒に外に出ていく。
彼の後について大通りを渡り、路地裏にあるカフェへ入る。
店の中はこじんまりとしたバーのような造りだった。
壁の棚には色々な種類のコーヒーカップが並んでいる。
「ここ、コーヒーの専門店なんですよ。隠れ家的な感じで雰囲気もいいでしょ?」
「ええ。本当にいい店ですね」
「でしょう。とりあえず座りましょうか」
高いスツールが備え付けられたカウンターに二人並んで座った。
「なにを飲みますか?」
桂に聞かれ、純正は店の壁に掛けられた黒板のメニューを見た。
「ブレンドを」
「僕はダッチコーヒーにします」
注文が終わると純正は改めて桂を見た。
(いったいこの男は何者なのだろう……敵か味方かさえも不明確だ)
受付担当者と訪問者の間に割って入ることができるということはそれなりの立場の人間なのだろう。
「……僕、まだ自己紹介してませんでしたよね」
「そうですね。まだ伺っていませんでしたね」
「佐倉桂です」
佐倉と聞き純正は目を見開いた。
同じ苗字の社員、ということではないのだろうか。
「佐倉……とおっしゃいますと?」
「あー、はい。父が佐倉園芸の社長です」
「じゃあ、佐倉樹は……」
「弟です」
「お兄さん……ですか」
桂からが樹のような棘にも似た野心のようなものはみじんも感じられない。
しかし、兄弟と言われると目鼻立ちが似ているような気がする。
「小石川さんの事でしたよね? 弟が突然本社に異動させてしまって心配していましたけど頑張ってるみたいですね。彼女」
にこりと微笑まれ、緊張の糸がかすかに緩む。
「異動の話は私も聞いています。頑張り屋なんです、花名は」
「お付き合いされているんでしたよね?」
「はい。でも、……実はもう十日以上、連絡が取れていないんです」
どう伝えるのが正解か、純正は慎重に言葉を選ぶ。
「お恥ずかしい話、私が彼女を不安にさせるような行動をとってしまいまして。あえて連絡を無視されているのならまだいいのですが、家族にも連絡をしていないようなので心配になってしまって……」
樹に事についてはあえて触れなかった。純正が彼に疑いを向けているという事実は知らない方がいいと思ったからだ。
「なるほど。それで会社に?」
「はい。現在出張中と聞いていますが……」
「出張中かぁ。確かに小石川さんのこと見かけないな……すみません、細かな業務のことまでは把握しきれていなくて。少しお待ちください」
桂はカバンからノートパソコンを取り出すとなにやら調べ始めた。
「ああ、確かに。申請上は出張になってますが、変だな……」
いいながら桂は眉間にしわを寄せる。
「なにが変なんですか?」
「期間も行き先も、宿泊先の情報も何も書いてないんですよ。普通は書かないといけないんですけどね。仕事なので。最終更新者は樹か……電話してみましょうか」
「お願いします」
「ああでも小石川さん、会社から電話の貸与はされていないようなので個人の携帯電話に掛けないといけないのか」
桂は花名の携帯に電話をかけた。
しかし、やはりと言うべきか、全くつながらない。
「出ないですね。少し待ってみましょうか」
「はい」
淹れたてのコーヒーが目の前に置かれた。香りもよく、焼き物のカップもとてもおしゃれで店の雰囲気に合っている。
味もおいしいはずだ。しかし今の純正には楽しむ余裕などなかった。
花名の返信を待つ時間はとても長く感じた。
一時間ほど経過したところで桂は口を開いた。
「返信、ありませんね」
「……そうですね」
「出張中ではないのではないのかな、と僕も思います。というのも、小石川さん宛てにメールを送ってみたのですが返信がありません。さらに社内SEに調べさせたら会社のPCへは十日以上ログインしていないようです。出張に行っているのならログインしないはずがない……」
「やはり、そうですか」
桂の話を聞いて疑いが確信に変わり、純正は居ても立っても居られない状態に陥った。
「今すぐに、助けに行かないと……」
桂は立ち上がろうとする純正の肩に手を置き静止した。
「待ってください。どこへ行くんですか?」
「それは……」
「樹の所ですか?」
純正は驚き目を見開く。
桂の口から樹の名前が出るとは思っていなかったのだ。
「意外でしたか? だって彼女に出張を命じれるのは樹だけですからね。現に、出張の申請は樹がしている……あなたの知っていることを教えてください。僕にできることがあれば協力しますから」
純正はおととい花屋で樹と交わした会話の内容を含め、彼に疑いを持った理由を話して聞かせた。
肉親である桂が樹を庇うかもしれないと考えなくもなかったが、リスクよりもメリットの方が大きいように思えた。
「なるほど、そうでしたか。よくわかりました。しかも小石川さん連絡が取れなくなった日に樹が一緒にいた可能性があるんですね。確かにあの日樹はホテルで行われた結婚式に出席していました……でも本当に弟が小石川さんのことを……」
「信じられないのはわかります。僕だって信じたくない。でしたら彼の無実を証明するつもりで確かめていただけませんか? 彼のマンションに花名がいるのか、いないのか」
純正の提案に桂は深く頷く。
「わかりました……」
純正は桂とともに店を出た。
「近くに車を停めてあるんです」
そう純正はいい、コインパーキングへ向かった。
桂を乗せエンジンをかけると逸る気持ちを抑えつつ車を発進させる。
「どこへ向かえば?」
「豊洲方面へ向かってください」
桂に言われた通り純正はハンドルを切った。
運よく車はスムーズに流れており道は空いている。二十分ほどで目的地へと到着した。
「あそこのマンションです。あの角に駐車できるスペースがあります」
車を駐車スペースへ置き、エントランスへ向かうと桂に指示された通り少し離れたところで待った。
どうやら、樹は帰宅しているようだった。桂は至急サインが必要な祖類を持ってきたと告げる。
オートロックが解除された瞬間、滑り込むようにしてマンション内へ入った。
エレベーターにのり、樹の部屋のある階で降りた。純正はドアが開く反対側に立ち、桂はインターフォンを鳴らす。
するとカチャリと静かな音を立ててドアが開いた。
「俺のサインが必要な書類ってなに? 明日じゃダメなのかよ」
樹は細く開かれたドアの隙間から不機嫌そうな声を出す。歓迎されていないのは明らかだった。
「ああ、急いでいるらしい。営業の松下さんが困ってたよ。今カバンから出すからとりあえず中に入れてくれない?」
「……どうして? やだよ、散らかってるし……」
「そうなんだ。……じゃあ、トイレくらいならいいだろ? 貸してよ」
「供用トイレが十五階にあるから」
「そこまで行けっていうのか? 僕を家に入れられない理由でもあるのかよ」
桂の言葉に純正は慌てた。
疑われていると気付かれたら厄介だ。おそらく樹はこのやり取りを早急に終わらせようとしてくるだろう。
「理由なんて別にないさ。それより書類は? 早く出せよ」
樹は桂を急かす。
桂はあるはずのない書類を必死で探すふりを続けている。
万策尽きたというとこだろう。桂は家に入ることを拒まれるとは思っていなかったのだから。
「……ごめん、ない。忘れてきたみたいだ……」
「なんだよそれ、じゃあもういいよな。松下には明日俺のところに持ってくるように言っといて」
ドアが閉まる。その瞬間純正はドアノブを思い切り引いた。しかしドアストッパーがガシャンと音を立ててそれを阻む。
驚いた樹は半開きのドアから顔を出した。
そこに純正の姿を見つけたとたん、顔色を変えた。
「あんたは! てか、おい桂、これはどういう言ことだよ。なんでコツがいるんだ」
「ごめん、樹。僕たちは確かめたいことがあってここに来たんだ。小石川さん、ここにいるだろ?」
「いるわけないだろ……もう帰れ。じゃないと警察呼ぶからな」
樹はドアを無理やり閉めようとする。しかし純正は両手を掛けそれを阻止した。
「なにすんだよ。あんた、医者だろ?」
「だからなんだ」
医者は聖職者ではない。愛する人の前ではただの男でしかないのだ。花名を助けるためには罪を犯すことすらいとわない。
「警察でも何でも呼んでくれてかまわない。呼んで困るのはどちらか、そっちの方がよく分かってるんじゃないのか?」
「声が大きいんだよ」
いいながら樹はちらりと廊下の先に視線を向けた。
(そこに花名がいるんだろう?)
その瞬間、純正は叫んだ。
「花名―! いるんだろ? 君を迎えに来た!!」
お願いだ。出てきてくれ。君の可憐な笑顔をもう一度この目で見させてくれ。必死に純正は祈った。
それから少しして奥の方でドアの開く音が聞こえた。樹はドアから手を離すと踵を返す。
「行かせるかよ!」
純正は樹の腕を掴んだ。
振りほどかれないようにしっかりと。ここで腕を離したら沢山の後悔を背負わなくてはならなくなりそうな、そんな予感がした。樹が叫ぶ。
「小石川さん、部屋に戻って! 来ちゃだめだよ」
「花名、早く出てこい!」
廊下の奥から姿を見せたのは紛れもなく花名だった。
「……純正さん? 来て、くれたんですか」
おそらく樹のものであろう男物のシャツを着て、ズボンも靴下も履いていない。
樹の腕を握る手に思わず力がこもる。しかし沸き起こる怒りよりも花名の無事を確認できたことの喜びがほんの少しだけ勝った。
「花名! よかった、こっちへ来い! 一緒に帰ろう」
純正の言葉に花名は顔を綻ばすが、次の瞬間には何かを思い出したように長いまつげを伏せた。
「……でも、純正さんには大切な人がいるんでしょう?」
「そう吹聴されたのか、こいつに……。なにを聴いたか知らないが、俺の大切な人は花名だけだ。信じろ!」
純正は掴んでいた手を離すと、花名に差し出した。
そして彼女の目を真っ直ぐに見つめる。
言葉を尽くすよりも伝わるだろうと思った。純正の目には花名以外は映らないのだと。
すると花名は裸足のまま玄関に下りてきて純正の手を掴んだ。
久しぶりに触れた花名の手は冷え切っていて、すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られる。
この胸に抱いて優しく温めてキスをしたら、もう二度と離さないと花名へ誓おう。
「花名、おいで」
花名がドアロックへ手を伸ばすと、樹は彼女を背中から抱きしめる。
「お前! 花名から離れろ!」
純正の言葉を遮るように、樹は花名の耳元に唇を近づけて言った。
「騙されちゃだめだ。こいつはこうやって女の子をたぶらかすんだから。小石川さん、君は僕と一緒にいるべきだ。もう傷つくこともないし、仕事だってずっと一緒にできるんだよ。そうなったら楽しいだろう? ……ねえ、花名」
樹は必死だった。花名を繋ぎ止めようと言葉を尽くす。けれど、
「ごめん、なさい」
小さいけれど、しっかりと意志を持った声で花名は答えた。
「……どうして? こんな男のどこがいいの?」
「私は純正さんが好きなんです。お店で彼を見た時から、ずっと……理由なんてありません」
樹は花名を抱くただに力を込める。
「こんなにも愛してるんだ、君のこと……」
「樹さんには感謝しています。でも、好きという感情とは違います」
樹の手は力を失いだらんと下がった。
「花名、早くこっちへ来い!」
その瞬間、花名は樹から離れドアロックを解除する。
純正はドアを開け着ていたジャケットを肩から掛けると彼女を抱き上げた。
「行こう」
こんな所、一秒たりとも居たくない。
純正が背を向けると、茫然自失状態だった桂がハッとしたように口を開く。
「あ、の。結城さん、小石川さんも……大変申し訳ございませんでした。どうお詫びしていいのか見当もつきません」
「後はお任せします。とにかく彼女を安全なところへ連れていきたいので……失礼します」
桂をその場に残し、純正は花名と車へと戻った。
後部座席に花名を乗せ、ブランケットを膝に掛ける。
「寒くない? 何かあったらすぐに言うんだぞ」
純正はすぐに車を発進させた。運転中、何度もバックミラー越しに花名の様子を確かめる。
「俺のマンションへ向かうつもりだけど、いい? それとも一度アパートへ寄ろうか」
今日は彼女をアパートへ帰すつもりはない。だが、着替えは必要だろうと考えた純正は花名の部屋へ行くことを提案する。しかし、
「……バッグを置いてきてしまって。合鍵は母が持っているんです」
花名は浮かない表情でそう言った。
「そうか。鍵は後で借りにいこう。服は買わないとな」
下着はつけているが薄手のシャツ一枚だけだ。なにより樹の服を着ているのが気に喰わない。
「純正さん。迷惑かけて、ごめんなさい」
「迷惑だなんて思っていないさ。気にするな」
(といっても気にするのが花名だ。彼女は今、俺が思っている以上に自分を責めているのだろう)
純正は見えてきた百貨店の地下駐車場に車を止めた。
「俺が選ぶことになるけど、いいよな。待てるか?」
「はい、待てます……あの」
「なんだ?」
「ありがとございます」
幸い、後部座席は外からは見えにくい。車内が冷えないよう、エンジンをかけたまま純正は車を降りた。
店に入ると婦人服のフロアーへ向かった。急いで戻りたいが適当には選びたくない。花名に似合う、質の良いものを買うつもりだ。
買い物を済ませた純正は大きな紙袋をいくつも肩にかけ車へと走る。もし、またいなくなってしまったら、不意によぎる不安が彼をより焦らせた。
「花名!」
勢いよくドアをあける。後部座席の花名は驚いていたけれど、純正は彼女がそこにいたことに心底ほっとした。
*
マンションに着くと、純正は風呂を沸かし体を温めてくるようにといい。花名は素直に従った。
「ゆっくりしておいで」
「ありがとうございます」
樹の家でも風呂には入らせてもらっていたけれど常に気を張っていた。
もし、樹が入ってきたらと考えてしまい落ち着かず、いつもすぐに出てきてしまっていたのだ。
温かい湯船に浸かると凝り固まっていた体がほぐれていくのがわかる。これまでいかに自分が緊張状態にあったのか気付いて自然と涙が出てきた。
あの日から十日。毎日がとても長く感じた。
花名は自分が置かれた状況が明らかにおかしいと気付いてから、樹の機嫌を損なわないように言動に注意して過ごした。
従順で居れば樹は常に優しかった。けれど、心を尽くしても花名が樹に好意を示すことはない。考えあぐねる時間が日に日に長くなり、徐々にやつれていくのが見て取れた。かわいそうだとは思うが、どうすることもできなかった。
樹の思いに応えることはできないからだ。
樹は元来悪い人間ではないことを花名はわかっていた。だからこそ早く間違いに気づき、自分を解放してくれないかと願う毎日だったのだ。 風呂から上がるとタオルと着替えが用意されていた。
純正に女性ものの下着まで買わせてしまったのかと思うと感謝よりも申し訳ない気持ちの方が勝る。
「お風呂、ありがとうございました。部屋着も、すごくかわいい」
「似合ってるよ。子供っぽいのかなとは思ったけど、それ流行ってるんだろ?」
若い女性に人気のある甘いデザインが人気のルームウェアブランドだ。花名も密かに憧れてはいたが簡単に手が出せる値段ではない。
「はい。着てみたかったので嬉しいです。もこもこしてて着心地もとてもいいですよ」
「そうか。じゃあ、抱き心地もよさそうだな」
そういって、純正は両腕を広げた。
花名はゆっくりと歩み寄り、胸元に顔をうずめ背中に手を回した。
純正の腕が花名を抱き寄せる。ふわりと花名の匂いがして愛おしさが溢れた。
「花名……」
純正の声が震えていて泣いているのだと思った。
「……純正さん。迷惑かけてごめんなさい。全部私が悪いんです」
これほどまでに自分のことを思ってくれている純正を疑い、ほかの男性に救いを求めてしまった。
「あやまらなくていい。悪いのは俺だよ。疑わせるような行動をとっていたのは事実だし、あの日、君を置いて病院へ向かったりしなければこんなことにはならなかった。本当に後悔しているんだ」
純正の懺悔に、花名は否定するように首を横に振った。
「ちがう、ちがう。純正さんは悪くないです。私が……」
「分かった。お互いに悪かったということにしよう。だからもう、自分を責めるな。俺は花名が無事でここにいてくれるだけでいいんだから」
諭すような口調で言われ、花名はゆっくりと頷く。
「はい、わかりました」
「なあ、花名。明日、連れてきたいところがあるんだ」
「どこへ?」
「まあ、明日話すよ」
それから夕食を食べて、一緒にベッドに入った。 翌朝花名は純正の出勤に合わせて家を出た。車に乗り、深山記念病院へ向かう。
「迎えに行くからそれまでお母さんと過ごしていて」
純正にそう言われた花名は雅恵の病室のドアをノックする。連れて行きたかったところとは雅恵の所だったのだろうか。
「お母さん、私」
花名が顔を見せると、雅恵は驚いたように目を見開いた。
「花ちゃん!? どうしたの、こんな時間に」
雅恵が驚くのも無理はなかった。
病院の面会時間は例外を除き十四時からと決められている。八時を過ぎたばかりのこの時間に娘が見舞いに来るとは夢にも思わなかったのだろう。
「結城先生が許可してくれたの」
「先生が? そうそう、結城先生も最近連絡がなかったから心配してたのよ」
「ごめんね。携帯壊れちゃって……」
連絡できなかった理由を母に話すつもりはない。ただ、純正と交際していることはどこかのタイミングで伝えたいと思っていた。
「あら、そう。結城先生も心配してたのよ、あなたが面会に来ないことを知っていたみたいで、連絡取れてますかって聞かれたのよ。連絡が来たら教えて欲しいっておっしゃってね。熱心な先生よね」
「結城先生が? ……そうだね、すごくいい先生よね」
雅恵にまで自分のことを聞きに来ていたとは知らなかった。
純正がどれだけ必死に花名を探していたのか分かった気がした。
「本当に。そう言えば花名、珍しい服装」
「……あ、これ?」
純正が選んだ服だ。
襟もとに大きなリボンのついた光沢のあるベージュのブラウスにウエストマークされた黒いマーメードスカート。
足元は華奢な黒いパンプス。いつもコットン素材のラフな服装ばかりだった花名が選んだことのないファッションである。
しかも樹に花名らしくないと言われてしまった黒のワンピースと同じブランドのものだ。
「へん、かな?」
自信なさげに花名は聞いた。すると雅恵はすぐに否定する。
「そんなことないわ、すごく素敵よ。花ちゃんの魅力が引き立つような服ね。よく似合ってる」
(魅力が引き立つ……)
きっと純正はそう思ってこの服を選んだのだろう。今朝も着替えが終わった花名のことを満足そうに眺めていた。
(きっと私よりもどんな服が似合うのかということを分かってるのかもしれないな)
「ありがとう。それよりお母さん、体調はどう? 治療はもうすぐ終わるんでしょう」
「薬の副作用は少し辛いけど、元気よ。かなり効果が出ているんですって奇跡よね」
そう話す雅恵の表情は明るく穏やかだった。
「本当によかったね、お母さん」
以前よりも肌艶もよく、なにより目に輝きがある。
あの時、純正がこの治療を受けるよう取り計らってくれなければこんな風に雅恵と笑い合えていなかったかもしれない。
それから花名は久しぶりに雅恵と過ごした。
やがて看護師がやってきて点滴が始まるといった。
花名は病室を出て院内を散歩し、カフェでお茶を飲んだ。昼食を食堂で食べ、部屋に戻ると少しして純正がやってきた。
久しぶりに見る白衣姿に花名はつい見とれてしまった。普段着の純正ももちろん素敵だが、白衣を着るとより凛々しく見える。
「体調はいかがですか、小石川さん」
「とてもいいです。娘も来てくれて今日は朝からとても楽しかったですよ」
弾むような声で雅恵は答える。
「それは良かったです。私からご報告が二つあります。まずひとつ目ですが、治療の経過がとてもいいです。今の治療が終わったら退院して頂いて外来通院に切り替えていきましょう」
「退院していいんですね? ありがとうございます」
「よかったね、お母さん」
花名は雅恵の手を握った。
長い入院生活がようやく終わるのだ。目に涙を受かべながら純正に感謝を伝える。
「先生、本当にありがとうございました。先生のおかげで母の命は救われました」
花名は深々と頭を下げた。純正には感謝してもしきれない。
「花名、頭をあげて?」
急に名前を呼ばれた花名は弾かれたように顔をあげた。
「純正さん?」
「二つ目ですが、ご報告が遅れて大変申し訳ございません。私は花名さんとお付き合いさせていただいております。彼女の同意が得られればこれから一緒に暮らしたいと思っていますし、もちろん結婚も視野に入れています。交際をお許しいただけますか?」
雅恵に向かって純正は頭を下げた。
突然のことに固まっていた花名も純正と同じように頭下げる。
「お母さん、黙っててごめんなさい。私、純正さんとお付き合いしてるの」
もし、反対されたらどうしよう。そんな不安がよぎる。雅恵は樹と付き合うように勧めていたのだ。
「二人とも、顔をあげてちょうだい」
雅恵の言葉に花名と純正は顔をあげた。すると雅恵は純正をじっと見た。
「先生」
「はい」
「娘を好きになってくれてありがとうございます。このこは私が病気がちだったばっかりに自分の幸せを後回しにしてきたんです。だからこんな素敵な人とお付き合いしているって聞いて、本当に安心しました」
雅恵は「娘をよろしくお願いします」そういって純正に頭を下げた。
「必ず大切にします。ありがとうございます」
純正の言葉に花名は涙が止まらなくなってしまった。
「花名。もう泣くな。連れていきたいところがあるんだ……」
泣き止んだ花名を純正はエレベーターに乗せ別のフロアーへと連れていく。
「ここは?」
「リハビリ訓練室だよ」
広い室内には平行棒や、上り下りできる階段、マット、様々な機械類が並びたくさんの患者が一生懸命リハビリに取り組んでいた。
「あそこにいるのが、瀬能茉莉花」
純正が言う方を見ると、髪の長いきれいな女性が歩行の訓練を受けている。その傍らには晴紀の姿もある。
「ジャスミンの花束を贈っていた相手だ」
「……あのひとが」
「そう。俺の大切な同僚だった女性……今は事故の後遺症で記憶をなくしてる。俺のことも分からないんだ」
「同僚……だったんですか」
(樹さんがいっていた"茉莉花先生"というのは彼女の事だったんだ。毎週欠かさずジャスミンの花束を贈るような女性だもの、純正さんは彼女のことが好きなのではないだろうか)
そう考えて花名は不安に襲われた。
もしそうであれば、何のとりえもない自分より同じ医師である女性の方が純正にふさわしい。
「茉莉花は晴紀の婚約者なんだ」
「深山先生の? 純正さんはそれでいいんですか?」
「なにいってるの? 茉莉花の事が好きとかそういうこと? 俺が二人の仲を取り持ったくらいなのにそんなわけないよ」
そう聞いて花名は密かにほっとした。
「ああ、そうだよ。ほら、みて。医者のお前がいたら理学療法士も仕事しにくいだろうから遠慮しろって言ってるのに付きっきりなんだぜ」
純正は呆れたように言って笑った。すると二人に気付いた晴紀が「こっちへこいよ」と手招きする。
「行こう」
「で、でも……」
遠慮する花名の手を引いて純正は二人のもとへと向かった。
「おう、純正。小石川さんもこんにちは」
「こんにちは」
(私に純正の悪口を言っていたのに何もなかったような顔するのね……)
やはり晴紀は苦手だと花名は思う。
「誰?」
茉莉花は花名を見て言った。
「紹介するよ。俺が今お付き合いさせてもらっている小石川花名さん。彼女が茉莉花の病室に飾っていた花束を作ってくれていたんだよ」
みんなの前で堂々と紹介され、花名はどこか照れくさいような誇らしいような気持になる。
「はじめまして。小石川花名です」
「はじめまして、瀬能です……」
茉莉花はそれだけいういとすぐ、歩行訓練の続きを始めた。
「なあ、純正ちょっといい? 明日のオペの事なんだけど……ここじゃ何だから外で」
「いいけど。ごめん、花名少し待ってて」
純正は「すぐに戻る」と言い残し二人でリハビリ訓練室を出てってしまった。
取り残され、立ち尽くす花名に茉莉花が声をかけた。
「あなた純正の恋人なの?」
「はい、そうです」
「いわね。私も純正に愛されたかった……でも選ばれなかった」
茉莉花の言葉に花名は驚いた。記憶をなくしていると聞いていたからだ。
「目を醒ましてから少しして純正を好きだったことを思い出したの。それと同時に晴紀に愛された記憶も戻ってきてすごく混乱した……」
そう言って苦悶の表情を浮かべる茉莉花の苦悩が透けて見えるようだった。
「だから過去にこだわるのは止めたのよ。いま、自分を愛してくれる人を大切にしようって思ってる」
そう言う茉莉花の視線の先には晴紀の姿があった。話を終え戻ってきたのだろう。
「幸せになりましょう、お互いに」
「はい」
茉莉花と別れ、いったん雅恵の病室へと戻った。ここで純正の仕事が終わるまで待つことにした。
先に帰るといったが、一緒に帰ろうと言われてしまった。純正は花名がまたどこかに行ってしまうのではないかという不安を拭い切れないのだ。
「愛されてるのね、花ちゃん。でもちょっと過保護すぎない?」
理由を知らない雅恵はのんきにそんなことを言っている。
「そうかもしれないね。あ、そうだ。私のアパートの鍵、貸してもらえない?」
雅恵から合鍵をもらい純正が迎えに来ると病室を出た。
「早かったんですね」
まだ十八時前だ。普段の純正の帰宅はもっと遅い。
「たまたま早く終わったんだよ」
純正はそう言ったが、自分を待たせないために急いで仕事を切り上げてきたのだろうと花名は思った。
純正の車に乗り、アパートへ向かう。
「送ってくれてありがとうございます」
花名が礼をいうと純正はピクリと反応する。
「……送る? 今日も俺の部屋に泊るんじゃないのか?……いや今日だけじゃなく、これからは一緒に暮らそう。花名と離れたくないんだ」
『一緒に住もう』と以前も言ってくれた。
あの時は断ってしまったけれど、今は花名も同じ気持ちだ。
朝も昼も、夜も……側にいたい。
「……はい。私もです。私も純正さんと一緒にいたい」
到着すると純正と部屋に入り服や化粧品などを大きなカバンに詰める。
思うほど荷物も少なくあっという間に荷造りは終わってしまった。
「いつ引っ越す? もしよければお母さんも一緒に住む? その方が安心だろう」
「ありがとうございます。管理会社に確認してみますね。母のことは本人に聞いてみないと……」
賃貸物件は解約を申し出る期日が決められているはずだ。
それに雅恵の意志を確認しないまま返事はできない。
「そうだよな、なに焦ってるんだろう。余裕なくてみっともないな、俺」
照れ笑いする純正を愛おしいと思った。
そしてこんなにも自分と母親のことを気にかけてくれることに感謝が溢れる。
「純正さん、かわいい」
「俺がかわいい?」
「はい」
「花名よりかわいい存在なんてないよ。愛してるんだ、誰よりも君のことを……」
純正は花名を抱きしめた。それから髪を撫でてキスをする。
「花名、今すぐ君のことを抱きたい……いいかい?」
花名はゆっくりと頷く。
真っ直ぐな気持ちをぶつけて自分を求めてくる純正が愛おしくてたまらない。
純正にブラウスのボタンを外され、そのふくらみが露になると花名は手で胸元を隠した。
「隠さないでいい」
「でも、恥ずかしいから……」
「じゃあ、俺も脱ぐよ。それなら一緒だろう?」
純正は花名をシングルベッドに横たわらせると、自分のシャツを脱ぎ捨てた。
均整の取れた肉体。
筋肉のついた腕と引き締まった腹筋は美しいとさえ思う。
同時に純正に雄を感じてしまったことに花名は戸惑った。
「花名? どうした」
「……なんでもないです。純正さんの体が綺麗で……」
「花名の体も綺麗だよ。白くて、少しピンク色で咲いたばかりの花みたいにいい香りがする」
純正は花名の上に覆いかぶさると視線を合わせて「愛している」と囁いた。
「花名は?」
「私も、愛しています」
まるでその言葉を飲み込むように純正は花名の唇を奪う。
重なった肌はまるで吸い付くように馴染んで、お互いの体温が溶けあうのを感じた。
男性経験のない花名を気遣いながら、純正は彼女のすべてを愛し尽くした。*
無事治療を終えた雅恵の退院が決まった。
花名たちと暮らす選択はしなかったものの、徒歩数分距離にマンションを借りた。
「お義母さん、何かあったらすぐに連絡をしてくださいね」
「分かってますよ、先生。お心遣い感謝します」
「お母さん、無理しちゃだめだからね」
「はいはい。花ちゃんもありがとうね」
雅恵のマンションを後にすると、純正と花名は車に乗ってとある場所へとやってきた。
「ご足労頂きありがとうございます」
ホテルの一室で待っていたのは桂だった。
「お久しぶりです、桂さん」
花名が会釈をすると、桂は彼女の足元に頭を付く。
「小石川さん。この度は弟がとんでもないことをしまして、申し訳ございませんでした」
「桂さん、辞めてください土下座なんて。桂さんはなにも悪くありません……」
あの後、花名は佐倉園芸を退社した。
純正とも話し合い、樹に処罰を求めないことに決めた。
もし、訴えたとしたらあの日のことを大勢の人の前で話さなければならなくなるだろう。
それはどうしても避けたかった。
さらに佐倉園芸の事業にも影響が出ないとも限らない。
たくさんの従業員が職を失う可能性だってある。
ならば自分が口を噤めばいいと思った。
「これが誓約書です。樹は今後一切小石川さんに関わりません。明日、日本を発ちます」
桂は、樹はイギリスへ行くのだと言った。当面日本へは戻らないという。
表向きはガーデニングの勉強なっているが花名と接触させないために社長らが下したことだった。
「こちらは退職金です」
差し出された封筒はかなりの厚みがあった。退職金というには多すぎる額だろう。
「いただけません」
「どうか、受け取ってください。でないと、僕の気持ちが治まりません」
「わかりました。今までお世話になりました」
桂に別れを告げ、花名は純正とホテルを後にする。
平静を装ってはいたが当時の事を思い出してしまい、胸が締め付けられて苦しい。
「大丈夫か、花名」
「はい。でもこれ、受け取ってよかったんでしょうか……」
退職金とは言われたが、慰謝料や口止め料としての意味合いが強いのではないかと思った。
「受け取りたくなかった?」
「そうですね。……でも、せっかくだから有意義に使わせてもらいます」
「有意義な使い方って?」
純正は聞く。
「はい。このお金寄付出来ないでしょうか。例えばお薬の開発とか、母のように治療を受けられない人のための基金とかそういうものに……そうすれば少しは受け取ってよかったって思えるでしょう?」
花名はそう言って微笑んでみせる。
「花名らしい、いい考えだ。調べておくよ」
「ありがとう、純正さん」
純正はそんな花名をとても愛おしいと思った。
終
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